いい加減さの裏にある真実

2023年10月6日

去年の10月、動画を完成させたんだ。ずいぶん苦労して、時間と労力をたくさん注ぎ込んだ。でも指導者に見せたところ、問題点をたくさん指摘された。フレーミングがよくない、前の動画のほうがましだ、やり直せと言うんだ。これを聞いてびっくりしたよ。まさかそんなに問題があるなんて。やり直しということは、今までの労力と資材が無駄にならないか? 大損じゃないか。

僕は途方に暮れた。どう乗り切ればいいのか、どんな教訓を学べばいいのかわからない。動画は何度か編集して、指導者も目を通したけど、何も言わなかった。自分は素質がないから、問題を見逃すのは普通のことじゃないか? でもそう考えてるうち、待てと思った。こんな大問題になるなんて、僕に素質がないせいか? 本分でのこうした問題の根源は何だろう? すると、前に指導者から言われたことを思い出した。動画を観たのは概念と方向性を確かめるためで、問題がなかったという意味じゃない。制作中は詳細に気を配り、問題があれば修正するよう、指導者は言ってた。でも僕はそうしなかった。指導者が目を通したからには大丈夫だと思って、制作中、注意深く見直すことも、じっくり考えることもなかった。本当にいい加減だった。そして問題があると、指導者が前に見直したと言った。責任を押しつけてたんだ。まったく理知がない。そして思った。ここには間違いなく教訓がある。そこで祈って求め、自己認識できるよう神の導きを願った。

数日後、一緒に作業してる姉妹から、完成した動画を見直してほしいと言われた。気づいた問題点を指摘したんだけど、彼女は言うんだ。これを見た指導者は、コンセプトがいいからすぐ完成させるよう言ったって。いくつか修正の意見があったけど、指導者が気に入ってると聞いて口にするのをためらった。修正しても、実は自分のほうが間違っていたら、邪魔することになってしまう。でも本当に問題だと思ったから、別の兄弟に見てもらったら、確かにそうだと言われた。もう一度持ち出すべきだと思ったけど、こう考えた。僕が提案した編集に問題があれば、指導者から質問され、僕の責任になって取り扱いを受ける。しばらくそれを考え、指導者に訊いてみようと思った。問題ないと言われれば、それ以上編集する必要はない。手間が省ける。そこで、やはり気になるから指導者に訊いてみようとパートナーに言った。でもそう言ったとたん、何か間違ってるように感じた。前にもこんなことがあった。色んな意見を聞いても自分の答えは一つ。指導者に訊いて決めてもらう。指導者が許可すれば、心配せずに先へ進める。でも問題があると言われたら、さらに編集する。いつもこんな風だった。実際には、動画の原則や要件をよく知らないってことはなかった。こうした問題では、真理の原則に沿った行動をとれる。指導者は、自分の見直しは大局的なものだと明言したけど、僕らは小さな問題を調べて解決する必要がある。それが僕の尽くすべき本分、自分の仕事なんだ。どうして真剣にならなかったの? 問題や意見の相違があると、僕は兄弟姉妹と真理を求めて合意に達し、責任を負おうとせず、指導者に任せ、自分の本分を尽くしてなかった。すると神の御言葉を思い出した。「本分を尽くす際にいつも受け身で、常に座って待ち、他人に頼る人がいます。これはどういう態度ですか。これは無責任さです。……あなたは教義の字句を説き、聞き心地のよいことを言うだけで、実際の働きを一切しません。本分を尽くしたいと思わないなら、責任を受け入れて辞めるべきです。地位にしがみつきながら、そこで何もせず、神の家の働きを損なってはいけません。そうすることは、神の選民に害をもたらし、神の家の働きを損なうことではありませんか。話し方から、あなたはあらゆる教義を理解しているようですが、本分を尽くすよう求められると、不注意でおざなりで、真面目さがほんの少しもありません。これが神のために自分を真摯に費やすことですか。あなたには神への誠実さがないのに、それを装っています。あなたに神を騙すことはできますか。あなたのいつもの話し方には、実に大きな自信があるようです。神の家の柱、神の家の岩になりたいのです。