無闇に安楽を求めても何一つ得られない

2022年12月9日

去年の7月、動画作業を担当することになったの。最初はみんなの作業の進み具合を頻繁に確かめ、本分での問題点や困難を突き止め、チームリーダーと一緒に真理と解決策を求めた。神の導きの下、しばらくすると成果が明らかに改善して、私は思った。「いま作業は順調に改善してるし、大きな問題もないはず。問題が起きても成果に影響しないし、じっくり解決すればいい。みんな本分に積極的で代価を払えるから、心配する必要はないわ。最近、作業の確認でよく残業になるし、食事をとれないこともある。体調も万全じゃないし、少し気楽に取り組まないと」って。その後は作業で手を抜くようになり、真剣に確認しなかった。時にはおざなりに質問するだけで、みんなの本分の詳細に目を向けず、成果をさらに改善する方法を考えなかった。

ほどなく、製作した動画のいくつかに問題があり、やり直しを余儀なくされて、進展に直接影響したの。この状況を見て不安になった。それに、これは偶然じゃなく、学ぶべき教訓があると気づいたから、神に祈り、御旨を理解できるよう導きを求めたの。祈った後、問題が起きてる原因を指導者に訊いたら、こんな答えが返ってきた。「成果を急いで原則を持たずに本分を尽くす兄弟姉妹がいる。進捗ばかり気にして質は考えない。もう一つ、私が作業を確認せず、問題をすぐに見つけられなかったから」。それを聞いて腹が立った。「問題を何度も報告したのに、どうしてまだ続いているの?」って。チームリーダーに文句を言おうとしたけど、こう考えた。「わたしも確認しなかったし、チームリーダーと同じ問題があるんじゃない?」だから口をつぐんだわ。そしてすぐ、最近製作した動画をチェックしたの。すると本分で進歩せず、中には後退してる人もいた。問題は明らかなのに、わたしは見つけられなかった。これは実際の働きをしてないせいだってはっきり気づいた。後悔して神に祈り、反省して自己認識する導きを求めたんだけど。

次の日のデボーションで、御言葉の一節を読んだの。「神の言葉を細心の注意を払って読まず、真理を理解しないなら、自己反省することはできません。ただうわべだけの努力をし、過ちを犯さないことで満足して、それを元手として使います。漫然と日々を過ごし、混乱した状態の中で生き、予定通りに物事をこなすだけで、熱心に打ち込まず、心を込めることも決してなく、いつもおざなりでいい加減です。このようであれば、まずまずの基準に達するように本分を尽くすことはありません。何かに全力を尽くすには、まずそれに心を残らず注がなければならず、何かに心を残らず注いで初めて、それに余すところなく努力を傾け、最善を尽くすことができるのです。現在、細心の注意を払って本分を尽くし始めた人、被造物の本分を尽くして神の心を満足させるにはどうすればよいかを考え始めた人がいます。このような人は消極的でも怠惰でもなく、上層部が命令を出すのをじっと待つこともなく、自ら率先して動きます。あなたがたの本分の尽くし方から判断すれば、以前に比べて多少効果を上げており、いまだ基準を下回ってはいるものの、成長が少し見られます。これはいいことです。しかし、現状に満足してはならず、探求し、成長し続けなければなりません。そうして初めて本分の遂行を向上させ、合格基準に達します。しかし、本分を尽くすときに最大限の努力をすることも自分のすべてを捧げることもせず、五、六割の努力をするだけで、終わるまでただ何となく仕事をするだけの人がいます。このような人は正常な状態を維持することができません。監視や支援をしてくれる人がいないと、彼らは気が緩んでやる気をなくします。また真理について交わる人がいると元気になりますが、しばらく真理を説いてもらわないと無関心になってしまいます。このように絶えず一進一退しているときの問題は何ですか。真理を得ていない人とはこのような人で、みな情熱で生きています。それは維持するのがとてつもなく難しい情熱です。このような人は、毎日誰かに説教と交わりをしてもらわなければならず、潤して施す人や支えてくれる人が誰もいないと、再び心が冷め、気が緩んでしまいます。