裁きの光
「神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行なっており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座が私たちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊が私たちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっと私たちの間にやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっと私たちの間にやって来る」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神は我々のところに静かに到来する」)。この御言葉の讃美歌を歌うと、以前に主イエスを信じていたときのことを思い出します。牧師や長老はいつも終わりの日、神は空の巨大な卓から私たちを裁くとか、主イエスは大きな白い御座につき、そこで人の行ないを基に裁き、善に報いて悪を懲罰されるなどと言っていて、私はずっとそう信じてました。全能神の御言葉を読み、終わりの日の働きを調べて初めて本当に目覚め、それはどれも人間の観念と想像だとわかりました。実は、神はすでに人類のもとへ来られ、終わりの日の裁きに向けて真理を表わし、ずっと前からキリストの御座の前で裁きが始まっています。
2015年、私は主を信じて20年になっていました。10月、同僚に影響され、フェイスブックで友達を見つけてチャットを始めました。時間があるたび兄弟姉妹の投稿に目を通し、気に入ったものはすべて「いいね」を押してシェアしました。2016年2月のある日、いつものようにフェイスブックを見ていると、神による終わりの日の裁きを話し合っているグループがありました。みんな違うことを言っていて、自分には裁きが何かわからない、だから気軽には話せないし、神の将来の御業は推測できないと言う人もいれば、詩篇75章2節「定まった時が来れば、わたしは公平をもってさばく」を引いて、神は各人の行ないを記録されており、主イエスは終わりの日に人を裁くとき、映画のようにそれを各人に示される。だから自分たちは立派に振るまい、高潔になり、悪事をしてはならない。そうすれば地獄行きにはならないと言う人も。また、ヨハネの黙示録によると、神は終わりの日、空の大きな白い御座から人を裁かれ、主イエスはそこに大きな卓を置いて座り、各人の人生を記した書を開いて、その行ないに応じ一人ひとり裁かれると言う人もいました。善をなした人は天国へ導かれ、悪をなした人は地獄行きだと。これらの投稿を読んで、主イエスが終わりの日に人を裁かれる光景を思い浮かべました。主イエスは空の大きな白い御座につかれ、人はその御前でひざまずき、裁かれる。どれほど善悪をなしたかに応じて、天国行きか地獄行きかが主イエスによって決められる。私は二十年以上主を信じ、熱心に付き従って福音を広め、主の教えによって懸命に生きました。だから私の誠実さをきっとご覧になり、天国に導いてくださるはずと。
そう考えていると、ネットで「裁き」を検索しようと思いつき、そうしてみました。すると、「神の刑罰と裁きは人の救いの光」という言葉が見つかりました。それがすぐ目に留まり、何だろうとわくわくしてクリックしました。すると味わい深く素晴らしい讃美歌だったんです。「人生において、清められて性質の変化を成し遂げ、有意義な人生を生き、被造物としての本分を尽くそうと望むのであれば、その人は神の刑罰と裁きを受け入れなければならず、神の懲らしめと打ちのめしが自分から去らないようにし、そうすることで、サタンによる操作と支配から逃れて、神の光の中で生きられるようにしなければならない。神の刑罰と裁きは光、人間の救いの光であり、人間にとってそれ以上の祝福と恵みと加護はないことを知らなければならない」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の刑罰と裁きは人の救いの光」)。歌詞に好奇心をそそられました。神の裁きと刑罰は人の救いの光で、私たちに対する最高の加護と恵み。どういうことでしょう? また、清められて有意義な人生を送るには、神の裁きと刑罰を受け入れなければならないとも。それを考えていると、疑問が浮かびました。裁きは結末を決めるだけじゃないの? それがどうして救いの光なの? そんなの聞いたことない。そうした裁きは私の考える裁きと違っていましたが、思うほど単純じゃないとうっすら感じました。讃美歌の出所を調べると全能神教会とのこと。そこでそのサイトに行きました。面白いデザインで中身も豊富。ありとあらゆる本、讃美歌、福音映画と動画、そして証しの記事がありました。本のコーナーに行くと、こんなタイトルが目に入りました。『裁きが神の家から始まる』『キリストの裁きの座の前における経験の証し』どちらにも「裁き」とあります。『キリストの裁きの座の前における経験の証し』には「裁きを通じた変化」や「裁きは光」など裁きに関する沢山の記事がありました。数篇読んでみると、どれも神の御言葉の裁きを経験したクリスチャンの記事で、信仰観と堕落した性質が変化したというのです。読むにつれて好奇心が膨らみました。「裁きは断罪でも結末の決定でもなく、救いだなんてあり得るの?『神の刑罰と裁きは人の救いの光』ってどういう意味?」裁きに関するそれらの本がとても役立ちそうに見えて、じっくり読もうと思いました。でも仕事の時間になったので、パソコンを落として出かけました。なのにずっと、全能神教会のウェブサイトが頭から離れず、特に「神の刑罰と裁きは人の救いの光」はそうでした。その「裁き」がどういう意味かまったくわからないんです。
