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従順の教訓

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楊明珍 (カナダ)

私は楊明珍という名前で、全能神に従って七年になります。この数年間は、教会にどんな本分を割り振られても、本分の際にどんな困難や挫折に遭っても、たとえそれが苦しみや代償を払うことを要しても、否定的になったり後ずさりすることなく熱心に協力することができました。それだけできるのだから、いのちの性質が変わり、神への実践的な従順を身につけていると思っていました。しかし神は私に何が欠けており、私のいのちの成長のために何が必要かをご存知だったので、私が経験するために実際の環境を入念に整えられました。神に明かしていただいて初めて私は自分の本当の背丈をはっきり悟ることになったのでした。

2016年3月、私は中共政府による逮捕と迫害を避けて神を自由に信じて拝するために外国に逃げました。到着してからは数人の姉妹と一緒に住んでいました。姉妹たちは福音を広め、新しい信者に水やりと支えをしに毎日外出していました。夕方に帰宅すると、自分たちの経験や、本分を尽くして得たことを嬉しそうに語り合いました。これを見て、私は彼女たちを本当に立派に思いました。「私もこの姉妹たちのようになれて、新しい兄弟姉妹に水をやって支える働きができたらすごく素敵だろうな」と思いました。

ある日、張姉妹が教会の働きのことで私たちに相談しに来ました。「新しい兄弟姉妹を支えるのを手伝う気はありますか」と彼女は私に尋ねました。私は喜んで「はい」と返事し、思いました。「私が海外でこういう本分ができることを友達や親戚や兄弟姉妹の知り合いが知ったら、きっと感心して見直してくれる。そうなったらすごい」と思いました。それからの何日間は、新しい信者に水をやる本分を始める気で満々でした。

私の心が期待に満ちていたとき、教会の指導者が私のもとに来て、もてなし係りをしてくれないかと尋ねました。私は心が急に引っくり返ったような気分になりました。「教会からは新しい兄弟姉妹に水やりと支えを任されると思っていたのに、どうして今になってもてなしなんか割り振られるの。ただ一日中お鍋や釜を扱うことにならないかしら。大変な仕事だし、みっともない。世俗にいたときは実業家で工場を経営していた。友達にも親戚にも本当に強い女だと言われてきた。家ではいつもお手伝いを雇って洗濯も料理も掃除もしてもらっていた。でもこれからはどうやら私が人の食事を作ることになるみたい」このような思いが頭をよぎりましたが、面目を保つためには、ストレートに断ることは恥ずかしくてできませんでした。そこで、自分はまだこの国に来たばかりで環境に慣れていなくて、現地語も話せず、野菜の買い方もわからないから、もてなしの本分をちゃんと尽くすのは無理だ、ともっともらしい言い訳をしました。張姉妹には、必要なときはいつでもみんなで手伝うから大丈夫だと言われました。そう言われてからは、もはや言い訳をするわけにはいきませんでしたが、心の中ではまったくする気がありませんでした。「やると言えば、水やりの本分を尽くす機会は多分もう二度とないだろうし、今までの望みがどれも叶わないんじゃないの。でも断ったら、本分の選り好みをするなんて不従順だと言われないかしら」そう何度も考えた末、しぶしぶその本分を引き受けることにしました。

次の数日間、私はもてなしの本分を尽くしましたが、心は絶え間なく宙返りをし、疑念が芽生えました。「もしかして張姉妹は私には水やりの本分ができると思っていないのかも。思っているなら、もてなし役をどうして振ってきたりするの。知り合いの兄弟姉妹がこのことを知ったら、私には真理の現実がないからもてなしの本分を振られたと思ったり、見下したりしないかしら」そう思うと更に気分が悪くなりました。ちょうどそのとき、以前神の御前でした決心を思い出しました。どんなことに遭遇しても、教会の働きに有益である限り、最善を尽くして協力し、それが自分の観念とどれだけ食い違っていても、従順であり、神様に満足して頂かないといけない、という決心です。しかしもてなしをするように頼まれたとき、なぜ従順に欠けていたのでしょうか。私は静かに神に祈りました。「ああ神様。この本分においてあなたの支配と采配が私のもとに来ていることは承知していますが、私の心は常に反抗的で、あなたに真に従順でいることができません。自分の状態が正しくないことは承知しています。あなたの御心を理解し、あなたが定められ、采配されたことに従えるように、私を啓き、導いてくださるようお願いします」祈った後、私は次の御言葉を思い出しました。「自分の信仰において神への従順を求めない者は皆神に反抗する者なのだ。神は、人々が真理を求め、神の言葉を渇望し、神の言葉を飲食し、それを実行に移し、その結果神への従順に達することを求めている。これがあなたの本当の動機ならば、神は必ずあなたを高め、必ずあなたに対し恵み深くなる。このことに疑問の余地はないし、誰もこれを変えることはできない。あなたの動機が神への従順のためではなく、何か他の目的があるならば、あなたが言うこと、行うことのすべては――神の前での祈り、さらにはあなたの行動の一つひとつさえ――神に反するものである。あなたの話し方は穏やかで、温厚かもしれないし、あなたの一つひとつの行動や表現はすべて正しく思われ、あなたは神に従う者のように見えるかもしれない。しかし、あなたの動機と神への信仰におけるあなたの見解に関して言えば、あなたの為すことのすべては神に反しており悪である。」『言葉は肉において現れる』の「神を信じているなら神に従うべきだ」より

