裁きは光
趙霞申します。私は一般家庭に生まれました。「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」や、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」などのことわざの影響により、評判や体面は私にとって、非常に重要なものでした。私がするすべてのことは、人々から称賛、賛辞、尊敬を得ることが目的でした。結婚後、私が自分に定めたゴールは次のようなものでした。私は他の人よりももっと豊かな生活をする。私の年配者への対応や、私の態度や行為について誰にも批判的なことは言わせない。子供を有名大学に入れ、将来有望にすることで、私の体面にさらに輝きを加える。そのため、私は義理の家族とは一切喧嘩をしたことがありませんでした。時に、彼らが私に厳しいことを言い、悲嘆に暮れる時は、私は反抗的な態度を取る代わりに、誰も見ていないところへ行き、泣きました。旧正月やその他の祭日のため、他の人が両親に洋服を買っているのを見ると、私も急いで義理の母親のために洋服、それも最高級の洋服を買いに行きました。親戚が訪ねてきた時は、食糧の買い出しや料理を手伝いました。それを行なうのが少し難しかったり、大変だったりした時も、心から喜んで行ないました。他人よりも裕福ではなくなることを恐れ、私は生後1ヶ月の娘を置いて、職場復帰しました。そのため、娘は母乳を飲むことができず、栄養失調に苦しみ、骨と皮だけになっていまいました。娘の状態は、100回栄養剤を注射しただけで回復しましたが、私は疲労がひどく、毎日背中に痛みを感じていました。状況は難しく、疲れを蓄積させるものでしたが、私は良い評判を得るために、この苦難に耐え、休みなく働きました。数年もすると、私は村で有名な嫁となり、家族は裕福になり、周りの人々に羨ましがられるようになりました。その結果、私の義理の家族、近所の人、親戚、そして友人は全員、私を褒め称えました。周りの人から賞賛や賛辞を受けて、私の虚栄心は大いに満たされました。私は過去数年の苦難は無駄ではなかったと感じ、心の中でほくそ笑みました。しかし、義理の弟が結婚すると、私の穏やかな生活が中断されました。彼の妻はいつも皮肉な調子で私に話し、私が義理の母を大切にするのは、彼女の財産を受け取りたいと言う隠された動機があるからだと言いました。彼女は、義理の母が彼女の家よりも私の家に多くの物を与え、えこひいきしていると年中言うため、私たちはよく口論をしていました。私はひどく悲嘆に暮れ、私の無実を示すため、公衆の面前で彼女と口論したいと思いましたが、それでは私が人々の心に築き上げた良いイメージが壊れていまいます。そのため、私は頑張って自分を抑制し、我慢しきれなくなると、誰も見ていない場所で大泣きしました。その後、義理の妹は調子に乗り、私の家族に分与された土地に住み始めました。これには、私は怒りに震え、何日も飲み食いできなくなりました。彼女とこれについて争いたいとさえ思いました。しかし、そんなことをすれば私の面目を潰し、私の評判に傷がつき、周囲の人が私を蔑むようになると考え、これをすべて飲み込むことにしました。しかし、心の中では、自分を抑えすぎたため、苦悩していました。私は、こんな人生がいつ終わってくれるかも知れず生きていくのはあまりにも辛く、疲れるとこだと感じながら、一日中浮かない顔をし、溜め息ばかりをついていました。
人は苦しんでいる時こそ、神を見出す契機となります。私が苦しみ、無力感を感じていたその時、全能なる神が私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、近所の人がこう聞いてきました。「神の存在を信じていますか」。私はこう答えました。「信じていない人がいるんですか。私は神の存在を信じています」。そして、この人は次のように続けました。彼女が信じる神は、宇宙と万物を創造した唯一本物の神であり、当初、人類は神を崇拝していたため、神の祝福を受けて暮らしていた。しかし、人がサタンにより腐敗させられると、神を崇拝しなくなったため、神の呪いを受け、痛みの中で生きるようになった。終わりの日の全能なる神は、人々に真理を授け、苦難の深淵から人々を救い出すために現れた、と。加えて、神を信じてきた彼女の経験についても話してくれました。彼女の話を聞き、私は、信頼できる親友を見つけたと感じ、心の痛みをすべて打ち明けずにはいられませんでした。その後、彼女は、私に神の言葉の一節を読んでくれました。「あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが「父」ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を」(『神の出現と働き』「全能者のため息」〔『言葉』第1巻〕)。