しかし本分を尽くすときは、マッチ棒ほどにも役に立ちません。これはあなたが承知の上で神を騙していることになりませんか。神を騙そうとするとどうなるか知っていますか。神はあなたを嫌悪し、追放します。本分を尽くすと、すべての人が暴かれます。誰かを何らかの本分につからせるだけで、その人が誠実な人か、騙す人か、また、真理を愛する人なのかどうかがすぐに明らかになります。真理を愛する人は誠実に本分を尽くすことができ、神の家の働きを守れます。真理を愛さない人は神の家の働きをほんの少しも維持できず、本分の遂行において無責任です。これは、目がある人には見えることです。本分の尽くし方が劣る人は、真理を愛する人でも、誠実な人でもありません。そういう人はみな暴かれ、追放される対象です(『終わりの日のキリスト講話集』「誠実になることでのみ、真の人間として生きられる」〔『言葉』第3巻〕)。本分で責任を負い、実際の働きをせよと、神は言われてる。それが唯一の方法なんだ。心を込めて本分を尽くさず、いい加減に乗り切るだけで、問題に対して真剣にならず、表面的な働きしかしないなら、本分をしっかり尽くせず、神も満足しない。神から見て、そんな人は役立たずで本分にふさわしくない。僕も神の言うとおりだとわかった。問題があるとき、じっくり考えてみんなと祈り、原則を求めていたら、合意に達して解決できる。でも僕は面倒に感じ、努力しようとも、みんなと調べようともせず、指導者のところに行った。決めてもらえば手間と面倒が省けると思ったんだ。さもないといつまでも話し合いで、答えなんか見つからない。そこで問題をいくつも指導者に任せた。僕はチームリーダなのに、責任を負わず、払うべき代価を払ってなかった。作業の話し合いのとき、問題に気づいたり聖霊の導きがあったりして、それを説明しても、兄弟姉妹が別の意見を言えば、口をつぐむだけ。傲慢だと言われるのが怖かったし、それ以上に問題の責任を負うのを恐れた。自分の意見を言ってみんなに考えてもらい、合意に達せなければ指導者に訊けばいいと思ってた。そうすれば問題が起きても、僕の責任にはならない。真理の原則に沿ってどう行動すべきか探求せず、まして教会の益など考えず、代価を払おうとしなかった。まったく無責任だ。問題を見つけて提起しても、解決してなかった。いつも他人の決定を待ち、自分で決断しなかった。ずる賢く自分勝手で、教会の益を守ってない。わたしも指導者に何でも訊いてた。わからないことがあったら、自分を盲信せずに質問するのが理性的だと思って。あなたの交わりと神の御言葉で、自分が無責任で、いい加減に本分を尽くしてるのがわかった。それに気づいて、自分は本当に鈍いとわかった。多くの状況に遭ったけど、僕は真理を求めず、教訓も学ばなかった。いつもいい加減に本分を尽くし、責任感などなかった。そんな風にするのは危険だ。今問題があり、パートナーの意見は違ってる。一緒に真理の原則を求めて合意に達せず、解決できずに指導者に駆け込めば、それはいい加減なだけ。そのとき思った。自分の状態を変え、中道を歩まず責任を負わなきゃ。そこでパートナーに提案した。別のバージョンを作って、2つを比較し、いいほうを指導者に見てもらおう、と。兄弟姉妹もいいと思ってくれたよ。そう実践すると、心が本当に落ち着いた。

その後、この御言葉を読んだ。「責任を負うことを恐れる人は臆病ですか。それとも、その人の性質に問題があるのですか。この違いを見分けられなければなりません。実は、これは臆病さの問題ではありません。その人が富を求めていたり、あるいは自分の利益のために何かをしていたりするなら、どうしてそれほど勇敢になれるのでしょうか。どんなリスクでも冒すつもりです。けれど、教会のため、神の家のために何かをしているときは、リスクを一切冒しません。このような人は自分勝手で卑劣で、誰よりも不誠実です。責任を負わない人には神への誠実さはほんの少しもなく、その人の忠実さに関しては言うまでもありません。責任を負うことを物ともしないのはどのような人ですか。神の家の働きにおける決定的な時に、率先して勇気を持って前進し、働きが極めて重要で不可欠であると見て取ると、重い責任を負い、大きな困難に耐えることを恐れない人です。