本分を通して変化する
去年、グループリーダーに選ばれて、グラフィックデザインの仕事を任されたの。最初は原則も詳細も全然知らなかったから懸命に勉強したし、わからないことがあれば兄弟姉妹に助けを求めた。しばらくすると、原則が多少わかるようになって、本分で成果が上がったの。それで現状に満足して、こうしてればいいと思った。それからは、進んで勉強して仕事のスキルを磨くこともなくなった。そのとき、教会の指導者たちが画像に磨きをかけようと、もっと学んで独創性を上げるよう提案したの。私はそうしますと言ったけど、心の中でこう思った。「独創性を上げるなんて大変よ。それに今の画像で成果も出てる。どうしてこれ以上独創的にしなきゃいけないの?」それで真剣に考えなかった。そんなある日、パートナーから、画像作成の新しい方法を見つけたって言われたの。出来がさらによくなると言って、学習するよう私に勧めるのよ。私は思った。「確かに出来はいいけど、私はこの技術を知らない。学ぶとしても、時間がかかって大変だわ。今の技術で作業すれば、時間と労力を節約できるし、成果だって上げられる。どうして新しい方法を学ばなきゃいけないの? 今のままで十分よ」。それで、これまでの方法を変えず、画像を一歩ずつ作り続けたの。そしてグループ作業のあと、手間を減らす方法を考え始めた。最初、グループの責任者は私だけだったから、プレッシャーが強かったけど、その後ハン姉妹がパートナーになって、とてもうれしかった。それでこう思った。「ハン姉妹は誠実に本分を尽くしているし、喜んで代価を支払ってる。今後はもっと多くの作業を任せられるわ。そうすれば私のストレスも軽くなるし、心配だって減る」。やがてハン姉妹の仕事がとても増えて、仕事がきつくて時間もないとこぼすようになった。でも私は反省せず、彼女が成長するチャンスだと言い訳して、もっと仕事を押しつけた。そのうち罪悪感が芽生えてきて、プレッシャーをかけすぎ、ひどいことをしたかもと感じだしたわ。でも大変な思いをするのは嫌だから、そうし続けた。
しかも、学習して独創性を高めようとせず、仕事をハン姉妹に押しつけ、自分は楽をした。時間が空けば好きなことをしてたの。そのころは美的感覚を磨くためと言って、世俗の短編映画をよく見てた。次から次へと。集会で神の御言葉を読んでるときも、映画のシーンが絶えず頭に浮かんで、落ち着いて御言葉に集中できなかった。そのうち、肉体の享楽とか、美味しいごちそうの作り方なんかにのめりこんで、いつもネットでニュース動画を見るようになった。動画を観すぎて、本分をおろそかにしてるって言われるんじゃないかと思ったわ。だから誰かが通りかかるとびくびくして、すぐに動画を閉じて作業画面を開き、仕事してる振りをした。そうしていると、本分の負担がますます少なくなって、作業を振り返るときも決まった通りにするだけ。困難も問題もありませんでしたと兄弟姉妹が言えば、それでよかった。問題があって必死に解決策を見つけるなんてまっぴらごめん。それで思ったの。「みんなが本分で抱えてる問題を解決するなんて、時間と労力がどれだけかかるだろう? 解決はみんなに任せよう。技術に詳しい兄弟姉妹に訊きなさいって言えばそれでいいわ」。作業を振り返ることも少なくなって、半月に一度しか尋ねないようになった。でも、本当は自責の念を感じてたの。心と思いと力を注いで本分を尽くすよう、神は求めてらっしゃる。でも私は、いつもこんな風に本分を避け、手間を省いて肉の欲求を満たそうとした。それじゃ神の御旨にそぐわない。でも考えてみれば、私は画像製作を遅らせてない。本分には何も問題がなく、全部順調に進んでる。だから大した問題じゃないと思った。段々、神の存在を感じられなくなって、祈っても感動せず、御言葉を読んでも啓きがなかった。画像製作でも霊感を得られないの。本分の成果もどんどん少なくなった。それに仕事を真剣に振り返らず、みんなが困難を抱えても気にしないし、真理を求めないから、誰もが本分を怠けるようになって、進歩しようとせず、現状で満足するようになった。本分も進まないし、仕事でもいい成果が上がらなかったわ。何か間違ってると感じてただけで、すこし混乱してた。誰かに注意されても、私は気にしなかった。
