罪が清められる道を見つけた
「サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「終わりの日のキリストは神の国の時代をもたらした」)。全能神の御言葉は、長年の混乱を解消してくれました。私は以前、主によく祈り、懺悔していたけれど、あとでまた嘘をついて罪を犯さずにはいられなかった。思い通りにならなければカッとなり、主の教えを守ることも、罪から抜け出ることもできませんでした。それがとても辛くて大勢の牧師に尋ねましたが、解決策は見つからず、こう思ったものです。「主は聖(きよ)い。罪に生きる私のような者がどうして天国に行けるだろう?」全能神の御言葉を読んで、罪から解放され、堕落を清められる道を見つけたのです。
信者になったころ、私は韓国の長老派教会に通ってましたが、牧師はいつもこう言ってました。「私たちは罪深く、罪で満たされています。でも恐れることはない。主イエスは罪の捧げ物として十字架につけられました。主に祈り、懺悔していれば、主は赦してくださり、再臨なさるとき、天国に導いてくださいます」。主への感謝の気持ちと、主の愛の大きさを感じました。嘘をついたり罪を犯したりするたび、祈って懺悔し、安心と喜びを感じました。主が来られ、天国に導いてくださるのが待ち遠しくて。でもやがて、罪を犯して懺悔することが日常化していることに気づきました。私は頑固なうえに短気でした。夫の言動が気に入らないと、責めて喧嘩になるのですが、後で我慢できなかったことを悔やむのです。特に主イエスの御言葉「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイによる福音書 22:39)を読むと、酷い気持ちになりました。自分を愛するように他人を愛することはおろか、家族にも我慢できなかったんです。罪から逃れる道を求めて、何度も牧師や説教師を訪ねましたが、もっと祈って懺悔しなさいとしか言われません。困惑したまま思いました。祈って懺悔したあとに同じ罪を犯したら、主の御旨を満たして天国に入れるのか。聖書にはこうあります。「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない」(ヘブル人への手紙 10:26)。読んで恐怖と不安を感じましたが、他にどうすることもできません。さらに祈り、罪を犯さない力を与えてくださいと主にお願いするだけ。そのときは自制しようと試みても、やはり罪に囚われたまま。しだいに疲れ果て、落ち込みました。夜中や早朝に起きて泣きながら主に祈り、罪から抜け出す道を見つけられるようお願いしました。
その後、友人の教会に誘われました。しばらく通うと、牧師の説教がほとんど同じで、光がないことに気づきました。罪から抜け出すことを語らないのです。私はがっかりました。表向きは敬虔で尊敬されていて、40年も教会で奉仕してきた長老が、肉の快楽を求めて高級な場所へ説教しに行くのを知ったのです。いのちの変化が何もないのが本当にショックで、神の御言葉を思いました。「わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない」(レビ記 11:45)。罪の中で生きている者は、神を見るに値しません。そういう人が天国に入れるでしょうか。40年も信仰してる長老が変わらないのに、私が変わるのはもっと困難に思えました。牧師と長老はこう言って慰めたものです。「主イエスは十字架につけられ、私たちの罪を贖われました。だから罪のことで悩まなくていいのです」。でも実際は、長年の信仰にもかかわらず、人は罪を繰り返し、汚れにまみれました。神は聖なる方です。罪の中で生きている私たちが、どうして主のお顔を見られるでしょう。そう思うととても辛く、心が迷いました。どうすれば罪から抜け出せるのでしょう? 親友の智秀(チーシウ)姉妹が頭に浮かびました。敬虔で思慮深い信者なので、彼女に相談しようと思ったけど、彼女が長年全能神を信じていたこと、全能神の信者とは関わるなと牧師に言われたことを思い出しました。その時躊躇しましたが、自分が罪に囚われ、牧師に答えがないことを考えました。それに、彼女とは長年の付き合いで素質も優れているので、助言してくれるかもと思いました。そこで会うことにしたのですが。
