ある偽指導者の目覚め
2019年、教会指導者に選ばれ、この本分をしっかり尽くそうと誓った。その後は毎日、集会や兄弟姉妹の本分の問題解決、働きの進展の確認に忙しく、とても充実してたわ。しばらくすると、事務作業のために仕事の量が増えて、毎日遅くまで働き、ちょっと忙しすぎかもと感じた。思ったわ。「全部の仕事を気にかけるのは大変だし疲れる。毎日頭が締めつけられそうで、1つの仕事をするほうがずっと簡単」。その後、チャオ・チン姉妹の家のグループ集会に出たんだけど、こう思った。「以前、チャオ・チンはパートナーで、本分への責任感があり、困難があれば積極的に真理を求めて解決してた。その彼女がグループの働きを監督してるんだから、わたしが気にかける必要はない」。その後はグループの人たちと会わなくなった。ある日の夜、兄弟姉妹からメッセージがあって、チャオ・チンのグループの働きに問題と欠点があるから、すぐに解決してほしいと頼まれた。前もって御言葉を探し、解決策を見つけようとしたけど、問題が多すぎてしばらく解決できなかった。思ったわ。「もう遅いし疲れた。わたしには無理。それに、問題と欠点については、もうチャオ・チンに手紙を送った。彼女が責任者なんだから、率先して交わり、解決してくれる。わたしがする必要はない。全部自分でしていたら、いつまでも終わらないわ。集会で彼女と交わるだけにしよう」。その後調べてみると、チャオ・チンはもうグループで交わりをして、みんな問題に焦点を当てた実践の道を提案できたそう。チャオ・チンがグループを率いているから心配無用だと思って、その後はほとんどグループの働きについて尋ねなかった。
しばらくして、チャオ・チンのグループの集会に出たんだけど、彼女の交わりが遠回しで、はっきり物を言わないことに気づいたの。「悪い状態にあるの? 話が支離滅裂なのはなぜ?」でも思った。「わたしがいるから緊張してるのかも。調整すれば大丈夫だわ。わたしは他にやることがあるし」。それで彼女と交わらずに立ち去った。あとで、グループの働きで成果が上がってないとわかり、「グループに問題があるの?」と思ったけど、考え直した。「あのときは本分の問題と欠点を交わっただけ。みんな変える気があるようだし、成果が少ないのは普通のこと」。そう思ってそれ以上考えなかった。その後、ワン・シンルイ姉妹に言われたの。チャオ・チンが地位に取り憑かれ、みんなと協力できず、グループリーダーに不適だと。思ったわ。「チャオ・チンはちょっと地位に夢中のようだけど、責任感がある。みんなと協力できないのは、状態が悪く堕落した性質に操られているからに違いない。調整すれば大丈夫」。そう思って、シンルイ姉妹に言った。「チャオ・チンは本分に責任感があるし、今でも優秀なグループリーダーよ。堕落を見せたなら、助けてあげて、問題を基に分析しなきゃ。わたしは今日忙しくて時間がないけど、あとで彼女と交わるわ」。シンルイはそれを聞いて何も言わなかった。そして、別の仕事で忙しくなったとたん、わたしはチャオ・チンと交わることを忘れたの。ある日の夜、突然思い出した。「チャオ・チンの状態はどうなの? 会いに行くべき?」。でも思った。「彼女は素質が優れてる。以前に状態が悪かったときも、すぐ真理を求めて解決できた。今回も自分で調整できるはず。彼女の家は遠い。そんなところに行くなんて面倒だし、家にいなければ無駄足よ。もういい。来月何とかしよう」。でも月末に働きを調べてびっくりした。チャオ・チンの働きに問題と欠点がたくさんあって、成果がますます減ってたの。担当している兄弟姉妹も消極的になり、みんなの働きに影響してた。やっと事の重大さに気づいたわ。そこですぐチャオ・チンに会って交わり、問題を指摘したけど、彼女は受け入れずに言い訳をして、自己認識を示さなかった。パートナーと話し合い、チャオ・チンはもうグループリーダーは無理だと判断して、ようやく解任した。その後、兄弟姉妹から報告があった。チャオ・チンが嫉妬し、本分そっちのけで口論ばかりしてる、そのせいである姉妹が萎縮して落ち込み、本分をやめたがってると。シンルイも彼女の状況を報告したけど、排斥されたそう。他の姉妹たちも彼女に萎縮し、本分が影響を受け、数ヵ月も働きが妨げられてた。チャオ・チンは解任されたあと、悔い改めないだけでなく、みんなに復讐した。暴かれても、自分の悪事を理解も後悔もしなかったのよ。その後、わたしも実際の働きをせず、本分をおざなりにし、チャオ・チンをすぐ解任せず教会の働きに害を与えたということで、解任された。当時はつらかったけど、やっと考え始めたの。チャオ・チンが嫉妬と口論をずっと続け、教会の働きを乱してたのに、それに目をつぶって無視した理由を。自分が実際の働きをせず、人を見抜けないことをほとんど認識してなくて、自分の堕落した性質の理解や分析に集中してなかった。
