説教「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10:30)

2020年6月3日

主イエスは言いました。「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書 10:30)「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」(ヨハネによる福音書 14:9-10)子が子であり、父が父であるのは当然のことであり、どうして彼らは一つになれるのでしょうか。「わたしと父とは一つである」という御言葉をどのように理解すればよいのでしょうか。

目次

●「父と子と聖霊」への言及はどこから来たのでしょうか。

●「父と子」の解釈は通用するのでしょうか。

●主イエスはなぜ天の神を父と呼んだのでしょうか。

●なぜ神は主イエスが神ご自身であることを直接証ししなかったのでしょうか。

「父と子と聖霊」への言及はどこから来たのでしょうか。

まず、「父と子と聖霊」への言及がどこから来たのかを理解しなければなりません。実際には、主イエスが贖いの働きを行うために肉となるまでは、そうした言及はありませんでした。その時、神は人の子の形になって人類の間で話し、働き、恵みの時代の働きを始めました。聖霊は主イエスが洗礼を受けた時に、彼が神の愛する子であることを直接証しし、主イエスもまた天の神を「父」と呼びました。子と父という考えはこのようにして生まれました。

「父と子」の解釈は通用するのでしょうか。

振り返ると、神は創世記の中で子がいることに触れていたのでしょうか。旧約聖書の律法の時代に、神は預言者を通して「子がいる」と言ったことがあったのでしょうか。そのようなことは一切ありませんでした。これは、神は一人しかいないこと、「父と子と聖霊」のようなものは存在しないことを示しています。また、私たちが理解しているように、主イエスが神の子であり、天におられる神が父であるとしたら、聖書に神は一人しかいないと明記されている事実は、どのようにして説明できるのでしょうか。過去2000年の間、主イエス・キリストが神ご自身であり、神の現れであったことを真に理解している人はとても少ないのです!聖書を開いて、ヨハネによる福音書の14:8を見てみましょう。ピリポが神を知らなかったとき、彼は主イエスに言いました。「主よ、わたしたちに父を示して下さい」。主イエスは何と答えたのでしょうか。

聖書によると「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」(ヨハネによる福音書 14:9-10)。主イエスはピリポの間違いを次のように正しています。「わたしを見た者は、父を見たのである」「わたしが父におり、父がわたしにおられる」。ここから、父が子であり、子が父であり、それらは一つであることがわかります。主イエスは、自分と神が父と子の関係にあるとは言っていませんが、「わたしと父とは一つである」とはっきりと言われました。主イエスのこの言葉から、主イエスが神ご自身であること、主イエスが受肉した神の現れであることを確認することができます。

主イエスはなぜ天の神を父と呼んだのでしょうか。

主イエスは神ご自身ですが、祈るときには、なぜ父なる神に祈ったのでしょうか。ここに謎があります。

神が受肉するとき、神の霊は肉の中に隠されていて、ちょうど私たち人間が自分の中に自分の魂を感じられないのと同じように、肉はそれを全く感じることができません。主イエスが働き始め、使命を遂行する前は、普通の人間の状態で暮らしていました。主イエスは、自分が受肉した神であることをまったく知りませんでした。なぜなら、神の霊が肉に宿って働くとき、神の働きは超自然的なものではなく、まったく普通のものだからです。聖書にも「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコによる福音書 13:32)とあります。主イエスが正式にその地位に就かれたとき、聖霊は彼が受肉した神であることを個人的に証しする言葉を発しました。その時になって初めて、主イエスは自身の正体を知り、贖いの業を行うために来られたことを知ったのです。しかし十字架にはりつけられる前は、ただの人の子であり、キリストでした。だから天の父に祈るのは自然なことであり、また、人間の立場から神の霊に祈っていたのもとても自然なことだったのです。主イエスが十字架にはりつけられるまさにそのとき、主イエスは父なる神にも祈りを捧げられましたが、そのことを通して、謙遜さと従順さがわかります。

全能神は言います。「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な肉を着て、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。あなたたちは天の神を父の名で呼んだので、このことはイエスが彼自身をあなたたちと対等の立場にあり、神によって選ばれた地上の人(すなわち神の子)と見なしていることを示している。もしあなたたちが神を『父』と呼ぶならば、これはあなたたちが被造物だからではないのか。地上におけるイエスの権威がどんなに偉大でも、磔刑以前はイエスは単に人の子であり、聖霊(すなわち神)に支配され、地上にいる被造物の一人にすぎなかった。まだ自分の働きを完成させていなかったからである。従って、彼が天の神を父と呼ぶのはもっぱら彼の謙虚と従順さからであった。しかし、彼がそのように神(すなわち天の霊)に呼びかけることで、彼が天の神の霊の子であることの証明にはならない。むしろ、それは単に彼の視点が異なっていることであり、彼が別の位格であるということではない。」(「三位一体は存在するのか」)

