真理とは何か

2017年11月23日

参考聖書箇所:

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書 1:1)

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。……めぐみとまこととに満ちてい。」(ヨハネによる福音書 1:14)

「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書 14:6)

「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネによる福音書 17:17)

関連する神の言葉

神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として敬われることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

真理とは、人生の格言の中でも最も現実に則しており、人類の全ての格言に勝るものなのだ。それは神が人間に要求すること、神が自ら為した働きである。だから、人生の格言と呼ばれる。これは何かから要約された格言ではなく、また、偉人の有名な引用でもない。そのようなものではなく、これは天と地と万物の主から人間に告げたものであり、人間によって要約された言葉ではなく、神本来のいのちなのである。だからそれは、至高の人生の格言と呼ばれるのだ。

『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」(『言葉』第1巻)

神が行なうことはどれも真理であり、いのちです。この真理は人間のいのちに不可欠なものであり、それなしで生きることは決してできません。また、それは最も偉大なものだとも言えるでしょう。真理は見ることも触れることもできませんが、あなたに対する重要性を無視することはできません。それはあなたの心に安らぎをもたらす唯一のものなのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

神が語る言葉は、外見上平易であるか深遠であるかに関わらず、すべて人がいのちに入るために欠くことのできない真理であり、人間が霊と肉の両方において生き延びることを可能にする、生ける水の泉なのです。神の言葉は、人間が生き続けるために必要なもの、日常生活を送るための原則と信条、救いを得るために進むべき道と目標と方向性、神の前に被造物として持つべきすべての真理、そしていかに神に服従し神を崇めるべきかについてのすべての真理を与えてくれます。神の言葉は人間の生存を保証するものであり、人間の日々のパンであり、人間が強くなり立ち上がることを可能にする頑強な支えでもあります。神の言葉には、被造物である人類が生きるべき正常な人間性の真理の現実が豊かに含まれており、人間が堕落から解き放たれサタンの罠を避けるための真理も豊かに含まれており、さらに創造主が被造物である人間に与えるたゆみない教え、訓戒、励まし、慰めも豊富に含まれています。神の言葉は、肯定的なものすべてを理解できるよう人間を導き啓発する灯台であり、人間がすべての義なる良いことを実際に生きて所有するための保証であり、人々と出来事や物事が測られる基準であり、人間を救いや光の道へと導く道標でもあります。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

真理は公式のようなものでも、法則でもないのです。真理は死んだものではなく、いのちそのものであり、生きているものであり、被造物が人生において従うべき法則、生きる上でもたなければならない法則です。それは、あなたが経験によって可能な限り深く理解する必要があるものなのです。自分の経験がどの段階に達していようと、あなたは神の言葉や真理から離れることができず、神の性質についてあなたが理解していること、神が所有するものと神そのものについてあなたが知っていることはどれも、神の言葉の中に表わされています。それらには真理と切り離せないつながりがあるのです。神の性質、そして神が所有するものと神そのものは、それ自体真理です。真理は神の性質と、神が所有するものと神そのものを表わす真正なものです。それによって神が所有するものと神そのものは具体的なものになり、またはっきり述べられることになります。神が何を好むか、何を好まないか、あなたに何をしてほしいのか、あなたが何をするのを許すのか、どのような人を嫌ってどのような人に喜ぶかを、それはあなたにはっきり伝えるのです。神が表わす真理の背景から、人々は神の喜び、怒り、悲しみ、幸福、そして神の本質を理解することができます。これが神の性質の現われです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