ある集会で、実際の働きをしない偽指導者を暴く御言葉を読んで、ようやく多少わかったの。御言葉にこうある。「偽指導者は、グループの責任者の状況を知ろうとすることも、追跡することもありません。また、グループの責任者や重要業務の担当者のいのちへの入りの状況や、そうした人たちの働きや本分、信仰、真理、神への態度を知ろうとすることも、追跡することもなく、把握しようと努めることもありません。偽指導者は、これら教会員における変化や進歩、あるいは働きの過程で現われるかもしれない様々な問題について知ろうとしません。教会員が業務の様々な側面で犯した間違いや逸脱が教会の働きや神の選民に与える影響となると、偽指導者は特に無知です。そうした間違いや逸脱が対処されたかどうかについて、偽指導者は何一つ知りません。そうした状況の詳細を理解していなければ、問題が生じても、かなり消極的になります。偽指導者はそのような詳細にまったく注意を払いません。グループの責任者を割り当て、働きをすべて引き渡せば、自分の任務は終わったと思い込みます。それで仕事は完了、その後に何か問題が起きても自分には関係ないと信じているのです。偽指導者が各グループの責任者への監督と指導、および経過の観察をせず、それらの分野での責任を果たさないので、働きが損なわれてしまいます。これが、指導者または働き手として怠慢であるということです」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。「偽指導者は愚かだと思いますか。彼らは愚かで間抜けです。なぜ愚かなのですか。彼らは軽率に人を信用します。自分がこの人を選んだとき、この人は誓いを立て、約束し、顔に涙をこぼしながら祈ったのだから信用でき、この先この人に問題はないはずだと信じます。偽指導者は人の本性を理解していません。堕落した人類の実情を知らないのです。彼らはこのように言います。『責任者に選ばれたからといって、人が変わることがあり得るだろうか。これほど真剣で信頼できるように見える人が、仕事を怠けることがあり得るだろうか。そんなことはないはずだ。この人はとても誠実だ』。偽指導者はこのように想像し、直感に頼りすぎるので、結局は教会の働きで生じる多数の問題を適時解決することができなくなり、関係する責任者をすぐに入れ替え、配置換えすることができません。彼らは正真正銘の偽指導者です。では、ここでの問題はいったい何ですか。偽指導者の働きへの取り組み方は、軽率さやぞんざいさに関係がありますか。一方、赤い大きな竜が狂ったように逮捕をしているのを見て、彼らは自分の安全を守るため、闇雲に人を選んで責任者とし、これで問題は解決する、自分はこれ以上注意を払う必要はないと思い込みます。彼らは心の中で何を考えていますか。『今はこんなにひどい逆境だから、しばらく隠れなければ』。これは肉体的な快楽への貪欲さです。違いますか。また、偽指導者には大きな欠点があります。想像を基に、人をすぐ信用してしまうことです。これは真理を理解していないことが原因です。違いますか。神の言葉は堕落した人類の本質をどのように暴いていますか。神が人を信用していないのに、なぜ人がそうしなければならないのですか。神は人を外見で判断するのではなく、人の心を絶えず見張っています。では、他人のことを判断して信用するとき、偽指導者はなぜそこまで不用意なのですか。偽指導者は自惚れすぎです。違いますか。彼らの考えはこうです。『この人に目をつけたのは間違いではなかった。万事うまく行くだろう。この人は絶対にいい加減であったり、楽しみたいだけで努力を嫌ったりする人間ではない。間違いなく信用でき、信頼に足る人間だ。この先変わらないし、もし変わったとしたら、それはわたしの見立て違いだろう』。これはどういう理屈ですか。あなたは何かの専門家ですか。透視能力があるのですか。それがあなたの特殊技能ですか。この人と一、二年一緒に生活したとしても、相手の本性と本質を完全に暴き出す適切な環境がなければ、その正体がわかるものでしょうか。