帰宅後そのサイトを開き、「裁き」で検索すると、『キリストは真理をもって裁きの働きを行う』という記事がありました。その中の一節が本当に感動的だったので。「過去に語られた神の家から始まる裁きにおいて、その言葉における『裁き』は、終わりの日に神の玉座の前に来る人々に神が今日下す裁きのことを指す。終わりの日が来ると、神は天に大きな卓を据え、その上には白い布が広げられ、すべての人が地にひざまずいているところに神が大きな玉座につき、一人ひとりの人間の罪を明らかにし、それにより人々が天国に昇るか火と硫黄の湖に落とされるかを決める、というような超自然的な想像の表象を信じている人もおそらくいるであろう。人が何を想像しようと、それが神の働きの本質を変えることはできない。人の想像は人の思考の産物以外の何物でもない。それは人の脳に由来し、人が見たり聞いたりしてきたものからまとめられ組み合わされたものである。したがって、その生み出された表象がいかに輝かしくとも、それは漫画でしかなく、神の働きの計画にとって代わることはできない、とわたしは言うのである。結局のところ、人間はサタンにより堕落させられてきている。それならば、どうして人間に神の考えを推し量ることができるというのか。神による裁きの働きを何かとてつもないものであると人間は考える。神自身が裁きの働きを行うのだから、その働きは最大規模のもので、人間には到底理解できず、それは天のいたるところに鳴り響き、地を揺らすはずである、と人間は考える。そうでなければどうしてそれが神による裁きの働きでありえようか。それは裁きの働きであるので、神が働くときは特に堂々と威厳があるはずで、裁かれている人々は涙を流して叫び、ひざまずいて憐れみを請うているはずであると人間は考える。そのよう情景は確かに荘厳で、深く感情を揺さぶるであろう……誰もが、神の裁きの働きを奇跡的なものであると想像する。しかし、あなたは知っているのか。神はずいぶん前より人間のあいだでの裁きの働きを開始したというのに、あなたは惰眠を貪っていることを。神の裁きの働きが正式に始まったとあなたが思うときには、神はすでに天と地を新しくしていることを。その時、おそらくあなたは人生の意味をちょうど理解しだしたばかりかもしれないが、神の容赦ない懲罰の働きが、まだ深く眠りについているあなたを地獄に落とす。その時になって初めて、神の裁きの働きがすでに終わったことにあなたは突然気づくのである」(『言葉は肉において現れる』)。これを読んですっかり驚きました。神による終わりの日の裁きに関する私の考えと見方をはっきり暴いていたんです。神が空で裁きをなさるというのは本当に単なる超自然的な考えなの? そこには、神による終わりの日の裁きの働きはすでに始まり、もうすぐ終わるとあって、神の出現を今すぐ求めるよう警告していました。「これは神の御声なのかしら?」その疑問が頭の中で渦を巻き、今すぐ調べようと思いました。そこで、全能神教会のチャット機能でメッセージを送り、神による終わりの日の裁きについて知りたいと伝えました。すると驚いたことに、すぐ返事があり、劉姉妹と李姉妹がチャットに案内してくれました。
簡単に自己紹介したあと、自分の困惑を二人に伝えました。「ヨハネの黙示録によると、神は空で大きな白い御座につき、終わりの日の裁きをなさいます。でも『キリストは真理をもって裁きの働きを行う』にはそれは人間の観念に過ぎず、神による終わりの日の裁きの働きはすでに始まったとあります。いったいどういうことでしょう?」
すると劉姉妹がこう答えてくれました。「ヨハネの黙示録には、ヨハネはパトモス島の空に大きな白い御座を見たとありますが、それは神による終わりの日の裁きの幻と預言で、実際に起きることではありません。つまり、神が裁きの働きをどうなさるかは誰も前もってわからず、判断もできません。預言が成就して初めてわかるのです」。姉妹はまた、聖書には裁きの働きに関する預言が多数あると言いました。たとえばヨハネの黙示録14章6節と7節。「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである』」そしてヨハネによる福音書9章39節。「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり……」彼女によると、「彼は地に住む者……に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて」「わたしがこの世にきたのは、さばくためである」という聖句は神が終わりの日に必ずや降臨され、地上で裁きの働きをなさるという意味だと。