心が緩むと本分における効果が弱まります。もっと懸命に働くならば効果が増し、本分の遂行もますます生産的になって、得るものも増えます。これがあなたがたの経験ですか。あなたがたはこのように言うかもしれません。『本分を尽くすのになぜいつも苦労するのか。これらの問題が解決すれば元気が出るが、解決しないと無関心になる。本分を尽くして多少の成果があり、神に成長をほめてもらえると、とてもうれしくなり、わたしたちもようやく成長したと感じるが、しばらくすると困難に遭遇して、また消極的になってしまう。なぜこのように状態がいつも一貫していないのか』。実は、主な理由は、あなたがたの理解している真理が少なすぎ、経験と入りに深さがなく、いまだに多くの真理を理解しておらず、意志がなく、ただ本分を尽くせるだけで満足していることです。真理を理解していないで、どうして本分を十分に尽くすことができますか。実は、神が人に求めることはすべて人に達成可能です。あなたがたが良心を働かせ、本分を尽くすとき良心に従うことができるなら、真理を受け入れるのは簡単です。そして、真理を受け入れることができるなら、本分を十分に尽くすことができます。あなたがたはこのように考えなければなりません。『これまで何年間も神を信じ、神の言葉を飲み食いしてきて、わたしは多くを得たし、神も大きな恩寵と祝福をわたしに授けてくださった。わたしは神の手中で生きている。神の力の下、神の支配の下で生きており、この息をくださったのも神なのだから、わたしは自分の心を用いて全力で本分を尽くすよう努力すべきだ。これが鍵なのだ』。人には意志がなければなりません。意志のある人だけが真に真理のために努力でき、真理を理解して初めて本分を正しく尽くし、神を満足させ、サタンを辱めることができます。あなたにこのような誠実さがあり、自分のために企まず、ただ真理を得て本分を正しく尽くそうとするのなら、本分の遂行は正常になり、ずっと変わることがありません。どのような状況に置かれても、ひたすら本分を尽くせるようになるのです。誰が、あるいは何があなたを惑わしたり、妨げたりすることになろうとも、あなたの気分の良し悪しに関係なく、本分を正常に尽くすことができます。そうすると、神はあなたについて安心でき、聖霊は、真理の原則を理解することにおいてあなたを啓き、真理の現実に入るようにあなたを導くことができるので、結果としてあなたの本分の遂行が基準に達するのは確実です。神のために真摯に費やし、地に足をつけて本分を尽くし、いい加減に行動したり策を巡らせたりすることがないなら、あなたは神の基準に合格します。神は人の考え、思い、動機を観察しています。あなたの心が真理を切望し、あなたが真理を求めることができるなら、神はあなたを啓いて照らします(『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰で何より重要なのは、神の言葉を実践し、経験することである」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を考えたあと、自分は最近本分で成果を上げたから、満足して肉体を気にしだしたと気づいたの。長時間の作業で疲れたから、身体をいたわろうと思い、本分で手を抜き始めた。何事も人任せで、みんなの本分の尽くし方を確認するのを怠った。作業で未解決の問題があると知っていても、切迫感がなかった。今の成果に影響しなければ大丈夫と考え、結果として動画に多くの問題があり、やり直しを余儀なくされた。そのうえ、みんなに怠惰な本性があり、いつも本分で怠けてたのに、わたしは確認せず、だらだら本分を尽くした。責任感がまるでない。問題が生じるのも無理ないわ。教会がわたしを責任者に引き上げ、実践の機会をくれたのは、本分にじっくり取り組み、責任感と良心を持たせたかったから。どんな状況でも、本分で手を抜かず、責任を果たすべきなの。それが進歩を遂げる唯一の道。でもわたしは本分を仕事のように扱い、他人のために働いてた。心配や用心は少なくなるばかりで、やがて不安も焦りもなくなった。よりよいやり方や最高の成果の上げ方を考えず、肉体の苦痛と疲れを軽くすることばかり考えた。神の御旨に配慮してなかったの。そのとき気づいたわ。本分への態度が間違っているって。神に心を見せず、小賢しく振る舞ってた。