ある日、教会指導者が突然会いに来て、こう訊いたの。「あなたはかなり前から画像作成をしてるけど、どうして作業の効率が低くなってるの? 仕事ぶりがこんなに悪くなるなんて、とても信じられないわ!」そして、こう暴かれた。「あなたは実際の仕事をしない、役立たずのリーダー。あなたのせいでみんな怠けるようになり、本分の効率も質も悪くなった。このように本分をだらだら尽くすなんて、神を騙して神の家に害を与えてる。反省して悔い改めないと本分を失い、後悔しても手遅れよ」って。指導者の言葉を聞いてつらい気持ちになったけど、そんなに深刻だとは思わず、心から反省しなかった。その後もおざなりに仕事を振り返り、本分に関係ない動画を見るのを控えるだけだった。
ひとつき後、ずっとだらだら怠け、毎日漫然と過ごしていたせいで、私は解任された。他の姉妹2人も実際の仕事をしてないという理由で、本分を失ったわ。指導者は、私が本分に真剣でなく、ぐずぐず怠けるばかりで、神を騙す隠れた動機があると暴いた上で、仕事をきちんと振り返らず兄弟姉妹の問題を解決しないあなたは、みんなの振る舞いを大目に見ることで、神の家を傷つけてると言った。指導者に自分の振る舞いを暴かれ、驚いたわ。目も当てられないほど本分の尽くし方がひどかったのに、全然それに気づかず、何もかも順調だと思い込んでた。どうしてそんなに麻痺してたの? 当時、何度もこう思ったわ。「自分が何をしているのか、私は完全にわかってた。本分に忠実でなければならないのに、あんな風にぐずぐずして、ずるい振る舞いをしたのはなぜ? いったい私は何者なの?」苦痛と混乱の中、私は神の御前に出て祈り、自己認識できるよう導きを求めたわ。
やがてある日、御言葉の一節を読んだの。「ノアはほんのいくつかの伝言を聞きましたが、そのとき神はまだ多くの言葉を表わしていなかったので、ノアが多くの真理を理解していなかったことに疑問の余地はありません。現代科学や現代的な知識を理解していたわけでもありません。ノアは普通過ぎるほど普通の人で、人類の目立たない一員でした。けれどある点においては、他の誰とも違っていました。ノアは神の言葉に耳を傾けることを知っており、神の言葉にどう従うべきか、神の言葉をどう守るべきか、人間の立場はどういうものかを知っており、神の言葉を真に信じ、それに真に従うことができたのです。それだけです。こうした数少ない単純な信条は、ノアが神から託されたことをすべて成し遂げるには十分でした。しかも、数ヵ月、数年、数十年どころか、一世紀以上もこのようであり続けたのです。驚くべき年数ではないでしょうか。(はい。)ノア以外の誰にこのようなことができたでしょうか。(誰にもできません。)それはなぜですか。真理を理解していないからだと言う人がいます。けれど、それでは事実と一致していません。ノアは真理をいくつ理解していましたか。ノアが達成したことをすべてを成し遂げられたのはなぜでしょうか。今日の信者は神の言葉を多数読み、多少の真理を理解していますが、それではなぜ同じようにできないのですか。それは人間の堕落した性質のせいだと言う人もいます。では、ノアには堕落した性質がなかったのですか。ノアにはできたのに、今日の人にはできないのはなぜでしょうか。(今日の人は神の言葉を信じておらず、神の言葉を真理として扱うことも従うこともないからです。)では、神の言葉を真理として扱えないのはなぜですか。神の言葉に従えないのはなぜですか。(神への畏れがないからです。)では、人が真理を理解せず、真理を多く聞いたことがない状態で、神への畏れがどうして生まれますか。人の人間性においては、あらゆるものの中で最も貴重な二つのものがなくてはなりません。一つは良心であり、もう一つは正常な人間性の理知です。