地震のあと

2022年12月9日

2019年に終わりの日の全能神の働きを受け入れ、その後御言葉をたくさん読んだけど、そのたびに、神が面と向かって話されてるように感じたわ。糧を得て、心から楽しんで享受した。こんな感覚は初めて。交わりでこう聞いた。生きている間は神を信じて御言葉を読み、被造物の本分を尽くすべき。父は信仰に反対して激怒したけど、わたしは集会に出た。神の御言葉を理解するにはそれしかないってわかってたから。御言葉に出会う前は、毎日とても虚しかった。でも御言葉のおかげで充実し、人生の方向がわかった。集会に出て一緒に御言葉を読むことが大事なの。

でもすぐに誘惑に遭った。隣人から、自分が働いてる店の店員にならないかって言われたの。日給は500ペソ以上。わたしを雇うのは間違いないって。いいお給料だと思ったし、それだけあれば好きなものを買って、両親も援助できる。でも仕事に就けば時間が減って、普通に集会へ出られない。だけどお金は欲しいし、そのチャンスを失うなんて嫌。結局誘惑に勝てず、働くことにしたの。契約は1ヵ月だけ。その後はちゃんと集会に出るけど、それまでもできるだけ出続ける。でもそううまくは行かなかった。思ったほど集会に出られなかったの。携帯電話は使えないし、6時まで店を出られない。通勤時間も本当に長くて、帰宅したらもうくたくた。エネルギーが残ってないの。帰宅が遅れると集会には出られない。神からどんどん離れてる気がして、言いがたい恐怖と不安を感じた。なぜか悲しくて、いつも笑顔を装ってたけど、内面は傷ついてた。いのちの光がすべて消えたよう。本当に暗くて泣くこともあった。集会が恋しかった。お客がいないとき、自分が覚えてる御言葉を書き留めた。読んで考えられるように。神の支えと導きを感じたわ。いつもカレンダーを見て、契約が切れるまでの日数を数えてた。仕事を終えてまた集会に出たいと思ってたの。

ある日フェイスブックで、兄弟が御言葉を何節か送ってくれた。「あらゆる災害が次々に襲ってきて、すべての国、すべての土地が惨禍を経験するだろう。疫病、飢饉、洪水、干ばつ、地震が至るところで発生する。こうした災害は一か所や二か所だけで起こるのではなく、一日や二日だけ起こるのでもなく、広大な領域にわたって広がり、次第に激しさを増していく。そしてあらゆる虫害による疫病が次々に発生し、人同士の相食む現象があらゆる場所で起こるだろう。これはすべての国家、すべての民族に下すわたしの裁きなのだ(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六十五章」〔『言葉』第1巻〕)。「わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分を否定する人に向けて現わされる。そして、邪悪な者にもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者はみな飢饉や疫病に苛まれ、涙を流す。あらゆる悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者でも罪の償いを免れることはできない。何百万年の時を通して誰も目にしたことのないような災いに陥り、絶えず恐怖と不安の中に生きることになる。そして、わたしだけに忠誠を示して従ってきた人は喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのないような喜びの中に生きる。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからである。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと心を同じとする人の集まりを獲得することを熱望してきた。わたしと同じ心を持たない人については、わたしは決して忘れない。彼らに報いを与え、その様子を楽しみながら眺める機会を待ち望みながら、彼らに心の中で憎み続ける。今日、遂にその日を迎え、もはや待つ必要はない(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は真実そのものと感じて、怖くなった。おっしゃったことはすべて成就する。今世界中で恐るべき災害が起きてるわね。噴火、台風、地震、疫病……世界各地で。でもわたしはお金が欲しくて神から離れた。災害が起きて神のご加護がなかったら、きっと命を失う。そこで祈ったの。「神よ、わたしはあなたよりお金を選びました。どうかお赦しを。御旨に逆らいましたが、悔い改めます」。悔い改めればまだ間に合うし、集会に出る機会もまだあると自分に言い聞かせた。契約終了が待ち遠しかった。また本分を尽くせるから。

