安楽を追い求めることの結果

2022年12月15日

わたしは教会で動画制作をしてる。制作中、ちょっと難しいプロジェクトがあると、各フレームの効果を何度も試して修正し、失敗も多い。兄弟姉妹のプロジェクトが比較的単純で、もっとこなせると気づいてこう思った。「こっちは高い技術を求められる。時間をかけて考え、素材を見つけて学び、制作期間も長い。もっと簡単なら、面倒も少なくて済むのに。単純な手法や技能を学ぶだけでいいし、制作期間も短くなり、簡単に終わらせられる」その後は本分で、難しいものと簡単なものを選り分け、どれを引き受けるかを決めた。あるとき、簡単なプロジェクトを選んで、複雑なものは兄弟姉妹に任せた。でもみんなあっさり同意したから、少し不安になったの。「困難を前に、わたしは引き下がっているんじゃない?」でも思った。「難しいプロジェクトは時間と精力が要るし、精神を消費する。簡単なものを選ぶのが一番」。その後、プロジェクトの一つで改善の余地があることに気づいたけど、苦労して変えるのが嫌で、みんなも問題に気づいてなかったから、変えずにそのままにした。時々問題があっても、一瞬考えるだけで、兄弟姉妹に訊きに行った。問題をすぐに解決できて疲れないし、仕事を簡単に済ませられると思った。でもそうすると、自責の念を感じた。中には簡単な問題もあって、ちょっと頑張れば解決できるし、みんなに訊いたら本分の邪魔なのに、反省も自己認識もしなかった。こうして、本分を尽くす中でこんなずるさが常態になったの。

動画制作に加え、みんなの学習を指導し、技能を上げることになって、いつもより頑張る必要があった。専門技能を学ぶだけじゃなく、兄弟姉妹の必要を基に、教材を見つけて準備する。困難で疲れる仕事だと思ったわ。その後、どうすれば時間と労力を節約できるかを考え始め、教本を兄弟姉妹に送ることにした。それなら、みんなもそれで学べるし、わたしも資料探しに時間を費やさずに済む。考えれば考えるほど、これが最善だと思ったわ。しばらくすると、教本じゃ問題を解決できないと言われた。申し訳なく思って、仕方なく、簡単に教えることができる教材を見つけたの。「学習の準備を整えたから、わたしの仕事はこれで終わり」って考えたわ。程なくして、チームリーダーから言われたの。「最近動画に問題があって、進捗が遅れてる」って。それを聞いても反省せず、自己認識に努めず、この本分は苦労と代価だけじゃなくて、責任も問われるから、ますます嫌になった。ある日、指導者が来て、本分での怠慢とずるさを暴き、このままなら解任だと、わたしを取り扱った。指導者の言葉を聞いて、本分でいい加減だったことは認めたけど、悔い改めようとはしなかった。今後直面する困難や問題を考えると、この本分はもう嫌と思って、簡単な本分に移りたかった。次の日、指導者のところに行って「この本分は無理だから、別の本分に移してください」と伝えたけど、こう取り扱われた。「本当に無理なの? ちゃんと努力した? あなたは苦労を避け、いつもいい加減でずる賢く、人間性がよくない。そんな振る舞いでは、この本分に適してないわ」。それを聞いて、心が突然うつろになった。スタジオに戻ると、他のみんなは本分に集中してる。でもわたしは解任され、本分を失った。本当につらかったわ。まさか本当に本分を失うなんて。でも思ったの。「神は万物を支配なさる。この解任は、神の義なる性質が臨んだから。従って反省しないと」。その後数日、指導者に解任されるシーンが、何度も頭に浮かんだ。指導者に言われたことを考えるとつらくなり、人間性がよくないという一言は特にそう。どう反省して自己認識したらいいかわからず、苦しみの中神に祈り、自己認識できるよう導きを求めたの。