神の言葉は、暖かい水の流れのように私の心に流れ込み、苦しく、悲しみに満ちていた心を慰めてくれました。私は涙が流れ落ちるのを止めることができませんでした。その瞬間、母の腕に突如として戻ったように迷子の子供になったように感じました。言いようのない興奮と感情が心の中に湧き上がりました。神が私を神の家に招いてくださったこと、行く場所をなくしていた私に思いやりを示してくださったことに何度も感謝しました。私は心と魂で神に従います!その後、毎日、神の言葉を読み、神に祈り、賛美歌を歌い、神を讃えました。歌は、特にこれは、私の心をリラックスさせました。ミーティングに出席する中で、教会の兄弟姉妹は、血の繋がりはなくとも大家族のようであることを目の当たりにしました。彼らの関係はシンプルかつオープンなもので、理解と寛容、そして忍耐に溢れ、他者に対する焼きもちや対立、悪巧み、建前、そして裏表がありませんでした。裕福なものに愛情を示す一方で、貧しいからと言って差別をするようなこともありませんでした。彼らは、すべての人を誠実かつ平等に扱うことができる人々でした。皆と一緒に神を讃える賛美歌を歌っていると、特に、心が自由になった気がしました。そのため、この愛情に溢れ、暖かく、公正で楽しい教会生活のすっかり虜になってしまいました。私は全能なる神が唯一真実の神であることに確信を持つようになり、最後の日まで神に従う決心をしました。
神の言葉を読むことで、可能な限り人を救いたいという神の差し迫った願いを理解しました。また、多くの兄弟姉妹ができる限りを尽くして、神の国の福音を伝えようとしているのを見ました。そこで、私も福音を伝える仕事に積極的に参加するようになりました。神の終わりの日の働きは、人を救い、人を変えることが目的です。私を浄化し、変えるため、神は私の腐敗した本性に的を絞り、神の刑罰と審判を行なうと共に、繰り返し、思いやりを示し、救済してくださいました。ある時、私は神の信者になりそうな人の元へ福音を伝えに行きました。彼女がリーダータイプの人だと分かると、神と手を組み、何があろうと彼女を神の前に連れて行こうと決心しました。それは、農繁期でした。彼女は農作業でとても忙しくしていたので、私は彼女の隣で一緒に働きながら、神の終わりの日の働きについての証言を伝えました。3日間連続で彼女の所へ行き、同じように彼女に福音を伝えていると、彼女は神を受け入れるつもりがないばかりか、次のように私に怒鳴りました。「図々しい人だね!信じないって、言っただろう。なのに、説教を止めようとしない」。彼女の言葉が痛いところに突き刺さりました。私は、公衆の面前で何度もひっぱたかれたかのように顔がぼっと熱くなりました。心臓では鈍い痛みが次々に押し寄せています。次のように考えました。善意から、あなたに福音を説くためにここに来て、自分の背中が痛くなるまで自分をすり減らし、あなたの仕事を手伝ってきたのに、あなたは受け入れる代わりに、こんな風に私を扱うなんて、何と心のない人だ!私はひどい屈辱を感じ、もう彼女とは口を利きたくないと思いましたが、それは神の意志にそぐわないと感じ、心の中で静かに祈り、心の痛みを押し殺し、彼女の仕事を手伝いながら、説教を続けました。しかし、どんなに一生懸命彼女に伝えようとしても、彼女の心に訴えることはできませんでした。私は家に帰ると、空気を抜かれたゴムボールのように崩れ落ちました。彼女の言った言葉が何度も頭に浮かびました。それについて考えれば考えるほど、辛くなりました。私はなぜこんなことをしているのだろう。私の善意に対して私が受け取るものと言えば、嘲り、中傷、そして暴言のみ。これは本当にあまりにも不公平だ!こんな風に私を扱った人はいない。福音を伝えることはあまりにも辛く、困難だ!いや。私はもう福音を伝えるために出かけることはできない!このまま説教を続けていたら、私は誰にも顔を合わせることができなくなってしまう。あまりにも不当な扱いを受け、辛すぎるため、もう福音を伝えたくない。そう感じていたその時、神の言葉が私を啓きました。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。……彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか。結局、人間は毒された犠牲者たちである。