天国への道をふさぐのは誰だ

2023年10月6日

2020年8月、ある姉妹に招かれ全能神教会のオンライン集会に参加しました。全能神の御言葉を読み、深く調べてみて、全能神の御言葉が神の声であり、全能神は主イエスの再来だと確信しました。とても感動し、胸が躍りました。私の兄弟も主の再来を待ち望んでいたので、早くこの知らせを伝えよう、そうすれば一緒に終わりの日の神の働きを受け入れられると思いましたそこで、まずは私が3番目の兄に福音を広め、その兄が、教会指導者である一番上の兄に主の再来について伝えました。驚いたことに、この話を聞いた一番上の兄が、その夜、急いで私の家にやってきたのです……「ホセア。お前、主イエスがすでに再来して、働きの新たな段階を始めていると言ったか?そんなことあるわけないだろう?主イエスはすでに人の罪を赦したのだから、再来したら、人をそのまま天国に引き上げるんだぞ。なぜ新たな働きなんかするんだ?」「兄さん、僕に怒らないで。兄さん、主イエスは人の罪を赦すけど、人はまだ罪を犯し、その罪深い本性は消えていない。神は言われます。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:45)。兄さん、聖くなければ主をみることはできず、罪を清めなければ天国にいくこともできないんだ。罪深い本性を解決して、罪を根源から取り除くために、神の裁きの働きが必要なんだよ」。「主イエスは人の罪をすべて背負って磔にされたのだから、主にとって人は罪びとではないんだ。人はまだ清められていないと言うが、それはお前の考えだろう。聖書には書いてないぞ。聖書にはこうあるだろう?『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』(ローマ人への手紙 10:10)。主を信じることで人は救われているんじゃないのか?なぜ主は新たな働きをする必要があるんだ?」「兄さん、今のはパウロの言葉で主イエスの言葉じゃないよ。主イエスは、信仰によって救われた人が天国に行けるなんて言っていない。主イエスは、どんな人が天国に行けるかをはっきりさせているよ。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)。兄さん、天国に入るには神の御旨を行い、御言葉に沿った行動をする必要がある。僕たちはこの基準を満たしていると思う?人はいまだに多くの罪を犯し、主の言葉を実行できていない。主イエスは隣人を自分のように愛せと言ったけど、できてるかな?人を愛するどころか、嫉妬したり憎んだり。いつも罪のなかを生きている。天国に入る資格なんてないんだ。だから神は終わりの日に再来して言葉を発し、裁きの働きをするんだよ。人の罪深い本性を取り除き、罪を根源から解決して、人を徹底的に清め、すくうために。主イエスはこう預言している。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)。聖書にもこうある。『さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)」。「もういい!再来した主が働きの新たな段階を行うと言うが、それなら主イエスの贖いの働きは無意味だったのか?まったくの無駄だったのか?」兄の言葉を聞いて、少し不安になりました。どうすれば兄は神の働きを理解し、観念を捨てられるだろう?その時、全能神の御言葉が頭に浮かびました。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉で不安が消え、心が明るくなり、兄にこう言いました。「神が終わりの日に再来し裁きの働きをするからって、主イエスの贖いの働きが無意味だったことにはならない。主イエスが人の罪を赦したので、人が律法に裁かれ、処罰されることはなくなったけど、主イエスが行ったのは贖いの働きだけで、人を清め救う働きはしていないんだ。人はまだ罪の中を生きている。終わりの日の神の裁きの働きがなければ、罪から逃れて天国に入ることはできない」と。反論できない兄は、腹を立ちまぎれに言いました。「全能神を信じて日が浅いわりに、多くを学んだようだな。何を言ってもどうせ反論されるのだから、もう何も言うことはない!」そういって、怒りながら帰っていきました。私は、「兄さんは長年主を信じていて、主の再来を待ち望んでいるのに、主が再来してと聞いても、調べようともせず、あんなふうに怒るのはなぜだろう?宗教的観念がありすぎるから、すぐには受け入れられないのかも。また今度交わりをしてみよう」と思いました。