集会で偽指導者を暴く御言葉の一節を目にして、強く動かされたわ。神の御言葉にこうあります。「偽指導者は働きの進行状態を理解していないので、働きにおいて生じた問題をすぐに突き止めることができず、ましてや解決するなど不可能なので、そのため遅れが繰り返し起こることがよくあります。ある種の働きにおいては、人が原則を把握しておらず、また働きの統括に適した人がいないため、働きを遂行する人が消極的かつ受け身で、ただ待つだけの状態に陥ることがよくあり、これは働きの進展に重大な影響を及ぼします。指導者がその責任を果たしていれば、つまり責任を負って働きを推し進め、働き手を急がせ、関係する働きを理解している人を見つけて指導させていれば、働きは繰り返し遅れることなく、より迅速に進展していたでしょう。ゆえに指導者にとっては、働きの実情を理解し、把握することが不可欠です。当然、働きがどのように進展しているのかを指導者が理解し、把握することは大いに必要です。進展は働きの効率と、働きが成し遂げることになっている成果に関係しているからです。指導者が働きの進展すら把握しておらず、それを確かめることも監視することもないのであれば、本分を尽くしている人の大半は消極的な受け身の態度をとり、ひどく無気力になり、負担の自覚がなく、軽率かつおざなりになるため、働きの進展は必ずや緩慢になります。負担を自覚し、働きに精通していて、指導と監督を行い、さらに人を鍛えて取り扱うことのできる人が誰もいなければ、働きの効率と効果は当然、極めて低くなります。これすらもわからない指導者と働き手は、愚かで盲目です。そのため指導者と働き手が素早く働きの進展についてさらに調べ、絶えず確認し、精通することが極めて重要です。人は怠惰なので、働きの最新の進展を理解している指導者と働き手が指導、督促、確認しなければ、ぐずぐず怠けておざなりになりがちです。自分の働きに対してこうした態度をとっているなら、この働きの進展だけでなく、効果にも深刻な影響が及びます。このような状況では、ふさわしい指導者と働き手が働きの各項目をただちに追跡し、担当者と働きに関する状況を常に把握しているべきです。偽指導者のようであっては絶対にいけません。偽指導者は働きにおいて軽率かついい加減で、責任感がまったくなく、問題が生じても解決しません。またどのような働きであっても、絶えず『疾走する馬の背から花を愛でる』という態度を取ります。彼らは軽率でおざなりで、言うことはすべて仰々しく空虚で、教義をまくしたて、型通りの動作を繰り返すのです。一般的に、これが偽指導者の働き方です。反キリストと比較すると、偽指導者は明らかな悪は行なわず、わざと悪事を働くこともありませんが、効果の観点からは、軽率でおざなりで、負担の意識に欠け、働きへの責任感や忠誠心などまるでないと定義するのが適切です(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第4巻〕)。御言葉を読んで罪悪感を覚えた。わたしの振る舞いは偽指導者と同じじゃない? 怠けて肉体にふけったから、働きを追うことも見張ることもなく、働き全体の進捗と結果が影響を受けた。想像の中で、働きをこなし、問題は多くないと思ってたけど、実際には解決すべき問題が山ほどあった。重荷を背負わず無責任だったから、問題を見て見ぬ振りしたの。反省を通じて、自分の間違った見方にも気づいた。兄弟姉妹が積極的で、順調に本分を進めているのを見ると、みんなやる気があるから目を光らせる必要はないと考えた。人には惰性と、根深い堕落した性質があると、神ははるか昔に明かされてる。人は真理を得て性質が変わるまで、肉体にふけって安楽を求め、だらだらずる賢く本分を尽くし、自分の考えで行動して原則通りに実践しない。わたしも例外じゃない。神の裁きと刑罰、それにみんなの注意と監督がなければ、簡単に怠けてしまうし、本分で問題が起こりがち。だから働きを追って監督し、本分での問題や逸脱をすぐに見つけて解決し、働きをスムーズに進めないと。