「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか……」(ヨハネによる福音書 3:36)

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネによる福音書 14:6)

「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示して下さい。……』。 イエスは彼に言われた、『……わたしを見た者は、父を見たのである。……わたしが父におり、父がわたしにおられる……。』」(ヨハネによる福音書 14:8-10)

「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書 10:30)

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。……」(ヨハネによる福音書 16:12-13)

一.神を信じるには、キリストが肉となって現れた神であり、また神ご自身であることを認識しなければなりません。

聖書の記録によると、聖霊は主イエスが神の愛する御子であることを証ししており、主イエスもまた天におられる神を「父」と呼んでおられました。したがって、多くの人々は主イエス・キリストが神の御子であり、 また父なる神は天におられると信じています。しかし、主イエスは言われました。「わたしを見た者は、父を見たのである。 ...わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネによる福音書 14:9-10)「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)このことから、神が唯一のお方であることが分かります。 イエス・キリストは神ヤ-ウェが受肉されたお方でした―つまりイエス は神ご自身でした。

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福音Q&A

解答

二. 神を信じるには、「終わりの日のキリストだけが人間に永遠の命への道を与えることができる」ことを認識しなければなりません 。

主イエスはこう言われました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)終わりの日、主イエスは、神の働きを為し、神の言葉を語るために、肉となり人の子の姿をとって戻って来られました。この人の子は終わりの日のキリスト、真理の御霊であられ、人を裁き、清め、そして救う、すべての真理を表します。これらの真理はまことに神が人類に授けられる永遠の命への道です。終わりの日に肉となったキリストを信じ、キリストが人間に与える永遠の命への道を受け入れる者だけが、それを得るのです。

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三.終わりの日のキリストを信じないで、主イエスだけを信じるのは、御子への真の信仰でしょうか?また、それによって永遠の命へ導かれることができますか?

聖書には、「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがない 」(ヨハネの福音書 3:36)と記されています。御子を信じることは、受肉されたキリストを信じることです。 多くの人々がこう尋ねるかもしれません。「主イエスは人の子であり、キリストです。だから主イエスを信じることによって、私たちは永遠の命を得ます。それでは、永遠の命を得る前に、終わりの日のキリストの言葉と働きを信じなければならないのはなぜですか。」

参考聖書箇所

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福音Q&A

全能神が言われました。「 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」というみ言葉を読んで、聖書の「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:14)という主イエスのみ言葉を思い出した。もしかしたら、全能神と主イエスは一つの源で、みな聖霊の発表なのではでしょうか?一人の神様の仕事かどうか?

解答

四.イスラエル人は神ヤ-ウェのみを信じ、主イエスは信じませんでした。 彼らはまた、主イエスに抵抗し、イエスを罪に定めました。それゆえ、彼らは神によって罰され、呪われました。 このことは私たちに何を警告しているのでしょうか。

01

漠然とした天の神だけを信じ、受肉されたキリストを信じないのは、神への真の信仰でしょうか?

いったい、どのように神を信じるべきでしょうか? 主イエスは言われました。「もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」(ヨハネの福音書 8:24)昔をふり返ってみると、ユダヤのパリサイ人たちは、漠然とした天の神のみを信じており、受肉の神―イエス・キリスト―が現れた時、彼らはイエス を信じなかっただけでなく、イエスに抵抗し、イエスを罪に定めたことが分かります。最終的に、彼らは主イエスを十字架に付け、そのために神に罰され、呪われました。終わりの日に、神は働きを行うために再び人の子の姿をとって受肉しました。それでは、人々がこの受肉した実際の神―終わりの日キリスト―を信じずに、 漠然とした天の神だけを信じるなら、それは神への真の信仰と言えるでしょうか。

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02

信仰において、ただ聖書の文字と規則に固執するだけで、キリストと一致する道を求めないなら、人は永遠の命を得ることができるでしょうか?

神を信じる多くの信者たちは、聖書が神を代表しており、神への信仰とは聖書への信仰であると信じています。そして、聖書にしがみ付くことによって永遠の命を得ることができると信じています。 しかし、主イエスはこう言われました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネによる福音書 5:39-40)。主イエスによって語られたこれらの言葉の本当の意味は何でしょうか。 もし聖書だけにしがみ付いて、キリストと一致することを求めないなら、永遠の命を得ることができるでしょうか?