会ったとき、見慣れない顔がいくつかありました。みんな凛としてまっすぐで、気さくでしたが、全能神教会の人たちだと知って警戒しました。信仰について話しだしても私は真に受けず、あまり話しませんでした。交わりの中である姉妹が言いました。「主イエスは十字架につけられて私たちの罪を背負われた。神はもはや私たちの罪を見ず、だから私たちは罪深くない、再臨されるとき天国に導いてくださる、と思う人は多いけれど、本当にそうでしょうか? 主イエスへの信仰を通じて罪を赦され、あからさまに罪を犯さず、振る舞いが良く見えても、罪が完全に清められたということになるでしょうか? 私たちは常に嘘をついて罪を犯し、嫉妬と憎しみを抱きます。傲慢さとごまかしに満ち、いつも偉そうに話します。世俗の流れに従い、貪欲で虚栄心が強く、気に入らないことがあれば、主を批判して責めます。つまり、私たちは罪の束縛と足かせからまったく逃れておらず、すべての信者がこの状態にあるのです。ローマ人への手紙の第7章でパウロが言ったように、『善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている』(ローマ人への手紙7:18-19)使徒パウロは主イエスによって罪を赦されましたが、彼が最も悔しかったのは、いまだ罪に縛られ抜け出せないことでした。罪を犯さずにはいられず、それでこう泣き叫ぶしかなかったのです。『わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか』(ローマ人への手紙 7:24)。パウロの悔しさに共感できませんか?」その言葉に心が乱れました。まさにそれが最大の悩みだったから。問い返さずにいられませんでした。「あなたの言うとおりです。私は罪と懺悔を繰り返しながら罪の中で生きていて、それがとても辛いのです。でもわからないことがあります。主イエスはすでに人の罪を赦してくださいました。でも、私たちが罪を犯し続け、罪から逃れられないのはなぜですか。主が来られたとき、このまま天国に入れるでしょうか」。
彼女は答えとして、全能神の御言葉を読んでくれました。全能神は言われます。「人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである」(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。
そして姉妹は言いました。「恵みの時代、主イエスは人類の罪の捧げ物として十字架につけられました。主を救い主として受け入れ、懺悔して悔い改めれば、罪は赦されます。律法の下で断罪されたり、死に処されたりすることはありません。私たちは主に直接祈り、主の恵みを享受できます。これが主イエスによる贖いの働きの本当の意味です。でも主イエスは贖いの働きによって人の罪を赦しただけで、私たちのサタン的な性質や罪深い本性を赦されたわけではありません。私たちの罪は信仰によって赦されていますが、罪深い本性とサタン的な性質はいまだ残っています。そこには傲慢、不実、悪、頑固、真理の嫌悪が含まれます。これらは罪よりもしつこく、私たちが罪を犯して神に逆らう根源なのです。罪深い本性を解消しなければ、ただ罪を犯し、懺悔し、また罪を犯すだけで、罪の束縛から解放されることはなく、天国に入る資格もありません。神は言われました。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記 11:45)。主イエスは言われました。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書 8:34-35)。主は聖いので、聖くない人は主を見られません。私たちのようによく罪を犯して主に逆らう人が、どうして主のお顔を見、天国へ入るのにふさわしいでしょう。では、私たちの罪深い本性はどうすれば解決できるでしょうか。主イエスは預言されました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。ペテロの第一の手紙4章17節にはこうあります。『さばきが神の家から始められる時がきた』。終わりの日、神は再び肉となって真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさいます。これはおもに人類の罪深い本性を解決し、罪から完全に解放し、堕落を清めるためです。私たちが神に完全に救われ、天国へ入れるように。恵みの時代における神の働きによって、私たちは罪を赦されましたが、罪がなくなることも清められることもなかった。終わりの日における神の裁きの働きは、清めと救いの働きの中核および焦点で、人類を救う神の働きの最も重要な段階なのです。終わりの日の裁きの働きだけが、人が必要とするすべての真理を人の中にもたらします。そうすれば、人は本当に神を知り、いのちの性質を変えることができ、神に従い、神を崇め、神の御旨にかなう人となります。これで人類を救う神の経営計画が完成するのです」。
彼女の交わりで目が覚めました。罪と懺悔を続けてしまうのは、罪深い本性が解決していないから。信仰において神の働きの最も重要な段階を経験していない私がどうしても知りたかったのは、全能神が実際にどう裁きの働きをして人を清められるのかということです。牧師がいつも全能神教会を非難していたので、私は警戒していました。でも考えてみると、私たちにもう罪はないと牧師はずっと主張してたのに、私は罪の痛みに縛られていました。身をもって体験したのです! もう牧師の話を鵜呑みにはできません。全能神の御言葉を正しく読んで、それが本当に神の御声かを確かめなければならない。残念ながら、遅くなったので交わりはそこで終わりました。