でもわたしの見方は馬鹿げてた。人の堕落した本性を理解せず、御言葉で人や物事を見ず、ただ自分の想像に頼り、働きを確かめず、問題をすぐ解決せず、いい結果を望んでた。これは実際の働きをしない偽指導者の表われ。明確に悪じゃないけれど、無責任さのせいで働きの効率が落ち、損失は取り戻せない。その後、みんなに自分の状態を打ち明け、交わったの。それにみんなが本分を軽く扱い、進展を求めてないことを指摘して、一緒に解決策を探った。その後は本分で多少真剣になり、働きを済ませるたびに、改善の余地がないか考えた。みんなの働きを頻繁に確かめ、いくらか改善したわ。

するとすぐ、動画制作で問題が起きて、いい方法や意見はないかとチームリーダーに訊かれたの。わたしはどう答えればいいかわからず、「いい解決策が浮かばないから、考えましょう」って言った。その後、この問題を打破するには、口先だけじゃだめだって気づいた。資料を探して調べ、実践の道を見つけなきゃならない。時間も精力もいるし、絶えず試して評価する必要がある。最後に成功するかどうかわからない。うまく行かなければ、努力が水の泡にならない? そう考えれば考えるほど、大変なことに思えた。「もういい、このままでいいわ。とりあえず成果は上がってるし、急いで解決しなくてもいい」。そう思って問題を脇にのけた。でも少し不安だった。解決する術がないわけじゃないし、少し代価を払えばいいだけ。その後、チームリーダーにまた言われた。「兄弟姉妹が困難を抱えてるから、解決しなきゃ」って。その一言に、わたしは反省したわ。「責任者が、難題の処理と問題解決をリードすべきじゃない? でもわたしは困難に遭うとそれを避け、責任感がない」。罪悪感を覚えて神に祈ったわ。「神よ、わたしは働きで困難に遭うと、懸命に働かず、いつも肉の利益を考えてしまいます。あなたの御旨にかなっていません。反省して正しくない状態を変えるので、どうかお導きを」。

デボーションでこう思った。「本分でいつも肉体を考えるのはなぜ? 代価を払って実際の働きをできないのはなぜ?」ある日、御言葉を二節読んで理解できたの。全能神は言われます。「サタンの毒とは何ですか。それはどのように表現できますか。例えば、『人はどのように生きるべきか。人は何のために生きるべきか』とあなたが尋ねたら、人々は『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』と答えるでしょう。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの哲学と論理が人々のいのちとなったのです。何であろうと、人は追い求め、自分のためにそれを行ないます――ゆえに、人は自分のためだけに生きているのです。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』――これが人のいのちの哲学であり、また人間の本性を表しています。この言葉はすでに堕落した人類の本性、堕落した人類が持つサタン的本性の真の肖像になっています。そしてこのサタン的本性は、堕落した人類の生存の基盤にすでになっています。数千年にわたり、堕落した人類は現在に至るまで、このサタンの害毒で生きてきたのです(『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」〔『言葉』第3巻〕)。「人の肉体はこの蛇に似ている。その本質は人のいのちに害を与えることであり、肉体が好き放題にすれば、あなたのいのちは取り上げられてしまう。肉体はサタンに属している。肉体の中には途方もない願望があり、肉体は己のことだけを考え、快適さと娯楽を享受することを望み、怠慢と無為にふけるので、ある程度まで肉体を満足させると、あなたは最後には肉体に食べ尽くされてしまう。つまり、今回肉体を満足させるなら、次回はもっと要求してくるのである。肉体はいつも途方もない欲望と新しい要求を持っており、あなたが肉体に迎合するのを利用し、あなたが肉体を一層大事にし、肉体の快適さの中で生きるように仕向ける。