家に帰った後、私は次の交わりを読みました。「自分の本分を尽くす際、自分の虚栄心、自分の顔にばかりこだわる人がいます。『自分が目立つ本分なら何でもしよう。もし頭を垂れて一生懸命働かないといけない本分、誰にも見えなくて、自分が目立たない本分なら、縁の下の力持ちにしかなれない隠れた本分ならお断りだ。人に自分がよく見えて、虚栄心に訴える働きならやろう』。そのような人は他人の前で見栄を張りたいだけで、それができるとなると大喜びします。どれほどの苦しみでも受け、どれほどの努力も惜しみません。常に自分の虚栄心を満たそうとしています。そのような人は真理を愛していません。あなたは神の御心を気にかけ、神の采配に従わなければなりません。神の家での采配は神に許可されているため、進んで従わなければなりません。神の家の采配に従うことができれば、それは神に従えることができるということです。それができなければ、神への従順は口先だけの話に過ぎません。神はあなたに面と向かって何かをするように命令しないからです。今日、神の家はあなたがこの本分を尽くすように、私たちの現在の働きの要求に基づいてその本分を尽くすように取り決めました。あなたは、『私には選択肢がある。やりたい本分なら何でもやる。気に入らないことならやらない』と言います。そんな風に本分を尽くすことは、神に従順であることになりますか。それでも真理を愛する人でしょうか。神についての認識を得られますか。それは神を畏れる人ではありません。本分の選り好みをし、否定的で、たるんでいるような人には真理の現実が少しもありません。本物の従順がなく、本分において完全に自分の好みに頼っています。神はそのような者を好まれません」(『いのちへの入りに関する説教と交わりⅩ』所収の「『神を知ることこそ神を畏れ悪を避ける道』という神の言葉に関する説教と交わり(Ⅰ)」より)

