今日の福音:真のキリストと偽キリストの見分け方

2020年5月23日

今、あらゆる種類の災害が発生し、主の到来に関する聖書の預言の大部分が実現しています。多くの兄弟姉妹は、心の中で主はすでに再来したのではないかと感じ、皆が主を探していますが、聖書のこの節を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。そういう人は、誰かが主が再来したと証ししても、その主張を求めたり、調べたりせずに、宗教界に従い、「主が肉となって帰ってきたと説くメッセージはすべて偽物である」という観念に固執します。この場合、私たちは主の再来を迎えることができるのでしょうか。主イエスは、何度も再来を預言していたので、その言葉を主が肉となって再来したと説くメッセージはすべて偽物だという意味にとらえたとしたら、主の再来を否定することになるのではないでしょうか。そうなると、私たちは神に抵抗し、ひどい過ちを犯すことになります。主の再来を待つ時、受け身で警戒ばかりしてはいられません。そうすることで、主の再来を逃してしまうでしょう。主を迎えるためには、聖書に「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。と書かれているように、積極的に神の声に耳を傾けなければなりません。「ヨハネの黙示録」も「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)、そして「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)と予言しています。引き続き油断せず、神の声を聞くことに集中することが主の心意です。誰かが主が再来したと証しをした瞬間、積極的に主の声を求める賢い乙女にならなければなりません。このようにしてこそ、私たちは主を迎えることができるからです。もし偽キリストを警戒して、主が再来した時に扉を閉ざしてしまうばかりなら、窒息するのが怖くて何も食べられなくなるのと一緒ではないでしょうか。その時、私たちは愚かな処女のように、主を迎えることができず、見捨てられ、排除されてしまうでしょう。神の羊は神の声に耳を傾けます。本当に素質と識別力がある人は神の声に耳を傾け、真実を求め、真のキリストと偽キリストを見分けることができ、偽キリストに惑わされることはありません。ですから、今、私たちが何よりも理解すべきことは、真のキリストと偽キリストをどのように見分けるかということです。そうすることによってのみ、私たちは偽キリストの欺きから守られ、主の再来を迎えることができるのです。以下の交わりは、このような真理の側面に関係しています。

真のキリストと偽キリストを見分ける1つ目の方法:キリストを真理、道、いのちとして認識する

真のキリストなのか偽キリストなのかを見分けるためには、その人が真理を表すことができるかどうか、人の救いの働きを為すことができるかどうかを見なければなりません。神は言います。「受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

神の言葉は、受肉した神だけをキリストと呼ぶことができると明言しています。キリストは、肉において実現された神の霊、つまり、神が所有するものと神が何であるか、神の性質、神の知恵のすべてが肉において実現されたものです。キリストは神の本質を有し、真理を具現化した存在です。時と場所を問わず人間を牧し養うための真理を表すことができ、キリストだけが人類の贖いと救いの働きを行うことができます。これは紛れもない事実です。例えば、主イエスは肉となったキリストであり、時と場所を問わず真理を表すことができました。人に悔い改めの道をもたらし、人を律法の制約から解放しました。主はまた、私たちが人を愛し、赦す方法を理解するためにいくつか要求をしました。そして私たちの罪を負って十字架にはりつけられました。主イエスがしたすべての働きと、主イエスが語ったすべての言葉、そして人類に対する主イエスの愛とあわれみは、人間が成し遂げることのできなかったことであり、それらは完全に神の身分を表しています。

一方、偽キリストは、本質的には悪霊であり悪魔です。偽キリストはまったく真理を有さず、ましてや真理を表すことができません。そのほとんどが、極めて傲慢で非合理です。偽キリストは、人が聖書の知識を崇拝していることを知っているので、これを利用して、聖書を誤解したり、文脈から外れた聖書の節を引用したり、人を欺くためにあらゆる種類の不条理な理論を並べたりしているのです。偽キリストの言葉は、人の性質に変化をもたらしたり、神を知ることを許さないだけでなく、人の精神を暗くして落ち込ませます。全人類が求め、調べられるように自分たちの言葉を公表することはなく、識別力のない一握りの人々をひそかに騙すことしかできません。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、まずその本質を見分けなければなりません。神の本質を有するキリストだけが、人類を救い養うための真理を表すことができますが、神の本質がない者は、どんなに知識があっても、どんなに能力があっても、それができません。悪霊と悪魔は、真理を表し、人を救う働きを行うことができません。ただ人を騙して堕落させることしかできないのです。したがって、真のキリストと偽キリストを見分けるためには、キリストが真理であり、道であり、いのちであることを認識しなければならないことは明らかです。それはまさに、主イエスが言われた通りです。「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネによる福音書 14:6)。彼らは「小羊の行く所へは、どこへでもついて行く(ヨハネの黙示録 14:4)

