真の教会とは──どうすればヒラデルヒヤ教会が見つかるのか

2020年7月6日

世界は今や混乱状態にあり、あらゆる類の災害が人類を襲っています。そして多くの人々が、「主はもう再来されたのだろうか? もしもう再来されたのなら、なぜ私たちは大災害の前に携挙されないんだろう?」と悩んでいます。また、牧師や長老たちがいつも昔ながらの説教をしていたり、信者たちは信仰が冷めて世俗的な流行を追い、主の言葉を生きられずにいたりするのを目にすることもあります。それを見た人々は、キリスト教会は主に見放されたラオデキヤの教会のようではないかと悩むのです。ヨハネの黙示録にあるヒラデルヒヤの教会への手紙には、次のように書かれています。「わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである(ヨハネの黙示録3:8)。ここから、ヒラデルヒヤ教会の人々だけが、どのような状況においても主の御言葉を守り、聖霊の働きを受けられることがわかります。大災害の前に真に携挙されるのは彼らだけであり、聖霊の働きを受けているこのような教会だけが、唯一の真の教会なのです。中にはこれを現在のキリスト教会の状態と比べて、真の教会を探しに行きたいと思う人々もいます。しかし一方で、教会は繁栄しているし、聖書についての知識を競う会が開かれたりして、あらゆる祝祭日も活気に満ちているではないか、と考える人々もいます。彼らは「これが聖霊の働きというものではないのか。このような教会が真の教会であり、間違いなく携挙されるはずだ」と思っています。どの見方が正しいのでしょうか。真の教会とは何でしょうか。そしてどうすれば、真の教会と偽の教会を見分けられるのでしょうか。今日はこうした問題について、交わりを持ってみましょう。

真の教会と偽の教会を見分けるための第一原則:その教会では聖霊が働いているか、そして教会員たちは真理を追求しているか

聖書には次のようにあります。「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ人への手紙 1:23)。ヤーウェ神はソロモンに次のように言われました。「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある(歴代志下 7:16)。そして神の言葉には次のようにあります。「神の働きの各段階において、それに対応する人間への要求がある。聖霊の流れの中にいる者たちは皆、聖霊の臨在と鍛錬を備えており、聖霊の流れの中にいない者たちはサタンの支配下にあり、そうした者には聖霊の働きがまったくない。聖霊の流れの中にいる人々は、神の新たな働きを受け入れ、神の新たな働きの中で協力する者である。現在において、その流れの中にいる者たちが協力できず、神に要求された通りに真理を実践できないとすれば、そうした者は鍛錬を受け、最悪の場合は聖霊に見捨てられるであろう。聖霊の新たな働きを受け入れる者は聖霊の流れの中で生き、聖霊の配慮と守りを授かるであろう。真理を実践することを望む者は、聖霊により啓かれ、真理を実践することを望まない者は、聖霊から鍛錬を受け、罰を受けることさえあるだろう。そうした者がどのような人間であれ、そうした者が聖霊の流れの中にいる限り、新たな働きを神の名において受け入れる者全てについて、神は責任を負うであろう(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)

