天国への道を見つけた

2020年8月10日

全能神は言われます。「人の世に誕生したイエスは恵みの時代を開始し、律法の時代を終わらせた。終わりの日において、神はもう一度肉となり、この受肉とともに、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開始した。神の二回目の受肉を受け入れられる人はすべて神の国の時代に導かれ、それ以上に、神の導きを直接受け入れることができるだろう。イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は明確です。主イエスが贖いの働きを行なったのは、人類の罪を赦すためで、人の罪深き本性は残されたままです。まだ私たちは、主から裁きと清めの働きを受け、真理を得て、罪深き本性を解決しなければなりません。それによって罪を捨て去り、神に抵抗せず従い、神を畏れるようになるのです。これが天国に入る唯一の道です。私はかつて神の働きを理解せず、私たちの罪は赦されたので、天に入れると思っていた。でも10年以上信仰しているのに、いまだに私は罪を生きている。神は聖く、聖くない者にはその姿は見えません。なのに私のように罪を生きる者も、天国に引き上げられるのか。混乱してしまってわかりませんでした。全能神の御言葉を読んで、自分は神の働きの最重要段階を逃していたことがわかった。つまり、終わりの日の裁きの働きです。信仰において、私たちは神の裁きを経験しなければなりません。そうして清められ、救われて、天国に入れるのです。これについて私の経験をお話しします。

幼い頃から教会に通っていた私は、主の御言葉について話す人々の交わりが好きでした。結婚後も、夫とともに教会の働きを最優先にし、教会の仕事に積極的に取り組みました。でもやがて気づいたの。牧師の説教は中身のない退屈なもので、彼は常に奉納物を催促し、私たちのいのちよりもお金を大事にしていることに。牧師や長老たちは地位をめぐって争い、互いに策を企てていたわ。次第に礼拝会に来る人の数も減り、来たとしても表面的な話ばかりして、説教の間に居眠りをする人も。私自身も主の導きを感じられず、教会の仕事もおっくうで、主の御言葉を実践できず、罪を生きていました。仕事から帰った夫がオンラインゲームばかりしているのを見ると、つい小言を言ったり、叱ったり、あれをしろ、これをしろと命令したりしました。夫が聞く耳を持たないとますます腹が立ち、もたもた動くのを見ると、さっさとしてと怒りました。夫はいつも「長年信仰しても、全然変わらないな」と私を非難しました。罪悪感を抱き、主イエスの御言葉を思った。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか(マタイによる福音書 7:3–4)。主は、「人の欠点に目を向けずに、わが身を振り返れ」とおっしゃいます。でも私は、夫やその態度に我慢できず、ついかっとなり、夫にケンカを売ってしまう。2人の夫婦関係は悪化し、私は苦しんでいました。神は言われます。「あなたがたは……聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である」(レビ記 11:44)。神は聖く、聖くない者に神は見えません。でも私は主の御言葉を実践できず、罪を犯し続け、その足かせから逃れられずにいました。私のような者が天国に行けるのか。そう考えて不安になりました。

一度礼拝のあとで、自分の問題について牧師に尋ねると、こう言われた。「心配するな。みな罪をたびたび犯すが、主イエスは人々の罪を赦してくださった。主に祈り懺悔を続ければ、天国に連れて行ってくださる」。それでも私の疑問は解けません。聖書には「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(へブル人への手紙 12:14)。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(へブル人への手紙 10:26)とあります。ここには、故意に罪を犯せば、罪のためのいけにえはないと明示されてる。では、常に罪を犯す人々は天に引き上げられるのでしょうか。私は罪を犯さずにいる方法が分からないので、忍耐力と包容力を磨こうと努めましたが、実践できずにいました。ふたたび牧師に助けを求めると、牧師は首を振り言いました。「罪を犯しては懺悔するという問題に解決策はないパウロもこう言っている。『なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』(ローマ人への手紙 7:18–19)。罪をやめられないならば、もっと主に悔い改め懺悔しなさい。私もあなたのためにもっと祈ろう」。この言葉を聞いて落胆し、主に祈りました。「主よ! 私は罪を犯したくない。でもどうしても自分を止められません。罪を生きるのは苦しいのに、やめ方がわからないのです。あなたに見捨てられるのを恐れています。どうかお救いください」。