その後、私の全能神への信仰を知った義理の姉2人が家にやってきました……「ホセア、あなたは全能神を信じていて、主の御名ではなく全能神の御名に祈るのよね。それは主を裏切る背教者だわ」。「義姉さん、そんなことをいうのは、2人がまだわかってないからだよ。全能神の御言葉もまだ読んでいないし、全能神が主イエスの再来ということも知らない。全能神と主イエスは同じ霊で同じ神なんだ。神は時代ごとに違う名前を使う。律法の時代、神の名はヤーウェだったけど、恵みの時代にはイエスだった。名前が違うから主イエスとヤーウェは同じ神ではないと言える?主イエスを信じることはヤーウェ神への裏切りになる?全能神と主イエスとヤーウェはみんな同じ神なんだ。姉さん、この動画を観れば、理解できると思うよ」。全能神は言われます。「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである(『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉が終わると、義姉たちに交わりをしました。「神の御名は時代や働きの段階とともに変わります。神は時代ごとに違う名前をもちます。1つの時代に1つの名前があり、その名前がその時代の神の働きを表しています。律法の時代には、神はヤーウェという名前で律法を発布し、人の地上生活を導きました。恵みの時代、神の霊は主イエスとして受肉し、人のために贖いの働きを行いました。終わりの日には、神は全能神として受肉し、真理を表すとともに、人を裁き清める働きをします。一見、神の名前も働きも変わったようですが、神の本質は不変です。すべて、人を救うために働く同じ神なのです」。その時、こんなたとえ話を使いました。例えば、病院で働く「医師」と呼ばれる人が、学校で教えることにしたら今度は「先生」と呼ばれ、その後、教会で教えを説けば「牧師」と呼ばれます。つまり、仕事や他の人からの呼び方は変わりましたが、その人自体はすべて同じ人物なんです。同じように、神は時代ごとに違う名前を使いますが、神の本質と身分は変わらず、同じ神なんです。全能神の御名に祈っても、主を裏切る背教者にはなりません。主を迎え入れ、その足跡についていくのですから。話をしていると、一番目の兄と三番目の兄が突然やってきました。上の兄は怒りながら話を遮ります。「これ以上こいつと話すな。説得なんかできないんだから。何を言っても反論されるんだから、無駄なことはやめろ」。「ホセア、その信仰は間違ってる。もうやめろ」。「全能神が主イエスの再来というなら、牧師に福音を広めたらいいわ。もし牧師が真の道だと言えば、私たちも信じる。そうでないなら教会に戻って、私たちと同じ信仰をもつのよ。血の繋がった兄弟がばらばらになるのはよくないわ」。兄や義姉たちが牧師を崇拝している様子を見て、言いました。「神を信じる者は、何よりも神に従い、神を尊ぶべきで、人の話をむやみに信じるべきじゃない。特に主を迎えるにあたっては、牧師に決めさせるわけないはいかないよ。主イエスは、神の羊は神の声を聞くと言った。主を迎えられるように、神の声を聞くことに集中しなきゃだめなんだ」と。そしてこうも言いました。「主イエスが働きのために来た時、ユダヤ教の信者は神の声を聞こうとしなかった。盲目的にパリサイ人に従い、主イエスを拒絶し、非難し、その結果、主の救いを失った。この教訓を活かさなきゃ」と。でも私が何を言っても、兄や義姉たちは耳を貸さず、牧師が間違うはずがないと言い張ります。その態度を見て思いました。「これほどまでに牧師を崇拝しているなら牧師が受けいれれば、みんなも受け入れるかも」と。

2021年1月のある日、牧師と指導者が家に来たので、よい機会だと思い福音を広めました。「マタイによる福音書の24章37節にこうあります。『人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう』。これは24章44節です。『だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』。ルカによる福音書17章24節、25節には、『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』。預言に『人の子の現れる』や『人の子が来る』。