その後、御言葉のこの一節を読んだ。「ふまじめに無責任に物事を扱うことは、堕落した性質の中にある何かですか。それは、人が言うところの卑劣さです。そういう人は、あらゆることにおいて『それはだいたい合っている』とか『かなり近い』と言います。それは『たぶん』、『恐らく』、『8割程度で』という態度です。彼らはおざなりに物事を行ない、することは最低限に済ませ、行き当たりばったりで対応することで満足します。物事を真剣に受け止めたり正確さを求めたりすることに意義を覚えず、真理の原則を追求するのはさらに無駄だと考えています。これは堕落した性質の中にある何かではありませんか。それは正常な人間性の現れですか。それを傲慢と言っても良く、自堕落という言い方も同様に適切です。けれども、完璧に形容できる唯一の言葉は『卑劣』です。大半の人は内に卑劣さを抱えており、程度が違うだけです。そのような人は、ことごとく、できるだけ最小限のことだけをして済ませ、罰を受けずに何をやってのけられるのかを知りたがり、なすことすべて胡散臭いのです。可能であれば他人をだまし、可能であれば手抜きをし、可能であれば時間を節約します。そして内心このように考えます。『暴かれるのを避け、問題を起こさず、責任を問われない限り、これを切り抜けることができる。きちんと仕事をするなんて、やりがいよりも面倒のほうが多い』。そのような人は何も習得せず、熱心に研究することも、研究で苦しみ、代価を払うこともありません。ある主題についてつぎはぎだらけの感覚を得て、自分は知るべきことをすべて学んだと思い込んで、自分を専門家と呼び、それに頼ってどうにか切り抜けていきたいだけなのです。人は物事にこのような態度を取るのではありませんか。これは良い態度ですか。良い態度ではありません。一言で言えば、それは『どうにか切り抜ける』です。そのような卑劣さは堕落した全人類に存在します。人間性に卑劣さがある人は、何をするにも『どうにか切り抜ける』という見方や態度をとります。こうした人は本分を正しく尽くせますか。尽くせません。原則を持って物事を行なえますか。その可能性はさらに低いです(『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(2)」〔『言葉』第4巻〕)。「高貴な人と下劣な人は、どのように見分けることができますか。人、出来事、物を扱う際の態度、物事のやり方、そして彼らの中に表われるものを見なさい。つまり、問題が生じたときにどう行動し、どう物事を扱い、どう振る舞うかを見なさい。人格と尊厳を備えた人は、行動において緻密で、真剣で勤勉であり、犠牲をいといません。人格と尊厳を備えていない人は、行動が散漫でぞんざいで、いつも何かをたくらみ、常に物事を適当に切り抜けたいと思っています。熟練するまで技能を学ばず、どれほどの時間をその勉強に費やしても、何一つ正しく学ばず、自身の専門分野に関係する大事な事柄や一般的な問題について無知なため、困惑したままです。答えを出すよう彼らに強要しなければ問題ありませんが、答えを求めると慌てふためきます。眉を汗だらけにし、反応しません。これはどのような類いの人ですか。これは下劣な人で、価値のないくずです(『反キリストを暴く』「第8条 彼らは人を自分にだけ従わせ、真理や神には従わせない(2)」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉に心を貫かれたわ。「可能であれば他人をだまし、可能であれば手抜きをし」、「人格と尊厳を備えていない」、「下劣」これはまさにわたしの状態を暴いてる。わたしもこんな風に本分を尽くしてた。何をするにもいい加減で、合格点に達したらそれでよし。何事も肉の利益を考え、どうにか苦しみを避けようとし、きちんと本分を尽くすなんて考えなかった。肉の安楽のため、苦しみや代価を避けるため、いつも簡単なプロジェクトを選んでた。制作過程では、問題や改善の余地を見つけても、他の人が気づかない限り、目をつぶった。専門技術が必要だけど、兄弟姉妹に覚えさせるのは大変だと思った。だから肉の安楽のため、策を巡らせて、みんなに自習させた。それだと技能は向上しないし、本分の効率も上がらず、働きが遅れてしまう。本分では策を巡らせ騙すばかりで、教会の働きや、立派に本分を尽くすことは考えなかった。人間性がまったくないわ! 本当に利己的で卑劣で、人間が卑しい。反省するうち、強い後悔と自責の念を感じた。