良心と正常な人間性の理知を有していることは、人間であるための最低限の基準です。つまり、人間を測る最も基本的な最低限の基準なのです。しかし今日の人にはこれがないので、どれほど多くの真理を聞いて理解していても、神への畏れに達することができません。では、ノアと比べると、今日の人の本質はどのように違っているますか。(今日の人には人間性がありません。)では、人間性がないことの本質は何ですか。(獣であり悪魔です。)『獣であり悪魔』というのはあまりいい響きではありませんが、事実と一致しています。もっと丁寧な言い方をするなら、彼らには人間性がないのです。人間性と理知がない人は人ではなく、獣より劣ります。ノアが神の委託を成し遂げられたのは、神の言葉を聞いてそれを記憶に刻むことができたからです。ノアにとって、神からの委託は生涯にわたる事業であり、ノアの信仰は揺るがず、その意志は百年間変わりませんでした。神がノアに方舟の建造を託したのは、ノアには神を畏れる心があり、真の人間であり、最高の理知を有していたからです。ノアと同じくらい理知を有する人は極めて希で、そのような人をもう一人見つけるのは非常に困難です」(『反キリストを暴く』より)。御言葉を読んでてつらくなった。本分に忠実でないわたしを、神が面と向かって責めてるみたい。わたしが真面目に本分を尽くさなかったのは、素質が乏しく真理の理解が浅かったからじゃなく、本分への取り組み方を知らないせいでもなかった。良心も理知も人間性もなく、畏敬の念を持って神の委託に取り組まなかったから。ノアは神の言葉も真理もほとんど知らなかったけど、神の委託に取り組むときは真剣で、一切気を緩めなかった。どんな細かいことも記憶に留め、努力して素晴らしい成果を上げたの。ノアは神の御旨に配慮してた。120年も辛抱して、自分の忠誠と服従を神に証ししたのよ。わたしはどう? 神の御言葉をたくさん読み、真理や奥義も多数見て、過去の人よりずっと多くのものを得たけれど、真面目に本分を尽くそうとせず、ただ怠けてた。どうすれば成果を上げてよりよく神の証しできるかわかってたのに、面倒だと感じてそれを避け、パートナーに仕事をたくさん押しつけた。兄弟姉妹が困難を抱えても、自分は楽をしようとした。頑張って解決する気なんかなく、仕事の進捗を確かめるときも、決まったとおりにするだけ。本分に心を全然捧げてなかった。結局兄弟姉妹たちも、だらだらのんびり本分を尽くすようになってしまった。本分のためだと言って世俗の動画を観たけど、本分なんかどうでもよくて、食べ物や肉体の享楽のことにばかり気を取られてた。そして、ばれたらどうしようと思って隠しだてし、正直に行動しなかった。そんなことをしているとき、本当は良心の咎めを感じ、神の御旨にそぐわないとわかってたけど、やり方を改めようとはしなかった。良心と理知のひどさがわかったわ。ノアとも、誠実に本分を尽くす兄弟姉妹とも比べものにならない。こんな風に本分を尽くすのは、神を欺き、騙してるのと同じ。わたしには人間性も、神への忠誠もまったくなかった。神の委託にふさわしくない。解任されたのは、神の義なる性質がわたしに降りかかったの。一線を越えてしまったから。
当時はこの問題をよく考えてた。良心も理知もないのはなぜなんだろうって。そんなある日、『サタンによって堕落させられた人間の実状』っていう御言葉の賛美歌を耳にしたの。
1. 長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。
2. 考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす。
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より