神の言葉から、その教会は神の礼拝所であり、神によって保たれ、神に認められていることがわかります。真の教会には聖霊の働きがあり、その構成員たちは神の現在の働きを受け入れていて、聖霊の流れの中に生き、真理を追求しています。そのような教会では忠実な信徒たちが、集まって神が現在発している声についての交わりを持ち、聖霊による啓きと光を得て、神の旨と要求を理解し、生活の中で一層の進歩を成し遂げています。彼らは日々の暮らしの中で神の言葉を実践した証しを立てることができます。主イエスが働きを行うために到来されたとき、神を心から信じ主イエス者たちが集まって教会を構成しました。彼らは主が説かれた悔い改めの道を受け入れ、それまでのように律法の拘束を受けることはなくなりました。また彼らは主の言葉に従って行動し、他者に対して寛大さや忍耐強さ、許しを示すようになりました。聖霊の最新の働きによる導きを受けて、彼らの人間性と彼らがその生活の中で生きるものは、一層正しくなっていったのです。また彼らは、主が途方もない苦難と屈辱に耐えて人間のため磔にされ、人類の罪を贖うのを目にし、神の性質が慈悲深く愛に満ちていることを理解しました。そして彼らの信仰はますます強くなったのです。このことから、このような教会には聖霊の働きがあり、それこそが真の教会であることがわかります。逆に、聖霊が働いていない教会は偽の教会です。たとえば律法の時代の末期、主イエスが働きを行うために到来されましたが、そのときに聖霊の働きは変化し、礼拝所は荒廃しました。ユダヤ人の祭司長、書士、そしてパリサイ人たちは、主イエスの最新の働きと言葉を受け入れませんでした。彼らは律法や戒めを守っているようではありましたが、聖霊の働きを受けておらず、最終的には自分たち自身の規則すら守れなくなり、窃盗、殺人、乱交といった背徳行為が蔓延していたのです。礼拝所はもはや神を崇拝する場所ではなく、盗人の巣窟となっていて、金銭のやりとりが行われ、家畜や鳩が持ち込まれ売り買いされていました。では、今日のキリスト教会の状態はどうでしょうか。牧師たちは説教の中でも聖書の知識や教義をいくらか解説できるだけで、聖霊の啓きも光も得ていません。信者たちも真の潤しや滋養を受けられていないのに気づき、否定的で受動的になり、信仰心が冷めてしまっています。集まりはただおざなりに行われ、神の言葉を楽しむこともなく、牧師も長老もまた普通の信者も、ほとんどの場合神の教えを守ることすらできていません。教会では牧師や長老たちが、ますます嫉妬による論争に没頭するようになり、誰が演壇に立つかで争っていて、欲深く、神を畏れる心をまったく持っていません。忠実な信徒の多くは次第に世間に戻って、金を稼ぐため忙殺されるようになり、肉の楽しみばかり求めて、礼拝に参加する人はどんどん少なくなっています。人々が教会へ行くのは、何かのイベントがあるときや食事が供されるとき、または何か大きな危険に直面したときだけです。純粋に真理を求めることはなく、ほとんどの場合ただ楽しいことに参加するか、恵みを得て生活の安寧を確保したいだけなのです。そのような教会は、外部からどれほど活気があるように見えたとしても、淀んだ水たまり以外の何物でもなく、律法の時代末期の礼拝所とまったく同じです。そのような教会では明らかに聖霊は働いておらず、神もその教会を保っていません。

そのため真の教会と偽の教会を区別するには、まずその教会で聖霊が働いているか、聖霊がその教会を保っているか、人々が神の最新の言葉を読んでいるか、そして神の言葉を読むことでより多くの真理を理解し神への信仰を成長させているか、ということに目を向ける必要があります。教会が神の現在の働きについて行っておらず、聖霊の導きを得ていないなら、信者がどれほど多かろうと、さまざまなイベントを催してどれほど勢いがあるように見えようと、それは偽の教会でしかなく、まもなく神に見放されることになるのです。それは神がヨハネに告げて、ラオデキヤの教会に次のように書き送らせたとおりです。「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう(ヨハネの黙示録 3:15–16)

真の教会と偽の教会を見分けるための第二原則:支配しているのは真理か、または偽の羊飼いか

真の教会と偽の教会を区別する際には、もう一つ重大な原則があります。それはその教会を支配しているものが真理か、または偽の羊飼いかを見定めることです。教会とは真理を求める人々が教会生活を生き神を崇拝する場所であり、心から神を信じる人々、自分の中で聖霊が働いている人々で構成されている教会が真の教会なのです。そのような教会は真理に支配されており、皆が神の言葉を読んで実践し、真理に従っています。そしてその教会は真理を探求する人々によって導かれ、真理の探求者を支えています。神の言葉と真理に逆らう者、悪事を働き教会で逆上するような者は誰でも、拒絶され追放されます。真理を探求する者には聖霊の働きと導きがあるため、そのような人々で構成される教会では神の旨が行われており、そこには神の存在があります。恵みの時代、主イエスが到来されて働き語ったとき、イエスは自ら十二使徒を選び出し、直接ペテロの証人となってペテロを教会の指導者に任命されました。使徒たちは当時の忠実な信徒たちを主の言葉に従って導き、主イエスの救いの福音を伝えました。それによって神の旨が成し遂げられ、主イエスの聖い名は遠方まで広まったのです。