神の御言葉と交わりに心を突き刺され、私は恥ずかしく思いました。更に、自分がもてなしの本分に従順でなかった理由に気づきました。私が教会のグループの責任者だった頃を振り返ると、指導者が教会の働きについてまず私に相談してから、私が兄弟姉妹と話し合って実行しました。その時私は、自分が教会の指導者に高く評価され、兄弟姉妹にも尊敬されていると感じました。本分において私は活気に溢れ、それがどんなに大変で疲れることでも喜んで行なっていました。しかしもてなしをすることになってからは、私は否定的で活気に欠け、食事を用意するのは一日中お鍋や釜を扱うだけで、どんなに一生懸命に働いても誰にもわからない、あまりにも控えめな仕事だと思いました。そのような本分は苛立たしかったので、私は抵抗し、引き受けたくありませんでした。神への実践的な従順がなかったのです。その時初めて、以前の自分が本分を根気よく努めたのは真の服従からではなく、すべて自分を目立たせて他人の賞賛と尊敬を得るためであり、神の被造物として本分を尽くしていなかったと悟ったのです。本分が名声と地位を得ようという自分の野心と欲望を満たせなくなると、言い訳を思いつけるだけ思いつき、受け入れて従順でいようとは思いませんでした。率直に言うと、単に自分の虚栄心を満たすために個人的な名声と地位を追求しながら、本分を尽くすという旗を振っていただけだったのです。神の御心をまったく気にかけず、教会の働きを支えていませんでした。本当にとても自分勝手で卑劣でだったのです。常に個人的な好みと選択で本分を尽くし、常に肉的な目的のためにたくらんでいました。どうして真理を追い求める、神に従順な者になれるというのでしょうか。それから神の御言葉を更に読みました。「他人に見てもらうためだけに物事を行ない、神の吟味を受け入れないなら、あなたの心に神はいますか。そのような人には神を畏れる心がありません。いつも自分のために物事を行なったり、いつも自身の利益を考えたり、自分の地位、体面、評判を気にしたりしてはいけません。まず最初に神の家の利益を考え、それを最優先にしなければなりません。神の心を察し、自分が神の家の働きのことを考えているかどうか、立派に本分を尽くしたかどうかをじっくり考えるべきです。心の中で神の家の働きを常に考慮し、兄弟姉妹のいのちの入りを考えているなら、あなたは立派に本分を尽くすことができます。素質が劣っているとか、経験が浅いとか、自分の任務にあまり慣れていないときにのみ、働きの中に誤りや欠陥があったり、結果が思わしくなかったりするかもしれませんが、それでもあなたは全力を尽くしてきました。行動において自分の利益を考えず、その代わりいつも神の家の働きを考慮し、その利益を考え、立派に本分を尽くしているとき、あなたは神の前でよい行ないを積み重ねているのです。」(『キリストの言葉の記録』の「真心を神に捧げると真理を得ることができる」より)神の御言葉について思案すると、私は神の御心を理解し、神に満足していただくためには何をすべきかがわかりました。私は神に祈り、決意しました。「ああ神様。私はあなたの精査を喜んで受け入れ、自分の虚栄心と面子を脇にやり、もはや名声や地位を追求したりはしません。ご満足頂けるよう、進んであなたの采配に従い、心をこめて本分を果たします」祈った後、心がはるかに静かになり、心からこの本分を受け入れました。

それからの日々は、私がこの国に来たばかりで身の回りに慣れていなくて食料の買い出しが大変なのを姉妹たちが知っていたので、わざわざ食料や日用品の買い物に一緒に来てくれました。私は年上で、コンピューターがあまり得意ではないので、姉妹たちが親切に辛抱強く教えてくれました。時折、私が困難に遭遇し、否定的になって弱っていたとき、姉妹たちは神の御言葉で関連する箇所を見つけて交わってくれました。愛情をもって私を助け、私の実際的な困難を解決してくれたのです。自分たちの本分でとても忙しい中、少しでも時間があればいつも家事や掃除などを手伝ってくれました。私がもてなし役だという理由で見下す人や、冷たくあしらう人は一人もいませんでした。全員がただ自分の本分においてできることならば何でもしました。兄弟姉妹の間には貴賤の差がないのだと感じました。私たちは家族よりも親しい、親密な間柄でした。毎日がとても充実しており、気持ちが楽で安らぎました。本当に神に感謝します。神の御言葉によるあの裁きと刑罰を受けた後、私は神に従うという真理へある程度の入りを得たと感じ、本分においてもっと従順になりました。しかし神は、名声と地位を追求するという私のサタン的な本性が根強いことをよくご存知でした。それで、私を清めて救うための環境をもう一つ備えられました。

ある日、教会の指導者が電話してくると、姉妹の一人が本分で忙しく、土曜日の午後に子供の面倒を見てくれる人がいないので、毎週半日間助けてやってくれないかと私に尋ねました。私が子守に行くと聞いたとき、少し気を悪くしました。「子守も本分を尽くしているうちに入るのかしら。それにここ数年間、商売で忙しくて自分の孫の面倒も見る必要もなく、人に自分が良く映るような働きしかしなかったし、親戚や友人には強い女に見られていた。もてなしの本分だけでもすでに私にとってはとても地味なのに、その上よその子供の面倒まで見たら、ただのばあやになってしまわないかしら。子守なんかでは名をあげることなどできないし、偉くもならないんだからやりたくない」そこでこう言い訳をしました。「今は姉妹たちの食事を用意していて、家のこともしないといけません。兄弟姉妹がよく来るので、外に出られないのです」私は単に言い訳をいって責任逃れをしているだけだったので、指導者は私にまず神に祈り、求めて、それから決断をするようにと言いました。電話を切った後、私は心に安らぎを見出だせず、そのことを考えれば考えるほど気分が悪くなり、こう思いました。「どうして誰か他の人を見つけられないの。どうして私でないといけないの。子守では名声にも地位にもならない。兄弟姉妹が知ったら私をどういう目で見るかしら。どうしてみんなに顔を見せられるの。でもやらないと、兄弟姉妹から私の心には愛がないと言われないかしら」悩みに悩んだ末、行ってやってみることにしました。