真のキリストと偽キリストを見分ける2つ目の方法:神の働きは常に新しく、古びることなく、ご自身の働きを繰り返さない

ご存知のとおり、神は常に新しく、古びることはなく、ご自身の働きを繰り返すことはありません。ですから、私たちはこの点に基づいて、真のキリストと偽キリストを区別することができます。まず、神の言葉の一節を読んでみましょう。「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)

神の言葉から、神は常に新しく、古びることがなく、ご自身の働きを繰り返すことがないことがわかります。神は働きをするたびに、新しい時代を始め、古い時代を終わらせ、より新しく高い段階の働きをもたらします。例えば、ヤーウェ神は、律法と戒めを宣べ伝え、人のいのちを導くという律法の時代の働きを完成しました。主イエスが働きを行うために来られたとき、それまでの働きを繰り返すのではなく、律法の時代を終わらせ、恵みの時代を始め、人を救い罪を赦す働きをしました。そのような働きをすることができたのは、神ご自身だけです。しかし、偽キリストは神の本質がないので、神の働きをする能力はなく、ましてや、新しい時代を始め、古い時代を終わらせる働きをすることができません。彼らにできることは、神の働きの跡をたどり、神の口調や言葉を真似して、神が過去にした働きを真似ることだけです。偽キリストは人を欺くために、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、神のふりをしています。さらに、偽キリストには何の権威もありません。彼らがどんなに主の真似をしようとしても、例えば5つのパンと2匹の魚で5千人を養ったり、ラザロを生き返らせたりするなど、主イエスが行ったようなしるしや不思議を起こすことはできません。このことが意味するのは、終わりの日の神は、主イエスが以前に行った働きを絶対に繰り返さないということであり、終わりの日に神の働きを真似て、簡単なしるしや不思議をいくつか見せ、病人を癒し、悪霊を追い出して人を欺く者は皆、キリストを装った悪霊、つまり偽キリストであることは間違いありません。こうした理由から、主イエスは次のような警告をしました。「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:24)

この交わりから、神のいのちの本質を有するのはキリストだけであり、キリストだけが真理を表し、人のいのちを養うことができるということがわかります。真理を愛し、真理を渇望する者が神の言葉に耳を傾けるとき、彼らは引き寄せられ、神の言葉によって征服されるのです。そのような人々は神に属し、神の声を理解し、キリストを神ご自身として認識することができます。例えば、ペテロ、ヨハネ、他の弟子たちは皆、主イエスの言葉の中で、主イエスが来るべきメシアであることを認識して、一人ずつ主イエスに従うようになりました。全能神は今、終わりの日に来ました。そして、まず神の家から裁きの働きを行い、人類を救うためにすべての真理を表します。神の6000年に及ぶ経営の働きの奥義をすべて解き明かし、人間が堕落の事実を知って自分の性質を変える道を見出せるように、人間のサタン的な性質と本質を暴くのです。全能神はまた、神の言葉をどのように実践するか、正しい人間性をどのように生きるかなど多くのことを私たちに教えてくれます。これらすべてが永遠のいのちの道です。全能神によって行われる人類の救いの働きは、神ご自身の働きであり、次のような聖書の預言を正確に実現しています。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12–13)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである(ヨハネによる福音書 12:47)

今、全能神が表した言葉の書「言葉は肉において現れる」は、世界中の真理を愛する人たちが追求し調査できるよう、オンラインで公開されています。神の出現を願う多くの人々は、全能神が表した言葉を読み、それが神の声であると認識し、それによって全能神が終わりの日に再来した主イエスであることを確信するようになりました。彼らは一人ずつ小羊の足跡を辿り、神の御座の前に戻ってきます。これは完全に神ご自身の働きの結果であり、イザヤ書2章2節にあるこの預言を完全に実現しています。「終りの日に次のことが起る。ヤーウェの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき」。主を迎える際に不可欠なのは、明らかに、神の声に耳を傾けること、そしてキリストを真理であり、道であり、いのちであると認識することに集中することです。私たちは、どこかに神の言葉があると聞いたとき、あるいは誰かが主の再来を説いていると聞いたとき、それを追求し、調査しなければなりません。もし私たちが偽キリストに惑わされることを恐れて警戒を続け、あえて追求したり調べたりせず、全能神、すなわち終わりの日のキリストの救いを受け入れることを拒否するならば、あまりにも愚かではないでしょうか。そんなことをしたら、永遠に終わりの日の神の救いを失うことになるでしょう。

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