その後、彼女が教会に誘ってくれたとき私は断らず、彼女がくれた神の御言葉の本を受け取ったのです。こうして探求を始めた私は、全能神の御言葉をたくさん読んで、神の受肉と御名の奥義や、聖書の内幕など多くの奥義を全能神が明かされたことを知りました。何もかもが新しく、今まで聞いたことのない真理と奥義ばかりで、私は思いました。「全能神はこうした天の奥義を明かされ、人類を救う神の御旨を表すことができる。人にはとうてい無理。全能神の御言葉は諸教会に向けた聖霊の言葉、神の御声に違いない。しっかり探求しなければ」。
また、嘘をつき、罪を犯し、カッとなって我慢できず、主の教えを守れない自分の問題を兄弟姉妹に話しました。罪の人生が苦痛だと。そして姉妹に訊きました。「神は終わりの日にどう裁きの働きをなさって人を清めるのでしょうか。長年の信仰の中で、私はいつも思ってました。罪のない生活ができればどんなに良いか。そうすれば苦痛に満ちた人生にはならないだろう」と。
すると全能神の御言葉を何節か読んでくれました。「神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。「この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう」(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。
これを読んだ後、姉妹は交わりを続けました。「終わりの日の裁きの働きで、全能神は人類を清めて救うすべての真理を表わし、6000年にわたる神の経営計画の奥義、人類を救う三段階の働きの目的、各段階の内幕、そして各段階で達成されることを明かされます。信仰の中で、性質の変化と清めへの道を示してくださいます。全能神はまた、サタンによる人類の堕落の本性と本質、罪深さの根源を暴かれます。それで私たちは自分を振り返り、神に逆らって反抗するサタン的な本性と性質、サタンがどれだけ深く人を堕落させたか、そして自分がまったく人間らしくないことを悟ります。すると自分を憎み始め、もう堕落して生きたくないと思うようになります。また、神の性質がいかに正しく、聖く、犯しがたいかを知り、神を畏れずにはいられなくなります。好き勝手な言動をすることもなくなり、肉に背いて真理を実践し始めます。徐々にサタンの性質の縛りを捨て、罪深さと神への反抗を根本から解決します。これは、主を信じていても、終わりの日の神の裁きと清めを受け入れない人には無理なことです」。
兄弟姉妹はまた、神の御言葉を通じて裁きを受けた証しを話してくれました。ある姉妹が言いました。彼女は教会の指導者になった時、名声と地位ばかり気にして、人の上に立ち、人に言うことを聞かせるのが好きでした。人と意見が合わないと、いつも自分の見方を押し付けていました。そしていつも目立ちたがり、教義を説いていました。でも全能神の御言葉に裁かれ、暴かれることで、本分で自分を誇示し、崇拝させているだけだったことに気づきました。それは人を惑わし罠にはめる。実際、彼女は大天使のように、神と地位を争い、神に反抗していたのです。それに気付いた彼女は後悔の念でいっぱいになり、傲慢で恥知らずな自分を憎みました。神の性質に背いてきた自分は、悔い改めなければ神に淘汰され、懲罰されると悟ったのです。また神の性質が義にして聖く、犯しがたいこともわかり、神を畏れるようになりました。このように何度も裁かれ、罰せられることで、自分の傲慢な本性を真に理解して、自分を嫌うようになったのです。本分で傲慢になったり、目立とうとしたりするのをやめ、自分の堕落を明かせるようになったのです。また、人の意見を聞き、そこから学び、協力できるようになりました。そして人間らしく生きることができたのです。
彼女の交わりはとても勉強になりました。罪から解放され、堕落を清めてもらう唯一の方法は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、御言葉の裁きと清めを体験することだと。長年の信仰で、そうした経験に基づく証しをしたことはありませんでした。私は多くの牧師と話し、多くの教会に行きましたが、そんな証しは初めて聞きました。兄弟姉妹の経験は、清められて完全に救われ、天国に入る道を示してくれたのです。私は感激し、全能神こそ主イエスの再臨だと心の中で悟りました。私たちを心配してくれるのは神だけ。罪に生きる痛みを知っておられるので、自ら肉となって真理を表わし、人類を救われるのです。人に対する神の愛はまさに本物。
その後、熱心に集会に参加し、全能神の御言葉を読み、御言葉に照らして自分の堕落を反省しました。私が終わりの日の全能神の働きを受け入れ、人を見下さず、変わったのを見た夫も全能神の御言葉を読み始め、その働きを受け入れたのです。素敵! 神に感謝!
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