疫病が迫る:神の哀れみと守りを得るには

2020年7月5日

人々を恐怖に陥れる「新型コロナウイルス」は、中国の武漢で発生し、世界中に広がりました。世界中で大勢の人々が犠牲になり、さらに多くの人々がパニック状態に陥り、大きな災いが迫っていることを予感しています。このパンデミックがどれくらい続くのか、どれくらいの命を奪うのか、誰にもわかりません。しかし、神を信じる者は、すべては神の許可を得て起こること、それなしには絶対に何も起こらないことを心の中で知っています。では、この災いが私たちに降りかかることを許す神の心意とは何でしょうか。

歴史を振り返り、神の心意を求める

旧約聖書には、ソドムの人々は邪悪で、乱暴で、堕落していて、町は流血と殺人にあふれ、人々は天使を殺そうとさえしていたという記録があります。悔い改めようという気にもならない彼らに、神は天から火を降らせ、全員を滅ぼしました。しかし、聖書に詳しい人は、神が災いをもたらす前に、アブラハムがソドムの町のために神に嘆願したことを知っています。その時の記録として聖書の記述を抜粋します。「ヤーウェは言われた、『もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう』。……アブラハムは言った、『……わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら主は言われた』、『わたしはその十人のために滅ぼさないであろう』(創世記 18:26-32)。これらの節は、神の義なる性質を表すだけでなく、それ以上に、神の大きな哀れみと寛容さを私たちに感じさせてくれます。神はソドムの町に五十人の正しい者がいたら町を赦したでしょう。正しい人が十人いたら、その十人のために赦したことでしょう。たとえ人がどれほど堕落していても、どれほど悪事が深くても、神はそれでも、悔い改める人が出てくることを願っています。しかし、そんなに大きな町に正しい人が十人もいないというのは悲しいことであり、結局は神が滅ぼさなければならないところまで来てしまうのです。

今、誘惑に満ちたこの世界で生きている人々は、当時のソドムの人々よりもさらに悪い状態です。現代人は極端なまでにサタンに堕落させられています。現代人は悪を崇拝し、不義を愛し、地球は暴力と不倫であふれ、大通りや小さな路地沿いの至る所にカラオケバー、足つぼマッサージ店、ホテル、ダンスクラブがあります。そうした場所は悪と乱雑にあふれています。誰もが食べて飲み、楽しみ、肉体的な快楽にふけり、極端に堕落した生活をしています。人と人との間に愛はなく、誰もが地位や名声、財産を求めて騙し合い、争い、張り合います。互いに策略を練り、金や利益を巡って殴り合いすらします。全人類はサタンの支配下に生きていて、誰も肯定的なものを愛したり、光に憧れたり、前に出てきて神の救いの恵みを受けようとしません。信者でさえも、罪を犯して懺悔するというサイクルの中で生きていて、主の教えに完全に忠実でいることができません。彼らは世俗的な流行を追いかけ、肉の快楽を追求するところまで行ってしまうのです。自分が罪の中に生きていることを知っていても、罪の縛りを取り除くことはできません。心は神からあまりにも遠く離れているのです。これほど極端に堕落した全人類は、とっくの昔に滅びるべきところまで到達していたのではないでしょうか。