そしてヨハネによる福音書5章22節「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである」。27節「そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった」(ヨハネによる福音書 5:27)。さらにペテロの第一の手紙 4:17「さばきが神の家から始められる時がきた」を挙げてこう言いました。「これらの聖句は、裁きが『子』によってなされると述べています。『子』『人の子』というのは、人の子として生まれ、正常な人間性があるということで、神の霊は人の子と呼ばれません。なのでこれは神が人の子として受肉し、終わりの日の裁きの働きをなさる十分な証拠です。また神の家から裁きが始まるともあります。つまり、神による終わりの日の裁きの働きは信者たちから始まるのです」。
私は驚いてこう思いました。「自分はずっと信者で、今の聖句を読んだことがあるのに、どうして気づかなかったのか。神が人の子として受肉し、地上で裁きの働きをなさることに。ヨハネがパトモス島で見た幻にこだわり、神が裁きをどうなさるか想像して、裁きに関する他の聖句を見逃してた。私の理解はそれほど限られてた」。この聖句を見ながら、劉姉妹の話を考えました。
すると李姉妹が話を続けました。「全能神は終わりの日に裁きの働きをなさり、人類を清めて救いつつ、各人の結末を明かし、人を種類ごとに分けられます。これが、終わりの日の大きな白い御座の前での裁きで、さっきの預言を完全に成就させるんです。受肉した神は終わりの日に真理を表わし、裁きの働きをなさいますが、それはおもに、災害に先立ち勝利者の集団を作るためです。神の出現を待ち望む各教派の人たちは全能神の御言葉を読み、それらが真理で神の御声だと認め、全能神に立ち返ります。神の御座の前に引き上げられ、御言葉によって裁かれ清められる賢い乙女なんです。勝利者の集団が作られるとき、神は大災害を降らせ、善に報いて悪を懲罰なさり、死に物狂いで神に抵抗する悪人を完全に滅ぼします。そのとき、神による終わりの日の裁きの働きは完全に終わりを迎えます。災害はますますひどくなり、4つの血の月が現われました。虫害、洪水、干ばつ、飢饉、そして疫病が起き、大災害は目前です。大災害のとき、悪事をなして神の敵になり、サタンに属する者はみな滅ぼされるでしょう。御言葉の裁きを受け入れて清められた人たちは加護を受けて生き残り、神の国へと導かれます。それがまさに大きな白い御座での、終わりの日の裁きじゃありませんか?」
彼女の話を聞いていると啓かれるのを感じました。全能神が真理を表わし裁きの働きをなさるのは終わりの日の大きな白い御座の裁き。でも困惑がすっかり消えたわけではありません。二人は神は終わりの日に真理を表わし、裁きの働きをなさり、人類を清めて救われると言いますが、私はこう思いました。「主はすでに私たちの罪を赦され、私たちを罪深いと思われていない。だったら、神が終わりの日に裁きの働きをなさり、人を清めて救う必要があるのはなぜ?」その疑問を二人にぶつけると、全能神の御言葉をさらに二節読んでくれました。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、いったいどのように降臨するのだろうか。贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいないあなたがたのような罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたが、イエスによって救われ、神の救いのおかげで罪人と見なされなくなったことは事実だが、これは、あなたに罪や汚れがないという証拠ではない。いまだ変わっていなければ、あなたはどうして聖いものとなれるのか。あなたの内側は汚れに満ち、自分勝手で卑劣である。にもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではあり得ない。あなたは神を信じる上で一つの段階を見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。さもないと、罪から贖われただけのあなたは、聖さを得ることができない。このように、神のよき祝福を共にする資格はあなたにない。と言うのも、神が人を経営する働きの一段階、つまり変化させ、完全にするという重要な段階を逸したためである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたが、神の嗣業を直接受け継ぐことはできない」(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。