真理は神自身のいのちであり、神の性質、神の本質、および神の中にあるすべてのものを表わしています。少しばかり経験があれば、それが真理を有しているということだと言うならば、あなたに神の性質を表わすことができますか。真理のある側面や方面について何らかの経験か光を有していても、それを他人に永遠に施すことはできません。ですから、あなたが得たその光は真理でなく、人々が到達可能なある地点に過ぎません。それは単に人間が有するべき正しい経験、正しい認識であり、つまりは真理に関する実際の経験と認識なのです。そうした光、啓き、そして経験による理解は、決して真理の代わりとはなり得ません。すべての人がこの真理を完全に経験し、彼らの経験による理解をすべて持ち寄ったとしても、その一つの真理に取って代わることは依然としてできないでしょう。過去に「それを人間世界の格言で要約しよう。人間の中にわたしを愛する者は一人もいない」と言われた通りです。これは真理の言明であり、人生に関する真の本質です。それは最も深遠なものであり、神自身の表現です。あなたはそれを経験し続けることができ、三年間経験すればそれに関する表面的な理解が得られ、七ないし八年間経験すればさらにその理解が得られます。とは言え、あなたの得る理解が真理に関するその一つの言明に取って代わることは決してできません。二年間経験した他の人はわずかな理解を得、十年間経験すれば少しだけ深い理解を得られ、生涯にわたって経験すればさらに理解を得ます。しかし両者が得た理解を結合させたところで、どれだけの理解、どれだけの経験、どれだけの識見、どれだけの光、あるいはどれだけ多くの例があろうと、どれも先に述べた真理の代わりには依然なり得ません。これでわたしは何を言わんとしているのでしょうか。わたしが意味しているのは、人間のいのちはいつまでも人間のいのちであり、あなたの理解がどれほど真理や神の意図や神の要求と一致していようとも、真理の代わりには決してなれないということです。人が真理を得たというのは、何らかの現実を有している、真理について何らかの理解を得た、神の言葉に実際ある程度入った、それらに関する何らかの実際的な経験がある、神への信仰において正しい道にいる、ということを意味しています。神からの言葉一つだけで、人間が生涯にわたって経験するのに十分です。人間が数度の生涯、あるいは数千年にわたってそれを経験したとしても、それでもなお、ひとつの真理を完全に、かつ徹底的に経験することはできないでしょう。表面的な言葉をいくつか理解しただけなのに、自分は真理を得たと主張するなら、それはまったく馬鹿げたことではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理とは一体何か、あなたは知っているか」より引用

神は真理を表現するときに、自身の性質と本質を表現します。神による真理の表現は、人類が認識している各種の肯定的な物事や所説の、人類による要約に基づいているわけではありません。神の言葉はあくまで神の言葉であり、神の言葉は真理です。それらは人類の存在の拠り所となるべき土台と法則であり、人間を出所とするいわゆる教義は、神によって断罪されます。それらが神から承認されることはなく、ましてや神が発する言葉の源、あるいはその土台となることなどあり得ません。神は自身の性質と本質を自身の言葉によって表わします。神の表現によって生まれるすべての言葉は真理です。なぜなら、神には神自身の本質があり、神こそ肯定的な物事すべての現実だからです。堕落した人類が神の言葉をどのように位置づけたり定義したりしても、あるいは見方や理解の仕方がどのようなものであっても、神の言葉が真理であるという事実は決して変わることがありません。神が語ってきた言葉の数に関係なく、また、堕落した、罪深い人類がどんなに強くそれらを非難し、広めることさえ阻止した上で、果ては神の言葉が堕落した人類の侮辱に晒されようと、そうした状況においても、変えることのできない一つの事実が残ります。つまり、人類が価値を置くいわゆる文化や伝統は、先に挙げた理由があったとしても、肯定的なものとはなり得ず、真理になることはできない、という事実です。これは変えることができないのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理についての考察」より引用

人類の伝統的な文化や存在のあり方が、時代の変化や時間の経過によって真理になることはありません。また、人類から非難を受けたとか、人類が忘れやすいなどという理由で、神の言葉が人の言葉になることもありません。この本質は不変であり、真理は常に真理なのです。ここにある事実が存在します。人類が要約するそうした言葉はすべてサタンに由来するのです。そうした言葉は人の想像や観念であり、人の肉から生じるもので、肯定的なものとは何ら関係がありません。他方、神の言葉には、神の本質と地位が表現されています。神はなぜ言葉を発するのでしょうか。わたしはなぜそれが真理だと言うのでしょうか。それは、神が万物のすべての法則、原理、根本、本質、現実、そして奥義を支配しており、それらが神の手中にあり、神だけが、万物のすべての原理、現実、事実、そして奥義を知っているからです。神はこれらの由来を知っており、その根本が実際に何であるかを知っているのです。ですから、神の言葉で言及されている万物の定義だけが最も正確であり、また神の言葉の中で人類に求められていることこそが、人類にとって唯一の規準、すなわち、人類が存在の拠り所とする唯一の規準なのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理についての考察」より引用

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