人間は今日まで生きながらえたけれども、悪しき者によって人類が長い間毒されてきたことを、いったい誰が知っていただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神に対するあなたの愛のゆえに、これら生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか」(『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」〔『言葉』第1巻〕)。神の言葉のふしぶしに、無知な人々に対する神の懸念、心を悩ませる悲しみ、そして愛が示されていました。神はご自身の手で創造した人々がサタンにより嘲られたり、傷つけられたりするのを見るのが耐えられません。神はすぐにでも人が神の家に戻り、神が人に授けた偉大なる救済を受けるのを身が切られるような思いで待ちわびているのです。しかし、私が伝道しようとする相手からいくつかの厳しい言葉を浴びせられると、私は不当な扱いを受け、攻撃されたように感じ、この困難や苦しみについて不平を言っていました。私は自分の体面を失ったことから、神にはもう協力したくないとさえ思いました。私の良心と理性はどこへ行ったのでしょうか。終わりの日に私たち腐敗した人々を救うため、神は、繰り返し、政府からは追われ、避難され、宗教団体からは放棄され、非難され、冒涜され、中傷され、神の信者からは誤解され、抵抗されてきたのです。神が苦しんできた痛みと屈辱はあまりにも多く、あまりにも大きいものです!それでも、神は人を救うことを諦めず、静かに人の必要なものを供給し続けてきました。神の愛はあまりにも偉大です!神の本質はあまりにも美しく親切です!私の今日の困難は、神が人を救うために耐えてきた苦しみに比べれば何でもありません!私は、私自身も被害者であり、長年サタンに苦しめられてきた人間であることを思い出しました。神が私に救いの手を差し伸べてくださらなければ、私は未だに暗闇の中で、光や生きる希望を見つけられず、苦しげにもがいていたことでしょう。神の救いを受けた私は、屈辱や痛みに耐え、神と協力し、私の本分を正しく尽くし、未だにサタンに傷つけられている無知な人々を神の前に連れてくるため、最大の努力を尽くす必要があります。これは、世界中のどんな仕事よりも価値と意義があり、どれだけの苦しみに耐えなければならないとしても、やりがいのある仕事です。こう考えた時、私は福音を伝えることを辛いことだと考えなくなりました。代わりに、神の国の福音と連携できるなんて、何と幸運なことだろうと感じました。これは私の名誉であり、神を高めることでもありました。私の心は決まりました。福音の働きでどのような困難に遭遇したとしても、私のすべてを捧げ、神を必要としている、より多くの人を神の前に連れて行き、神の心を安心させよう、と。その後、私は、再び福音の働きに身を投じました。
研修を一定期間受けた後、私の本分を尽くす中で、私にひどい態度をとったり、辛辣な言葉を投げかけてきたりする伝道相手に遭遇しても、正しい方法でこれに対処できるようになり、愛情を持って協力し続けることができました。このため、私は自分自身の変化を感じ、それほど体面や地位について気にならなくなりました。しかし、私が人生で必要としていたものに基づき私をテストしようと、神が別の環境を用意すると、再び、その状況をすべて経験することになりました。ある日、教会のリーダーが私に最近の調子をたずねてから、神の最近の意思と実践方法について私に伝えてきました。会話の中で、彼女が本分を尽くすために別の教会に移動になることが分かり、興奮せずにはいられませんでした。彼女が去った後、私は教会のリーダーになるかもしれない。そうしたら、私は本当に適切に協力できるはずだ!密かに幸せな気分でいると、その姉が、私の村にいる別の妹が明日来ることになっていると言いました。それを聞いて、私の心は激しく揺れ動きました。彼女は何のために来るのだろう。彼女が教会の新しいリーダーになるのだろうか。不安が大きくなるのを止めることができませんでした。彼女は私ほど長い間神を信じていない。しかも、彼女は私と同じ村の出身だ。彼女がリーダーになったら私の体面はどうなるのだろう。兄弟姉妹は私について何を思うだろう。彼らは、私が彼女ほど真理を求めていないと間違えなく言うだろう。私はそう考えずにはいられませんでした。夜には何度も寝返りを打ち、寝付くことができませんでした。次の日のミーティングでは、教会の新しいリーダーに誰が選ばれたかを絶対に聞き逃すまいとして、リーダーの言葉の調子や態度にじっと集中していました。彼女が話しながら私と目が合うと、自分がリーダーになれる希望を感じました。私の顔は喜びに満たされ、彼女が言うすべてのことに相槌を打ち、同意しました。一方、彼女が話しながら別の妹の方を見ると、彼女がリーダーに任命されるという確信を持ち、落ち込み、それにより、苦悩しました。