それでも、『イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったか。』と言う人たちがいる。イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である――これは確かに神自身によって語られた。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『わたしが父におり、父がわたしにおられる』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。……しかし、その時、天の霊は、イエスは神の愛する子であるとだけ述べ、彼が神のひとり子だとは言及しなかった。そのようなことは断じて起こらなかった。どうして神がひとり子を持つことができようか。それでは神は人にならなかったのか。神は受肉したので愛する神の子と呼ばれ、このことから父と子の関係が生じた。それは単に天と地に別れていたためであった。」(「三位一体は存在するのか」)

この言葉から、主イエスが洗礼を受け、聖霊が彼を神の愛する子であると証しした時、神が霊の立場から語っておられることがよく分かります。そして、主イエス・キリストが祈りながら天の神を「父」と呼ぶとき、それは主イエスが肉の立場から神の霊に祈っているだけなのです。主イエスが天の神の子であることを証明するものでは全くありません。しかし、私たちは真理のこうした側面を明確に理解しておらず、神がどのような立場から話したかを理解していないので、自分の憶測に頼って神の言葉を恣意的に説明してしまうのです。だからこそ、主イエス・キリストが神の子であるという観念に至ったわけですが、それは真実とはかけ離れていて、特に事実とは一致していません。

なぜ神は主イエスが神ご自身であることを直接証ししなかったのでしょうか。主イエスが神ご自身であることを聖霊が直接証ししなかったのには、まさに神の知恵と心意が込められています。人類の間で働いた主イエスは、実は神が肉をまとって人間になり、私たちのもとに働きに来て現れたのです。彼がどのように働いても、話しても、父なる神に祈っても、彼の本質は人間ではなく神的なものでした。神は霊であり、私たちは神を見ることができませんが、神が肉をまとっているときはどうでしょうか。私たちが見ているのは肉の体であり、神の霊を見ることはできません。もし聖霊が主イエスが神ご自身であることを証ししたならば、当時の人々は神が肉になるという概念を持っていなかったので、私たちが受け入れることは難しかったでしょう。彼らは特に、受肉した神に遭遇したばかりの時には、このことを理解していませんでしたし、このような平凡に見える人の子が、実は神の霊の化身であり、受肉した神の現れであるとは想像もしていませんでした。ですから、主イエスが働きながら多くの言葉を発し、私たちに天の神の国の福音をもたらし、多くのしるしと不思議を表して、神の権威と力を十分に発揮されたにもかかわらず、追随者たちは、その働きや言葉から、主イエスが神ご自身であること、すなわち、神の現れであることに気付くことがなかったのです。振り返ってみましょう。当時の人々は主イエスを何と呼んでいたのでしょうか。

聖書ではこのような記録があります。「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」(マタイによる福音書 16:14)。

これは、当時の人々が主イエスを預言者の一人として認めたり、「師」と呼んだりしていただけで、主が受肉した神であることを認識していなかったためです。だから神は、主イエスをその時の人々の背丈に応じて、限られた期間だけ神の子と呼ぶことを許したのであって、人々の能力を超えて押し付けるのではなく、人々が理解できる範囲で、主イエスが神様の愛する子であることを証しししてくださいました。それだけが、人の観念と一致し、人がすんなり受け入れられるものだったのです。主イエスは贖いの働きをされているので、主イエスを何と呼ぼうとも、主の救いを受け入れ、主に告白して悔い改めれば、もはや律法の下で断罪されることはないので、それで十分でした。その裏には、神の優しい意図と知恵が隠れていました。

神の霊が肉をまとった時、私たちは霊を見ることができなくても、神の性質、神が所有するものと神そのもの、そして神の全能性と知恵がすべてその肉を通して表れました。私たちは、主イエスの働きと言葉、表した性質から、主イエスが神ご自身であることを完全に確認することができます。主イエスは、天の国が手の届くところにあることを伝え、人々に悔い改める道を与え、恵みの時代を開き、律法の時代を終えました。彼は博愛と慈悲の性質を表し、人類の罪を贖う働きを成し遂げました。この働きはすべて、神ご自身にしかできないことではなかったのでしょうか。また、彼の言葉は権威と力に満ちており、彼が言ったこと、彼が命じたことは成就しました。口から出た言葉はすべて実現したのです。主イエスは、少しの簡単な言葉で、誰かの罪を赦し、嵐の海を静め、人を死からよみがえらせることができました。主イエスの働きと言葉から、私たちは、万物を支配する神の権威と力を見、また、神の全能性と知恵、不思議な業を見ました。主イエスの働きも言葉も、すべて神の霊からの直接的な表現であり、主イエスがなさったことは神ご自身の働きでした。

この交わりによって、私たちは「わたしと父とは一つである」の謎を理解しました。実際、主イエスは神ご自身であり、受肉した神です。神の受肉の本質が、神ご自身です。福音映画「敬虔の奥義」をご覧になれば、神の受肉についての真理をより深く理解することができるでしょう。

謝文(日本)

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