そして、肉体に打ち勝たなければ、あなたは最後には自分自身を滅ぼす。神の前でいのちを得られるかどうか、最終的結末はどうなるか、それはあなたが肉体にどのように反抗するかにかかっている。神はあなたを救い、選び、運命づけたが、その一方で、あなたが神を満足させたいとも、真理を実践したいとも、神を本当に愛する心を持ってあなた自身の肉体に反抗したいとも思わないならば、最後にはあなたは身を滅ぼし、それゆえ極度の痛みに耐えることになる。いつも肉体に迎合していると、サタンが次第にあなたを呑み込み、あなたを完全にいのちのない、あるいは神の霊との接触のない状態のままにしてしまい、ついには心の中が完全に暗黒になる日が来る。暗黒の中で生きていると、サタンのとりこになり、もはや心の中に神を持たなくなり、その時あなたは神の存在を否定し、神を離れる(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」(『言葉』第1巻))。御言葉を読んで、自分の状態の危険さがわかったわ。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」っていうサタンの哲学で生きてたの。ひときわ自分勝手で、何があってもまず肉の利益を考えた。本分で解決すべき問題があると、教会の利益を考えず、肉体を心配し、苦しみや代価が少なければいいと思った。実際、問題があっても代価を払い、調べて突き止めれば、解決できたのに。でも肉体を気遣って苦しもうとせず、研究は大変な頭脳労働だって思った。結果的に問題は解決されず、働きも改善しなかった。人の肉は本質的にサタンに属し、多くの欲望や要求を抱えてると、御言葉は暴いてる。満たせば満たすほど欲望は大きくなり、肉の利益と本分が衝突したとき、安楽を求めて肉体に従い、教会の働きを脇にのける。肉体は満たせるけど、教会の働きが害を受ける。最後は神の性質を犯し、神に憎まれ淘汰されるの。肉体にふけって安楽を求める結末は深刻。わたしは肉体の本質がわからず、いつも安楽を求めた。肉体の享楽を何より大事にしてたの。わたしの追求と見方は未信者と同じじゃない? 未信者はよく「自分を大事に」と言う。つまり自分の肉体を苦しめず、欲望や要求をすべて満たすこと。彼らは肉体のためだけに生き、人生の価値や意義を一切理解せず、人生の正しい方向や目的がない。心の慰めを感じず、空虚さの中で生きて一生を無駄に過ごす。教会にも、肉体の快楽をいつも求め、真理を追求せず、本分を無視して怠け、教会の働きに深刻な害をなし、最後は解任される人がいる。また本分でいつもいい加減で、どんな本分もちゃんと尽くせず、結局淘汰される人もいる。考えるだけでも恐ろしい! そのとき思ったの。わたしは長年神を信じてるけど、見方は一切変わってない。肉体の利益を真理よりも重視し、安楽を求め、本分でも動作を繰り返すだけだった。これが続けば神に拒まれ、淘汰されない? それに気づいて怖くなった。もう肉体を気遣うわけにはいかない。着実に本分を尽くし、責任を果たさなきゃ。

ある日、御言葉を読んで実践の道を見つけたの。神の御言葉にこうあります。「神を真に信じる人は進んで本分を尽くし、自分の得失を計算しません。あなたが真理を追い求める人かどうかに関係なく、本分を尽くす際は常に自分の良心と理知に頼り、本当に懸命に努力しなければなりません。本当に懸命に努力するとはどういう意味ですか。ほんのわずかな努力をし、少しの肉体的な苦難を被るだけで満足し、本分をまったく真剣に捉えなかったり、あるいは真理の原則を求めないなら、これは軽率でおざなりであるに過ぎず、真に努力していることにはなりません。努力する上で鍵となるのは、そこに心を込め、心の中で神を畏れ、神の旨に心を配り、神に逆らい神を傷つけることを怖がり、立派に本分を尽くして神を満足させるためであればどんな困難にも耐えることです。このように神を愛する心があれば、本分を正しく尽くすことができます。心の中に神への畏れがなければ、本分を尽くすときに重荷を背負わず、本分に関心がなく、必ずや軽率でおざなりになり、動作を繰り返すばかりで、現実的な効果を一切生み出しません。