御言葉をじっくり考えてわかった。本分をたびたび怠けて神を騙そうとしてたのは、サタンの哲学で生きてたから。「酒に対して当に歌うべし、人生幾何ぞ」や「今日の酒は今日中に飲め」「その日の快楽をのがすな。人生は短いからだ」なんかの。こうしたたわごとのせいで、心が歪んで堕落したの。楽しく楽な人生を送ることが賢い選択だと思ってた。人生は短いんだから、どうして苦労しなきゃいけないの? そんなの馬鹿げてる。人は自分に優しく、自分を甘やかし、できるだけ楽しむべき。こんな考えに支配されたわたしは、何事も知恵を働かせ、手間を省くようになった。ますますずる賢くなったの。学生の時アルバイトをしてたんだけど、簡単な仕事だった。監督者がいなくなると、よく休憩室でさぼってたし、楽をしてもばれない方法を考えてた。ルームメートにばれて、怠け者過ぎると言われたこともあったわ。将来正社員になっても、きっと面倒ごとから逃げるって。それを聞いて恥ずかしくなったけど、こう思ったの。「いいわ、何とでも言いなさいよ。頑張りすぎるなんて馬鹿じゃない?『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』って言うでしょ? 自分のために生きてない人なんている? 自分のことを考えないなんて間抜けじゃない?」神を信じ始めてからも、真理の探求に専念せず、堕落した性質を解決しようともしなかった。こうしたサタンの人生哲学で生き続け、肉体の安楽や快楽しか考えない。だから本分でも手間を省こうとするばかりで、肉の苦しみを避けるためなら何でもした。サタンの哲学で生きてたわたしはいつも本分で手を抜き、全力を傾けず、真剣に代価を払うこともなかった。絶えず知恵を働かせ、人を騙そうとしたの。指導者に暴かれ、取り扱われても、目を覚まさなかった。心が麻痺して、サタンの哲学にすっかり操られてたわ。本分を尽くしながら進歩するなんて考えもせず、しっかり振り返ることもなかった。それで兄弟姉妹も本分をきちんと尽くさず、進歩しなくなり、しかも二人の姉妹を巻き添えにしてしまった。そんな風に本分を尽くして、他の人たちも傷つけたの。わたしはサタンの哲学で堕落し、人間として大事なものを失った。利己的でずる賢く、人を騙す怠け者になってしまい、哀れで恥ずべき状態で生きてた。それに気づいて、心の中で祈ったの。「神よ! こんな風に生きるのはもう嫌です。自分のサタン的性質の束縛からどうかお救いください」。
その後、御言葉を読んでいると実践の道が見つかったの。神は言われます。「神が人に対して行なうように求めるすべてのこと、そして神の家における様々な働きはどれも、それを行なう人を必要としており、すべて人の本分として数えられます。人がどのような働きを行なうのであれ、それが、その人が尽くすべき本分です。本分は非常に広い範囲にわたっており、多数の領域におよびます。しかしあなたがどのような本分を尽くすのであれ、それがあなたの義務であり、なすべきことです。あなたがどのような本分を尽くすのであれ、立派に成し遂げようと努力する限り、神はあなたを讃え、心から神を信じる人として認めます。あなたが誰であれ、いつも本分を避けようとしたり、本分から隠れようとしたりするなら、それは問題です。穏やかな言い方をすれば、あなたはあまりに怠惰で、あまりに不実で、怠けていて、享楽を愛し労働を嫌っています。厳しい言い方をすれば、あなたは進んで本分を尽くそうとしておらず、も従順さもありません。このささやかな作業にさえ努力を注げないのなら、あなたに何ができますか。あなたは何を正しく行なえますか。本分に対して真に献身的で責任感がある人なら、神から要求される限り、また神の家が必要とする限り、選り好みすることなく、求められたことを何でも行ないます。自分にできること、自分がなすべきことを何でも引き受け、成し遂げることは、本分を尽くすことにかかわる原則の一つではありませんか。(そうです。)肉体労働をしている人の中にはこれに賛成せず、こう言う人がいます。『あなたがたは一日中ずっと自分の部屋で本分を尽くし、風や日光から守られている。苦しむことなんて何もないし、わたしたちよりもずっと快適だ。