小羊の足跡をたどる

2020年8月10日

神を信じている以上、人間は神の歩調に一歩ずつしっかり従わなければならない。人間は『子羊が行く所はどこへでもついて行く』べきなのである。このような者たちだけが真の道を求める人々であり、聖霊の働きを知っている者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は、聖霊の働きによって淘汰された者である。各期間において、神は新たな働きを開始し、また各期間において、人間には新たな始まりがある。もしも人間が、『ヤーウェは神である』または『イエスはキリストである』というような、それぞれに時代にのみ当てはまる真理に従うだけであれば、人間は聖霊の働きと歩調を合わせることが決してできず、聖霊の働きを得ることも永遠にできない。子羊の歩みに最後まで従う者のみが、最終的な祝福を得られる(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の歩調に信者はしっかり従わなければ」)。御言葉が示すように、神の働きと足跡を追うことは重要です。かつて私は真理を理解せず、自分の想像に固執し、主イエスの御名に忠実であれば、主が天国に導いてくれると考え、全能神による終わりの日の裁きの働きを求めず、主を迎える機会を逃すところでした。

あれは、2012年8月のある日、夕食後、ベッドでくつろいていると、反対側でヘッドホンをしている妻の方から、耳に残る旋律が聞こえてきました。「これは何だ? 何を聴いている?」と聞くと、妻は「全能神教会讃美歌よ」と言った。私は体を起こし、問いただした。「全能神だって? 主イエスを裏切ったのか?」と。妻は厳しい声で即答しました。「何も知らないくせに。主イエスは再来されて、神の国の時代を始め、恵みの時代を終わらせた。全能神は主イエスの再来。だから私は主を裏切っていない。小羊の足跡を追っているだけ。聖書に、『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く』(ヨハネの黙示録 14:4)とある通り。考えてみて。主イエスが現れて働きを行なった時、多くの人が聖殿を離れ、その働きを受け入れた。それはヤーウェ神への裏切りだった? ヤーウェ神を裏切らず、神の働きに従い、みんな主に救われた。聖書の律法に固執し、主イエスを非難したのは、自分たちをヤーウェ神の敬虔な信者と信じる、祭司長、文士、パリサイ人たちで、彼らは神に呪われ、懲罰を受けた。本当に気づいてないの?」と。そのときはどう反論していいかわからず、「主は多くの恵みを与えてくれた。私たちは何としてもその御名と道に従うべきで、恩知らずな真似はできない!」そう言うと、怒りにまかせ部屋を出ました。妻を止めようと娘に一部始終を話すと、娘は私の味方をしました。その日、妻の集会に現れた娘は、そこで騒ぎを起こしました。帰宅後にそのこと知り、娘に言いました。「よくやった、その調子だぞ。私が仕事の間、母さんを見張ってくれ。主イエスの信仰に連れ戻す道を見つけなければ」と。しかし数日後、娘の学校が始まりました。妻がますます集会に行くのではと心配し、10歳の息子に小遣いを渡して、妻が集会に行かないか見張りをさせました。帰宅後、その日妻がどこへ行ったか報告を受け、出勤していたという話に少し安心し始めた矢先、変わったことがありました。妻が麻雀をやめ、代わりに家を掃除し、畑仕事まで終わらせている。不思議でした。妻はいつも麻雀にふけり、家事を怠り、私がいくら言っても改めなかった。妻自身が主に祈り告白しても、変わらなかった。そんな妻がなぜ変わったのか? 見当もつかなかった。