その後、この御言葉を読んだの。「本分を尽くしているあいだずっと、表面上は深刻な問題が一切ないように見える人がいます。そうした人はあからさまな悪事を何一つせず、妨害や騒動を引き起こしたり、反キリストの道を歩んだりすることもありません。本分を尽くす際も、大きな間違いもなく、原則に関する問題を生じさせることもありません。けれど、わずか数年の間に、気づかないうちに、真理をまったく受け入れておらず、不信者であると暴かれます。それはなぜですか。他の人に問題は見えませんが、神はそうした人の心の奥底を吟味し、問題を見ます。そのような人は本分を尽くすときいつもおざなりで、後悔することがありません。時が経つにつれ、彼らは当然のごとく暴かれます。後悔することがないというのはどういう意味ですか。それは、本分をずっと尽くしてきたにもかかわらず、本分に対して常に間違った態度、不注意とおざなりの態度、無頓着な態度をとり、良心的であることがなく、ましてや献身的であることなどないということを意味します。彼らは少し努力しますが、ただ型通りの動作をしているだけです。自分のすべてを捧げているのではなく、彼らの過ちに終わりはありません。神から見て、彼らは悔い改めたことがなく、いつもおざなりで、彼らに変化は一切起こりません。つまり、邪悪を捨て去り、神に悔い改めることがないのです。神が彼らの中に悔い改めの態度を見ることも、彼らの態度が完全に変わるのを見ることもありません。彼らは自分の本分と神の委託をひたすらそうした態度と方法で見ています。この頑固で頑なな性質が変化することはなく、さらに、彼らは神への負い目を感じたことがなく、自分の不注意とおざなりが過ちであり悪事であると感じたこともありません。心の中に負い目や罪悪感、自責の念はなく、ましてや自己への非難など一切ありません。そして、かなりの時間が経つと、この人は治しがたいと神は見ます。神が何と言おうと、彼らがどれだけ多くの説教を聞こうと、真理をどれだけ理解しようと、彼らの心は動かず、態度が変わったり転換したりすることもありません。神はこれを見てこう言います。『この人には希望がない。わたしが何を言っても心に触れず、この人が向きを変えることはない。この人を変える術はない。この人は本分を尽くすのにふさわしくなく、わたしの家で奉仕するのに適していない』。神はなぜこう言うのですか。それは、本分を尽くして働きを行なうとき、彼らは一貫して不注意でおざなりだからです。どれだけ刈り込まれ、取り扱われようと、どれほどの寛容と忍耐が差し出されようと、何ら効果はなく、彼らを真に悔い改めさせたり、変化させたりすることはできません。本分を立派に尽くさせることも、真理を追い求める道に乗り出せるようにすることもできません。そのため、この人は治しがたいのです。この人は治しがたいと判断しても、それでも神はその人をしっかりつかまえていますか。いいえ。神はその人を手放します(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。「神から託された任務をどう捉えるかは極めて重要であり、これは非常に重大な問題です。神から人に託されたことを完了できなければ、あなたは神の前で生きるのに適しておらず、懲罰されなければなりません。神から託される任務が何であれ、それを人間が完了させなければならないというのは、天が定め地が認めたことです。それが人間にとって至上の責任であり、いのちそのものと同じくらい重要なことです。神から託された任務を真剣に捉えないなら、あなたは最も深刻な形で神を裏切っていることになります。その点、あなたはユダよりも嘆かわしい存在であり、呪われるべきです(『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を何度も読んで気づいた。わたしはそれまで、表向きは本分を尽くしてたけど、心の中では神を裏切ってた。本分では、肉の利益や苦しまないことばかり考え、策略とごまかしで切り抜けた。もっとよく仕事をできるときもそうしなかった。出来が悪くてもとにかく終わったし、それで十分だと思ったから。自分の問題を真剣に捉えず、反省も自己認識もしなかった。その後、指導者の暴露と警告を受けたけど、わたしはこれっぽっちも悔い改めず、まだ肉の利益を考え、本分で苦労し、代価を払う必要があると思って、その本分が嫌になった。こんなに麻痺して頑固なのはなぜ? 肉の利益しか考えず、真理を求めることも反省することもなく、ひたすら神に反抗した。ほんとうに反逆的! わたしはちゃんと本分を尽くさず、ごまかして神を騙し、本分を拒みさえした。神への裏切りじゃない? 神の義なる性質は背きを許さず、神はわたしの行ないを嫌悪された。わたしの解任は神の義を示してたの。それに気づいて怖くなったし、神の心を傷つけたことを後悔した。もうごまかすわけにはいかない。悔い改めて変わらないと。