わたしたちの立場に身を置いてみなさい。風雨の中、屋外で数時間働いてもあなたがたに耐えられるかどうか確かめようじゃないか』。実のところ、どの本分にも苦しみが伴います。肉体労働には肉体の苦しみが、精神的な労働には精神の苦しみがあり、それぞれに違いがあるのです。何事も言うは易く行うは難し、です。人が実際に行動する際、一面ではその人柄に目を向けなければならず、別の面では、その人が真理を愛しているかどうかを見なければなりません。まず人の人柄について話をしましょう。ある人が優れた人柄の持ち主であれば、何事でも肯定的な面を見て、前向きの観点から、そして真理にもとづいて、そうしたことを受け入れ、理解することができます。つまり、心と性格と精神は正しく、これは性格の観点から見てのことです。次にもう一つの側面について話しましょう。つまり、真理を愛しているかどうかです。真理を愛するとは、真理を受け入れられることを指しますが、要するに、神の言葉を理解しているかどうか、神の旨を認識しているかどうかにかかわらず、また自分の職務や自分が尽くすべき本分に関する見方、意見、観点が真理と一致しているかどうかにかかわらず、それでも神から真理を受け入れることができ、従順で誠実ならば、それで十分であり、それであなたには本分を尽くす資格があることになり、これが最低限の必要条件です。従順で誠実なら、作業を行なうときに軽率だったりおざなりだったりすることはなく、怠ける方法を見つけようとすることもなく、全身全霊を作業に捧げます。内なる状態が正しくないと消極性が生まれ、そのせいで人は原動力を失い、不注意でぞんざいになってしまいます。自分の状態が正しくないことを心の中で十分知りつつ、真理を求めることでそれを修正しようとしないなら、そうした人には真理への愛がなく、本分を尽くす意思がわずかにあるだけで、努力したり、苦しみに耐えたりするための努力をいやがり、いつも怠ける方法を見つけようとします。実は、神はこのようなことをすべてすでに見ています。では、神がそうした人たちに注意を払わないのはなぜですか。神はその選民が目覚めて、ありのままの自分の正体を確認し、自らを暴いて捨て去るのを待っています。しかし、そのような人は依然としてこう考えます。『わたしの賢さを見るがいい。同じものを食べているが、働きのあと、他の人たちは完全に疲れ切っているのに、わたしは全然疲れていない。賢いのはわたしのほうで、本物の働きをする人は愚か者だ』。彼らが正直な人たちをこのように見ているのは正しいことですか。正しいことではありません。事実を言えば、本分を尽くす際に実際の働きをしている人は、真理を実践して神を満足させているのであり、ゆえに彼らこそが最も賢いのです。なぜ賢いのですか。彼らはこう言います。『わたしは、神から求められないことは一切せず、神から求められることはすべて行なう。神がお求めになることは何でもするし、それに自分の心、捧げられるすべてのものを捧げる。ごまかしは一切しない。わたしはこれを人のためでなく、神のためにしている。神はわたしをこんなにも愛しているのだから、わたしはこれを行なって神に満足してもらわなければならない』。これが正しい精神状態であり、その結果、教会が清められるときが来ると、本分を尽くす際にいい加減な人は追放され、誠実で、神の吟味を受け入れる人は残ります。こうした誠実な人たちの状態はますます力強くなり、何が降りかかろうとも神に守られています。では、彼らはこの加護をなぜ得られるのでしょうか。心の中で正直だからです。彼らは本分を尽くすときに困難や疲労を恐れず、託されたことについて選り好みをしません。理由を訊かずただ言われたとおりにし、検証することも分析することもなく、また他の何かを考慮することもなく、それに従います。隠れた計画を抱いておらず、万事において従順になれます。彼らの内なる状態は常に極めて正常で、危機に直面すると神は彼らを守ります。