これが神に忠実な人、キリストのよき兵士です。本分において責任を負うことを恐れる人がそうなのは、真理を理解していないからですか。違います。これはその人の人間性における問題です。その人には正義感や責任感が一切ないのです。自分勝手で卑劣な人で、神の忠実な信者ではありません。真理をほんの少しも受け入れず、そのため救われることはあり得ません。神を信じて真理を得るには、多くの代償を払わなければならず、真理を実践するためには、苦難を経験し、何かを捨てたり諦めたりする必要があります。では、責任を負うことを恐れる人は、真理を得られますか。得られません。真理を実践すること、自分の利益に損失をもたらすことを恐れているからです。辱められ、非難され、批判されることを恐れているのです。真理を実践する勇気がないので、真理を得ることはできず、何年神を信じていようと、神の救いを獲得することもできません。神の家で本分を尽くせる人は、教会の働きという重荷を担い、責任を負い、真理の原則を堅持し、苦しんで代価を払う人でなければなりません。こうした領域における不足は、本分を尽くすのにふさわしくなく、本分を尽くすための条件を備えていないことです。本分を尽くす中で責任を負うことを恐れる人が数多くいます。そのような人の恐れは、おもに三つの形で表われます。第一に、責任を負う必要がない本分を選びます。教会指導者の采配でそのような人が本分を尽くすことになると、その人は責任を負う必要があるのかどうかとまず尋ねます。責任を負う必要があれば、その本分を受け入れません。必要がなければ、本分をしぶしぶ受け入れますが、それでもその働きが疲れるものであったり、退屈なものであったりするかどうかを確認しなければなりません。また本分をしぶしぶ引き受けながらも、それをしっかり尽くそうという気はなく、やはり不注意でいい加減であることを好みます。苦労ではなく快楽があり、肉体の苦しみがないことが、そういった人の原則なのです。第二に、その人に困難が降りかかったり、問題が起こったりすると、自分が気楽なままでいられるようにと、まずそれを指導者に報告し、処理と解決を任せるという手段をとります。指導者が問題をどのように処理するかは気にせず、注意を一切払いません。自分が責任を問われなければ、万事それでいいのです。このように本分を尽くすのは、神に対して忠実なことですか。これは責任転嫁、職務怠慢、さぼりと呼ばれるものです。どれも口先だけで、実際のことを一切行なっていません。そんな人は自分にこう言い聞かせます。『この件を処理するのが自分なら、過ちを犯したらどうなるだろうか。ひとたびこの問題が調査されたら、自分が最終的に責任を負うことになるのではないか。その責任はまず自分に降りかかることにならないだろうか』。このようなことを心配するわけです。さて、神はあらゆる物事を調査できると思いますか。間違いは誰でも犯します。正しい意図を持ちながら、経験がなく、ある種の事柄をこれまでに処理したことがないものの、最善を尽くしたならば、そのことは神に見えています。神はあらゆる物事と人の心を吟味すると信じなければなりません。このことさえ信じないなら、それは不信者ではありませんか。そのような人が本分を尽くすことに、何の意義があるでしょうか。責任を負うことへの恐怖には、もう一つの表われ方があります。本分を尽くす際、わずかばかりの表面的で単純な働き、責任を伴わない働きしか行なわない人がいます。困難や責任を伴う働きは他人に押しつけ、何かがうまく行かないと、その人に非難をなすりつけて自分は責任を逃れるのです。……本分の遂行において責任を負うことを恐れる人は、忠実な効力者の水準にすら達しません。本分を尽くすのに適していないのです(『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(1)」〔『言葉』第4巻〕)。これを考えてると、神が面と向かって話されてる気がした。僕の状態を言い当ててる。本分を尽くす際、真理の原則に沿って働かず、神にすがって全力を尽くさず、問題や責任から逃げ、指導者に処理を任せた。