大きな白い御座の裁きが始まった

2022年7月15日

信仰を得た私は祈り方と聖書の読み方を学び始め、日々の生活で主の御言葉に精一杯従いました。その後、終わりの日の裁きに関する動画を沢山ネットで見ました。それらはヨハネの黙示録のこの預言に触れています。「また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた(ヨハネの黙示録 20:11-12)。終わりの日、主イエスは白い衣をまとって大きな白い御座につき、誰もがその前にひざまずきます。主は生前の行ないに応じて各人を裁き、罪ある者は地獄に落ちて懲罰され、罪なき者は天国へ引き上げられます。動画を見て主の裁きの場面が脳裏に浮かび、終わりの日における主の裁きはきっと動画のとおりだと信じ、主の教えに従おうと決意しました。主が戻られて裁きをなさるとき、私を天国へ迎えてくださるように。

2004年、大津波がインドネシアを襲い、二十万人以上が犠牲になりました。これは神の怒りで、裁きの日がすぐに来ると警告なさっていたのです。主を信じてからずっと私は主の教えを精一杯実践してきましたが、御言葉を実践することも、自分のように他人を愛することもできずにいました。義母が義妹に私の文句を言うのを聞くと、怒って恨みました。富を欲しがり世間の流行を追いました。聖書には「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)とあります。神は聖く、聖くない者は神のお顔を見られません。でも私は、いつも罪を犯しては告白し、罪をまったく取り除けなかった。再臨された主は私を裁いて地獄に落とされるでしょうか? そこで罪を犯す問題をどう解決すべきか、牧師に尋ねました。すると「主に祈り、告白して悔い改めれば、主は罪を赦してくださいます」と言われました。それでも解決せず、相変わらず罪を犯しては告白する有様。罪を犯すたび不安になりました。主は終わりの日に来られ、各人をその行ないによって裁かれる。罪を犯し続けたら、裁かれ断罪されてしまう。どうして天国に入れるの? 私は本当に不安でした。

2018年2月、夫がオンラインの集会に出始めました。毎日とても幸せそうで、信仰にもますます熱が入りました。それで私は、集会で何を話し合っているのか興味を覚えました。ある日、夫が言いました。「主イエスは全能神として戻られた。裁きの働きをなさっているんだ」。私は驚きました。主がお戻りになったのなら、空の大きな白い御座につき、一人ひとり裁かれるはず。そんな場面は見たことないのに、どうして終わりの日の裁きがもう始まったっていうの? それを夫に話すと、ただ笑ってこう言いました。「神による終わりの日の裁きの働きは、僕らの想像と違う。神は受肉して降臨し、真理を表わし僕らを裁かれているんだ」。でも、疑問はさらに膨らみました。御言葉を表わして裁くなんてどういうこと? 牧師や長老もそんなことは言っていない。夫は全能神による終わりの日の働きを受け入れたばかりなので、うまく説明できず、そこで全能神教会の人たちに会ってほしいと言いました。最初は嫌でしたが、ちゃんとした考えをもち、信仰熱心な夫が主は戻られて裁きの働きをされていると信じるんだから、きっと理由があるはず。主が本当に戻られたかどうか確かめようと、集会に出ることにしました。

集会で、全能神教会の劉姉妹が私の疑問に答えてくれました。「ヨハネの黙示録にある大きな白い御座の裁きはヨハネがパトモス島で見た幻で、神が終わりの日になさる働きを預言するものです。神の働きの事実を示したのではありません。自分の観念や想像でこの預言を理解しようとしてはいけません。聖書にこうあります。『聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである』(ペテロの第二の手紙 1:20-21)。預言に対しては、神を畏れる心をもたねばなりません。預言は神に由来し謎に満ちているので、その意味を明かせるのは神だけです。成就して初めて人にも理解できるのです。預言を文字通り解釈すれば、神の働きを規定し、神に背くことになるでしょう。パリサイ人は聖書の文字通りの意味にこだわり、メシアは宮殿に生まれて権力を握ると想像しました。でも事実はその反対で、主は宮殿に生まれなかっただけでなく、大工の息子として飼い葉桶で生まれ、権力を握ることもなかった。パリサイ人はあくまで自分の観念にしがみつき、主がメシアだと認めようとしませんでした。主の御言葉と働きには権威と力があり、神に由来するとわかっていながら、主に抵抗して断罪し、最後は十字架にかけました。神の性質に背き、神に呪われ懲罰されたのです。私たちはパリサイ人の教訓から学び、自分の観念で預言を理解し、神の働きを規定してはいけません」。

