聖書の黙示録に預言されている144,000人の勝利者とは誰なのか?

2020年8月5日

終わりの日に14万4千人の勝利者が起り、その勝利者が大いなる災の時に神の守りを受けるという黙示録の預言については、聖書に親しんでいる人なら誰もが知っています。黙示録14:1は「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、14万4千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」。と預言しています。黙示録7:14は「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。と預言しています。聖書に書かれているこの14万4千人は神が起こされる勝利者たちです。彼らはみな大きな艱難をとおり、証人として立ってきた人であり、天国に入ることができるよう神の推薦を受けた人たちです。主のために働き自分を費やし、苦しみ代価を払い、迫害、艱難や牢獄の中であっても主の名を否定することを拒むというような良い行いをすれば、勝利を得る人となることができ、主が来られる時に神の御座の前に引き上げられる、と多くの人が信じています。けれどもそれが正しい考え方なのか私たちは今まで考えたことがあるでしょうか。そのようなことを求めることで勝利者になれるなどと、聖書の中で主は語られていません。では黙示録に書かれている14万4千人の勝利者とは正確にいえばどんな人たちのことでしょうか。これについてこれから分かち合いたいと思います。

勝利者とは

黙示録14:4-5にはこう書かれています。「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」。黙示録7:14にはこう書かれています。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。神は言われます。「神が『勝利者』と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの『勝利者』になることである」(『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。「災害の前に完全にされる者たちは神に従順である。彼らはキリストに拠り頼んで生活し、キリストを証しし、キリストを崇める。彼らは勝利した男児たちであり、キリストの良き兵士たちである」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十二章」〔『言葉』第1巻〕)。この聖書の預言や神の言葉からわかることは、勝利者は子羊の後をぴったり付いて行く人たちであるということです。そのような人たちは真理をまさに自分のいのちとして捉えており、その堕落した性質は清め変えられ、もはや罪を犯すことも神に抗うこともありません。彼らは神にたいして断固として誠実かつ忠実であり、いつわりを言わず、汚れがありません。純真な心で神のために働き自らを費やし、取引や不純といったこととは無縁です。彼らは神から何も求めず見返りを求めることもなく、そのなすすべては神のご愛に報いるためなのです。彼らは自分の本分を尽くすとき、神を崇め、神について証をし、神に従い、他の人を神の御前に連れてくることができます。どんな試練や艱難に遭っても、変わらず着実に神の言葉を読み、被造物の本分を果たし続けることができます。不満を言わず、死ぬまで神に従い、神について素晴らしい明確な証をします。神の目にはこのような人だけが勝利者なのです。

神が示す勝利者の要件に照らして自身を省みるとき、私たちは今、外では苦しみを少し受け、良い行いも多少行っているように見えるかもしれませんし、中国共産党から受ける残酷な拷問下にも主を裏切ることはないかもしれませんが、私たちの堕落した性質がまだ清められ変えられていないということは否定できません。いまだサタンの無数の誘惑に打ち勝てておらず、神にたいする従順と崇敬の心も持ち合わせていません。例えば、私たちは自分をすっかり捧げ、どこに行っても福音を伝えることができても、私たちの動機は、見返りとして、平和な家庭生活を送ることであったり、天国に入り永遠のいのちを得るという祝福を受けることであったりします。私たちは自分の願いが叶えられなかったり、家族に災難がふりかかったりしたとたん、神を責め、神のために費やしたことを後悔し、神をまったく捨て去ることさえありうるのです。捕えられ投獄された後、教会を敵に売り渡すことを拒否したにもかかわらず、後にそれを利用して、他者の前で自分を賛美し、神の前で達成されたことを自分の手柄にする人もいます。さらに、他者との人間関係において、何かが自分の利益を侵害し始めたとたん、嘘をついて他者をだまさざるをえなくなります。これはほんの数例に過ぎません。私たちはサタン的な堕落した性質が清められないと、いつでもどこでも神を裏切り神に抗う可能性があります。そんなことでいったいどうして勝利者になれるでしょうか? さらに言えば、私たちが自分の力だけを頼みにして働き苦労し、捕らえ投獄されたときに主の名を否定することを拒み、無神論者である政府の迫害をとおって証に立つことができるなら、こういうことこそ神への真の信仰を持っているのだと言われるかもしれません。けれども、自分の堕落した性質は変わっておらず、私たちは自分の堕落した本性や本質にたいする真の理解を欠いており、まだ神に従い神を恐れ、悪を避ける人にはなっていません。聖書の言う14万4千人の勝利者の基準には至っていません。では大いなる災が起こる前に、神によって勝利者とされるようにするにはどのようにすべきでしょうか。

どうすれば大いなる災が起こる前に勝利者とされるのか

14万4千人の勝利者が起こるのは、神が終わりの日に働きを成しつつある間であると知ることが大事です。神は終わりの日に別の段階の働きを行って、勝利者の集団を作ると預言しておられます。聖書を見てみましょう。「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。……忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」(ヨハネ黙示録 3:7-13)。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)。これらの節は、ヒラデルヒヤの教会の歓喜、御霊が教会に語ること、裁きが神の家から始まることなどについて語っています。これらはすべてご再臨と同時に主イエスが行われる働きです。つまり災いの前に、神は新しい名を名乗り、神の言葉を諸教会と分かち、すべての真理を表わし、神の前に来るものをみな裁き清めるのです。その人たちの中から神は勝利者の集団を作られます。災いが来る前に聖書で預言されているような14万4千人の勝利者になりたいと私たちが願うなら、まず聖霊が教会に語ることを求め、終わりの日に人を裁き清める神の働きを受け入れねばなりません。