人の終わりは、神の始まりです。2018年のある日、オンラインでスーザン姉妹と出会い、聖書について交わりました。彼女の聖書への見解と交わりには啓きがあり、私は自分の不安と問題を打ち明けることにしました。「私は長年、主を信仰してるのに、いつも罪を犯してばかり。天国に入れるか不安です。牧師は、『主イエスは人々を赦した、祈り懺悔し続ければ、再来した主により天に導かれる』と言うけど、私の心は混乱してる。あなたはどう思う?」彼女は言ったわ。「私たちが赦されたのは本当。でも清められ、罪を犯さなくなったわけじゃない。主イエスは言われました。『すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34–35)。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。主は、赦されたからといって天国に行けるとは言っていない。天の父の御旨に従う者だけが行けるのだと言っています。私たちの罪が赦されたから天国に入れるという人間の考えには根拠がない。信仰を続ける中で、ひとつ分かっていることは、人は信仰を得て罪を赦されても、罪を犯しては懺悔する状態を生き続けること。つまり、私たちは罪の足かせの束縛から逃れ、清められたわけではないの。聖い神が、罪を犯し神に抵抗する者を天国に入れることはない。神に従い、神の御旨に沿う者だけが入れるのです」。この交わりを聞き、思いました。「そうだわ。罪を犯し続ける者を天国に入れてしまったら、神は自らの聖さを表せない」。

彼女の交わりはさらに続きます。「どれほど祈って懺悔し、主の教えを実践しようとしても人はまだ罪に縛られています。その理由とは何でしょうか」。そして彼女は御言葉を読みました。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。……人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)

読み終えた後も、スーザン姉妹は続けます。「私たちが贖いを受け、罪を赦されても、私たちを罪に走らせるサタン的本性は解決していない。だから人は罪を犯し神に抗い、主の御言葉を実践できないの。恵みの時代、主イエスが人を罪から贖われたのは人が律法による断罪を逃れ、神の御前に出て神の恵みを享受する資格を得るためのものでした。主イエスが人の罪を赦しても私たちのサタン的本性は解決されなかった。人はいまだに傲慢で、不実で、邪悪そのものです。自分のことばかり考え、常に決定権を持ちたがり、自分の思い通りに他人を動かそうとする。人のしたことが気に入らないときは叱りつけ、抑圧する。いつも嘘をついて人を騙し、神に祈っても、空っぽの言葉を並べるだけ。神に従い神を愛すと口では言うけれど、何をしても自分の利益のため。自分を費やし犠牲にするのは、ただ神の祝福を得るため。神から祝福されると喜ぶのに、困難に直面すると、文句を言い、神を否定すらする。この堕落した性質は罪を犯すより邪悪なので、解決しない限り、人は悪を行いやすく、神に逆いやすい。罪深いままの私たちに、天国に入る価値はありますか? だからこそ主イエスは再来を約束された。全能神は主イエスの再来です。人類を救うためにすべての真理を表し、裁きの働きを行われる。これは堕落した人類のサタン的本性を解決し、罪を犯し神に抵抗する私たちの問題を根絶し、人を清め救い、天国へと連れていくためなのです。全能神の働きは主イエスの御言葉を実現しています。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12–13)。『わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:47–48)。またペテロはこう言います。『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙 4:17)。神の裁きを受け入れることで、真理を得て、清められ、そうして初めて天国に入れるのです」。

光にあふれ、聖書に忠実なスーザン姉妹の交わりに、納得がいったわ。恵みの時代、主イエスは贖いの働きだけを行なった。それは人類の罪深き本性を解決する働きではない。信仰がもたらすのは罪のゆるしだけなので、人は終わりの日の神の裁きを受け入れ、罪の根源を解決し、清められなければなりません。そのとき気づいたの。私にはまだ経験していない神の働きの段階があると。彼女から、「主イエスはすでに再来し、人類を清め、救い、天国に導くべく、裁きの働きを行うために真理を表しておられる」と聞かされ、興奮した私はすぐに聞きました。「神の裁きの働きは、どのように人を清めるのですか」と。