ある夜、目を覚ますと、カーテンに一筋の光が見えたのです。何の光だろうと思いました。光は妻の布団の中から来ています。「一体何をしてるんだ?」と思いました。静かにベッドを出て、忍び足で反対側に行き、布団の中をのぞくと、妻は懐中電灯の明かりで本を読んでいました。「今も全能神を信じてるのか? まだ本を読んでいるなんて。こうまでして読みたいと思う理由は何なんだ? 私が反対してもなぜ信じ続ける?」理解できなかった。麻雀が大好きで家事を怠っていた、かつての妻の姿が再び頭をよぎった。「何が起きた? あの本が妻を変えたのか?」そしてこう思った。「よし、何が書いてあるのか読んでみよう」と。ある日、朝食を終えた妻が出かけたあとで、私は思い立ち、すべての引き出しを開け、家中を探し回りました。でもあの本が見つかりません。服の間に隠しているかもと思い見てみると、やっぱりありました。取り出すと、分厚いハードカバーの本でした。『言葉は肉において現れる』本を開くと、ある1つの章に心惹かれました。「神は全人類の運命を支配する」最後まで読み、特にこの一節に深く感動した。「すべての民族、国家、そしてあらゆる業種の人々が神の声に耳を傾け、神の働きに目を向け人類の運命に留意することで、神を至聖、至尊、至高たる、人類唯一の崇拝の対象とし、アブラハムの子孫がヤーウェの約束の下に生きたように、最初に神が造ったアダムとエバがエデンの園で暮らしたように、人類全体が神の祝福の下に生きることができるようにすることをわたしは強く勧める。神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける(『言葉は肉において現れる』)。こう思いました。「こんな力強い言葉は、人間が発した言葉ではない! 聖霊の御言葉なのか? 全能神は主イエスの再来だと妻は言った。全能神への信仰は、小羊の足跡を追うことだと。それが本当なら、妻を邪魔する行為は神に抵抗する行為だ。それではパリサイ人と同じではないか? パリサイ人は律法に固執し、主イエスを受け入れず、主を激しく非難し、磔に協力し、神から呪われた。もし全能神が本当に主イエスの再来なら、神の新たな働きに抵抗することは罪では? このままでは恐ろしいことになる!」その本にはこうありました。「神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる」。「やみくもに全能神の働きを決めつけず、この本をよく読み、調べよう」と思いました。

それ以降、妻の留守のたびに『言葉は肉において現れる』を読みました。ある日、妻が残業になるというので、本を読もうと思い、仕事を早く終わらせ、自転車で急いで帰宅しました。そして次の一節を目にしたのです。「わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである(『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」〔『言葉』第1巻〕)。「今日の働きは恵みの時代の働きを推し進めてきた。すなわち、六千年にわたる経営(救いの)計画全体における働きが前進したのである。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると、わたしが繰り返し言うのはなぜか。これは、今日の働きが恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものだからである。これら三つの段階は密接に結びついており、それぞれがその次の段階に繋がっている。また、今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築かれていると、わたしが言うのはなぜか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築かれたのでなければ、この段階でもう一つの磔刑が起きていなければならず、過去の段階における贖いの働きも一からやり直す必要があるはずだ。これは無意味なことだろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きの水準が以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代を基礎とし、イエスの働きという岩盤の上に築かれると言うことができるだろう。神の働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三段階の働きが結合して初めて六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)。これを読み、妻が正しいのではと思い始めた。全能神の働きは、主イエスの働きを基礎としているのか? 恵みの時代の働きを前進させるのか? 好奇心を刺激され、知りたくてたまらなくなり、機会を見つけては、こっそり本を読み続けた。

皆さんと共有したい一節を読みますね。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、いったいどのように降臨するのだろうか。贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいないあなたがたのような罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたが、イエスによって救われ、神の救いのおかげで罪人と見なされなくなったことは事実だが、これは、あなたに罪や汚れがないという証拠ではない。いまだ変わっていなければ、あなたはどうして聖いものとなれるのか。あなたの内側は汚れに満ち、自分勝手で卑劣である。にもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではあり得ない。あなたは神を信じる上で一つの段階を見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。さもないと、罪から贖われただけのあなたは、聖さを得ることができない。このように、神のよき祝福を共にする資格はあなたにない。と言うのも、神が人を経営する働きの一段階、つまり変化させ、完全にするという重要な段階を逸したためである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたが、神の嗣業を直接受け継ぐことはできない(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。これは本当に実践的に思えた。そして考えたのです。信仰の間、私は告白しては罪を犯し続けた。罪から逃げられない自分が、果たして天国に行けるのかと。「もしこれがすべて真実なら? 私には足りない段階があるのか? 主の働きを受け入れるだけでは不十分なのか?」そう思い、読むほどに、この本には作りものでない真理があると感じた。本当に神の御言葉なのか? この考えに駆り立てられ、私はさらに読み進めた。