とありますが、人の子とは誰なのでしょう?人の子とは受肉した神のことです。主イエスが人の子だったのは、神の霊が受肉したからであり、霊が人の子と呼ばれることはできません。預言では、主は終わりの日に人の子として再来するとあり、これは肉として現れるということです。復活した主イエスの霊体が雲に乗って降臨し、偉大な栄光とともに現れたら、主を拒絶し非難できる人などいないでしょう。でも主イエスはこう言っています。『彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』。この預言はどういうことなのでしょう?神が受肉し、正常な普通の人間の外見を持つ人の子として現れ、人が認識できなければ、拒絶され非難されることはありえます。したがって、主イエスの預言によれば、主イエスは終わりの日に受肉して再来します。これは揺るぎない事実です」。「聖書に書かれた『人の子』というのは、主イエスのことだ」。「エリアン兄弟、主イエスははっきり言っています。この預言は主の再来のことで、主イエスのことではありません」。「聖書でも名言されています。『そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう(マタイによる福音書 24:30)。主は雲に乗って現れるが、君は受肉して現れるという。矛盾していないか?我々が待っているのは、雲に乗った主イエスだ。その時は近い。すでにあらゆる災害が現れている。間もなく主が雲に乗って現れ、人を天国に連れていくだろう。長年主を信仰してきて、もうすぐだという時に、君は、全てを捨てようとしている」。「ジャクソン牧師、今仰った預言も真実ですが、神の受肉は主が雲に乗って現れることと矛盾しません。私も最初はわからなかったんですが、全能神の御言葉を読んで気づいたんです。主の再来には2つの段階があり、まず最初に人の子として人知れず現れて、真理を表し裁きの働きを行い、勝利者の一団を作った後で、神が災害をもたらし、善を称え悪を罰します。災害の後、神は雲に乗って万人の前に姿を現すのです。そしてこの時、全能神を拒絶し非難した全員が涙を流し歯切りをします。つまり、主が雲に乗って現れるという預言と完全に符合します。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)」。牧師たちは驚き、言葉がでませんでした。そこで、全能神の御言葉を読みました。「天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることである。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)。神の権威ある言葉を聞いて、その場にいた人全員が驚きました。しばらくして牧師が口を開きました。「これが神の新たな言葉だと言ったか?まさかそんな。神の言葉はすべて聖書にあり、聖書以外には神の言葉は存在しない。もしあれば、それは聖書に書き加えられたものだ。黙示録にもはっきり書かれています。『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる(ヨハネの黙示録 22:18-19)」。「ジャクソン牧師、何も書き加えず、何もとり除かないというのは、黙示録の預言にむやみに言葉を足したり、言葉をひいてはいけないという警告で、神の御旨が新たな言葉を発しないという意味ではありません。主イエスも言っています。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。主イエスははっきり言っています。終わりの日に主が再来した時、多くの言葉を発し人をすべての真理に導くと。あなたの理解のとおり、終わりの日に再来した主が言葉を発さず、働きをしないなら、先ほどの主イエスの預言は成就されなくなります。神は真理であり、生命の源であり、生きた水が常に湧きでる泉です。神の言葉と働きを聖書に限定し、聖書の言葉しか口にしないと決めつけることは、神の力を制限し、神を貶めることになりませんか?」ジャクソン牧師は私の言葉を聞いて黙ってしまいました。私は思いました。「前は牧師を崇拝していた。聖書を熟知し、神への知識もあると思っていたのに、まさか、聖書を理解せず、神の働きを限定するなんて」。失望しました。