神は人が悔い改めることを望んでいる

災いは次々と起きていますが、神の心意は、私たちが神の前に来て悔い改めることです。神はすべての人が悔い改めることを願い、誰にも滅びてほしいと思っていません。2000年前、主イエスは言われました。「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイによる福音書 4:17)。この時点で次のように言う人もいるかもしれません。「不信心者は神を信じていないから、悔い改めることができません。しかし、主への信仰を得た後、私たちは祈りながら主の前で辛い気持ちで泣くことがよくあります。私たちは過去の罪を認め、二度と悪いことはしません。他の人にも寛容になれますし、我慢もできます。慈善活動をして寄付をして人助けをすることもできます。主のために自分の時間を捧げてこつこつと働くこともできます。また、逮捕されて刑務所に入れられても、主を裏切ることはありません。これが本当の悔い改めではないでしょうか。このように地道に実践していけば、主は私たちを守り、災いに流されないようにしてくださいます」。しかし、本当にそうでしょうか。主イエスはかつて言われました。「すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。主への信仰を得てからは、謙虚で忍耐強く、人を助け、犠牲を払い、自分を費やし、福音を宣べ伝え、主に証しをすることができ、外面的にも良い行いをします。しかし、私たちが否定できないのは、私たちの中にある傲慢、驕り、曲がった心、欺瞞、利己心、無関心などの堕落した性質が清められていないことであり、いつでも罪を犯す可能性があるということです。例えば、主が私たちに正直であることを求めておられることは十分承知していますが、私たちは、自分の身勝手で卑しい本性に支配され、自分の利益を侵すようなことが生じると、すぐに嘘をついてごまかします。傲慢でうぬぼれた本性に支配され、自分の言うことは何でも他人に従わせ、従わないと怒って説教し、災いや試練が起こると、主を責めて文句を言います。これらはほんの一例です。私たちの罪は雑草のようなもので、取ってもすぐに生えてきます。毎日、祈りながら、辛い気持ちで泣いて罪を懺悔しても、私たちはまだ変わりません。これが本当の悔い改めになるのでしょうか。災いの中にあって、そのような人を神が守ってくれると誰が保証してくれるのでしょうか。真の悔い改めとは、ある人のサタン的な堕落した性質が完全に清められ、変化した時、その人がもはや悪をしたり、罪を犯したり、神に抵抗したりすることがなくなった時です。それは、その人が本当に神に服従し、神を礼拝することができるようになる時なのです。このような人だけが、神の約束と祝福を受け継ぎ、天の国に入るのにふさわしいのです。聖書ではこのように書かれています。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである」(ヨハネの黙示録 22:14)

真の悔い改めを達成し、神の守りを得るには

では、どのようにして私たちは真の悔い改めを達成することができるのでしょうか。かつて主イエスは言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(ヨハネによる福音書 17:17)。主は、終わりの日に再来されること、恵の時代よりもさらに高い真理を表すこと、人間を裁き清めるための段階的な働きを行うことを預言されました。これは、私たちが罪の縛りから完全に解放され、清められ、変容するためのものです。恵みの時代に主イエスがなさった働きが贖いの働きであったため、人は主イエスを信じることによって罪を赦してもらうことができました。しかし、人は罪深い本性から清められたわけではありませんでした。終わりの日に主の裁きの働きを受け入れて堕落した性質を清め、変えてもらい、二度と悪をしたり、罪を犯したり、神に抵抗したりしないことによってのみ、私たちは本当に悔い改めたと言えるのです。その時になって初めて、私たちは神の守りの下に入り、災いを生き延びることができるのです。

主イエスはすでに再来していました。彼こそ肉となった全能神なのです。全能神、すなわち終わりの日のキリストは、主イエスの贖いの業を土台に、神の家から始まる裁きの働き行っています。全能神は言われます。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

全能神は、私たちをサタン的な性質の束縛から救うために、私たちを清め、完全に救うことができる真理をすべて表しています。神の6,000年に及ぶ経営の働きの謎を解き明かします。つまり、世界の悪の根源とサタンによる人類の堕落の本質と真理を明らかにします。神の言葉の裁きを体験することで、私たちは自分がいかにサタンによって深く堕落しているかを知ります。傲慢、うぬぼれ、利己心、無節操、曲がった態度、欺瞞、貪欲、邪悪さなど、私たちが生きることは人間性のかけらもなく、私たちに対する神の嫌悪と憎悪を呼び起こします。同時に、私たちは、背きを許さない神の義なる性質を知るようになります。常にサタン的な堕落した性質によって生きていること、真理を実践しなければ、神は必ず私たちを嫌い捨てることを認識しています。そうして初めて、私たちは神の前にひれ伏し、悔い改めることができるのです。私たちは自分の罪を憎み、神の言葉によって生きていきたいと願っています。何度も何度も肉を捨て、真理を実践することで、私たちの堕落した性質は徐々に清められ、変化していきます。私たちはもはや神に反抗したり、神に抵抗したりすることはなく、真に神に服従し、神を敬い畏れるようになります。このような人たちだけが真に悔い改め、神に守られて災いを乗り越えることができるのです。