でもその年の12月15日、突然不安になったの。なぜかわからないけど、悪い予感がして。早く職場を出て、帰宅したかった。同僚とお手洗いに行ったんだけど、その直後、職場に戻ろうとすると、地面が突然大揺れしたの。大勢の人が建物から逃げ出したけど、パニックになってる人もいた。あちこちの棚から商品が落ちてた。わたしたちは幸い出口のそばにいたから、すぐ逃げられた。全身を揺さぶられるようなひどい揺れで、安全な場所に行くのも一苦労。振り返ると、地震の直前、わたしはお手洗いに行こうと店を出た。でも人が並んでて、外でしばらく待たなきゃならなかった。戻ろうとしたとたん、地震が始まったの。すごいタイミング。わたしが無事だったのは神のご加護なのよ。その後、とても感動した。無事だったからじゃなく、神が一緒にいらして、愛を見せてくれたから。わたしを地震から救ってくれた。それで心から神を呼び求めたわ。「全能神よ、救ってくださり感謝します」って。外に立ちながら色んなことを考えた。この仕事はお給料がいいけれど、それでも憂鬱でつらかった。お金は大事じゃない。地震があっても助けてくれない。神の前に出て救いを受けるのが大事なの。一刻も早く帰宅して、集会に出たかった。みんなに伝えたかったの。神の導きで災害から逃れたことを。神の愛と業を見たって伝え。

その日帰宅する途中、わたしはずっと考えてた。離れていったわたしを神が守ってくださったのはなぜ? 教会のアプリを開いて全能神の御言葉をいくつか読んだ。「神の愛は実際的です。神の恵みにより、人間は災害を次々と回避する一方で、人間の弱さには、神は何度となく寛容を示します。神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与えること、神が人間を啓くこと、そして神による導きにより、人類は真理の本質、人間に必要なこと、進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。こうした神の業は、神の唯一の元来の目的と不可分です。それでは、その目的とは何ですか。神がそのような方法で人間への働きを行なうのは、なぜですか。神はどのような結果を実現したいのですか。言い換えれば、神は人間に何を見、人間から何を得たいのですか。神は、人間の心が蘇ることを見たいのです。神が用いるこのような方法は、人間の心を目覚めさせ、霊を目覚めさせ、人間がどこから来たのか、人間を導き、支え、人間に施しているのは誰か、人間の存在を現在まで維持しているのは誰かを認識させるための継続した努力です。創造主は誰であるか、誰を礼拝すべきか、どのような道を歩むべきか、どのようにして神の前に来るべきかを人間に認識させるための手段です。人間が神の心を知り、理解し、神の人間を救う働きの背後にある大いなる慈しみと思いを理解するように、人間の心を次第に蘇らせるための手段です。人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質で生きることを望まなくなり、その代わりに神を満足させるために真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンに支配されることも騙されることもなくなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。これを読んで感動した。神の愛と慈悲を見たからよ。わたしはお金を求めて集会を諦めたから、神は守らないと思ってた。でも地震のとき、神は奇跡でわたしを守り、見捨てはしなかった。お金を欲しがるのをやめて目を覚まし、神の前に出て真理を求め、本分を尽くすよう望んだから。わたしは本当に幸運だった。神からの機会を無駄にはできない。悔い改めて肉の快楽を捨て、教会で本分を尽くさなければ。

12月に契約が終わると、時間と精力を残らず本分に注ぎ込んだ。問題があって弱気になったり、くたくたになることもあったけど、そのたびに、神が地震から守ってくださったことを思い出した。そう思うと、どんなにつらくても、懸命に本分を尽くして神の愛に報いなきゃと感じた。そうすれば、よき終着点を得て災害から逃れられる、って。そんなある日、「病気を通じて祝福を求める動機が暴かれた」という動画を観たの。主人公はある信者で、多くのものを犠牲にし、教会で本分を尽くしてた。病気になるまでは。ひどく落ち込み、神を責めるほど。多くのものを犠牲にしたのに病気になるなんてと思い、神はなぜ守らないのかと考えた。でも御言葉を読んで気づいたの。自分は真理を求めて神に従うために本分を尽くしていたんじゃない、って。単に祝福されて神の国に入るため。主人公の経験を見て、本分を尽くすわたしの動機も汚れてるって気づいた。神に災害から守ってもらうことをいつも望んでたの。だから主人公のように、神と取引してることを恐れた。その夜、こう自問したわ。わたしの本分は神に満足いただくため? それとも神の恵みを得るため? 地震から守られたこと、その後感じた恐怖のことが頭に浮かんだ。いつか災害に見舞われることを恐れ、本分に戻りたいと願ったときも、神に救ってもらうことしか望まなかった。動機と心構えが主人公と同じ。彼は病気に、わたしは地震に襲われた。犠牲を払ったのは神に満足いただくためじゃない。単に災害から守ってもらうため。よき結末を迎えて神の国に入りたかったの。その日は一晩中つらかった。本分を尽くすのがただ神の祝福を得るためだったとは受け入れられなくて。真剣に本分を尽くそうと思ってたけど、実を言えば、わたしの信仰は自分の利益のため。神を畏れることも、崇めることも、創造主として従うこともなかった。