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福音Q&A

質問: 聖書は神様の業の証しであり、人類に驚くべき利益をもたらしました。聖書を読むと、神様は全ての創造主であり、神様の驚異的で偉大な行い、そしてその全能性が理解できます。聖書には多くの神様の御言葉があるのに、なぜ永遠の命の道については書かれていないのでしょう?

解答
03

信仰において、ただヤ-ウェの名と主イエス・キリストの名にだけに固執し、再来した主の新しい名を受け入れないなら、その結果はどうなるでしょうか?

数千年もの間、神を信じた人々は、神の名は不変であり、神の名を保持することは、神への信仰を意味すると信じてきました。 それではなぜユダヤ教の信者たちは、ヤ-ウェという名だけを保持し、主イエスの名を受け入れず、根こそぎにされたのでしょうか?聖書は、終わりの日に神が新しい名を持つことを預言しました。「そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう 」(ヨハネの黙示録 3:12)。わたしたちが主イエスの名だけにしがみ付き、再来した主の新しい名を受け入れないなら、このようなかたちで神を信じることの結果はどうなるのでしょうか?

参考聖書箇所

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』。」(ヨハネの黙示録 1:8)

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者』。」(ヨハネの黙示録 4:8)

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それは聖書にはっきりと記されています。主が洗礼を授かった後、天が開いて、聖霊が鳩のように主イエスに降り、こう言いました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(馬太福音 3:17)そして私たち信者も、そう認識しています。しかしあなた方は、受肉されたキリストは神様の出現であり、神様ご自身だと証されています。主イエスも神様、そして全能神も神様ご自身だと。これがなかなか謎めいていて、これまでの私たちの理解とは違うのです。受肉されたキリストは神様ご自身、それとも神様の子のどちらなのでしょうか?どちらも聖書の通りですし、どちらも正しいように思えて。どちらの理解が正しいのでしょうか?

「神は肉となりキリストと呼ばれ、真理を人に与えることのできるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、彼は神の本質を持っており、神の性質を持っており、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからだ。自らキリストを称するが、神の働きを行えない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、神が人の間で業を行い完成させるため神が宿った特有の肉体である。この肉体は、誰でも代われるものではなく、地上における神の業を適切に引き受け、神の性質を表し、神を十分に象徴し、人にいのちを与えるものである。」

「受肉した人の子は、神の人性により神の神性を表現し、神の旨を人間に伝えた。また、神は、旨と性質を表出することにより、霊的領域では見ることも触れることもできない神を人間に啓示した。人々が見たのは、肉と骨を持ち、姿形のある神自身であった。そうして受肉した人の子により、神の正体、地位、像、性質、神の中にある物事や神の存在が、具体的かつ人間的なものとされた。人の子の外観は、神の像に関してある程度の制約があったものの、人の子の真髄と人の子の中にある物事や人の子の存在は、神自身の正体と地位を完全に示すことが可能であり、表出の仕方に僅かな相違があるのみであった。それが人の子の人性であるか、人の子の神性であるかを問わず、人の子が神自身の正体と地位を示していたことを否定することはできない。しかし、この時期、神は肉により業を行い、肉の見地から言葉を述べ、人の子という正体と地位により人間の前に姿を見せたので、それによって人間の中にある神の真の言葉と業に遭遇し、体験する機会が人々に与えられた。また、それにより神の神性と、謙遜の中にある神の偉大さについて、人間が知見を得ることが可能となり、また神の真正さと実在に関する暫定的な知識と定義を得ることも可能となった。主イエスにより遂行された業や、イエスが業を行う方法、言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の姿とは異なるものであったが、それでもなお主に関する全てが、それまで人間が見たことのない神自身を真に示しており、またその事実は決して否定できない。すなわち、神がどのような姿であるかによらず、また神がどの観点から言葉を述べるかによらず、あるいは神の人間に対する像がどのようなものであるかによらず、神は他ならぬ神自身を示す。神が人間を示すこと、腐敗した人間を示すことは不可能である。神は神自身であり、それを否定することはできない。」