土曜日の午後に周姉妹の家に行き、元気で小さな子供が無邪気で愛らしいことはわかったのですが、まったく喜びを感じられませんでした。心が不安定だったのです。午後5時までなんとか頑張りましたが、その時になって母親が恋しくて女の子は泣きだし、どうしてもなだめられませんでした。周姉妹がそろそろ帰って来る頃でしたが、その子はどうしても泣きやみません。私はやきもきして、「周さんが帰って来て、娘が泣いているのを見たら、私をどう思うかしら。いい年をして小さい子の世話もできないのかと思うかしら)と思いました。おろおろしていた私がしてあげられたのは、その子をおいしいお菓子でなだめ、お話を聞かせ、漫画の動画を見せることだけでした。その子がだんだん泣きやんだ後、周姉妹が本分の実行から帰って来ました。こうしてその日の午後は何とか無事に過ごせたのです。家に帰る途中、私は歩きながら考えました。「子供の面倒を見るのは楽ではない。疲れるし、気にかけることがたくさんある。もしものことがあったら私には処理できない。教会にはあんなに人がいるのに、なぜ私に子守をさせないといけないの」そう思えば思うほどがっかりしました。その夜はベッドで何度も寝返りを打ち、眠れませんでした。神の御前に来て祈らざるをえませんでした。「神様、私は今ひどい気分です。姉妹の娘の世話を手伝うのは、彼女の家庭の心配事が本分に差し障らないようにするためであり、私はそれを私の本分として引き受けるべきであることは承知しています。しかし不当な扱いだと常に感じて従いきれません。ああ神様。あなたの御心を理解し、この間違った状態から抜け出せるように、啓き、導いてくださるようお願いします」私は神の御言葉の本を開き、次の部分を読みました。「本当の服従とは何ですか。物事が思い通りに進んで注目され、輝き、何らかの栄誉を得られるなら、あなたはすべて満足で正当だと感じます。神に感謝し、神の指揮と采配に服従できます。しかし、自分が脇に追いやられ、注目を集められなくなり、いつも他人に無視されるなら、もはや幸せを感じません……状況が好都合な時に服従するのはたいていの場合容易です。物事が思い通りに進まず感情が傷ついたり、弱ったり、肉体的に苦しんで自分の評判が落ちたり、虚栄心や自尊心を満足させられなかったり、心理的に苦しんだりするような逆境においても服従することができるなら、あなたは真に成長したことになります。これがあなた方の追求すべき目標ではありませんか。あなた方がこのような決意と目標をもっていれば、希望はあります。」(「神の交わり」より)

人の堕落した性質は人々のあらゆる考えや見解、人々のあらゆる行動の背後にある動機に潜んでいます。それは、神が行うすべてのことへの取り組みにおいて、人が持つ意見、理解、観点、欲望のひとつひとつに潜んでいます。では、神はどのようにして人のこれらのことがらに取り組みますか。神はあなたを明らかにする環境を整えます。神はあなたを明らかにするだけでなく、あなたを裁くでしょう。あなたが持つ堕落した性質が明らかにされる時、神に敵対する考えや見解があなたにあるなら、そして神と争う状態や観点があなたにあるなら、また、神を誤解したり、神に抵抗して反対したりするような状態があなたにあるなら、神はあなたを叱責し、裁き、罰し、時には懲罰して懲らしめることさえあるでしょう。……神があなたに整える環境にあなたが従順であり得るように、そして最終的に、神の旨に従って、神があなたに求めることをあなたが実践できるよう、そして神の旨を満足させることができるように、あなたの堕落した性質とサタンの本質をあなたが認識することを神は望みます。そのとき、あなたは厳しい試練に合格したことになるのではないでしょうか。その時あなたは厳しい試練に合格したことになります。」(『キリストの言葉の記録』の「真に服従していることだけが本当の信仰である」より)