その後、これに関する真理を求めて、この御言葉を見つけたの。「わたしの行いは海岸の砂粒より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫を超えているのに、人はわたしのことをただの医師、あるいは人に教える無名の教師としてしか思っていない。何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉はわたしの状態を暴いた。わたしの信仰は神の恵みに浴し、災害から救ってもらうため。地震後は、お金と快楽への欲を捨てて本分に戻ったけど、どれだけ頑張ろうと、災害から守っていただくことしか考えなかった。本分を使って神から祝福を得ようとしたの。本分を尽くしてたのは個人的な利益のため。神と取引してたのよ。利己的な動機がわかって、恥ずかしさと罪悪感を覚えた。心構えが間違ってたの。そこで祈ったわ。「神よ、わたしは堕落してました。わたしの努力はすべて打算的で、あなたを騙してました。神よ、わたしの堕落を暴き、自己認識させてくださり感謝します。もう祝福のために本分を尽くしません。ただあなたを喜ばせます」。

その後、ある姉妹が御言葉を送ってくれたの。おかげで、追求でどこが間違ってたかがわかった。神の御言葉にこうあります。「神への信仰において、あなたがたは今どの道を歩んでいますか。ペテロのように、いのち、自己認識、神を知ることを追い求めていなければ、あなたはペテロの道を歩んでいません。現在、ほとんどの人は次のような状態にあります。『祝福を得るには、神のために自分を費やし、代価を払わなければならない。祝福を得るには、神のためにすべてを捨てなければならない。神がわたしに託したことを完成させ、本分をしっかり尽くさなければならない』。これは祝福を得るという意図に支配されており、それは神から報いを受け、冠を手に入れるという目的のためだけに自身を費やす例の一つです。このような人の心に真理はなく、彼らの理解がわずかな教義の言葉から成っていて、行く先々でそれを見せびらかしているのは確実です。彼らの道はパウロの道です。こうした人の信仰はひたすら苦労することであり、そうすればするほど神への忠誠が証明され、そうすればするほど神が満足するのは確実で、そうすればするほど神の前で冠を授けられるのにふさわしくなり、得られる祝福も大きくなると心の奥で思っています。キリストのために苦しみに耐え、伝道し、キリストのために死ぬなら、自分の生命を犠牲にすることができるなら、そして神に託された本分をすべて完成することができるなら、自分は最大の祝福を得て、必ずや冠を授けられる人になると考えているのです。これはまさにパウロが想像していたこと、パウロが求めていたことです。これはパウロが歩んだ道そのものであり、このような考えに導かれてパウロは神に仕えたのです。この考えと意図は、サタン的な本性に由来しているのではありませんか(『終わりの日のキリスト講話集』の「ペテロの道を歩むには」)。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「外面的な変化と性質の変化の違い」)。御言葉でわかった。すべてを捨てて神のために代価を払える人は多いけど、その心は神に満足いただくためじゃなく、単に祝福を得るため。パウロと同じ。パウロはたくさん苦しみ、遠くまで旅して福音を広めたけど、その働きと努力は神の祝福を得るため。多くの働きをしたあと、こう言った。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)。パウロの行ないはすべて打算的。冠のため、祝福と報いのためなの。パウロは御言葉の現実に入ることじゃなく、働きにばかり集中してた。だからパウロの性質は一切変わらなかった。福音を広めて多くの人を得ても、神はパウロを認めなかったの。自分を振り返って、わたしもパウロみたいだとわかった。仕事を辞め、時間と精力を残らず本分に注ぎ込んだ。忙しい日は一食だけ。でもそれは、真理を求めるためでも、神に満足いただくためでもなく、単に祝福を得るため。自分を知って堕落を解決しようとはしてなかったの。わたしの働きぶりを神が見て、守ってくださることばかり望んでた。よき結末を迎えて神の国へ入れるように。サタンによる堕落の深さと自分勝手さ、すべてが自分のためなのがわかったわ。神への忠誠や本物の愛はなく、ただ自分のため。これがわかって本当につらくなった。そこで祈ったの。「神よ、どうか変わるのを助けてください。わたしの信仰に対する見方は間違ってました。あなたのお求め通り、自分のためでなく本分を尽くしてまいります」。