話し合いを重ねても、私の信仰が揺るがないのを見た牧師は、誤った考えを持ち出し私を惑わそうとしました。私は御言葉で反論し、終わりの日の神の働きの証しをしましたが、まったく耳を貸そうとしません。いくら話しても、私の気が変わらないので、ジャクソン牧師は黙ってしまいました。一緒に来ていたエリアンが言いました。「ホセア、全能神を信じるのをやめなさい。我々は君のいのちに責任がある。君のために言ってるんだ。道を踏み外してほしくない。君のように聖書に詳しい人が教会指導者になり、働きを担当してくれたらうれしいんだが」と。それを聞いて、聖書の中で悪魔が主イエスを誘惑するために使った言葉を思い出しました。「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』」(マタイによる福音書 4:8-9)。教会指導者などというのは悪魔の誘惑です。名声と地位で釣れば、私が言うことを聞くと思ったんでしょう。彼らには名声と地位が重要なのですから。主の再来の知らせを聞いても、調べようともせずに私を真の道から引き離そうとするなんて、本当に狡猾です!だから拒絶しました。「教会にはもう戻りません。主イエスは新しい働きを行うために再来し、恵みの時代の教会で働きを行うことはありません。これ以上教会に行って何になるでしょう。神の新たな働きを受け入れ、神に従わなければ、主に見捨てられ、淘汰されます。主イエスが働きのために現れたとき、使徒たちは主イエスの言葉を聞いて、主の声を認識し、主に従い、主の救いを得た一方、律法を守り聖殿に留まった人たちは、主に見捨てられ淘汰されました。誰よりもあなた方がわかっているはずです。終わりの日に再来した主の声を聞かずに、主を迎えることはできません。主イエスは言われました。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。黙示録にもこうあります。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録 2章、3章)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。ジャクソン牧師、主を迎えるにあたり一番大事なのは主の声を聞くこと。主の再来の証しを耳にしたら、観念を手放し、調査しなければ、主を迎えて天国に行くことはできません」。「神の声を聞く必要はない。必要なのは主が雲に乗って現れ、私たちを天国に引き上げるのを待つだけだ。その日が来て、主イエスが雲に乗って現れたときに、すすり泣き歯を鳴らすのが我々なら、君が正しいと認めよう。でもはっきり言っておく。間違った信仰をもち、道を踏み外したのは、私たちのせいではないからな。今からでも遅くない。教会に戻ることはできるぞ。あと数日考える時間をあげよう。7日後に教会にきて、答えをおしえてくれ。言っておくが、教会で福音を広めるのは認めない。君の影響で教会の誰かが全能神を信仰するようになったら、ただではすまないぞ!」牧師はその後、私の家族にこう言いました。「あれこれ話をしたが、まるで聞く耳を持たない。家族なんだから、あなたたちから話をしなさい」と。そして牧師は帰っていきました。

家族は、私が牧師の話を聞かなかったことに腹を立て、みんなで私を叱りに来ました。2番目の兄には暴力をふるうと脅されました。「牧師から聞いたが、なんて恥ずかしい事をしたんだ。牧師が話をしても、まったく耳をかさず、まだ全能神を信じているなんて。殴り殺してやる!」「やめて。殴られるほどのことなんて何もしてない。主が再来したから、その声を聞いて受け入れただけだ。何でこんなことするんだ?それでも神の信者か?」「牧師の話を聞かなかったなんて、何考えてるんだ、お前は!」「兄さんは神を信じているの?牧師を信じているの?終わりの日の神の働きを受け入れた僕を、こんなふうに邪魔するなんて、牧師や指導者は偽善的なパリサイ人だと思う。主は再来して新たな働きを始め、多くの真理を表しているのに、自分たちで調べようともせず、人が主を迎えるのを邪魔して、地位を使って僕を真の道から遠ざけようとしたんだ。僕のいのちのためだなんていうけど、それは嘘だろう?僕を閉じこめて破滅させたいんだ!主イエスはパリサイ人をこんなふうに暴いてる。『偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。……あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする(マタイによる福音書 23:13、15)。牧師や指導者はこのパリサイ人と同じじゃないか。なぜ牧師の肩を持つんだよ」。「牧師がお前を追い出したら、俺たちはもう兄弟じゃない。生きていようが死んでいようが、もうどうでもいい。貸した金を全部返せよ。2週間以内に」。