これは本分を尽くすことではありません。真に重荷を感じ、本分を尽くすことは自分の責任であり、そうしなければ生きるに値しない獣であって、本分を正しく尽くすことでのみ人間と呼ばれるのにふさわしいのだと感じ、自分の良心に向き合うことができるなら、つまり、本分を尽くす際にこうした重荷を感じるならば、あなたは何事も良心的に行ない、真理を求め、原則に沿って物事を行なうことができます。それゆえ、本分を正しく尽くして神を満足させることができます。神があなたに与えた使命、神があなたのために犠牲にしたことのすべて、そしてあなたへの神の期待にふさわしいのであれば、それが真に懸命に努力するということです(『終わりの日のキリスト講話集』「立派に本分を尽くすには、少なくとも良心と理知がなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。「利己心と日和見主義が自分の内に現われ、それに気づいたなら、神に祈り、真理を求めて解決すべきです。最初に認識すべきなのは、このように行動することは本質的に真理の原則に違反し、教会の働きに害をもたらし、利己的で卑劣な振る舞いであり、正常な人がすべきことではないということです。自分の利益や利己心は脇へやり、教会の働きを考えなければなりません。これが神の旨です。祈りを通して自分を反省したあと、このように行動するのは利己的で卑劣だと真に気づいたなら、自分の利己心を脇へやるのは簡単です。利己心と日和見主義を脇へやると、地にしっかり足をつけているように感じます。また、平安と喜びを覚え、振る舞い方には良心と理知がなければならず、教会のことを考えるべきであって、自分の利益に固執してはならず、そうするのは利己的で、卑劣で、良心も理知もないと感じるようになります。無私に振る舞い、教会の働きを考え、神を満足させることだけを行うことは義であり、名誉なことであり、あなたが存在することに価値が生まれます。地上でそのように生きていると、率直かつ正直であり、正常な人間性を、また真の人間の姿を生きているのです。明確な良心があるだけでなく、神に授けられたすべてのものに値します。そのように生きれば生きるほど、それだけ地にしっかり足をつけていると感じ、平安と喜びを覚え、明るい気持ちになります。その結果、あなたは神への信仰の正しい道に足を踏み入れるのではないでしょうか(『終わりの日のキリスト講話集』「自分の心を神に捧げる中で、人は真理を得ることができる」〔『言葉』第3巻〕)。本分をしっかり尽くすには、御言葉に沿って努力する必要があるってわかったの。表面的な努力と代価だけではだめ。大事なのは心の中でこの重荷を背負い、教会の働きを一番に考え、全力ですべきことをする。そうして初めて、神がわたしに捧げる努力にふさわしくなり、真に人間らしく生きられる。いい動画を通じて神を証しする働きは、本当に大事なの! 神にすがり、全力で本分を尽くすべき。本分では色んな困難や問題があるけど、そうした困難を通じ、安楽を求めて進展を無視する堕落した状態がはっきり見えた。追求への間違った見方に気づいて、悔い改めて変われたの。これは真理を得て堕落した性質を捨て去るチャンス。同時に、自分の業務での欠点もわかった。本分を進展させるには、専門知識を高めないと。神の御旨がわかると、やる気が湧いたわ。その後、問題や困難について神に祈り、神の導きを求め、兄弟姉妹と解決策を話し合った。怠けたり人任せにしたりするのはもう嫌。それに頑張って専門知識を身につけたい。行き詰まって諦めたくなると、神に祈って肉を捨て、本分に自分を捧げた。しばらくすると、やっと突破口が見つかり、問題もすぐに解決したし、成果も以前に比べてよくなった。こう本分を尽くすと落ち着いたわ。実際、問題を解決して実際の働きをするのは、そんな難しくないし、さほど苦しまなかった。より誠実に本分を尽くせば、神の導きと祝福を得られる。わたしの入りはまだ限られてるから、今後は本分で堕落した性質を解決して、全力で神に満足いただくわ!

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