神に暴かれることがなければ、その人と三年、さらには五年、隣り合って暮らしても、その本性と本質がどのようなものかを把握するのに大変苦労するでしょう。その人と会うことも接することも滅多にないなら、なおさらそうではないですか。あなたは束の間の印象や他の誰かの好意的な評価を基に、その人を軽率に信用し、そのような人に教会の働きを託すという思い切ったことをします。これは、あなたには何も見えていないということではありませんか。せっかちではありませんか。このように働きをする偽指導者は、極度に無責任ではありませんか」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。偽指導者は快楽に貪欲で、本分に無責任だと神は明かしてる。責任者が見つかったら、発想と観念を基にたやすくその人を信じる。働きのフォローや監督をせず、代価を払って確かめようとしない。いつも面倒から逃げ、そのせいで教会の働きに深刻な害が及ぶ。実際の働きをしない偽指導者の色んな表われを神が明かすのを見て、面と向かって暴かれてるような気がして、不安と罪悪感を覚えた。私は指導者として無責任。不安や肉体の苦しみを避けようと、策を巡らせ働きをフォローしなかった。チャオ・チンの一時的な印象に頼り、彼女は本分に責任感がある、優秀なグループリーダーだと考えて、口出しをせず働きを監督しなかった。働きに問題があり、解決のために苦しみ、代価を払う必要があっても、実際の働きをせず、みんな手探りしてるという事実を言い訳にした。彼女に問題がありグループリーダーに不適だと報告があっても、観念と想像を基に、これは一時的な堕落に過ぎず、本分に影響はないと思い込んだ。チャオ・チンの問題の解決を何度も遅らせ、しまいにグループの働きが麻痺して、兄弟姉妹のいのちの入りに大きな害が及んだ。私は本当に愚かで無責任。快楽に貪欲で実際の働きをしない偽指導者よ。事実、教会が選んだ指導者や働き手は私も含めて完全にされてないし、堕落した性質がたくさんある。いつ本分を乱して妨げるかわからない。外面の振る舞いが多少よくても、資格があるわけじゃない。真理を理解していないから、人の外見しか見えず、本質をはっきり見抜けない。だからみんなの働きを頻繁にフォローして監督し、責任を負う必要があるの。私は真理を理解してないのにやたらと自信があって、教会の働きに大きな害を与え、神の前で過ちを犯した。それに気づいて後悔したわ。シンルイに注意されたとき、独善的にならず、怠けず、快楽に貪欲でなく、問題をすぐに調べて見つけ、解決して、チャオ・チンを解任していれば、教会の働きをここまで遅らせることはなかった。私は本分で教会の働きに貢献しないだけでなく、サタンの手先、偽の指導者や働き手を守る傘となった。考えれば考えるほどつらくなったわ。受肉した神は働く際に各教会に行き、本当に苦しんで代価を払った。私たちの堕落や欠点に応え、ひたすら真理を交わり、私たちを支えて助けた。その懸命な働きはすべて、私たちをサタンの権力から完全に救うため。でも私は、真理がわからず物事をはっきり見抜けない被造物なのに、本分で苦しみ代価を払おうとせず、問題を見つけてもすぐ解決せず、働きを大きく傷つけた。こんな本分の尽くし方を神は憎み、嫌悪する。それに気づいて、無言で神に祈った。「神よ、私は間違ってました。自分を反省してあなたに悔い改めたいです。どうか憐れみを」。
その時、偽指導者を暴く二節の御言葉を読んだの。「偽指導者が実際の働きをせず、物事の確認を怠り、しっかり見張らず、問題を解決しなかったというだけの理由で、また彼らが本分にひどく怠慢だったというだけの理由で、多くの仕事が妨げられます。もちろんこれは、これらの偽指導者が地位の利益に貪欲で、真理をまったく追い求めず、福音を広める働きを確認、監督、指導する気がないのも原因です。その結果、働きの進展が遅れ、多数の人為的な間違いや愚行、騒動を起こす人による問題がすぐに正されず、福音伝道の効果に深刻な影響が及びます。上層部がこれらの問題を突き止め、指導者と働き手がその解決を命じられて初めて、問題は修正されます。まるで指導者は盲目であるかのようです。彼らは問題を一切特定できません。彼らには物事をどのように行なうかという原則がなく、自分の間違いを認識できず、上層部の刈り込みと取り扱いを受けたときに過ちを認めるだけです。