心無いことを言われてとても悲しかった。家族が困っているときは、できるだけ助けてきたのに、こんなふうに扱われるなんて。善人だった兄さんがなぜこうなってしまったのか?それでも家族なのか?その夜、布団に入っても眠ることができず、あまりにも心が辛くて、涙が出てきました。そして神に祈り、御旨を理解して、この状況を切り抜けられるよう、信仰心と導きをくださいとお願いしました。そして主イエスの言葉を思いました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう(マタイによる福音書 10:34-36)。「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい(ヨハネによる福音書 15:18)。主の言葉は真実であり、主の預言は現実になりました。終わりの日の神の働きを受け入れただけで、牧師や兄弟は僕の邪魔をし、迫害しようとした。彼らが憎んでいたのは、僕ではなく神でした。ここ数日の出来事を思い出して、神に感謝しました。御言葉のおかげで牧師や家族の妨害に打ち勝ち、その正体を見極められたからです。

ある日、私の状況を知った姉妹が、全能神の御言葉の一節を送ってくれました。「落胆してはならない。弱ってはならない。そうすればわたしが物事を明らかにしよう。神の国への道は平坦ではない。何事もそう簡単ではないのだ。あなたはたやすく祝福を得たいと思っているのではないか。現在は誰もが苦しい試練に直面しなければならない。そうでなければ、わたしに対する愛の心が強まることはなく、わたしへの真の愛を抱くこともないだろう。試練は単なる些細な状況だとしても、誰もが必ず通らねばならない。ただそれぞれ試練の度合いが違うというだけのことだ。試練はわたしからの祝福なのだ。頻繁にわたしの前に来て跪き、わたしの祝福を求める者がどれだけいるだろうか。愚かな子らよ。あなたがたはいつも、ちょっとした幸先の良い言葉がわたしからの祝福だと思っているが、苦しみもわたしからの祝福の一つだとは感じない。わたしによる苦しみにあずかる者は、必ずわたしによる甘美さにもあずかることになる。これがわたしの約束であり、あなたがたに対する祝福なのだ。わたしの言葉を飲み食いし、享受することをためらってはならない。闇が過ぎ去れば光が訪れる。夜明け前が一番暗いのだ。その後は徐々に明るくなり、やがて日が昇る。恐れたり臆病になったりしてはならない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第四十一章」〔『言葉』第1巻〕)。そして交わってくれました。「私たちは全能神を信じ、主を迎えますが、人が神に救われ、神のものになることを嫌うサタンは、さまざまな手を使って私たちを妨害します。そして神もそれを許している。なぜでしょうか?人の信仰の真偽を暴きたいからです。真の信仰を持つ神の羊は、試練に耐え抜けます。サタンがどのように妨害しても、神についていきます。神のものではない、偽りの信者は、サタンの妨害に負けてしまいます。これこそがサタンの策略に対する神の知恵なのです。今、牧師や家族に妨害されている。これは試練です。この経験により真理を多少理解でき、物事が明確になります。また、真の信者と偽りの信者を見極める方法と、信仰をもつ方法を学びます。これらは平穏な状況では得られないものです。苦しむ価値があるのです」。姉妹の交わりを聞いて、わかりました。牧師や家族からの妨害は、人間によるものだと思っていましたが、実際は、神の救いを失わせようとするサタンの行いでした。本当に憎むべき存在です。この経験を通して、牧師に対する分別がつき、神に従う気持ちが強くなりました。数日後、私がまだ全能神を信じていると知り、おじが話をしに来ました。「ホセア、聞いてくれ。戻っておいで。牧師に追い出されたら一体どうするんだ?困ったことがあったり病気になったりしたときに、誰も助けてくれないぞ?」「僕はやっと主を迎えたんだ。だから何があっても全能神についていく。教会には戻らない」。「お前の理解は牧師より浅いんだから、神の信仰に関しては、牧師の話を聞かなきゃだめだ」。「主イエスが働きのために現れたとき、ユダヤ教の信者も、パリサイ人の方が理解が深いと考えて、彼らに従って主に抵抗し、主を断罪し、その結果、呪われて懲罰を受けた。