「いのちの道は、誰でも持てるものではなく、誰にでも簡単に得られるものでもない。なぜなら、いのちは神のみに由来しているからだ。それはすなわち、神自身のみがいのちの本質を持っており、神自身なくしていのちの道は存在せず、神のみが、いのちと永遠に流れつづけるいのちの生ける泉の源であることを意味する。神が世界を創造したとき以来、神はいのちの活力に関わる多くの働きをし、人にいのちを与える多くの働きをし、人がいのちを得られるよう多大な代償を払ってきた。神自身が永遠のいのちで、神自身が、人が復活できる道だからである。神が人の心に不在であることはなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の基盤であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱物である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分の持つあらゆる役割においてしっかりと生きられるようにする。神の力と、神の消えることのないいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのないような代償を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そしていかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても簡単に圧倒されない。神のいのちの力は存在し、時と場所にかかわらず明るい輝きを放つ。神のいのちは、天や地が激変する間も永遠に不変である。万物は過ぎ去るが、神のいのちは依然としてそこにある。それは、神が万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからだ。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の生存は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、いのちの力を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れ出ることはできない。このようにして、誰もが神の支配下に服従し、神の命令の下で生きねばならず、誰も神の支配から逃れられない。

「神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そしてさらには死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけることができないなら、いのちの栄養は得られないだろう。いのちの施しを得られないなら、もちろん真理は全く得られないので、想像と観念以外には、あなたの肉全体はただの肉、臭い肉でしかない。活字による言葉はいのちとはみなされず、歴史の記録は真理として敬われることはなく、過去の教義は神が現在話している言葉の記録とはみなされない。神が地上に来て人の間に生きているときに告げたものだけが真理であり、いのちであり、神の心であり、神が現在働くやり方である。昔神が語った言葉の記録を現代に適用しようとするのなら、あなたは考古学者であり、あなたにぴったりの表現は歴史的遺産の専門家ということになる。なぜなら、あなたは常に神が過ぎ去った時にした働きの痕跡を信じており、神が以前人の間で働いた時に残した神の影しか信じておらず、神が昔自分を信じる者に与えた道しか信じていないからである。あなたは、神の今日の働きの方向を信じておらず、今ある神の栄光に満ちた顔を信じておらず、現在神が表している真理の道を信じていない。それゆえに、あなたは間違いなく完全に現実から遊離した空想家である。もし今、あなたがなお人にいのちをもたらすことのできない言葉に固執するなら、あなたは望みのない一片の枯れ木[a]だ。あなたは保守的すぎで、あまりに強情で、理性がなさすぎるからだ。

「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。この真理を通して人はいのちを得ることができ、この真理を通してのみ、人が神を知り神に良しと認めてもらうことができる。あなたが終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないのなら、あなたは決してイエスに良しと認めてもらうことはできず、天の国の門をくぐる資格を得ることはない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり歴史に囚われた人だからだ。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることはなく、永遠のいのちの道を得ることはない。なぜなら、彼らが持っているのは、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も滞留したままの濁った水でしかないからだ。いのちの水を与えられない者は永遠に死体であり、サタンのおもちゃであり、地獄の子である。そのような者がどうして神に会うことができようか。あなたが過去にしがみつき、足踏みをしながら現状維持しようとし、現状を変え歴史を棄てようとしないなら、あなたは神に常に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚に固執して何もしないまま、座して自滅を待っている。このままで、あなたが小羊の足跡に従う者だと見なされることはあろうか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと言えようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたの手につかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む言葉は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人の人生を知るうえで助けとなる知恵の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするように導いてくれる道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないだろうか。そこに含まれる奥義を理解させてはくれないだろうか。あなたは、自分で自分を天国に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天国に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたは未だに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよと。そして誰が今働いているのかを見よと。誰が今、終わりの日に人を救う働きをしているのかを見よと。そうしなければ、あなたは決して真理を得ることはなく、決していのちを得ることもない。」

全能神が言われました。「 終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」というみ言葉を読んで、聖書の「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書 4:14)という主イエスのみ言葉を思い出した。もしかしたら、全能神と主イエスは一つの源で、みな聖霊の発表なのではでしょうか?一人の神様の仕事かどうか?