その後、もう私が全能神に反対していないと気づいた妻は、隠れて読むのをやめ、私に聞こえるよう声に出して読むことさえありました。ある日、家に帰ると妻が御言葉を読んでおり、私を見てうれしそうに、「あなた、全能神の御言葉を読みましょう。『言葉は肉において現れる』は終わりの日の神の御言葉で、私たちが理解できなかった真理をすべて示しているの。読んであげるわ」と言いました。私は、「僕はもう、きっと君と同じくらいは読んだよ」と心で思った。私が反対しないので、妻は読み始めました。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「ヤーウェの働きからイエスの働きに至るまで、イエスの働きからこの現段階の働きに至るまで、これら三段階は神の経営全体を隙間なく覆うものであり、またそのすべてが一つの霊による働きである。創世以来、神は常に人類の経営にいそしんできた。神は初めにして終わりであり、最初にして最後であり、時代を始める存在にして時代を終わらせる存在である。異なる時代、異なる場所における三段階の働きは、間違いなく一つの霊の働きである。これら三段階を切り離す者はみな神に敵対している。今、第一段階から今日に至るまでの働きが、すべて一つの神の働きであり、一つの霊の働きであることを、あなたは理解しなければならない。そのことに疑いの余地はあり得ない(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)。詳しい説明を妻に頼むと、驚いた顔で説明してくれました。「全能神への信仰は主イエスへの信仰であり、ヤーウェ、主イエス、全能神は同じ神。神は異なる時代に異なる働きをする。律法の時代、地上で暮らす初期の人類を導くため、ヤーウェ神は律法を発し、罪とは何か、神を敬うとは何かを教えた。しかし律法の時代の終わりには、罪を犯すものが増え続け、誰も律法を守らず、みんな死の運命にさらされていたそして恵みの時代、神は肉となり、人々の罪を贖って人類を救い、おもに憐れみと愛の性質を表わし、人に恵みを授けた。そして最後は、罪の捧げものとして十字架にかけられた。人が罪を犯したときは、告白し、悔い改めれば赦される。しかし主イエスは、人類の罪を贖っただけで、罪深き本性は解決していない。人類はいまだ嘘をつき、罪を犯してばかりで、ごう慢で利己的で欲深く、目立ちたがる犠牲を払い、苦しみを受けた信者でさえも、その動機は、天国で祝福を受けるため。大きな災難や試練に直面すると、主を責め、裏切ることさえある。神の働きが自らの観念と異なる場合、神を論断し、非難し、抵抗する。聖い神に対し、罪を犯し抵抗する人々は、天国に行けますか? だから主イエスは、終わりの日に再来し裁きの働きを行うと約束した。全能神は終わりの日に現れ、裁きの働きを行うために真理を表した。主イエスの働きを基に、神の家から始まるその働きにより、人類の罪深き本性と堕落は清められ、人類は完全に救われ、罪から逃れられる。これは主イエスの預言の通りです。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12–13)。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)。時代も、働きも、御名も異なるが、すべて同じ神なのです。律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代という働きの3段階は、段階を追うごとに深みを増し、各段階がその前段階を基礎とし、すべてが密接に関係している。3段階そろって、初めて人類が救われる。だから全能神への信仰は主イエスへの裏切りではなく、神の働きの段階を追い、主を迎えるということなのです」。

妻の交わりを受け、2人で動画を観ました。全能神は言われます。「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)。これを観て、心が明るくなった。ヤーウェ、主イエス、全能神はひとつの神で、異なる時代に異なる働きを行っている。律法の時代のヤーウェ神の働きは律法の布告。恵みの時代の主イエスの働きは全人類の贖罪。終わりの日の全能神の働きは真理で人類を裁き清めること。神は、人類の需要に応じ、この3段階を通して人類を救うのです。全能神が主イエスの再来であり、受け入れることは小羊の足跡を追うことだと確信しました。興奮した私は妻に言いました。「全能神への信仰が主イエスへの裏切りじゃないことがわかった!」と。そしてついに、全能神の御言葉を読んでいたことを明かしました。

妻は驚き、言いました。「いつから? 全然気づかなかった」と。すぐには答えられず、頭を下げて静かに言いました。「君が全能神を信仰し始めた時、ただ止めるばかりか、子どもたちに君を見張らせた。そのことをとても後悔している。それは神に抵抗し、逆らうことだ憐れみ深い神は、それでも私を御言葉に導いてくれた。確信したよ。全能神は主の再来で、私たちが待ち望んでいた神だ! 全能神を受け入れるよ」その夜、感動に震えながら、全能神の御名を呼び、祈りました。「私をお選びになり、あなたの足跡をたどり小羊の祝宴に参加させて下さったことを感謝します!」

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