姉妹の話には光があり、聖書と一致していると思いました。預言は神に由来し、神の考えは人の考えよりも崇高で、神のお知恵もそうなのです。預言が具体的にどう成就するか、ご存じなのは神だけです。人がどうして神の働きを推し測れるでしょう。自分の観念で神の働きを規定してはいけないと気づいて、姉妹に訊きました。「神は終わりの日に受肉して降臨なさり、真理を表わし裁きの働きをなさると証しされましたが、それはどういう意味ですか? 聖書にある大きな白い御座の裁きとどうつながるんですか?」

すると姉妹は次の聖句を読みました。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』(ヨハネの黙示録 14:6-7)。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネによる福音書 5:22)。「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった(ヨハネによる福音書 5:27)。「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)。そしてペテロの第一の手紙も。「さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)。続いてこう交わりました。「『彼は地に住む者……に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて』『神のさばきの時がきたからである』そして『さばきが神の家から始められる』という聖句から、神が終わりの日に降臨し、裁きの働きをなさるとわかります。また、『子にさばきを行う権威をお与えになった』とありますが、『子』『人の子』というのは、人に生まれて普通の人間性があるという意味です。主イエスのように、外見は普通の人のようでも、神の霊と神性の実質が内にあるのです。神の霊も霊体も、人の子とは呼べません。これらの聖句は神が終わりの日に人の子として受肉し、真理を表わし裁きの働きをなさること、その裁きが神の家から始まることを証明しています。神の声を聞いて御座の前に出る人がまず裁かれるという意味なのです」。

そして全能神の御言葉を読んでくれました。「神は人間を一人ひとり裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。人類の堕落はどれも同じではないか。人類の実質はすべて同じではないか。裁かれるのは人間の堕落した実質、サタンのせいで堕落した人間の実質、そして人間のあらゆる罪である。神は些細で取るに足らない人間の過ちを裁かない。裁きの働きは代表的なものであり、特定の誰かのために行われるものではない。そうではなく、この働きでは、一群の人々が全人類を代表して裁きを受ける。受肉した神は一群の人々に自ら働きかけることにより、自身の働きを用いて人類全体の働きを代表し、その後、その働きは徐々に広まる。裁きの働きもそのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、人類全体の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害などである。裁かれるのは人類による神への敵対の実質であって、この働きが終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に行われる大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が着想したものだが、受肉した神が現在行っている働きこそまさに、大きな白い玉座の前での裁きなのである(『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」〔『言葉』第1巻〕)。「現在の征服の働きは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図する。なぜわたしは今日の刑罰と裁きは、終わりの日における大いなる白い玉座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階なのか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることではないのか。それは、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程において、あらゆる人が自分のありのままの姿をあらわし、その後それぞれの種類に分類されるようにするためではないのか。人類の征服というよりも、これはむしろ各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方が良いくらいである。つまり、これは人の罪を裁き、それから人の様々な種類を明らかにし、それにより、人が悪であるか義であるかを判定することである。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は、神の働きを全宇宙に広める次の段階に配置される。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を浴びることがない。義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。「多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)

そして姉妹はこう話しました。「神がなさる終わりの日の裁きの働きは私たちの想像と違い、みながひざまずき、神が私たちの罪を一つずつ暴いて、天に昇るか火の湖に落ちるかを決めるのではありません。神が人をこのように裁かれるなら、天国へ入る資格は誰にもないでしょう。私たちはサタンによって深く堕落し、サタンの性質でいっぱいです。なので主を信じて善行を重ね、親切に振る舞い、主のために福音を広めて苦労しても、罪深い本性がいまだ内にあり、罪を犯しては告白し、主の教えを守れません。自分が望むことを主がなさらないと、私たちは主を責めます。自分の利益と体面のため、嘘をついて騙します。自分の利益が影響を受けると、人を憎んで復讐します……聖書にこうあります。『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル人への手紙 12:14)。私たちのように罪深い人が天国に入れるでしょうか? 神が私たちの今の振る舞いを基に裁いて断罪なさったら、みな懲罰されて滅ぼされるのでは? 人類を罪から徹底的に救うべく、神は人の子として再び受肉され、終わりの日に密かに来られました。それが全能神で、真理を表わして裁きを行ない、人類を清められます。これがヨハネの黙示録にある、大きな白い御座の裁きなんです。神は裁きの働きをなさるにあたり、まず受肉されて真理を表わし、人を清めて救い、勝利者の一団を作られます。そして大災害をもたらし、善に報いて悪を罰し、この悪しき古い時代を滅ぼされます。最後に万民の前に公然と現われ、裁きの働きは終わります。大災害が降り注ぐとき、それは大きな白い御座の裁きが始まるときでなく、終わるときなのです。そのとき、神が密かに働きをなさる中、御言葉の裁きによって堕落した性質が清められた人はみな、神の加護で災害を生き延び、神によって御国へと導かれます。密かな働きの間、全能神を拒んで断罪する人は、前例のない災害で一掃され、泣きわめいて歯ぎしりしながら懲罰されます」。