その直後、別の御言葉を読んで心から感動したの。神の御言葉にこうあります。「わたしはそうするしかないので、心からあなたがたに献身してきたが、あなたがたは邪悪な意図をもち、わたしに対していい加減な気持ちでいる。あなたがたの本分はこの程度で、それがあなたがたの唯一の役割である。そうではないのか。自分が被造物としての本分を全く尽くさなかったことを、あなたがたはわかっていないのか。どうしてあなたがたが被造物とみなされることができるのか。あなたがたは、自分たちがいったい何を表し、何を生きているのか、はっきりわかっていないのか。あなたがたは自分の本分を尽くすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得ることを求めている。このような恵みはあなたがたのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたがたのような人々、これほどまでに凡庸な人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたがたの生涯につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたがたの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに対して責任を持てないなら、あなたがたの結末は懲罰である。どんな恵みも祝福も、神の国のすばらしい生活も、あなたがたには無縁である。これがあなたがたに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果である。そうした無知で傲慢な者たちは最善を尽くさず、自分の本分を尽くしもせず、恵みを求めて手を差し出すが、それはまるで、自分にはそれを求める資格があるかのようである。そして、求めるものが得られなければ、信仰心が薄くなる。このような者たちがどうして理性的だと見なされようか。あなたがたは素質に乏しく、理知に欠け、経営の働きの際に尽くすべき本分を尽くすことがまったくできない。あなたがたの価値はすでに急降下している。わたしが示したあれだけの好意に対して、あなたがたがそれに報いていないことは、すでに極度の反抗の行為であり、あなたがたを断罪し、その臆病さ、無能さ、卑しさ、無価値さを実証するに十分である。どうしてあなたがたに、手を差し出し続ける資格があるのか(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、自分の貪欲さがわかった。本分に多くの時間を捧げたけど、その間ずっと神から祝福を得ようと、取引してたの。本分を尽くしてないし、真の被造物じゃない。何の権利があって神の恵みを求めたり、災害から守られたり、神の国に入ったりできるの? 御言葉の暴きがなければ、どれだけ反抗的で堕落してるか、祝福への卑劣な動機を神がどれだけ憎むかわからなかったはず。わたしは自分のことばかり考え、神の旨を考えなかった。わたしみたいな人は神の救いにふさわしくない。神は義にして聖い方。忠誠を尽くす人、純粋な心で本分を尽くす人を好まれる。でもわたしに純粋な心なんてあった? ないわ。自分の卑劣な動機と法外な動機が恥ずかしくなった。神の恵みにふさわしくない。自分自身と誤った動機を変え、自分のすべてを本分に捧げて神に満足いただきたいと思った。

ある日集会に出て、助けになる御言葉を読んだの。神の御言葉にこうあります。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である。人間が徐々に変えられるのは、自身の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自身の忠実さを実証する。ゆえに、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け取り、あなたの表現もますます現実のものになる(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んでわかった。わたしは被造物なんだから、本分を尽くすべき。それが責任なの。神から祝福を求めたり、救われるか懲罰されるかを気にしたりしてはだめ。どうすれば本分をしっかり尽くせるかを考えればいいの。前はこう思ってた。本分を尽くせば神から懲罰されないし、災害に陥ることもない。懲罰されるのは神に従わない人、本分を尽くさない人だけだと思ってた。だから本分と引き換えに神の加護を得ようとしたの。そのとき気づいた。本分を尽くすのは被造物として最低限のこと。祝福とは関係ない。最後に救われようと懲罰されようと、真理を得て変わったかどうかを神はご覧になる。それが神の義。災害で怪我したり死んだりしても、神の支配に従い、神を責めてはいけない。本分を利用して災害を生き延びようとしてもいけない。そんなの被造物の本分じゃない。わたしは神に作られたんだから、自分を神に捧げ、何も求めず本分を尽くすべき。その後の本分では、いつも自分に言い聞かせた。利己的になっちゃいけない、神に満足いただき、喜ばせなきゃだめだって。

神に感謝! 神はこの状況を使って、わたしの堕落と誤った追求を暴いた。祝福を求める自分の卑劣な動機を認識して、信仰の追求で変われるように。今は恵みを得るため、災害から逃れるために、本分を尽くしてない。ひたすら真理を求めて本分を尽くし、神の愛に報いたいの。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

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