その後はみんなと福音を広めた。原則を知らず、人と話すのも下手だったから、大変な本分だと思ったし、また苦労して代価を払うなんて嫌だった。でも本分に対する以前の態度が頭に浮かんで、前のように困難から逃げちゃだめとわかったの。それに気づいて、少し前向きになれた。

その後自分を反省して、本分がつらいとひるんでしまう理由を考えた。何かあると、どんな本性に操られるの? その後、御言葉の朗読動画を観たの。全能神は言われます。「あなたは現在、わたしが語る言葉を信じず、わたしの言葉を気にかけない。この働きが広まる日が来て、あなたがその全体を目にするとき、あなたは後悔し、唖然とするだろう。祝福はあるが、あなたはそれを享受することを知らない。また真理はあるが、あなたはそれを追い求めない。あなたは、自分自身を侮辱しているのではないか。現在、神の働きの次なる段階はまだ始まっていないが、あなたに対する要求や、あなたが生きるよう求められていることに、例外的なものは一切ない。働きと真理は非常に数多くあるが、あなたがそれらを知る価値などないのではないか神の刑罰と裁きは、あなたの霊を目覚めさせることができないのか。神の刑罰と裁きは、あなたに自分を憎ませることができないのか。あなたはサタンの支配下で、平安と悦楽、そして少しばかりの肉の享楽を持ちながら暮らすことに満足しているのか。あなたはあらゆる人の中で最も卑しい者ではないのか。救いをその目で見ておきながら、それを得ようと追求しない者以上に愚かな者はいない。そのような者は、肉を貪り食い、サタンを堪能する人々である。神に対する自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいはわずかな苦難も招かないことを、あなたは望む。そうした無価値なものを常に追い求め、いのちの価値を一切認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値もない。あなたは豚のように生きている――あなたと、豚や犬とのあいだに、何か相違があるだろうか。真理を追求せずに肉を愛する者たちはみな、獣ではなかろうか。霊のない死んだ者たちはみな、生ける屍ではなかろうか。あなたがたのあいだでどれほど多くの言葉が語られたのか。あなたがたのあいだで行われた働きは、ほんの少しなのか。あなたがたのあいだで、わたしはどれくらい与えたか。それなのに、あなたがそれを得ていないのはなぜなのか。あなたは何が不満なのか。肉を愛し過ぎているので、何も得られなかったということではないのか。そしてその原因は、あなたの考えが突飛過ぎるからではないのか。また、あなたが愚か過ぎるからではないのか。これらの祝福を得られなければ、自分が救われなかったことを神のせいにできるのか。あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか。豚は人生も、清められることも追求せず、人生とは何かを理解しない。毎日、食べたいだけ食べた後、ただ寝るだけである。わたしは、あなたに真の道を与えたが、あなたは依然それを得ていない。つまり手ぶらである。このような生活、つまり豚の生活を続けることを、あなたは望んでいるのか。このような人々が生きていることの意味は何か。あなたの生活は軽蔑すべきもの、恥ずべきものであり、あなたは汚れと放蕩の中で暮らし、何の目標も目指していない。あなたの人生は、最も下劣ではなかろうか。あなたは、厚かましくも神を見上げるのか。このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた自身の追求によって決まる(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。神の問いかけの一言一句が心を貫き、大きな借りを感じたわ。受肉した神は多くの真理を表わし、私たちを潤して施す。真理を得て堕落した性質を捨て去り、救いの機会を持てるように。人類に対する神の最大の祝福よ。本当に賢い人は、神の働きの機会を大事にし、真理の追求に時間を費やし、被造物の本分を尽くして、本分でいのちの性質の変化を追い求める。最後は真理を理解し、神に救われるの。でも無知で盲目な人は、肉の快楽に貪欲で、懸命に真理を追い求めることはない。本分でも努力することはほとんどなく、何年信じていようと真理を理解せず、いのちの性質も変わらない。結局神に淘汰される。思えば私も、まさにこうした無知な人じゃない?「その日暮らしのいい加減な生き方をする」「怠惰に祝福あり」っていうサタンの哲学が生きる原則だった。日々現状に満足し、切り抜けるだけで、肉の安楽を求めた。真理を求めず性質の変化に集中しないまま、長年神を信じ、本分が神の旨に沿ってるかどうかも気にしなかった。神の旨より肉の快楽のほうが大事だから、本分で苦労や代価が必要になるたび、ごまかして策に頼り、本分で成果を上げられず、教会の働きを遅らせた。それなのに、後悔も自責の念も感じなかった。安楽に貪欲なせいで堕落し、向上心も分別もなかったの。いのちを無駄にしてない? 動物とどこが違う? こうしたサタンの害毒は、人を堕落させるためにサタンが使う誤謬だとわかった。そのせいで安楽を追い求め、向上せず、堕落してしまい、最後は無知の中で死ぬ。本分を失ったのは自業自得。あまりに怠惰だったから。いい加減な性格で、人の信頼に値しない。だからみんなに憎まれ、神に嫌悪された。以前は、要求が高くて仕事が多い本分を、苦しみと思っていた。でも私の本分に苦しみなんかなかった。明らかに本性が怠惰で利己的で、肉のことを気にしすぎてたの。本分で困難が生じたら、苦しんで代価を払う必要があるけど、それはどれも耐えられる。耐えられない重荷を神が与えることはないから。そうした困難を通じ、堕落した性質と欠点が暴かれ、おかげで自分を知り、真理を求めて問題を解決し、いのちの性質を変えられた。同時に、困難を前に神にすがり、誠実な信仰を持つことを学ぶことができた。過去、私は無知で、盲目で、神の旨がわからなかった。真理を得て神に完全にされる機会を何度も失い、この素晴らしい時を無駄に過ごした。肉の安楽を得て、苦しみも、代価を払いもしなかったけど、真理は一切なく、堕落した性質も解決しなかった。本分で善行を積まず、教会の働きを遅らせ、神に嫌悪された。こんないい加減な生き方を続けていたら、最後は神の救いを完全に失う。そのとき、自分に嫌気が差して、動物みたいな生き方が嫌になった。