病気や疫病に見舞われても、神はやはり彼らを守ります。彼らは大いに祝福されているのです」(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは真理を忌み嫌い、公然と原則に反し、神の家の采配を無視する(4)」)。御言葉をじっくり考え、やっとわかった。わたしたちは地に足をつけて、誠実に本分を尽くすべき。個人の損得を考えたり、策略を巡らせたりしてはだめ。問題が起きたらすぐに解決し、本分に全力を注ぐ。そうして初めて、神の前で誠実な人になり、神の加護と祝福を得られるのよ。わたしは利己的な上に卑劣で、肉体のことばかり考え、本分に力を注がず、画像作成で成果を上げられなかった。罪の意識を感じたわ。その後も空いた時間に画像を作って、意識的に変わろうとした。新技術を学んで人に尋ね、新しい方法を見つけようとしたわ。困難に遭うと神に祈り、みんなの意見を基に何度も修正した。新しい画像を思いつくたび、あらゆる角度から検討して、画期的なものにする別の方法はないかと考えた。しばらくこのように本分を尽くしていると、神の祝福が見えたの。作図のコンセプトとテクニックで飛躍を遂げたし、兄弟姉妹も以前の画像より素晴らしいと言ってくれた。本分を尽くす原動力が見つかって、兄弟姉妹にも刺激を与えられたわ。みんなも独創性を求めるようになり、飛躍を遂げて改善したの。
心を捧げて懸命に頑張ってると、しっかり本分を尽くしてる感じがした。祈りのときもきちんと神に話せるし、問題もわかり始めて、仕事で成長を遂げられた。それに本分に全力を注いでいると、疲れをまったく感じなかった。時にはもっと考える必要もあったけど、充実感と喜びを覚えた。神は人に無理を押しつけないし、どんなことでも頑張れば成し遂げられる。心から神に感謝したわ。その後、兄弟姉妹と以前の本分を尽くすことになったの。本当にありがたかったけど、自分にはもったいない気がして、神にこう祈った。「神よ! こんな人間性のわたしは、本分を尽くし、あなたに称揚していただくのにふさわしくありません。ただ、全力でこの本分に取り組みたいと思います。以前のようにあなたの委託に取り組んだときは、どうかわたしを罰し、懲らしめてください。心から悔い改め、忠実に本分を尽くして、あなたの愛に報いられるように」。
そんなとき、指導者の采配で、他の兄弟姉妹3人と一緒に新しいエフェクトを作ることになったの。時間と精力をものすごく使うプロセスで、そのころは画像の需要も多かったから、本分を尽くしてると本当に疲れた。特に、やるべきことがたまって処理に追われると、頭が割れそうだった。そんなとき、画像の完成が間に合わなくて、遅い理由をパートナーに訊かれたの。それを聞いて腹が立ち、こう思ったわ。「みんなは画像作成に集中できる。でもわたしは新しい技術とエフェクトを勉強しなきゃならないの。時間もかかるし本当に大変。それに、少ない画像しか作れなかったら、兄弟姉妹にどう思われる? 指導者に相談しなきゃ。新しいエフェクトをこんなに覚えるなんて無理だから、別の誰かに任せてください、って」。こんな風に考えてるうち、また肉体のことに気を取られてると気づいた。そこで関連する神の御言葉を意識的に飲み食いしたの。全能神は言われます。「神は誠実な人を好み、不誠実な人を嫌います。誰もがこのことをはっきり理解し、混乱して馬鹿げたことをするのを止めなければなりません。束の間の無知は無理もないことですが、真理をまったく受け入れようとしないのは、頑なに変化を拒むことです。誠実な人は責任を引き受けることができます。自分の損得を考えるのではなく、神の家の働きと利益を守ります。このような人には親切で誠実な心があり、それはあたかも透明な水が入った鉢のようで、一目で底を見ることができます。このような人は行動においても透明です。不実な人は絶えず策略を働かせ、物事を偽り、悪事を覆い、自分をすっかりつつみ隠すので、誰も彼らを見抜けません。