「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネによる福音書 5:22)

「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」

「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」

「終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神によって得られたこのような人々が最後の安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの本質は、人類を清めることであり、それは、最後の安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないあるいは安息の中に入ることもできない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの仕事こそが人類の不義を洗い清め、刑罰、裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが識別されるようになる。神の仕事が終わる時、生き残ることのできる人は、洗い清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。」

「終わりの日に受肉した神が来て、恵みの時代は終わった。神は、主として言葉を述べるために来た。言葉を用いて人間を完全にし、光に照らし、啓発し、人間の心にある漠然の神のいるところを除くために来た。これはイエスが来た段階の働きではない。イエスが来た時には、多くの奇跡を示した。イエスは癒やし、悪霊を追い払い、十字架で贖いの業を行なった。その結果、人間は、これが神のあるべき姿だと考えた。イエスが来た時、主は漠然の神の姿を人間の心から除くことはしなかった。イエスが来た時、十字架につけられた。癒やし、悪霊を追い払い、天国の福音を広めた。ある意味で、神の受肉は終わりの日に人間の心から漠然の神の姿を除くもので、そうしてもはや人間の心に漠然の神の姿がないようにしたのである。その言葉と働き、地上のあらゆる場所での動き、そして人々の間でするまことに真実で普通の働きは、人々に神が実在することを知らせ、人間の心にある漠然の神の居場所を取り除く。つまり、神は肉の体で語った言葉で人間を完全にし、すべてを成就するのだ。これが神が終わりの日に成就することだ。」

「だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。」

「彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、聖書の言葉に厳密に従った人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。聖書の影響力を擁護するため、聖書の権威を維持するため、聖書の評判を守るため、彼らは慈悲深いイエスを十字架につけることまでした。彼らは、ただ単に聖書を守るため、人々の心の中にある聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのである。

「わたしに敵対する人々は、わたしと融和しない。真理を愛さない人々も同じである。また、わたしに反抗する人々は、いっそうわたしに敵対し、わたしとは融和不可能である。わたしと融和しない人々をみな、わたしは邪悪な者の手に引き渡す。そうした人々を邪悪な者による堕落に任せ、自分たちの有害さを自由にあらわにさせ、最後には、邪悪な者に手渡し、食い尽くされるに任す。どれだけの人がわたしを崇めるかは気にしない。つまり、どれだけの人がわたしを信じているかは気にしないということである。わたしが問題にするのは、どれだけの人がわたしと融和するかということである。それは、わたしと融和しない人々はみな、わたしを裏切る邪悪な者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を自分の家に「納め」はしない。わたしの味方である人々は永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの罰を受けて苦しむ。聖書の言葉だけを大事にする人々、真理やわたしの足跡を求めることに関心のない人々、そうした人々はわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対して、この上ない冒瀆行為をするからである。そうした人々がどうしてわたしの前に来ることができるであろうか。その人たちはわたしの行い、わたしの心、真理に耳を傾けず、言葉、殺す言葉に執着している。どうして、そうした人たちがわたしと融和できるであろうか。

「イエスが行った働きはイエスの名を表し、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きはヤーウェを表し、律法の時代を代表した。それらの働きはひとつの霊による二つの異なる時代における働きであった。……それらは二つの違った名前で呼ばれたが、二つの段階の働きはひとつの霊によって行なわれ、第二の働きは第一の働きの続きであった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違った。ヤーウェが来たときは、それはヤーウェの時代で、イエスが来たときは、それはイエスの時代であった。だから神が来るときはそのたびに神はひとつの名で呼ばれ、神はひとつの時代を表し、新しい道を開く。それぞれの新しい道で神は新しい名前を持ち、それは神は常に新しく、決して古くないということと、神の働きは常に前進していることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。神の六千年の経営計画が終わりに達するためには、前進し続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを始め、そして新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。」

「だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、強力なる全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てに立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終りの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。」

「人間は、神を信じているのであれば、神の足取りに緊密かつ段階的に追随する必要がある。人間は『子羊が行く場所であれば、どこへでもついて行く』必要がある。そうした人々のみが真の道を求める者であり、聖霊の業を知る者である。奴隷のように文字や教義に従う人々は聖霊の業により既に排除された者である。各期間において、神は新たな業を開始し、人間には新たな始まりがあるであろう。人間が『ヤーウェは神である』ないし『イエスはキリストである』といった、ある1つの時代のみに該当する真理のみに従うのであれば、人間は聖霊の業と足並みを揃えることは決して出来ず、聖霊の業を得ることは永遠に出来ないであろう。神がどのように業を行うかを問わず、人間は全く疑うこと無く、緊密に付き従う。このような場合、どうして人間が聖霊により排除されることがあろうか。