世界は大災難に見舞われている──私たちは大患難の前に引き上げられるのか

2020年3月19日

 今日、世界各地で大災害がますます激化しつつあります。ニュースは飢饉や地震、洪水、旱魃の記事であふれています。あなたは、主の再臨の預言は成就されたのになぜ私たちは主に迎えられていないのだろう、と心の中で考えたことはありますか?このようなことが続くなら大艱難が到来したとき、私たちも大災害に陥ることにならないでしょうか? 主は私たちを一体いつ天の御国に引き上げてくださるのでしょうか? 

携挙されるとき、私たちは実際に空中に引き上げられるのか

 主の信者の多くは聖書の次のような言葉を読んでいます。

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)

 信者は主が来られたとき空中に引き上げられ、主にお会いすることを待ち望んでいます。ところが実際は、この言葉は主イエスのお口から発せられたのでも、ヨハネの黙示録にある預言でもありません。使徒パウロの言葉にすぎないのです。主の来臨のお迎えに関して、パウロの言葉を信頼することは正しいのでしょうか? パウロの言葉は主の御言葉を表せるのでしょうか? 終わりの日の主がどう到着され、主を信じる者をどう神の国に連れて行かれるかということは、神ご自身の働きです。パウロは、主に代わってお告げを広めている使徒にすぎません。パウロはこのようなことをどうして知っていたのでしょうか? 主の到来をお迎えすることはとてつもなく重要な事柄であり、私たちにとって唯一正しいのは主イエスの御言葉を信頼することです。主イエスはこうおっしゃっています。

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイによる福音書 6: 9–10)

 ヨハネの黙示録には次のような預言もあります。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、……神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、』(ヨハネの黙示録 21:2-3)

この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう(ヨハネの黙示録 11:15)

 これらの預言の中にある、「天から下って来る」、「神の幕屋が人と共にあり」、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった」といった言葉は、神が地上に神の国を打ち立てるであろうことと、神が人のために用意された終着点も地上にあることを示しています。天に引き上げられたいという私たちの強い願望は、自らの観念や想像から生じているのではありませんか? そしてそれは、神から離れた道を歩くことになるのではありませんか?

 実際には、神が人々を空中に引き上げると言われたことはありません。それは神の働きの事実から確認できることです。神がはじめに土のちりで人を作ってエデンの園に置かれると、人はそこで暮らし神をしかるべき方法で崇めました。ノアの時代に神は、ノアとその家族が洪水を免れるよう彼らを空中に引き上げようともされませんでした。その代わり、地上での箱舟作りという実際的な行動をとるよう、ノアに命じられたのです。その後律法の時代に、人々は神の律法を破ったがために処刑される危険にさらされました。神は罪の贖いの供物を得るために人々を空中に引き上げるようなことはされず、神ご自身が肉となって地上に来られ、ここで人間のために自ら十字架に架けられ人間を罪から解放されました。こうしたことから、地上で人間を救うため、また人間が生活し、神を崇める中で導くために、神が絶えず働いておられることがわかります。空中に引き上げられたいという私たちの強い願望は、神の御心と明らかに食い違っているのです! 

大患難の前の携挙とは何か

 皆さんの中には、「携挙される」ということが実際にどういうことかわからない、という人もいるでしょう。このことを理解するために、まず神がどんな御言葉を発されているのか見てみましょう。神はこのように言われています。

『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百四章」〔『言葉』第1巻〕)

この御言葉は、携挙されることは、私たちが想像するように空中に引き上げられて主にお会いすることではないと述べています。むしろ、神の声を聞いたあとにその新たな働きを受け入れて従えることと、子羊の足跡にぴったり歩調を合わせること、神が地上に来られて働きを行われるときにその御前に出ることを意味するのです。これが唯一の真の携挙です。主イエスが贖いの働きをされるために来られたときと、まったく同じなのです。ペテロもサマリア人の女性、ヤコブといった者も、主の御言葉を聞いたときはその声を聞き分けて、この方が来臨される救世主であると判断しました。その結果、恵みの時代に主の救いを受け、全員が主の御前に引き上げらました。 終わりの日に主の再来をお迎えし、神の現在の働きを受け入れる者はみな、子羊の足跡を追う者であり、主の御前に引き上げられる者なのです! 

どうすれば大患難の前に携挙されるか

 では、主をお迎えして大災難の前に携挙されるためには、一体どうしたらよいのでしょう? このことは、はるか昔に聖書の中で主イエスが次のように言われたときに預言されています。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。(ヨハネによる福音書 16:12–13)

ヨハネの黙示録の第2、第3章には、預言が再三登場します。

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。

第3章20節でもこう述べられています。

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

神の御言葉はこう告げています。

神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉は、私たちが主をお迎えしたいなら、神の働きと御言葉を探求することが鍵となると語っています。今日教会に向けた聖霊の御言葉がどこにあるのか、今日神の現れと働きがどこにあるのかを探すことほど重要なことはありません。もし私たちが自分から神の足跡を探そうとせず、神の声を聞くことを重視もせず、その代わり空の雲をぼんやりと見つめて、主が来られて自分を空中に引き上げられるのを無為に待っているとしたら、そうした思いは空想になるのではないですか? そして永遠に主をお迎えできず、最終的に神に携挙されるチャンスを逸することになりはしないでしょうか? 

 では主の足跡はどこにあるのでしょう? また神はどこで御言葉を発されているのでしょう? 今日全能神教会だけが人類に対し公に、主がすでに再来されていることを証ししています。つまりそれは、終わりの日の受肉した神である、全能神なのです。全能神は何百万語もの御言葉を述べられ、多くの真理と奥義を啓示されるともに、私たちのために神の六千年の経営計画や受肉の奥義、聖書の奥義を明らかにされています。さらにまた人を裁き、本性を暴く御言葉を述べられ、サタンの手による私たちの堕落と私たちのさまざまなサタン的な本性について真実を明らかにされています。私たちは神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れることにより、自らの堕落に気づくと同時に、自分の示す一切のものが傲慢、わがまま、下劣さ、不誠実さ、ずる賢さといったサタン的な性質で、良心と理知が欠けていることを自覚するようになります。私たちは神の御言葉を完全に確信し、後悔にうちのめされて神の御前にひれ伏し、神の義で聖なる性質についていくらか認識を得ます。すると私たちの中で神への畏敬と服従の念が生じ、全能神によって表される全てが真理で、人々を清め変えることができることを心の内側から確信するのです。

 今日、全能神の御言葉は人類の間で広がっています。キリスト教のさまざまな宗派に属していても、真の信者で真理を心から愛する多くの人は、神の声を聞いて神の御言葉により覚醒し、その御座の前に戻っています。そうした人々は神の御言葉の水と糧を浴びて、こうした御言葉にいかに権威と力があるのかを悟り、全能神は主イエスの再臨であると判断しています。彼らは大艱難の前に携挙される人々なのです!全能神の御言葉を読みましょう。

わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」〔『言葉』第1巻〕)

 この神の御言葉を読んでどう思いますか? 胸が踊りませんか? 創造主が人類全体に対して話されていることだと思いますか? 神はすでに再来したと、神が私たちに今証言されていると思いますか? あなたがどう思おうと、私たちの前には差し迫った課題があります。思慮深い処女となり、全能神が語られた御言葉に耳を傾け、先入観をもたずに終わりの日の神の働きを探求しなければなりません。大患難の前に携挙される道は他にないのです!

ベッキー、アメリカ

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