ある日のデボーションで、御言葉の別の一節を読んだの。「今日の追求はひとえに将来の働きの基礎を築くためであり、それによってあなたは神によって用いられ、神への証しを行なえるようになる。それを自分の追求の目標とするなら、あなたは聖霊の臨在を得られるようになる。自分の追求に対して高い目標を設定すればするほど、あなたはより完全にされることができる。あなたが真理を追求すればするほど、聖霊は働きを行なう。自分の追求に活力を注げば注ぐほど、あなたはより多くのものを得る。聖霊はその人の内なる状態に応じて人を完全にする。中には、自分は神に用いられることや完全にされることを望まず、自分の肉が安全で、いかなる不幸にも苦しまなければそれでいい、と言う人がいる。また、神の国に入ることを望まず、底なしの穴に降りることを望む人もいる。その場合、神もあなたの望みを叶えるだろう。あなたの追い求めることが何であれ、神はそれを実現させるのだ。では、あなたは現在何を追い求めているのか。それは完全にされることか。あなたの現在の行動や振る舞いは、神によって完全にされ、神に得られるためなのか。あなたは日常生活の中で、絶えず自分をこのように評価しなければならない。ただ一つの目標の追求に自分の心を残らず捧げれば、神は確実にあなたを完全にする。それが聖霊の道である。聖霊が人々を導く道は、その人たちの追求によって獲得される。あなたが神によって完全にされ、神に得られることを渇望すればするほど、聖霊はあなたの中で働きを行なう。求めなければ求めないほど、あなたは否定的になって退歩し、聖霊から働きを行なう機会を奪う。そして時間が経つにつれ、聖霊はあなたを捨てる。あなたは神によって完全にされることを望んでいるのか。神に得られることを望んでいるのか。神に用いられることを望んでいるのか。あなたがたは、神によって完全にされること、神に得られること、そして神に用いられることのために、すべてを行なうことを追い求めるべきである。それによって宇宙の万物は、あなたがたの中に神の業が現われるのを見ることができる。あなたがたは万物の主人であり、存在するすべてのものの中で、神が自分を通じて証しと栄光を享受できるようにする。そのことは、あなたがたがあらゆる時代の人の中で最も祝福されていることを証明している(『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、またより多くの真理を得るために、さらに多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたのなすべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、自分の一生の尊厳や人格を失ってはならない。あなたは、美しく素晴らしいすべてのこと、またいっそう有意義な人生の道を追求すべきである。このような俗悪な生活を送り、何の目的も追い求めないのであれば、あなたは人生を無駄にしているのではないか。そのような人生から何が得られるのか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、わずかばかりの享楽のためにすべての真理を投げ捨ててはならない。このような人には品位も尊厳もなく、その存在には何の意味もない(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉からわかった。本分で真理を得るには、肉を裏切り真理を実践する必要がある。すると最後に、神に完全にしていただける。これが一番有意義で、価値ある生き方。束の間の肉の安楽のために真理を捨てたら、尊厳がないまま生き、聖霊の働きを失い、最後は神に淘汰され、救いの機会を失う。それに、肉の安楽に貪欲という問題を解決するには、真理を追い求める心を持ち、何かあれば反省して、本分への努力に集中し、困難に見舞われたときは、肉を拒んで自分を捨て、教会の働きを守れる必要がある。これで聖霊の導きと働きを得られる。それがわかって、心が明るくなった。肉を捨て、本分に全力を尽くすと誓ったわ。