物事を明らかになさる神の裁きの御言葉を前に、私は自分もどこにも隠れようがないと感じました。「人の堕落した性質は人々のあらゆる考えや見解、人々のあらゆる行動の背後にある動機に潜んでいます。」この御言葉を目にすると、自分の内面を見つめずにはいられませんでした。なぜ私は神が用意してくださった環境に従えなかったのでしょうか。なぜ姉妹の子の世話を手伝いたくなかったのでしょうか。子供の面倒を見るのは身分の低い人がすること、地位をなくすこと、人に見下されることだと信じていたのです。自分が目立って、人に誉められて尊敬されるような大層なことができる本分を尽くすことだけに価値があり、神から称賛される、地味で目立たない本分なら何の価値もないと思っていたのです。自分の内にあるこうした思いや考えを反省し、その時初めて、自分がまだ名声と地位への欲望の支配下にあることに気づきました。神への信仰において追求していた目標も人生観も価値観も世俗の人と同じでした。それは、「樹皮があることで木が生きられるように、人は体面を保つことによって生きている」「生きては傑出した人物となり、死しては優れた鬼とならん」「ガンは飛び過ぎる時声を残し、人は死ぬと名を残す」「人は上をめざし、水は下に流れる」などです。こうしたサタン的な害毒や論理、法則はすべて私の心に深く根を下ろし、私のいのちとなり、こうして私はとても傲慢になり、名声と地位を愛するようになりました。そのため本分において常に名声と地位の損得を計算しては、真に神に従うことができなくなっていたのです。

それから再び神の御言葉について思案し、神が自分に用意してくださった環境は自分の観念と相反しているが、神のご厚意がこめられていると理解するようになりました。神がその環境を通して私を暴露しようとなさったのは、私が自分の堕落した性質をより深く認識し、道を誤っていたことをはっきり自覚し、そうすることで速やかに悔い改めて向きを変え、真理を追求する正しい道を歩むためです。今や私が尽くしている本分が他の人から見て立派であろうと些細であろうと、すべて神の支配と采配であり、私が引き受けなければならない責任と本分なのです。憶測も熟慮も抜きで、ただ引き受け、従わなくてはなりません。議論も抵抗もしてはならないのです。私が自分で選択することではありません。それだけが本物の従順なのです。

翌日、霊的デヴォーションの際、私は御言葉を更に読みました。「自分の本分を立派に尽くさず、いつも名誉を求め、地位や体面、評判や益を巡って争うなら、このような状態で暮らしつつ奉仕をしたいのですか。したいならば奉仕すればいいのですが、奉仕が終わる前に暴かれる可能性があります。暴かれるときは一瞬にして暴かれます。暴かれたとたんに、あなたの状態が改善できるかどうかはもう問題でなくなり、それどころか結末がすでに定まった可能性の方が高いです。そして、それはあなたにとって困った問題になります。」(『キリストの言葉の記録』の「真心を神に捧げると真理を得ることができる」より)「いのちを追求しない者は変化させられることは出来ない。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたは自分の変化の追求といのちに入ることに重点を置かず、度を越した欲望や、神への愛を閉じ込め、あなたが神に近付くことを阻む物事に常に重点を置く。そのような物事があなたを変化させることが出来るであろうか。あなたを神の国へと導くことが出来るであろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ引き立て役になる覚悟がないのか」より)この御言葉の一言一句に心を突き刺されました。人類の背きを許さない神の義にして聖なる性質を目の当たりにし、自分が歩んだ道を恐れずにはいられませんでした。何年も神を信じていながら、真理を追求していなかったことを自覚しました。常に名声と地位を追求していたのです。他の人に尊敬され、支持されるために人前でできる事柄にばかりこだわっていました。こうした途方もない欲望に縛られて制約され、神の采配に従えませんでした。特に、神に従い愛することができませんでした。ずっとこのようなやり方で神に従い続ければ、私のいのちの性質は決して変わりません。このサタン的な本性の支配に苦しみ、神に反抗し抵抗し続けるでしょう。それでどうして神に救わることができるでしょうか。この本分の調整によって堕落をかなり露呈しましたが、神への信仰において真理を追求し、神の御言葉の裁き、刑罰、刈り込み、取り扱いを受け入れることによってのみ、自分のサタン的な本性の本質を理解し、神に反抗して抵抗する自分の堕落の実態をはっきり見極めることができるということ悟りました。こうして私は自分を嫌い、肉を捨て、いのちの性質の変化を遂げ、神に真に従順で神の賞賛を得る人になることができます。このことを理解して、神への信仰においては服従することを学ぶのが大切であると実感しました。まさにその時、こう決心したのです。「教会にどんな本分を割り振られても、神が整えられたものには絶対的に従うことをいとわない。自分の理屈を入り込ませたり、自分の損得を考慮したりはしない。ただ神の被造物としての本分をしっかり尽くし、神に満足して頂きたい」。