世の終わりに至った今、主イエスを信じる者たちはさまざまな教派に分かれ、それぞれに独自の指導者を擁しています。しかし聖書では、神が直接そうした牧師や指導者たちの証人となったことはなく、ましてや彼らを指導者に任命したなどとは言われていません。こうした教派の指導者や長老たちの大半は神学校の卒業生で、資格を得て指導者や牧師となるのであり、神の働きを経験する中で聖霊に完全にされ啓発されて立つのではありません。彼らはその働きや説教の中でも、主の言葉を証ししたり賛美したりすることは一切なく、主の旨について説教することもありません。おもに自分自身の才能や素質に頼って働いているため、彼らが話すことは聖書の知識と霊的な理論だけです。彼らは聖書を賛美し聖書を証しして、聖書の言葉を主イエスの代わりとしています。そのような働きは主に逆らうものです。それでどうやって、聖霊が彼らの教会を保つことができるでしょうか。彼らには神に関する真の認識を説教したり、人々を真理の現実に導き入れたりすることはできないのです。知っているのはただ、人々をどうやって規則や教義に導き入れ、道を踏み外させ、破滅へと導くかだけです。さらに彼らは教会の働きの中で、常に自分自身を称賛し、自分自身の評判を築き上げて、注目を浴びようとしています。神の言葉に従って行動したり人々を扱ったりはせず、一番多く寄付する人に媚びへつらい、自分のお気に入りを重要な役職に任命しています。兄弟姉妹たちの中には、真理を理解していない人もいます。そうした人たちは混乱していて判断力がないため、そのような牧師や長老をやみくもに崇拝し、彼らを探し出してはこの世のあらゆる問題について問いかけます。まるで、彼らだけが人々を神の国に導けるとでもいうかのように。こうした信者たちは神を信じ神に従っているように見えても、本質的には実際、そのような牧師や長老たちを信じているのです。特に、教会が荒廃し、より探求心の強い兄弟姉妹たちが聖霊の働いている教会を探して、再来された主が発する声を求めに行こうとすると、牧師や長老たちは全力を尽くしてそれを妨害し糾弾します。彼らは信者たちが自分の支配下から脱するくらいなら、霊的な飢えと渇きに死んでくれたほうがよいと思っているのです。そのような教会は明らかに、真理が支配してはおらず、代わりにそうした偽の牧羊者、反キリスト者、そして聖霊の働きを受けていない邪悪な従者によって管理されています。そのような教会は、もうずっと前に神の性質を侵し、聖霊に見捨てられているため、遅かれ早かれ完全に排除されることになるのです。これは聖書に次のようにあるとおりです。「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである』(ヨハネの黙示録 18:2–3)

真の教会を見つけるには

今日の交わりもここまで来ましたので、おそらくもう皆さんの多くが、宗教界の教会ではもはや聖霊が働いていないことに気づかれていると思います。では、実際に聖霊が働き神が存在している教会は、どうやって見つければよいのでしょうか。その答えを求めるには、歴史をふり返ってみましょう。その昔、主イエスが到来されて働き語られたとき、礼拝所は荒廃していました。それは一面では、祭司長、書士、パリサイ人たちが信者を正しい道に導いていなかったため、聖霊に見捨てられていたのですが、またもう一面では、主イエスが新たな働きを行われていたため、聖霊が礼拝所での働きをやめ、神の歩みに遅れずに付き従っている人々の中で働きを始めていたのです。主イエスに従っていた人々は、主イエスの最新の言葉を聞いて、生きた水の滋養を受け取りましたが、礼拝所に残っていた人々は暗黒へと落ち込みました。そしてそれと同じことが、この終わりの日にも起こっています。宗教は荒廃し、聖霊の働きを得ていないため、私たちは自分で聖霊の発する声を探し求め、子羊の歩みに遅れないようついて行かねばなりません。これは聖書で次のように言われているとおりです。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった(アモス書 4:7–8)。このように、神が到来して新たな働きを開始されると、古い時代の教会は荒廃する運命にあることがわかります。ここに神の旨があります。それは教会の荒廃を通して、私たちが神の歩みを探し求めに行かざるを得なくなるということなのです。災害の規模がますます拡大している今、主の到来の預言はほぼ満たされました。神がすでに再来されており、教会に現れて働きを行われている可能性は非常に高いといえます。神の足跡を見つけることができれば、当然ながら、真の教会も見つかることになります。