神が終わりの日に人間の姿となって密かに来られている、とすべての国にたいして公然と証しているのは、現在、世界中で全能神の教会だけです。全能神の教会が証ししているのは、聖霊が教会に語っていることを神が表わされていること、神の家から始まる裁きの働きを全能神の名を持って展開しておられること、まさにその瞬間に神が人々を清め救いつつあるということです。さらに、全能神はすでに勝利者の集団を中国で作っておられ、この福音の働きは現在全世界に広がりつつあります。では全能神は正確にいえばどのように勝利者を作る働きをしておられるのでしょうか。

全能神は言われます。「わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか」(『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

終わりの日に全能神は、人々が清められ救いを達成することを可能にする、すべての真理を表しておられます。これらの真理を通して、神は、私たちを試み暴き磨くために、私たちの堕落を裁き、人、出来事、ものといったすべての手はずを整えます。こうして真理が私たちに根づくのです。全能神の言葉が示すことは、いかにサタンが人を堕落させ神にいどむか、またサタンが人類を堕落させる方法の本質と真実についてです。その言葉が神の選民に語ることは、いかにしてサタンに対する識別力を持てるか、いかにして自分自身を知ることができるか、いかにして神の言葉を実践できるか、いかにして誠実な人となれるか、いかにして自分の罪を解決し申し分ない善行を行うことができるか、いかにして神を敬い従い愛することができるか、いかにキリストと共に生きられるようになるかなどです。真理を愛する者は、神の言葉を熟考することに努め、神が人を暴くために与えた様々な試練を通して自分自身を知るようになり、神の言葉による裁きを通して自分がサタンの落とし子だということを知るのです。彼らは自分が傲慢で、うぬぼれが強く、利己的で、うそつきだということがわかります。自分は真理にうんざりしていて、名声や富を愛し、常に神と等しくなりたいと思い、自分の本分を果たすのに神の見返りを求め、自分の気に入らないことに出会うと独断的に神を裁き反抗し裏切るのだということがわかります。外側は神に従っているように見えますが、実はなおもサタンの闇の影響下に生きており、真に神のものとなっていないのです。彼らは神の裁きと体罰を通して、神の聖と義を知るようになり、神が邪悪なことを憎み呪う一方で、真理を求め、義を慕う人には祝福と恵みを与えられるということがわかるのです。その時、神を恐れる心が湧いて仕方なくなります。彼らは喜んで自分のサタン的本性を捨て、神に従い、神の言葉に従って生きるのです。神の言葉の実践を休むことなく、自分の堕落した本性を捨てることによって、時がたてばサタン的な性質は変化します。すべてにおいて神を敬うことができるようになり、神の言葉と真理を実践の原則とし、真理を自分のいのちとして得るのです。

神は今や中国に勝利者の集団を起こしつつあります。多くの兄弟姉妹が中国共産党政府の荒れ狂う抑圧と逮捕に苦しんでおり、世界から拒絶され中傷され陥れられていますが、彼らはなおも力強く福音を伝え、自分の本分を忠実に果たし続けているのです。自分の将来や運命、あるいは自分の名声や地位への影響などは顧みません。一部の人は中国共産党政府による残酷な拷問を受けており、死に直面してなおも神への忠誠を保ち、神のお指図と手配に従い、証人として立っています。神の裁き、体罰、試みや精錬を経験し、自分の堕落した性質から抜け出した兄弟姉妹もたくさんいます。彼らは今や人間らしさを実現し、様々な体験的証を生み出しています。この勝利者たちの証は、終わりの日における全能神の裁きの働きの結晶であり、まさに次の黙示録を成就しつつあります。7:14「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。14:4「そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である」。

この勝利者たちの体験的証はインターネットで閲覧できます。その証は非常に多くの人に感激を与えており、神の出現と働きがなければ、この非常に堕落した人々の群れが、サタンの闇の影響を振り払い、勝利の証をするまでに導ける人間はいなかっただろうと多くの人が真に感じています。これらの証によって、全能神はご再臨の主イエスであるということが確認され、終わりの日における全能神の働きを受け入れる人が続々と出てきています。ますます多くの人が全能神の言葉を受け入れ伝えつつあり、全能神を証しする働きは新たな段階に達しています。神の国はとうに地上に到来しており、やがて大いなる災が私たちに降りかかり、終わりの日における神の働きは終わりを迎えます。時は迫っています。私たちは真の道を求め究めなければなりません。神の声を認識し、全能神の御座に立ち返る者はすべて、子羊の婚宴に参列する思慮深いおとめたちであり、大いなる災がくる前に、聖書で語られている14万4千人の勝利者の一人となる機会を得るのです。さもなければ、大いなる災が世界に臨むとき、神によって勝利者とされる機会は失われ、人々にとって限りない痛恨事となるでしょう。

編集後記:この記事を読んで、聖書で預言されている14万4千人の勝利者の意味がもうおわかりになりましたか。神によって勝利者とされる道をもう見つけられましたか。真理についてもっと知りたい方は、下の連絡先ボックスをクリックして気軽にご連絡ください。共に分かち合い探求できれば幸いです!

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