人はあなたの奥底の思いを見抜けませんが、神はあなたの心の一番深いところにある物事を見抜けます。神があなたのことを誠実ではなく、狡猾で、真理を決して受け入れず、いつも神を騙そうとしており、心を神に差し出さない人であると判断すれば、あなたを愛することはなく、あなたを憎んで見捨てます。非信者たちのあいだで成功している人たち、つまり弁が立って頭が切れる人たちは、どのような種類の人間ですか。あなたがたはこのことがわかりますか。彼らの本質は何ですか。彼らはみな並外れて抜け目がなく、極度に狡猾で信用できず、本物の悪魔サタンだと言うことができます。神は果たしてこのような人を救うでしょうか。神は悪魔、すなわち狡猾で卑劣な人をこの上なく憎みます。神がこのような人を救うことは絶対にありません。ですから、何をするにしても、あなたがたはこのような人になってはいけません。抜け目がなく、あらゆる方向から考え抜いて発言し、どちらに風が吹くのかを見て、物事を巧みに扱うこのような人――言っておきますが、神はこのような人を最も嫌悪します。このような人が贖われることは決してありません。……神を信じていても、その間ずっと真理を追い求めていなければ、何年信者であっても意味はなく、最後は何も得られません。神を得たいと願うのであれば、真理を得なければなりません。真理を理解し、真理を実践し、真理の現実に入ることでのみ、真理を得て神に救われることができるのです。そして、そのとき初めて神の承認と祝福を得られます。これだけが神を得るということなのです」(『偽指導者を識別する』より)。御言葉を読み終え、自分の見方がいまだ間違ってることに気づいた。それまでは抜け目のない人を尊敬してて、何をしても面目を失わず、近道するのが上手いと思ってた。そんな人が賢く、頭がいいんだ、って。だからわたしもそうなろうとした。でも御言葉を読んで気づいたの。神から見れば、狡猾さも賢さもない。彼らは目的を果たすために、ありとあらゆる卑劣な手段を使う。そんな人は何を考えてるのかわからず、本性は悪魔。神が好まれるのは純朴で正直な人や、心に企みがない人。それに、ずる賢い動機がなく、神からの委託を引き受け、地に足を付けて心を捧げられる人。神は私たちの心と思いを吟味し、私たちの実質に応じた扱いをなさる。不実な人には嫌悪の態度をおとりになるわ。真理の理解で啓くことはないし、最後に淘汰なさる。でも、誠実な人は神に啓かれ、祝福されるの。そして、自分のことを考えた。本分では、代価を払って肉の苦しみに耐えるべきときに、疲れるのが嫌で本分を避けようとした。本当に利己的で不実だし、狡猾さが現われてる。本分を避けてたら、神に嫌われ、聖霊の働きを受けられなかったはず。そんな状況では、真理なんて絶対得られない。そのとき、突然気づいたの。この本分は神による試験。わたしが進歩し、本分への責任感があるかどうか、本分と快楽の間で正しい選択ができるかどうかを確かめるための。利益を守るために本分を避ければ、この試験で証しを失ってた。そして振り返った。肉体は多少苦しんでも、心は充実してる。本分での心配や困難は増えたけど、神の近くにいて、真理と原則を求められた。日々本分の中で何かを得て、本当に有意義だと感じたわ。それまでは肉体の享楽をむさぼり、疲れることはなかったけど、喜びを感じられず、聖霊も離れてしまった。その苦痛は肉体の苦しみよりもつらかった。もう策略や嘘に頼るわけにはいかない。その後、手元の仕事を見直し、実際に困難があると責任者の姉妹に助けを求め、自分もできる限り努力して、全力ですべきことをした。そうしてると気が楽になったわ。
でも、神が折に触れて環境を整え、わたしを清めて変え、肉体の享楽をむさぼる動物のような暮らしから解放し、恥を教えてくださった。そして着実に本分を尽くし、人間らしく生きられるようにしてくださったの。まさにわたしに対する神の救いだわ。神に感謝!
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