神の信者なら神の声を聞くべきだ。牧師の言動が御言葉と一致していないなら、牧師に従うべきじゃない。神が終わりの日に再来して多くの真理を表すことは聖書に書かれているし、主イエスも預言していると言ったら、牧師たちは言い返せなかった。なのによく調べようともせず、僕が主を迎えることも、他の兄弟姉妹に福音を広めることも阻止してる。これは御言葉と一致していると思う?おじさん、終わりの日の神の御言葉を調べずに、牧師の言うことをうのみにして、全能神の御言葉も読んだことがないのに、どうしてその真偽がわかるの?川を渡るときに、1人が深いよと言って、別の人が浅いよと言ったら、どちらを信じる?自分で川に入るまでわからないだろう?主を信じるのにその声を聞かずに、牧師の言うことを聞いてたら、もし牧師が地獄に行くことになったら、道連れになるだろう?盲目の指導者が盲目の者を率いても穴に落ちるだけだ」。「牧師に通報されて、逮捕されたらどうするんだ?」「通報されようが、政府にどんな目に遭わされようが、迫害されようが、僕は全能神についていく」。その日、おじから何度も説得されましたが、折れませんでした。1週間後、これ以上牧師が邪魔をしないように、牧師と指導者のところに行き、全能神を信じる気持ちに変わりはなく、教会には戻らない、二度と話しかけないでほしいと頼みました。でも牧師はあきらめようとせず、こう言いました。「君が信じる東方閃電は主の再来ではないぞ。信じ続ければ、主を裏切ることになる」と。私は言いました。「主イエスは再来を預言しています。『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう(マタイによる福音書 24:27)。東方閃電の出現は、まさに預言のとおりでは?」と。反論できないジャクソン牧師は怒りだし、神の働きを批判し、断罪し始めました。それを聞いて腹が立ち、主イエスの言葉を思いました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。神の羊は神の声を聞きます。神の声を理解せず、神を批判している牧師や指導者は、神の羊ではなく、悪魔です。だから言いました。「かつてパリサイ人は主イエスを批判し断罪しました。あなた方は主が再来したと聞いても調べようとせず、全能神の言葉に説得力があると知りながら、批判し、抵抗する。パリサイ人と同じでは?」と。牧師と指導者はそれを聞いてひどく腹を立て、別の方法で私に迫ってきました。「そこまで頑なに全能神を信じると言うなら、宣誓書を書こうじゃないか。主イエスを信じないと書いて署名するんだ」。「どうしてそんなものに署名するんですか?全能神は主イエスの再来です。全能神を信じることは主を迎えることです。なぜ私が主イエスを信じないなんて言うのですか?事実を捻じ曲げているのと同じでは?あなた方によれば、主イエスが働きのために現れた時、ペテロやヨハネら、主の使徒はみんな聖殿を出て主イエスについていった。それはヤーウェ神への裏切りですか?絶対に違います。神の新しい働きについていったんです。それと同じで、主イエスが再来して新たな働きをしているので、全能神を信じる私は羊の足跡を追っているのです。それがなぜ主イエスへの裏切りになるんですか?そんなものには署名しません!」「君はこれに署名するんだ。兄弟や両親にも署名させる。私たちが追い出したのではなく、自分で教会を出た証拠にする」。その時、牧師の目的がわかりました。主イエスではなく全能神を信じていると宣言したら、全能神と主イエスが同じ神だということを否定することになるのでは?私が署名したものを、証拠として使って、全能神を否定して断罪しようとしていたんです!本当に邪悪でずる賢い人たちでした!そして宣誓書をベトナム政府に持っていけば、私は迫害されます。それが彼らの卑しい目的だったのです。その夜、10時過ぎまで話し合いをしましたが、私が何を言っても、牧師は理解せず、無礼で理知のない態度を取り続けたのでそれ以上言うことがなくなりました。次の日、話を聞きつけた家族がきて、おなじように私を責め立てました。「これまで一生懸命育ててきたのに、私たちを捨てるの?良心のかけらもないのね、あなたには!」「母さん!母さんたちを見捨ててなんていない。何度も福音を広めたけど、信じなかったじゃないか。神の言葉ではなく、牧師の言葉を聞くことを自分で選んだんだ」。「お前はもう、息子じゃない!」「これからは別々の道を歩こう。兄弟の縁を切る。どんなに困ったことになっても、俺たちは助けない」。「好きにしたらいいさ。ただ神を信じているだけで、こんなに責められるなんて。神か家族かを選ばなければならないなら、僕はもちろん神を選ぶ。でももう親子でも兄弟でもないなんて言わない。言ったのはそっちだ」。