指導者の言うことは何でも聞いて、うまく行かなくても自分のせいじゃないし、取り扱いを受けることもない、それが賢いやり方だと思ってた。でも神の御言葉で、僕は自分の責任を避けて本分を無視する、ずるい人だとわかった。本分の中で神を騙し、欺いてたんだ。いつも責任を負わずに避け、真剣になることも、本当の代価を払うことも、全力を尽くすこともなかった。いい加減にごまかし、誠実に奉仕してなかった。本分にふさわしくない。動画を作るたび、指導者に大丈夫だと言われれば、真剣に見直さず、じっくり検討することもなかった。製作途中に意見が出ても、気に留めなかった。ざっと見て大丈夫と言うだけ。本当に無責任だ。結果として完成した動画の多くに問題があり、修正のために戻さざるを得なかった。チームで動画への意見が合わず、問題があっても、僕ははっきり決めないで、指導者に決定を任せた。問題をよく把握してないときは、指導者のサポートで改善する必要がある。だけどしっかり把握してる問題があっても、僕は抜け道を見つけ、できることをしなかった。払うべき代価を払わず、考えるべきことを考えず、逃げることを選んだ。真理の原則を求めてないし、問題を真剣に考えることもない。失敗を総括したり、教訓を学んだりしなかった。こんなやり方に慣れてしまい、誰でも間違いを犯すとさえ考えてた。僕が問題を見過ごしたのは素質の乏しさのせい。問題を把握できたかどうかに関係なく、責任感がなかった。軽率で無責任だから、自分を守り、問題があると指導者に責任を押しつけた。みんなに迷惑をかけてたんだ。今ではわかる。これは素質じゃなく人間性の問題だ。

その後、御言葉の一節を読んだ。「自分に何かが起きるたびに自己保身に走り、自分のために逃げ道や裏口をとっておくなら、真理を実践していることになりますか。これは真理の実践ではなく、こそこそしているだけです。あなたは今、神の家で本分を尽くしています。本文の遂行における第一の原則は何ですか。それは、神の家の利益を守れるよう、まず心を残らず捧げ、努力を惜しまず本分を尽くさなければならないということです。これが、あなたが実践すべき真理の原則です。逃げ道や裏口をとっておくことで自分を守るのは、非信者が従う実践の原則で、彼らの最高の哲学です。何事においてもまず自分のことを考え、自分の利益を他の何よりも優先し、他の人のことを考えず、神の家の利益や他の人の利益とつながりを持たず、自分の利益を第一に考え、次いで逃げ道のことを考えるなら、これは非信者のことではありませんか。これこそまさに非信者です。このような人は本分を尽くすのに適していません(『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(1)」〔『言葉』第4巻〕)。この御言葉が心に刺さった。思わなかったよ。僕が本分を尽くすときの視点が、不信者のそれだったなんて。問題があるといつも自分の利益が第一で、責任を負うことを恐れた。だから本分を尽くしてるように見えても、全身全霊を込めず、真理の原則を求めなかった。教会の益を考慮せず、本分で多少苦労すれば満足し、毎日動作を繰り返してた。これは不信者の仕事ぶりじゃないか? パートナーと意見が違うとき、何でも指導者に決定を任せたのはなぜだろう? 責任を負いたくないから、本当の問題を見つけても、指導者の決断に任せ、それでいいとさえ思ってた。そしてわかった。責任回避が染みついたんだと。本当に狡猾で自分勝手だし、まったく信用できない。駆け引きをしてずる賢く、真心が一切ない。本分に全然ふさわしくない。その後、別の御言葉を読んだ。神の御言葉にこうあります。「本分を尽くすときに責任を負わず、常にいい加減でおざなりな人がいます。このような人は問題が見えても、人の気分を害するのがいやで、解決策を見つけることも、不都合に耐えることも望まないので、ただ急いで物事を片付けるだけです。その結果、仕事はやり直しが必要となります。あなたはこの本分を尽くしているのですから、その責任を負うべきです。なぜこのことを深刻に捉えないのですか。いい加減で軽率なのはなぜですか。このように本分を尽くすとき、責任を怠っていますか。