それから数日、体面と地位についてあまりにも悩んだため、不安になり、物事に集中できなくなりました。食欲がなくなり、まるで時が凍ってしまったかのように、時間が経つのが極めて遅いとさえ感じました。教会のリーダーは、私のこの状況を見て、私に神の言葉の次の一節を読むように言いました。「あなたがたは今や信者であり、働きのこの段階に関する認識が多少ある。しかし依然として地位への欲望を脇にのけていない。自分の地位が高ければしっかり追求するが、地位が低いと追求しなくなる。地位の祝福のことが常に心の中にあるのだ」。「あなたがたは現在のこの段階まで達したが、依然として地位を捨て去っておらず、いつか地位がなくなり、名前が汚されるのではないかと深く恐れ、地位について尋ね回り、観察しようと日々奮闘している。……あなたがたがこのように求めれば求めるほど、刈り入れる物は少なくなる。地位に対する欲望が強ければ強いほど、その人は深刻に取り扱われ、重大な精錬を受けなければならない。この種の人は無価値である。このような人はこれらの物事を完全に捨て去るため、取り扱いと裁きを十分受ける必要がある。あなたがたが最後までこのように追求するなら、収穫は何もない。いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか」(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)。神の言葉の一文一文が私の心を打ちました。神は私の後ろにいて、私の言動をすべて見ていると感じました。私は、ここ二日間の私の考えと行動を自省せざるを得ませんでした。私は、神を求めることに対する私の見方が、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」などのことわざにあまりにも基づいており、強く影響を受けていることに気が付きました。私は、他人からのさらなる称賛を得るため、常に地位を求めていました。これにより、体面や地位に非常に心を悩ますあまり、不安になり、物事に集中できなくなり、食欲を失い、不眠になり、道化師のように馬鹿なことをしていました。このような環境は、私の状況に合わせて神が仕組んだものです。それは、私に示された神の愛でした。今日の神の働きは、私が最終的に救済を得られるよう、私を救うことであり、サタンの暗い影響力から逃れるのを助けることでした。私が真理を求めていた方法は、神の働きや要求にそぐわないものでした。たとえ、最後の日まで神を信じていたとしても、神の承認を得ることはできなかったでしょう。私は何も持たずにいたことでしょう!そこで、私は声に出さず、神に祈りました。「あぁ、神よ!神の働きに従い、神の要求に則して神を信じる正しい道を進みます。また、真理を理解し、私の腐敗した性質を排除できるよう、神の言葉に注力していきます。私がリーダーになろうがなるまいが、真理を求め、神の意思を満たさない私の性質を変えることに関心を向けていきます」。神の意思を理解すると、心が特に穏やかになり、内容に関わらず、それを楽しんで伝えていきました。ミーティングの後、教会のリーダーは、大多数の兄弟姉妹の推薦により、あの妹が教会の新しいリーダーになり、私は彼女の働きと連携することになると告げました。私の心はとても穏やかで、喜んでこれを受け入れ、あの妹と調和を持って働き、本分を尽くしていくことに同意しました。
今回、神の刑罰と裁きを経験した後、私は体面と地位にフォーカスするきらいがあることを知り、私の肉を進んで投げ打ち、神を信じ、神の要求に則して本分を尽くしていくことにしました。しかし、サタンの毒は私の中のとても深い場所まで汚染していました。魂の奥底では、サタンの影響によりまだコントロールされていました。サタンの害からさらに私を守るため、神は、再び、私に救いの手を差し伸べてくださいました。ある日、教会のある妹の状態が良くないと伝えられました。そのため、この問題をどのように解決するかについて、私のパートナーであった姉に相談しました。私のパートナーであった姉は気分が優れなかったため、話し合いの後、私は一人で問題を解決することにしました。同日の夜に彼女と話をするため、彼女を探し、問題を素早く解決しました。この時、上層部のリーダーは私が多大なる努力を払ったことに対し私を必ず褒めてくれるだろうと考え、私の心は喜びで輝きました。しかし、私がこの朗報を待っていると、上層部のリーダーがこの妹の状態を理解するための書簡を送ってきました。私は、私への称賛であると考えていたため、喜んで封を開け、書簡を読みました。