その時に彼女が読んだ御言葉を。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

スーザン姉妹は、こう交わりを続けました。「終わりの日に神は裁きの働きを行い、人類を清めて救うために真理を表し、神の働き全体の奥義を明らかにされる。神は人類の堕落の真相を暴露し、神に抵抗する私たちの本性を暴いて分析し、私たちの本性にあるサタンの毒とは何か、その毒が生む堕落した状態や思考とは何か、そしてそれを解決する方法を伝えておられます。神の御言葉は、神への服従や真の愛とは何か、そして誠実な人間になる方法を明確にします。また、堕落から抜け出し、救済を得る方法を示し、神の聖く義なる性質を明らかにします。神の裁きと刑罰を経験することで、私たちは真理を知り、自らの堕落の本質を理解できるようになるの。そしてサタンによる堕落の深さを嫌悪し、神の御前にひれ伏し、悔い改め、真理を実践するようになります。そうすると私たちの堕落した性質は少しずつ変化して、神への畏敬と服従を多少知ることで、罪を犯したり神に抗ったりすることが少なくなる」と。彼女の経験も話してくれたわ。自分が誰よりも有能と思いこみ、自己中心的で、人々に自分の観点を押し付け、歯向かう人を排除し、非難したスーザンは、周囲を苦しめ、抑圧していたそうです。でも神の御言葉の裁きと啓示によって、自分が「唯我独尊」といったサタンの法則を生きていたことに気づいた。とても頑固で、ごう慢で、自分の考えが真理だというように周りを従わせ、神への畏敬の念も持たず、理知に欠け、神と人々から嫌われていた。いつも人に言うことを聞かせたがった彼女の振る舞いこそ、サタン的性質です。うぬぼれたサタンは、神と同等でいようとします。人を支配し、従わせ、崇拝されることを望むので、神に呪われるのです。その本性と自分の問題の末路に気づいた彼女は恐ろしくなり、自分を憎み、真理を実践しました。謙虚な態度で人に接し始め、人を見下すことも抑圧することもなくなった。他の人々の意見を受け入れられるようになって、みんなとの関係も改善したそうよ。神の御言葉と彼女の経験の交わりを聞き、心が明るくなりました。神は、私たちの堕落した性質を裁き清めるために御言葉を用いておられる。私たちを救う神の働きは実践的です! 私は長年信仰しながら罪から逃れられず、深く苦しんでいましたが、ついに活路を見いだしました。

その後は、全能神の御言葉を読んだり、全能神教会が公開する映画を観たり、讃美歌を聴いたりするようになりました。神の御言葉を交わるために集会にも参加し、聖霊の働きを感じられました。それまで知らなかった奥義や真理を理解して、楽しんだわ。全能神は主イエスの再来だとわかりました。

さらに全能神の御言葉を読み、自分のごう慢な性質について理解しました。他の人を見下し、叱っていたのは、サタン的性質であり、神が嫌うことです。神に祈って悔い改めました。もう、そのような行動を取りたくなかったし、人の欠点を粗さがししたくなかった。それらは理知を欠く行為です。私の気に入らないことを夫がした時は、神に祈って心を静め、冷静に話をしました。ある日、夫が私に言いました。「全能神を信仰し始めてから、君は変わった! 前みたいに怒らなくなったし、冷静に話ができる」。心の中で神に感謝しました。私が変われたのは神の御言葉のおかげです。私が驚いたのは、それに気づいた夫が、全能神の御言葉を読み始め、全能神を受け入れたことです。そして夫は神の御言葉によって、オンラインゲームを通してサタンが人を誘惑し、支配し、堕落させるのだと知り、ゲームをする危険性を理解するようになり、ゲームに夢中にならなくなりました。もうケンカにはなりません。一緒に神の御言葉を読み、互いに交わり、困難があれば、神の御言葉に真理を求め、解決策を探します。全能神の裁きの働きは、私に必要なもの。その働きこそが、人を清め、完全に救うために重要なのです。天国に入る道を見つけることができたのです。神に感謝!

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