誰が主な責任者であろうと、他の人たちにも物事に目を光らせる責任はあり、誰もがこの負担を引き受け、この責任感を持たなければなりません。しかし、あなたがたは誰一人として注意を払わず、本当におざなりで、忠実さがなく、本分を怠っています。あなたがたに問題が見えないというのではなく、責任を負う気がないのです。問題が見えたとしても、そのことに注意を払いたくなく、中途半端なところで妥協します。このようにいい加減でおざなりでいることは、神を騙そうとしていることになりませんか。わたしが働きを行ない、真理についてあなたがたに話したとき、あなたがた一人ひとりの素質と追求に照らし合わせて、これで十分というところでやめていたなら、あなたがたはそこから何を得られていたでしょうか。わたしがあなたがたと同じ態度をとっていたら、あなたがたは何も得られないでしょう。……そのため、わたしにはそのようにすることができず、詳しく、例を挙げながら、種類別の人の状態、真理への人の態度、各種の堕落した性質について話さなければならないのです。そうして初めて、あなたがたはわたしの言うことを把握し、自分が聞いたことを理解します。真理のどの側面について話すにせよ、わたしはさまざまな方法で、大人と子どもで交わりの様式を使い分け、また解釈や物語という形や理論と実践、経験を用いて語り、それにより人が真理を理解し、その現実に入れるようにしています。そうすると、素質とやる気のある人は、真理を理解して受け入れる機会を得て、救われます。しかし、あなたがたの本分への態度は、常にいい加減でおざなり、不承不承というもので、どれだけ遅れを引き起こしても気にしません。問題を解決するためにどのように真理を求めるべきかを熟考せず、神への証しをできるよう、本分をしっかり尽くすにはどうすればよいかを考えません。これは本分を怠ることです。そのため、あなたがたのいのちの成長はかなり遅く、無駄にした時間の長さに動揺することもありません。実のところ、あなたがたが責任感を持って丹念に本分を尽くしていたら、経験を語って神への証しをできるようになるまで、五、六年もかかることさえなかったでしょうし、さまざまな教会の働きも大いに効果を上げたはずです。しかしあなたがたは、神の旨に配慮する気がなく、真理に向かって努力することもありません。あなたがたにはやり方がわからないことがいくつかあるので、わたしが具体的な指示を与えます。あなたがたが考える必要はありません。ただ耳を傾け、その通りに進めるだけでいいのです。あなたがたが負うべきなのはこのわずかな責任だけですが、それさえもあなたがたの手に余ります。あなたがたの忠実さはどこにあるのですか。どこにも見えないではありませんか。あなたがたがすることといえば、聞き心地のよいことを言うだけです。心の中ではするべきことを知っていますが、真理をまったく実践しません。これは神への反逆であり、その根本には真理への愛の欠如があります。真理にしたがって行動するにはどうすればいいか、心の中では十分知っていながら、ただそれを実践しないのです。これは深刻な問題です。真理を見つめていながら、真理を実践していません。神に従う人でないのは絶対です。神の家で本分を尽くすために最低限しなければならないのは、真理を求めて実践し、原則通りに行動することです。本分の遂行において真理を実践できなければ、どこで実践できますか。真理を何一つ実践しないのであれば、あなたは不信者です。真理を受け入れず、ましてや真理を実践せず、ただ神の家でぐずぐずしているだけなら、あなたの目的はいったい何なのですか。神の家を自分の養老院や救貧院にしたいのですか。そうであれば、あなたは間違っています。神の家は居候や浮浪者の面倒を見ません。人間性に乏しい人、喜んで本分を尽くさない人、本分を尽くすのに不適な人は、すべて排除しなければなりません。真理をまったく受け入れない不信者は、すべて追放しなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』「立派に本分を尽くすには、少なくとも良心と理知がなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んで自分のことが本当に恥ずかしくなった。