しかし、書簡は、特に、私のパートナーであった姉に宛てたもので、彼女がどのように問題を取り扱ったかをたずねるものだと分かり、すぐに憤慨しました。問題を解決したのは明らかに私でした。なのに、なぜ、私にそれについてたずねてこないのか。まるで、リーダーの心には私のことなどなく、私は見下されているようだ。私は使い走りに過ぎない。私がどんなに優れた働きをしても、それに注意を向ける人がいないため、私が評価されることはない。それについて考えれば考えるほど、不当な扱いを受けていると感じ、落ち込みました。私は、完全に体面を潰されたように感じました。この時、私のパートナーであった姉が書簡を手にし、ちょうど私に話しかけようとしました。私は自分の感情を抑えることができず、彼女に向かって叫んでしまいました。「上層部のリーダーはこの問題がどのように解決されたかを知りません。ご存知でしょう、私は長年これに精力的に取り組んできたのに、誰も褒めてくれません。そして最後には、あなたがすべての評価を得るのです。皆の目には、私は使い走りにすぎず、補助的な作業をしているだけの人なんです。私がどんなに努力しても、誰も評価してくれません」。そう言うと、私は悲嘆に暮れ、泣き出してしまいました。その時、神の言葉が耳の中に響きました。「あなたが大いに努力したにもかかわらず、わたしがあなたに冷淡であったとしても、ひっそりとわたしのために働き続けることができるだろうか。……何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求に応えなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするだろうか」(『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。神の非難の言葉に、私の心はゆっくりと落ち着きを取り戻し、同時にかなり多くのことがはっきりと見えてきました。たった今起きたばかりのことは、心の中で、まるで映画のように何度もリプレイされました。神の啓示により、私の本性があまりにもひどく、危険なものであり、私が神を信じる心や本分を尽くすことは、神を満足させるためや、神の承認を得るためではなく、他の人から称賛や賛辞を得るためだったことを自覚しました。私は希望が満たされないと知るや否や、恨み節でいっぱいになり、私の獣のような本性が噴火し、極めて簡単に神を裏切っていまします。この時、私はあまりにも道を踏み外しすぎた、人間性を欠いていることを自覚しました。私が感じた痛みは心をえぐるようでした。私は悔い改め、神に祈りました。「神よ、私は自分が変わり、体面や地位はもはや重要なものではなくなったと感じていました。あの妹とも仲良くすることができました。しかし、私は、いつも、人々の間で何の地位もないように感じており、私の努力が他者に賞賛されなかった時は苦しい思いをしてきました。今日、神の啓示により、再び、サタンのような醜さを露呈してしまいました。神よ、サタンは私の奥底まで本当に腐敗させています。地位や評判、見栄。これらすべてが私の足かせとなっています。神が私をサタンの影響から再び抜け出せるよう導いてくださるようにお祈りします」。その後、私は、神の次の言葉を見つけました。「あなたがた一人ひとりは、群衆の頂点に昇りつめた。あなたがたは昇りつめて群衆の祖先となった。あなたがたは極めて身勝手であり、蛆虫の間で暴れまわりながら、安らぎの場所を求め、自分よりも小さい蛆虫を貪ろうとしている。あなたがたの心は悪意に満ちて邪悪で、それは海底に沈んだ幽霊さえも超えるほどである。あなたがたは糞の底に住み、蛆虫を上から下まで邪魔して落ち着かせておかないほどで、争い合っているかと思えば静かになっている。あなたがたは自分の地位を知らないが、それでも糞の中で争い合う。そのような争いから何が得られるのか。あなたがたにわたしを真に畏敬する心があるならば、わたしの陰でどうして争い合うことができようか。身分がどれほど高くても、あなたはやはり糞の中にいる小さな臭い虫ではないのか。羽を生やして空を翔ける鳩になることができようか」(『神の出現と働き』「落ち葉が土に還る時、あなたは自分の行なったあらゆる悪事を後悔する」〔『言葉』第1巻〕)。神の裁きの一語一語が鋭い剣のように私の心をぐさりと突き刺し、私の霊を覚醒しました。私は神を讃え、神の証を立てるために本分を尽くしてきたのではなく、常に他者に自分自身の優位性を見せびらかし、自分自身の証を立て、他の人々が私を賞賛し、尊敬するよう、彼らの中で高い位置に立つことを夢みてきたことに気が付きました。私の心には神を畏れる気持ちがあったでしょうか。私が求めてきたものは、神を裏切った大天使と全く同じものではなかったでしょうか。