読み終わると、李姉妹が話を続けました。「恵みの時代、主イエスは贖いの働きをなさいましたが、それは人の罪を赦しただけで、堕落した性質は解決なさらなかった。私たちは罪を赦され、主への信仰により救われ義とされましたが、それは律法に断罪され呪われることがないという意味で、罪を犯して神に抵抗するサタンの本性はそのまま。罪深い本性は一掃されていません。そのため罪深い本性にいまだ縛られ、罪と嘘を続けます。素質や長所がある人は傲慢になって誰にも従わず、少し働いたからといって自分を誇示し、名利を巡って争い、陰謀を巡らせます。懸命に働いて犠牲を払い、神を愛して満足させると言っても、実は祝福されて冠を得るため。逆境や試練に遭うと、神と言い争って不満を抱き、神は不義だと言って、神を拒んで裏切りさえします。罪から逃れられず、いつも神に反抗して非難するこうした人がどうして神の国に入るのにふさわしいでしょう? 主は聖い方です。『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル人への手紙 12:14)。主イエスが再び来ると約束されたのはそのためです。全能神は終わりの日に来られ、主イエスの贖いを基に働きをなさいます。真理を表わし終わりの日の裁きの働きを行ない、人を徹底的に清めて救われます。そうして人は罪と堕落した性質から逃れ、神に救われ得てもらえるのです」。
そのとおりだと思いました。私たちは信仰を通じて罪を赦されましたが、罪深い本性はそのまま。教会の状況を考えると、牧師や長老は集会で聖書の教義を説教するけど、いのちの糧を施さず、金に汚く権力を争う。派閥を組んで互いに非難し、傷つけ合う有様。兄弟姉妹は弱り、信仰と愛も薄くなった。多くの人が世の流れを追い、肉の快楽を求める。罪から自力で逃れられない。自分が嘘と罪をやめられなかったことも思い出しました。主の御言葉を実践できず、罪を犯しては告白してた。そんな状態で、どうして神の国に入れるでしょう? 神が再臨して裁きと清めの働きをなさるのを、私たちは本当に必要としています。私は真剣に訊きました。「終わりの日、神は裁きを通じて人をどう清めて救われるのですか?」
すると全能神の御言葉を読んでくれました。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。
李姉妹がこう話しました。「全能神は御言葉を用いて終わりの日に裁きの働きをなさり、人類を完全に清めて救われます。堕落した人類が理解して入り、完全に救われ清められるのに必要なすべての真理を表わされます。全能神は人類の堕落の実質と真相だけでなく、この世の闇と悪の根源も残らず暴かれます。御言葉は堕落からの救いと解放の道を人に示すのみならず、人類に対する神の旨と要求を公然と明かします。六千年にわたる神の経営計画の奥義を明かすだけでなく、人を待ち受ける結末と終着点を伝えます。全能神の御言葉は人の堕落の実質をすっかり暴くので、私たちは納得せざるを得ません。御言葉の裁きを経験すればするほど、サタンによる全人類の堕落がいかに深いかがわかります。自分のサタン的性質と堕落の真相が完全にわかれば、神がまったく聖くて義であることがわかります。そうして心の中で神への畏れと愛を育み、自分がいかに堕落し、人間性がないかを実感します。神の前で生きるに値しないと知り、自分を憎み始め、サタン的性質で生きるのはもう嫌だと思います。進んで神の裁きに従い、真に悔い改めて変わるのです。御言葉の裁きと暴きがなければ、祈って告白し、自制を試みるだけで、私たちのサタン的本性はなくなるでしょうか? 罪の足かせから逃れられますか? 罪から逃れられなければ、どうして真に悔い改めて神の国へ入るのに値するでしょう? だから、神の裁きと刑罰は救いなんです。救いの光なんですよ。御言葉の裁きを受け入れたくない人は大災害に屈服し、泣きわめいて歯ぎしりします」。
全能神の御言葉を読み、二人と数日交わって、心から実感しました。全能神による終わりの日の裁きが、人を清めて救う上でいかに不可欠かを! そのときは御言葉の裁きと刑罰をまだ経験していませんでしたが、姉妹の交わりと他の人の証しを通じ、全能神による裁きの働きは本当に人を変えて清めることができ、それこそが、私たち堕落した人類に必要なものだとわかりました。それまでは、終わりの日、神は空にそびえる大きな白い御座から裁きをなさり、信者は主の御前に連れ出されると思っていました。今はそれが幻想でしかなく、終わりの日神は受肉され、御言葉によって地上で裁きの働きをなさり、真の信者を残らず清めて救われるとわかりました。そのとき初めて災害を用い、反抗する者をすべて滅ぼされるのです。神による裁きの働きは本当に実践的! その後、私は全能神の御言葉とそこで明かされる奥義と真理を沢山読みました。律法、恵み、神の国の各時代における3段階の働きの内幕、それらが成し遂げたこと、サタンは人をいかに堕落させるか、神は裁きの働きで人をいかに救って清められるか、各人の終着点と結末はどんなものか、神の国は地上でいかに実現されるかなどです。本当に目からうろこが落ちました! 私は全能神の御言葉を経験したのです。「実際、裁きの働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである」何と実際的な御言葉でしょう! 全能神の御言葉の中に神の御声を聞き、神の御座の前に出ました。神が私を引き上げ、優しさを示されたのです。全能神に感謝!
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