神は働きや人の扱いについて、完璧に誠実だ。人を救うため、ありとあらゆる手段で交わり、真理の様々な側面を細かに説いてくださる。理解できないときは多くの例を挙げて人を導き、絶えず真理を交わり、潤しと施しをしてくださる。僕は教会からあれほど大事な本分を託されたのに、責任を負っていなかった。いい加減に取り組み、怠けられるときは怠け、騙してずる賢かった。人間性がどこにある? 神は僕に誠実なのに、僕は神を欺くだけだった。以前、人間性がよくない人に関する御言葉を読んだけど、それと自分を比べなかった。そして自分も人間性がよくなく、良心がないことに気づいた。表向きは毎日本分を尽くし、多少の代価を払い、あらゆることをしてたけど、心は神を向いてなかった。全力で本分を尽くそうとせず、全身全霊を傾けることも、じっくり考えることもない。僕は本分を尽くしてなかったし、奉仕の基準にすら達してない。動画の問題は偶然じゃなかった。これはひとえに無責任さのせいで、それによる損失は償っても償いきれない。神に祈り、悔い改めの機会を願うことしかできず、今後は本分での態度を変えようと決意した。もういい加減じゃいられない。

そして、御言葉の一節を読んだ。「人に堕落した性質があると、本分を尽くすときにおざなりになったり不注意になったりすることがよくあります。これは最も深刻な問題の一つです。本分をきちんと尽くすなら、まずはおざなりと不注意というこの問題に取り組まなければなりません。こうしたおざなりで不注意な態度がある限り、その人は本分をきちんと尽くすことができないので、おざなりと不注意の問題を解決することは極めて重要です。では、これをどのように実践すべきですか。まずは精神状態の問題を解決し、本分に正しく取り組み、真剣に責任感をもって、騙そうとしたりおざなりであったりせずに物事を行なわなければなりません。本分とは人のためでなく神のために尽くすものです。神の吟味を受け入れることができるなら、その人の精神状態は正しくなります。さらに、人は何かをしたあと、それを検証し、反省しなければなりません。心の中に疑いがあり、詳細に調べたあと、本当に問題があることがわかったなら、変化が必要です。ひとたび変化が起こると、心の中の疑いは消えます。疑いがあるということは、問題があることを証明しており、特に鍵となる段階において、自分がしたことを入念に検証する必要があります。これが、本分を尽くすことへの責任感のある態度です。人が真剣で、責任感に溢れ、献身的で、勤勉でいられるなら、働きは正しくなされます。時として、あなたが間違った精神状態にあり、明白な間違いを見つけることも突き止めることもできないことがあります。仮に正しい精神状態にあれば、聖霊の鼓舞と導きによって問題を突き止めることができるでしょう。聖霊があなたを導いて気づかせ、心の中に明瞭を感じさせ、どこに間違いがあるのかがわかるようになったならば、あなたは過ちを正し、真理のために努力することができるようになるでしょう。あなたが間違った精神状態にあり、上の空で不注意であったなら、間違いに気づくことができるでしょうか。できないはずです。ここから何がわかりますか。これは、本分を立派に尽くすためには、人々の協力がとても重要であり、人の心構えも大いに重要であり、自分の考えや意図をどこに向けるかも極めて重要であることを示しています。人が本分を尽くしながらどのような精神状態でいるかや、その人がどれほどの活力を注ぎ込んだかを神は厳しく調べますし、見ることができます。自分が行なうことに心と力を残らず傾けるのは重要なことです。協力が不可欠な要素です。完了させた本分や過去に行なったことについて後悔せず、神への借りをなくすように努めて初めて、その人は全身全霊で活動していることになります。本分の遂行に心と力を残らず捧げ損ねることが常で、終始して軽率で不注意で、働きにとてつもない害をもたらし、神が求める努力にはるか遠く及ばないなら、あなたに起きることは一つしかありません。追放されます。そうなると後悔する時間はまだありますか。ありません。これらのことは永遠の嘆き、汚点になるのです。