その後、私は教会に行くのをやめました。牧師も指導者ももう何も言ってこないだろうと思っていたのですが、4月のある日、思わぬことがありました。教会で財務担当だった同労者が来て、主イエスを信じていないという宣誓書に署名しろというのです。腹が立ちました。こんなに私の邪魔をするなんて。何て憎たらしい人たちなんだ?その人を追い返した後、心を落ち着かせて神に祈り、全能神の御言葉を思い浮かべました。「神が働きを行い、人を慈しみ、その人を見守るとき、そして神がその人に好意を示して認めるとき、サタンはすぐ後をつけ、その人を騙して害をもたらそうとする。神がその人を得たいと望むと、サタンはあの手この手で神の邪魔をし、様々な邪悪な企みで神の働きを試し、妨害し、傷つけようとするが、それは自身の密かな目的を達成するためである。その目的とは何か。神が誰かを得ることを、サタンは欲していない。サタンは、神が得たいと望む人を奪って我が物とし、彼らを支配し、掌握することで、彼らにサタンを崇拝させ、自身と共に邪悪なことを行わせ、神に抵抗させたいのである。これはサタンの悪意に満ちた動機ではないのか。あなたがたは、サタンは邪悪であまりにひどいとよく言うが、それを見たことがあるだろうか。あなたがたは、人類がいかにひどいかということは目にできるが、実際のサタンがどの程度ひどいかを見たことはない。しかしヨブの件においては、サタンがいかに邪悪かをはっきり見ている。この件によって、サタンの醜悪な顔つきと本質が極めて明瞭になった。神と戦い、神をつけ回すサタンの目的は、神が行おうと望む働きをすべて粉砕し、神が得ようと望む者たちを占有して支配し、完全に消滅させることである。消滅させられることがなければ、彼らはサタンのものとなり、サタンに用いられる。これがサタンの目的である(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IV.」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉をよく考えると、サタンの計略がよくわかりました。牧師や長老はサタンの味方で、サタンの共犯者です。全能神への信仰を妨害するためあらゆる手を使って、私を神から引き離そうとします。主イエスを否定する手紙に署名させ、それを使って私を断罪しようとしました。なんて邪悪なのでしょう!彼らは終始、サタンの役割を演じていたんです。その後、私の家族も牧師の目的を理解し、政府に報告するために署名させようとしていることに気づきました。母は、こう言いました。「ホセア、署名してはだめよ。牧師はひどい人だわ。神を信じているだけで悪いことはしていないのに、こんな扱いを受けて。もしあなたが迫害されたら、私がただじゃおかない」と。以前は牧師を崇拝していました。牧師は主に仕えているので、牧師を助けることは神を愛することだと思い、よくお金や物を贈っていました。車が壊れた時は、費用がいくらかかろうが、僕が修理をしました。でもこの経験を通して、牧師の本性が見えました。信徒を守ることを名目に、真の道を調べさせないようにし、主を迎えて天国に行けないようにした。それはすべて、信徒を自分の支配下に留め、お金や助けを得るためだったんです。彼らは人々が天国に行くことを阻む障壁なのです。

全能神の言葉の通りです。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか(『神の出現と働き』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。神の庇護に感謝します。私は全能神の言葉に一歩ずつ導かれたことで、サタンの計略を見破り、牧師が真理を嫌い神に抵抗していると知り、悪の下僕や反キリストの束縛から解放され、神の家に戻ることができた。神への感謝の気持ちで心がいっぱいでした。現在、私は毎日御言葉に施しをもらっています。兄弟姉妹に福音を広め、神の証をして、充実感と幸福感でいっぱいです。神に感謝!

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