では、偽指導者が引き起こした損害は、誰が責任をとりますか。彼らを解任したとして、彼らが引き起こした損害は誰が償うのですか。したがって、偽指導者が短期間で実際の働きを何もできないのを突き止めたなら、すぐに解任しなければなりません。福音の働きを広めるのがひときわ遅い教会がありますが、これはひとえに偽指導者たちが本分において怠慢で、あまりに多くの間違いを犯しているからです。様々な項目の働きの遂行においては、偽指導者が解決、修正、改善しなければならない問題や逸脱、見逃しが多数生じます。しかし、彼らには重荷を負っている感覚がなく、役人の真似事しかできず、実際の働きをしないので、結果として壊滅的な混乱を引き起こします。教会の中には、信徒が団結を失い、互いに足を引っ張り合い、互いに疑い警戒し合っているところがあります。このような人はまた、神の家に追放されるのではないかと怯え、不安になります。偽指導者はこうした状況に直面しても、具体的な働きを何ら行ないません」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。「表面的には、偽指導者は反キリストのようにわざと悪事を犯すことも、故意に自分の縄張りを築き、自分のしたいようにすることもありません。しかし働きの範囲内において、偽指導者は責任者が引き起こした様々な問題にすぐ対処したり、基準に満たないグループ責任者をただちに交代させて配置換えしたりすることができません。これは教会の働きに深刻な害をもたらし、それはすべて偽指導者の怠慢が原因です」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。神は偽指導者の怠慢を暴いてる。働きのフォローや確認、責任者の監督とチェックをせず、結果として多数の働きの問題が解決できず、神の家の働きに大きな害が及ぶ。自分の行ないを振り返ったわ。快楽に貪欲で本分を怠け、無責任だった。観念を基にチャオ・チンを信用し、働きの監督やフォローをしなかった。彼女の問題を報告されても無視して解決せず、すぐに解任しなかった。それで彼女は嫉妬と口論を続け、グループを乱して邪魔し、いい作用を及ぼさず、グループの働きで数ヵ月も成果が上がらず、進展が大いに遅れた。みんなから意見されても、彼女は押さえつけて排斥し、ずっと圧力を加え、そのためグループは萎縮し、本分へのやる気を失った。なのに私はそれを知らず、彼女はちゃんとしていると思ってた。私は神の家の采配で指導者になったのに、責任を果たさなかっただけじゃなく、教会の働きに多くの問題があっても、それが見えず、すぐに解決できず、教会の働きと兄弟姉妹のいのちの入りに深刻な害を及ぼした。重大な怠慢だわ! 反キリストのように、神の家の働きを乱す悪事をわざとしたわけじゃないけれど、怠慢のせいで教会の働きに大きな害が及んだ。無知で何も見えず、無責任な自分を憎んだ。神の前で過ちを犯したのよ。深い悲しみと罪悪感を覚えて、神と兄弟姉妹に申し訳なく思った。
その後、自分を反省した。いつも自分の肉体を考え、本分で策を巡らせるのはなぜ? それから、とても役立つ御言葉の一節を読んだの。神は言われてる。「サタンの毒とは何ですか。それはどのように表現できますか。例えば、『人はどのように生きるべきか。人は何のために生きるべきか』とあなたが尋ねたら、人々は『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』と答えるでしょう。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの哲学と論理が人々のいのちとなったのです。何であろうと、人は追い求め、自分のためにそれを行ないます――ゆえに、人は自分のためだけに生きているのです。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』――これが人のいのちの哲学であり、また人間の本性を表しています。この言葉はすでに堕落した人類の本性、堕落した人類が持つサタン的本性の真の肖像になっています。そしてこのサタン的本性は、堕落した人類の生存の基盤にすでになっています。数千年にわたり、堕落した人類は現在に至るまで、このサタンの害毒で生きてきたのです。サタンが行なうことはすべてその欲望、野心、目的のためです。