一貫して不注意でおざなりであることは汚点であり、深刻な過ちです。そうではありませんか。(そのとおりです。)自分の義務と、自分がすべきあらゆることの遂行に、心と力を残らず用いて努力するべきであり、不注意でおざなりであったり、悔いを残したりしてはいけません。そうできるなら、あなたが尽くす本分は神に称えられます。神に称えられることは善行です。では、神に称えられないこととは何ですか。それは過ちと悪事です。いまそのように言われても、人は自分が悪事を働いていることを受け入れないかもしれません。しかし、こうしたことに対する深刻な結果の生じる日が来て、否定的な影響になってしまうと、あなたは、そうしたことは単なる行ないの上で過ちではなく、悪事だと感じ取ります。それに気づいたとき、あなたは後悔で一杯になり、こう考えます。『少しでも予防策を講じておけばよかった。最初からもう少し考え、努力していたら、この結果を避けられただろうに』。あなたの心からこの永遠の汚点を拭えるものはなく、そのせいで永遠に負い目を感じるようになれば、困ったことになるでしょう。ですから、あなたがたは今日、神から与えられた使命に心と力を残らず捧げ、一点の曇りもない良心をもって、何ら後悔せず、神に称えられるようにすべての本分を尽くすよう努力しなければなりません。何をしようと、不注意でおざなりであってはいけません。いったん後悔すると、その埋め合わせをすることはできません。衝動的に間違いを犯し、それが深刻な過ちなら、永遠の汚点、永遠の後悔になります。これらの道はいずれもはっきり見えるはずです。神に称賛されるには、どちらの道を選ぶべきですか。心と力を残らず捧げて本分を尽くし、何ら後悔することなく、善行の準備をし、善行を積み重ねる。何をするにしても、他の人が本分を遂行するのを邪魔する悪事や、真理に反し、神に逆らうことは一切してはならず、生涯にわたる後悔を招いてはいけません。人があまりに多くの過ちを犯すと、何が起きますか。このような人は神の前で、神の怒りをかきたてているのです。あなたがさらに過ちを犯し、あなたに対する神の怒りがさらに膨れ上がれば、最終的にあなたは懲罰されます(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。それまで、本分でのだらしなさを自覚してたけど、その結果や、神がそんな人をどう見るかは気づいてなかった。ひどい悪事を犯してないように見えても、本分へのそんな態度を神は憎む。悔い改めないと、救いの機会を駄目にしてしまう。いい加減に本分を尽くすという問題の深刻さと僕の無責任さを、現実は示してた。無責任さのせいで、動画の再編集が必要になり、仕事全体が遅れた。これは過ちだ。すぐに状態を正さず、軽率さと無責任さを直さないと、いつ神に背いて淘汰されるかわからない。後悔しても手遅れだ。御言葉に実践の道があった。まずは正しい心構えを持ち、神の吟味を受け入れ責任を負う必要がある。そしてじっくり見直し、問題を放置しない。その後は神の御言葉を実践し、失敗した理由を総括して、原則を基に細かい点まで残らず動画を見直した。一緒に原則を求め、編集方法を話し合ったんだけど、兄弟姉妹との交わりと話し合いで、原則をよりよく理解できた。それに、動画を何度も見直したのに、今回はもっと注意してみたら、さらに細かな問題が見つかった。いい加減に本分を尽くしていた問題の深刻さがわかったよ。そして、原則を基に動画をどう編集すべきかを分析し、心と思いを一つに編集して、問題がなくなったところで指導者に見せることにした。そう実践したら、みんないい気分になったよ。編集後、動画を見直した指導者はこう言った。「本当にいいね。問題は何もない。今回は立派な仕事ぶりだ」。指導者にそう言われ、神に感謝せずにはいられなかった。僕の仕事ぶりがよかったんじゃなく、神の導きのおかげなんだ。改心して悔い改め、軽率でいるのをやめる気が少しでもあれば、神は導き、祝福なさる。この経験でよくわかった。穏やかさを感じるには、本分に心を込めないと。神に感謝!

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