この交わりを聞いて心が明るくなりました。神による終わりの日の裁きの働きは私の想像と違い、神が大きな白い御座について一人ずつ裁き、天に昇るか地獄に落ちるか決めるのではありません。神の裁きの働きは何段階かに分かれます。まずは真理を表わして人の罪深い本性を根絶し、人を清めて救い、悔い改めて変わる機会を与えます。そして公然と現われ、善に報いて悪を罰します。頭にあった大きな白い御座の光景は神の裁きの働きが終わる場面なのです。神による終わりの日の働きをその時まで受け入れなければ手遅れで、救いの機会を逃すでしょう。全能神による終わりの日の働きを調べたほうがいいと思い、姉妹に訊きました。「神はどのように人を御言葉で裁いて清めるのですか?」

すると全能神の御言葉を読んでくれたので。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

そして交わりを続けました。「真理を表わし、人を裁いて清める働きをなさる中で、神はただ言葉を述べたり文章を書いたりするだけではありません。人類を清めて救うすべての真理を表わされるのです。サタンは人をどう堕落させ、神は人をどう救うのか、神が祝福する人、淘汰する人は誰か、誰が救われて天国に入れるのかといった真理を明かされます。特に神に抵抗する人のサタン的本性を暴いて分析し、人が抱えるサタンの性質と毒を完全に明かされます。御言葉の啓示と裁きの中に、サタンによる堕落の真相を見て取れるのです。また神に抵抗する罪深い本性とその根源を知り、傲慢、不実、邪悪、真理への憎悪といったサタン的性質がどれほど深く根ざしているかがわかります。たとえば、私たちは主のために自分を費やし、未信者の嘲笑と誹謗に耐えられ、収監されても主を否定せず、なおも天国の福音を宣べ伝えますが、厄災が襲って将来の見込みが暗くなると、文句を言って神を責め、それまでの努力を後悔し、神を拒んで裏切りさえします。自分の努力は単に神の恵みと祝福を得て、冠を受けて報いられるためだとわかるのです。そうした努力は不純です。神と取引して主を騙しているだけです。そのとき初めて、サタンにどれほど堕落させられたかがわかり、神を畏れず良心も理知もないことに気づきます。神の裁きと刑罰を経験することで、義と威厳に満ちた神の性質を認識し始めます。神を畏れ、心から自分を憎み、進んで肉を捨て、真理を実践するようになります。堕落した性質も清められてゆき、真に人間らしく生き始めます。御言葉によって何年も裁かれた人は神の裁きが人を本当に清めて変えられること、それが人への愛と救いであることを心から知るようになります」。

姉妹の交わりから、神の裁きの働きはまさに実践的だとわかりました。神は実際に御言葉を表わし、私たちの堕落と罪の根源を裁いて暴かれ、変わる道を示し、私たちを清めて救われます。以前は罪を犯すたび、主に赦しを求めるだけで、また罪を犯さずにはいられなかった。神による終わりの日の裁きを受け入れていなかったからです。今ようやく、罪を取り除いて清められる道を見つけました。

その後、全能神の御言葉だけでなく、兄弟姉妹の証しもたくさん読みました。そして全能神の御言葉は真理で、人を清めて変えられると確信したのです。全能神こそ再臨された主イエスだと気づき、全能神による終わりの日の働きを受け入れました。振り返ると、私は想像の中で生き、主が大きな白い御座の裁きのために来られるのを待っていました。主がすでに密かに戻られ、真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きを始めたとは知らず、神による終わりの日の救いを逃すところでした! 私は神の慈悲と優しさに感謝しました。おかげで御声を聞き、御座の前に引き上げられ、キリストの座の前での裁きと清めを受け入れたのです。全能神に感謝!

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