サタンは神を超え、神から自由になり、神が造ったすべてのものを支配することを望んでいます。現在、人はここまでサタンに堕落させられているのです。誰もがサタンの本性を持ち、神を拒んで対抗し、自分の命運を思うままにして神の指揮と采配に対抗しようとしています。人の野心と欲望はサタンとまったく同じです。ゆえに、人間の本性はサタンの本性なのです」(『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を熟考してやっと気づいた。私が怠惰で、本分で責任を負わず、良心がなかったのは、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」というサタンの法則が深く根ざし、本性になってたから。いつもそれで生き、何事も自分の肉体の利益しか考えず、ますます自分勝手で卑しくなった。心配になるとか、苦しみや代価が必要なことがあると、それを避けようと策を巡らせ、苦しまずに済むなら何でもした。業務全般を監督することで不安や苦しみが増えると、一つのことしかしようとしなかった。仕事が増えたときは不安を軽くし、払う代価を減らそうとして、チャオ・チンの働きに口出しせず、それを無視した。その後、彼女の状態が悪いとわかっても、解決しようとしなかった。彼女は不適だとシンルイに注意されても、私は多忙を言い訳になかなか調べず、しまいにチャオ・チンの問題は深刻になり、解任せざるを得なくなった。教会は、私が責任を負って教会の働きを守ることを期待して、教会指導者に育成し、実践の機会を与えた。でも私は? 本分をしっかり尽くそうとせず、快楽に貪欲なばかりで、不安と苦しみを減らせるなら何でもした。長年神を信じ、多くの御言葉の潤しを享受したのに、何かあるとしっかり働くことじゃなく、快楽のことを気にした。自分勝手で卑しく、神を嫌悪させた! 人間性と理知のなさが嫌になり、神の善意を裏切ったことを憎んで、神にこう祈った。「神よ、私は肉体のことを気にして実際の働きをせず、教会の働きに大きな害を及ぼしましたが、あなたは悔い改めの機会を授け、反省して自己認識できるようにしてくれました。悔い改めたいです。今後はどんな本分でも、肉体を甘やかし、快楽にふけるのをやめます。責任を負い、着実に本分を尽くしていきます」。
その後、御言葉をさらに二節読んだ。全能神は言われます。「心がある人は神の旨を思いやることができますが、心がない人はただの抜け殻、愚か者で、神の旨を思いやることを知りません。『これが神にとってどれだけ差し迫ったことかなど、わたしにはどうでもいいし、自分がしたいことをする。いずれにせよ、わたしは怠惰でも無精でもない』。このような態度、このような消極性、積極性の完全な欠如――これは神の旨を思いやる人ではありませんし、こうした人は神の旨をどう思いやるべきかを知りません。それでは、その人に真の信仰はありますか。絶対にありません。ノアは神の旨を思いやり、真の信仰があり、ゆえに神の委託を完遂することができました。ですから、単に神の委託を受け入れ、多少の努力をいとわないだけでは十分ではありません。同時に神の旨を思いやり、自分のすべてを捧げ、献身しなければなりません。それには良心と理知が必要です。これが、人が備えているべきものであり、ノアにも見出すことができました。当時、あのような巨大な方舟を造るのに、ノアがぐずぐずして、切迫感も懸念も能率も持ち合わせていなければ、完成するまで何年かかったと思いますか。百年で完成したでしょうか。(いいえ。)数世代にわたって建造し続ける必要があったでしょう。一方、方舟のような物体の建造には長い年月がかかるはずです。さらに、すべての動物を集めて世話するのも同じくらいかかるはずです。動物を集めるのは簡単でしたか。簡単ではありませんでした。ですから、神の声を聞いて神の切実な旨を理解したノアは、これは簡単でも順調に進む作業でもないと感じ取ったのです。それを成し遂げ、神からの委託を神の意図どおりに完成させなければならず、それによって神が満足し、安心し、神の働きの次なる段階が円滑に進むようにしなければならないと認識しました。これがノアの心でした。では、これはどのような心ですか。神の旨を思いやる心です」(『反キリストを暴く』「補説3 ノアとアブラハムはどのように神の言葉に耳を傾け、神に従ったか(2)」〔『言葉』第4巻〕)。