30年前、全能神が現れ、その働きを始めました。福音の働きは地球上のあらゆる国に広がり、全能神によって表現された何百万もの言葉が長い間オンラインで公開されてきました。これらの言葉は20以上の言語に翻訳され、証しとして、全人類のために広く利用できるようになっています。この最も暗く邪悪な時代に、終わり日のキリストによって表された真理は、東から西へと閃く稲妻のような真の光として現れます。それは全人類への証しとなります。神は現れ、主イエスが再来しました。主は人間を清め、救うための真理を表しました。人間が完全な救いを得る唯一の方法は、全能神を受け入れることです。しかし、人類はサタンによってあまりにも深く堕落しています。真理を愛する者は誰もいません。人が望むのは罪の快楽を貪ることです。彼らは、終わりの日の全能神の働きを調べようとせず、終わりの日の神の裁きと刑罰を受け入れようともしません。それどころか、人には神の働きについて根深い観念があります。中には公然と終わりの日の神の働きに抗い、非難する人さえいます。誰もが悔い改めることを考えずに罪の中で生きています。真理に憧れたり、光を求めたりする人はほとんどいません。今日私たちが目にする災いは、神の最後の注意喚起であり、人類への最後の警告です。それ以上に、災いは神の救いなのです。神の前に来て悔い改めることによってのみ、私たちは災いから神の守りを得ることができます。

神の戒めに注意を払う

全能神は言われます。「あらゆる災害が次々に襲ってくるだろう。すべての国、すべての場所は災害を経験するだろう──疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至る所で発生する。これらの災害は一か所や二か所だけに起こるのではなく、一日や二日の間だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していくだろう。この間、あらゆる種類の虫害による疫病が次々に発生し、残忍な現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きである(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六十五章」〔『言葉』第1巻〕)。「人類が良い運命を望むなら、また国が良い運命を願うなら、人類はひれ伏して神を礼拝し、神の前で悔い改め、罪を告白しなければならない。さもなければ人類の運命と終着点は避けることのできない災難となる(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。「わたしの最後の仕事は人を懲罰するためだけではなく、人の終着点を決めるためでもある。さらに、わたしのすべての業と行ないをあらゆる人が認識するためである。わたしは一人一人にわたしが行なってきたことは全て正しく、わたしの行なってきたことは全てわたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人の行いではなく、とりわけ大自然の行いではなく、創造世界のあらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅びる他なく、酷い災難を経験するだけである。人間はだれであろうとも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはない。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけである。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は壊滅的被害を受け、あらゆる亡霊に踏みつけられる。わたしは誰にもできない働きを行ない、人間が何らかの善行によりわたしに報いることを望むだけである(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)

災いは世界中でどんどん悪化し、あちこちに蔓延しています。絶望的な人は逃げられず、世界が終焉を迎えたかのようです。しかし、私たちは皆、神が私たちの運命を支配し、すべての災害は神の手に委ねられていることを知っています。終わりの日に神の前に来て悔い改め、神の裁きと刑罰を受け入れることによってのみ、神に災いから守られ、生き延びるチャンスを得ることができます。世界が進む道は目の前で繰り広げられています。神は救うことのできる人をすべて救った段階で、大いなる災いを使ってこの邪悪で汚れた世界を滅ぼすでしょう。その時が来れば、神の前に来なかった者は災いに押し流され、泣きながら歯をくいしばることになります。

編集後記:この記事を読んで、災いを解き放つ神の心意が何であるか理解できましたか。災いから神に守られる道がわかるようになりましたか。神の家から始まる裁きの働き質問や問題がある場合は、サイト上のチャットやメッセンジャーを通じて、いつでも気軽にご相談ください。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

マタイの福音書25章の说教:どのように賢い乙女になって主を迎えるか

主イエスは言われた。「また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみ…

真の教会とは──どうすればヒラデルヒヤ教会が見つかるのか

世界は今や混乱状態にあり、あらゆる類の災害が人類を襲っています。そして多くの人々が、「主はもう再来されたのだろうか? もしもう再来されたのなら、なぜ私たちは大災害の前に携挙されないんだろう?」と悩んでいます。また、牧師や長老たちがいつも昔ながらの説教をしていたり、信者たちは信仰が…

今明かされる-十字架上で主イエスが言った『すべてが終った』の真の意味

イエスが十字架の上で『すべてが終った』と言ったのは、人類を救う神の働きが完了したという意味であったと多くの兄弟姉妹は信じています。しかし、本当にそうだったのでしょうか。イエスが『すべてが終った』と言った本当の意味は何だったのでしょうか。この記事は主イエスの十字架上の『すべてが終った』という言葉の本当の意味を明らかにします。どうぞお読みください。

コメントを残す