では、どうやって神の足跡を見つければよいのでしょうか。そのことを明確に説明した神の言葉の一節があります。「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)。つまり、災害の前に携挙される真の教会を見つけたいなら、神の足跡を求め、神の発する声を求め、神の声を聞くことに集中しなければならないということです。これは聖書で次のように言われているとおりです。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)

神の言葉から、主は再来されると、教会に向けて新しい言葉を発されることがわかります。現在、世界中で全能神教会だけが、主が再来されたこと、まず神の家から裁きの働きを行われていること、そして無数の言葉を発し神の経営(救いの)計画のあらゆる神秘を明らかにされていることを証ししています。こうした神秘には、神の三段階による働きの現実の状況や、受肉の神秘、神の名の重要性、聖書の裏話、サタンがどのように人類を堕落させるか、神がどのように人々を救うか、あらゆる種類の人の最終的な終着点、人々がどのように完全な救いを得られるか、などがあります。こうした神秘は、私たちの目が開かれ、見るものを楽しめるようになるようにと、明らかにされているのです。全能神は終わりの日に裁きの働きを行うため到来され、そして全能神教会が生まれたのです。これは恵みの時代に主イエスが働きを行うため到来された後、恵みの時代の教会が生まれたのと同じです。全能神教会は、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れ、心から神を信じ、真理を追求する人々で構成されています。この人々は全能神の言葉による潤しと牧羊を受け入れ、神の現在の言葉を読み、主イエスの再来である全能神に祈りを捧げ崇拝しています。この人々は中国共産党の迫害と抑圧を受けており、一部は逮捕・投獄されて、暴力や拷問を受けましたが、それでも断固として全能神に従い、勝利者の証しを立てたのです。彼らは神の言葉の裁きと刑罰とを経て、自分自身のサタン的な性質を知るようになり、真の自責と自らへの真の憎しみを覚えるようになりました。彼らの堕落した性質は変容し、彼らはその堕落した性質が裁きと刑罰を通して清められたという事実について、多くの証しを立ててきました。終わりの日の神の裁きの働きによって、すでに一群の勝利者が生まれていることは確かです。こうした勝利者たちが、災害の前に携挙さる人々であり、神の約束と祝福を受け継ぐにふさわしいのです。全能神が表された本『言葉は肉において現れる』は今やオンラインで広く公開されており、さらに神の選民による経験的な証しのほか、全能神教会が製作したさまざまな映画や動画も、オンラインで豊富に紹介されています。真理を追い求める多くの人々が、全能神の言葉や神の選民による多くの経験的な証しを読んで、全能神とは再来された主イエスであることを確信しています。彼らは神の働きと、真理をどのように実践すべきかについて、新たな理解を得ているのです。そしてこのことから、全能神教会にこそ聖霊の働きがあることがわかります。全能神教会がヒラデルヒヤ教会であり、災害の前に携挙される教会なのです。最近では宗教界全体が荒廃に陥っている中、日毎にますます強くなっているのは全能神教会だけです。世界中で全能神教会の新たな分派が次々に設立され、日々拡大し強化され続けています。これは、神から来るものはすべて繁栄するのだということを示してくれています。

発生する災害はどんどん大きくなっているため、なんとしても大災害の前に携挙されるヒラデルヒヤ教会を見つけ出さなければなりません。これは神の国に入れるかどうかという重大な問題にも直結しています。神の歩みに遅れずついて行くこと、そして真の教会を見つけ出すことができなければ、私たちは最終的に災害によって一掃され、多くの涙を流し歯ぎしりすることになるのです。この重大な時に、私たちは全能神の言葉に耳を傾け、それが神の声であるかどうかを聞き分けなければなりません。そしてそれが神の声であるとわかったら、急いでそれを受け入れなければなりません。それだけが、子羊の歩みに遅れずついて行くための方法なのです。

この交わりで、真の教会と偽の教会を区別し、災害の前に携挙される、聖書に預言されたヒラデルヒヤ教会を見つけるための道が見えたでしょうか。この記事がお役に立ったら、ぜひ友人にも見せてあげてください。より多くの人々が災害の只中で真の教会を見つけられるように、そして彼らもまもなく神の前に携挙されて、神の配慮と御加護を受けることができるように。

報答(オーストラリア)

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