「指導者や働き手がどのような重要な働きをしていようと、その働きの本質が何であろうと、彼らの最優先事項は、働きがどのように進んでいるかを熟知していることです。直接赴いて進捗を確かめ、質問をし、直に情報を集めなければなりません。単に人から聞いたことで判断したり、人の報告に耳を傾けるだけではいけません。担当者の仕事ぶりはどうか、働きの進展はどうかを自分の目で観察し、どのような困難があるのか、上層部の要求と食い違っている部分があるかどうか、専門的な職務が原則に反しているかどうか、混乱や妨害があるかどうか、ある種の職務に必要な設備や教材が欠けているかどうかを調べ、これらのことをすべて完全に掌握している必要があります。何件の報告を受けようと、人の話を聞くことでどれだけのことを得ようと、そのどれも自ら訪ねることにはかないません。自分の目で物事を見るほうが正確で信頼でき、ひとたび状況を詳しく知ると、事態がよくわかります。さらに重要なのは、優れた素質があり、育成する価値があるのは誰かをはっきり正確に把握することです。指導者や働き手が仕事を正しく行なうためには、これは極めて重要です。指導者と働き手には、優れた素質の人をどう養い訓練するかについての道がなければならず、また働きの途中で生じる様々な問題や困難をしっかり把握し、正しく理解するとともに、そのような問題の解決法を知っていなければなりません。また、働きの進展や将来の見込みについて、自分なりの考えと意見を持っていなければなりません。そうしたことについて、指導者や働き手が疑いや不安なしに、目を閉じたままでもはっきり語れるようになれば、その働きはずっと簡単に遂行できます。またそうすることで、指導者はその責任を果たしていることになります。そうではありませんか。指導者と働き手はこれらのことをすべて考慮し、念頭に置き、絶えず頭の中で考えていなければなりません。問題に見舞われたときはみんなのもとに戻り、それについて交わり、話し合い、真理を求めて問題を解決しなければなりません。働きがこのように現実を基盤としていれば、解決できない困難はありません」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。御言葉は、本分を尽くす道を示してくれた。つまり神の御旨を想い、神の望みを気にかけ、しっかり本分を尽くし、教会の利益を損なわない。心から神の御旨に配慮したノアのように。方舟を造るよう神に言われたノアは、自分の損得を考えず、神の要求通り方舟をすぐに造る方法だけを考えた。私はノアと比べものにならないけど、彼をまね、神の御旨を気遣い、全力で神の要求を満たせるようになりたいと思った。それにわかったの。指導者が実際の働きをしっかりするには、業務をしっかり把握し、働きで障害や邪魔があれば、すぐに交わって対処し、働きを正常に進ませる必要があると。
その後、複数の教会の福音業務と潤し業務を指導者に任され、こう思った。「前回のようではいけない。肉体の快楽ばかり気にかけず、本分への責任を負わないと。地に足をつけて、本分に全力を捧げなきゃ」。その後は、ビジョンの真理を備えることに集中して、福音対象者がいれば、終わりの日の神の働きを積極的に証しした。夜は相手の宗教的観念に応じて、御言葉を探して備えたわ。ある日、教会の働きをチェックしながらこう思った。「この教会の指導者と福音執事は長年神を信じてる。素質も優れてるし、有能で責任感がある。働きをちゃんと処理できるから、フォローの必要はないし、手間が省けるわ」。そう思った瞬間、また策を巡らせ、監督やフォローをしない理由を探してると気づいたの。今、私はこの教会の責任者。教会の働きを進めて監督するのが、私の責任と本分。言い訳を見つけ、肉体のことを考えて本分を遅らせては駄目。そう思って、この教会の働きを入念にチェックすると、新人の集会に問題があり、潤し役がちゃんと仕事してないことがわかったの。次の日、潤し役に会って真理を交わり、問題を解決した。するとすぐ、新人の集会が正常になったと聞いて、安らぎと落ち着きを感じたわ。指導者と働き手は実際に代価を払い、働きのフォローと監督をする必要がある。これが問題をすぐに見つけて解決し、本分をしっかり尽くす唯一の道。今それを理解して変われたのは、神の救いなの。全能神に感謝!
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。