それからの日々は、兄弟姉妹が本分で忙しく、私に子供の世話を手伝ってほしいときは、私はいつも心から引き受け、神が私に用意された環境に従いました。懸命に自分の本分を尽くし、気持ちが楽になり、心の平安を得たのです。また、神の導きと祝福を多く目の当たりにしました。子供が言うことを聞いてくれなかったり、だだをこねたりすると、短気を起こしそうになることもありました。しかし、また堕落を露呈していることをすぐに自覚できたので、急いで神に立ち戻って自分を反省し、自分も神の御前では未熟な子供のようで、神に度々反抗、抵抗し、神が仰せられたとおりにしないと悟りました。以前ほどやきもきせず、子供にもっと理解と寛容を示すことができました。時には子供と少し意見の相違があったため、大人としての権威を脱ぎ捨て、子供の言い分を聞き、正しい提案なら何でも受け入れようとしました。また、どのように子供と腹を割って話し、子供の気持ちを本当に理解するかも学びました。子供は何か思うことがあれば話してくれるようになり、お互いの距離はもうなくなりました。また、頻繁に神の御言葉を一緒に読み、賛美歌を聞きました。私は、神の三段階の働きや、生活で困難を経験したときにどのように神に祈り、神に頼るかについて話をしました。子供たちは英語を教えてくれました。互いに助け合ったのです。子供たちがますます素直になり、困難に遭ったときはどのように神に祈り、神に頼るかを学ぶ姿を見たとき、私はこの上なく嬉しく思いました。心から神への感謝と称賛を表さずにはいられませんでした。神の御言葉の裁きと刑罰の経験を通して、私は名声と地位を追求する欲望を徐々に手放したのです。もう自分を目立たせる本分を尽くしたいと思わなくなり、人目を気にしなくなりました。そうではなく、神の采配に従い、しっかり神と向き合って本分を果たせるようになりました。このような生き方をすれば心がなごみ、自由になって解放されると感じます。また、神の家では本分に大小も貴賎の差もないことを深く経験しました。どん本分を尽くすことになっても、そこには学ぶべき教訓と、実践して入るべき真理がこめられているのです。神の御言葉を実践し、神に従う限り、私は聖霊の働きを得て真理を理解することができ、本分を尽くすとき神の祝福を受けます。そのようにして神がいかに義であるか、神を誰も不公平に扱わないことがわかるのです。

神は仰せられます。「神は代価、大変な労をともなう代価を一人ひとりのために払い、人はそれぞれ神の旨を得ます。神は一人ひとりのために惜しみなく代価を払うのです。神は万人への期待と希望をもって一人ひとりに自身の旨を託します。神は思いのままに、自身の旨にかなう人のために血のにじむような代価を払い、一人ひとりに喜んでいのちと真理を授けます。したがって誰かがこの神の目的を理解できるなら、神は喜びます。あなたが神の行なう業を受け入れてそれに従うことができ、神から来るものをすべて受け取ることができれば、神は血のにじむような代価が無駄ではなかったと感じます。そのことは、神から授けられた気づかいと思いに応えて生きたなら、あなたはあらゆる環境において報いを受け、神の期待を裏切らなかったことを意味します。また、神があなたに行なったことが期待どおりの成果を生み、期待どおりに目的を達成したなら、神の心は満足するということも意味します。」(『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や物事から学ばなければならない」より)私は神の御言葉から、毎日出会う人、出来事、物、環境すべてに神の御心と尽力がこめられていることを理解しました。神は私に使命を用意なさり、とりわけ期待をかけてくださっています。私を広大な世間から救ってくださいました。神の御心は、私が神の経営(救いの)計画において自分なりの役割を果たすことです。神の被造物の一つとしての私の本分は、神の仰せられることに耳を傾け、神の采配に従い、神が私に託されたことを秩序正しく行い、自分の責任を果たすことです。これが私の本分であり、避けられない使命なのです。ここに私は、神から来るものすべてを受け入れて従い、神が用意なさるすべての人、出来事、物において真理を求めて神の御心を把握し、神の要求どおりに実践することを決意します。今後はどんな環境やどんな本分が私のもとに来ても、それが自分の観念からどれだけ離れていても、私は喜んで受け入れて従います。本分を尽くすことに心と精神と思いを尽くします。真に神に従って神の賞賛を得る者になることを目指します。

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