その後はよりよく伝道する方法を意識的に考えた。原則がわからなければ兄弟姉妹と一緒に求め、みんなと学ぶ時間をもうけた。やがて、福音伝道でしなければならない仕事が増えたけど、もう面倒だとは思わなかった。むしろ自分が果たすべき責任と思うようになったの。毎日忙しかったけど、心は充実してた。

ある日突然、指導者が来て、動画制作に戻ってほしいと言うの。それを聞いて、心の中で興奮した。過去に肉を気遣い、本分でごまかしてたことを思い出して、神に大きな借りを感じた。過去の過ちは償えないから、本分で神の愛に報いるしかない。その後、本分で困難に遭うと、意識して神に祈り、解決方法を考えた。あるとき、プロジェクトの一つがうまくいってなくて、チームリーダーも責任者も対処できずにいた。私も困難に見舞われ、修正できずにいたの。思ったわ。「このまま修正に時間を費やし、努力しても、解決できるかどうかわからない。他の誰かに任せるべきかも」。困難を避けようとしていることに気づいた瞬間、すぐ神に祈った。そして御言葉を思い出したの。「本分が目の前にあってそれを託されたときは、困難をどう避けるかを考えてはいけません。困難なことがあっても、それを脇にのけて無視してはいけません。それに真正面から向き合わなければなりません。神が人と共にあること、困難を抱えるたび、祈って神から答えを求めるだけでよいこと、神にとって難しいことなど何一つないことをいついかなる時も忘れてはいけません。あなたはこのように信じなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は実践の道を示した。本分でどんな問題や困難に遭っても、神にすがって道を求め、解決すべき。肉の苦しみのせいで困難を避けたり、本分からひるんだりしてはだめ。それは神への裏切りで忠実じゃない。それに気づいて、決意した。今度こそ神にすがって肉を捨て、解決に力を入れよう。そこで心を落ち着け、何度も見直し、やっと必要な修正をしたの。みんなも見終わったあと、出来がいいからと意見はなかった。そう実践すると、心は穏やかで落ち着いた。本分で代価を払うのは、まさに神の祝福なの。神に感謝!

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