私はサタンによりひどく腐敗させられた創造物です。神の前で私はゴミ、ウジ虫のような存在です。私は常に神を崇拝し、神を畏れる気持ちを持って本分を尽くすべきでしたが、誠実な働きに従事せず、本分を尽くすことを人に見せびらかし、自分自身の証を立てることのために利用したいと常に思ってきました。神がこれを嫌い、嫌悪感を抱かないはずがありません。神はとても聖く偉大であり、権威と力に満ちているにも関わらず、謙虚かつ控えめで、人に神を尊敬させ、賞賛させるために自身の身分を明かすようなことは決してしません。そうする代わりに、神は持てるすべてを使い、人を黙って助け続けています。自分自身を正当化したり、評価を求めたり、人から何かを求めたりすることは一切ありません。神の謙虚さ、気高さ、そして無私の精神により、私自身の傲慢さ、卑しさ、身勝手さを認識しました。私はサタンによりあまりにも深くまで腐敗させられており、神の裁き、刑罰、試練、精錬による救済を強く必要としていると感じるようになりました。そこで、神の前にひざまずきました。「あぁ、全能なる神よ!神の刑罰と裁きを通して、私は自身の反抗的な態度と、神の気高さ、そして偉大さをよりはっきりと認識しました。これから、私は自分の本分を尽くす時に、神を畏れる心を持ち、正しい人間らしく振る舞い、神の言葉を頼ることにより私のサタンのような性質を排除することだけを望んでいきます」。
神の刑罰と裁きを繰り返し経験した後、私の真理追求に対する見方は少しずつ変わりましたが、私のいのちにおける性質は本当の意味ではまだ変わっていませんでした。より徹底的に私を浄化し、私がいのちの正しい道を歩けるよう導くため、神は再び私を救ってくださいました。その後、私は教会のリーダーに選出され、別の姉と協力して私たちの本分を尽くしていました。私のこれまでの失敗により、私は、教会の働きを正しく実践するにはこの姉と協力する必要があることと常に自戒していました。最初のうちは、この姉と何についても口論になっていましたが、神のお導きを一緒に求めることにより、働きのあらゆる側面で結果を出してきました。しかし、しばらくすると、私はこの姉が素晴らしい内在する性質を持っており、真理の説明が明確で、光を照らす力があり、彼女の能力が私のよりも高いことに気が付きました。ミーティング中、兄弟姉妹の誰もが彼女の話を聞きたがり、問題がある時は誰もが彼女に相談しました。このような状況を目の当たりにし、私は再びサタンの罠にかかり、サタンに嘲りを受けました。この姉はあらゆる面で私より優れており、彼女がどこへ行こうと兄弟姉妹により賞賛されている。何てことだ!私は何があっても、彼女を超え、兄弟姉妹に私も彼女に劣っていないところを示さなければならない。このため、私は毎日ノンストップで教会の中をバタバタと走り回り、兄弟姉妹のためにミーティングを手配し、誰が問題を抱えていようと、その問題解決を手伝うため、その人の所に走って行きました。・・・外から見れば私は忠実で従順であるように見えたかもしれませんが、私の心の中の野心を神の目が見過ごすはずがありません。私の反抗的な態度は神の怒りに触れ、その結果、闇に落ちてしまいました。神の言葉を読む時、いかなる啓示も受け取らず、祈る時には言うべき言葉が見当たらず、ミーティング中には淡々と話しをし、兄弟姉妹とのミーティングを恐れるようにさえなりました。私は体面と地位に完全に囚われていました。私は、背中に大きな荷物を背負い、プレッシャーから息ができなくなりながら、毎日を何が何だか分からないままに過ごしていました。いくつかの教会の問題を理解することさえできなくなり、私の仕事効率は著しく低下しました。神からのこのような啓示に直面しても、私は自分自身を知ろうとはせず、兄弟姉妹に私の状態について打ち明けたり、問題を解決するために真理を求めたりしようともしませんでした。彼らが私を見下すのが怖かったのです。その後、神の懲罰と懲らしめが私に下りました。私の胃が突然激しく痛み始め、落ち着いて座っていることも、立っていることもできなくなりました。地位を得られないことによる不満足感と病気の苦しみにより、生死を彷徨いました。私の問題を知ることを拒否し、教会の働きに協力できなかったため、教会は私を除免し、霊的な献身と自己反省のため家に帰るように命じるより他ありませんでした。私は地位を失い、まるで地獄行きを宣告されたかのように感じました。感情的に、私は奈落の底まで落ち、すべての体面を失ったのです。私が聖霊の働きを失い、本分を尽くすことができないでいる時に、兄弟姉妹が全員積極的にそれぞれの本分を尽くしているのを見ると特に、心の中がさらに苦しめられました。苦しみの中で、私は自問せずにはいられませんでした。他の人は神を信じ、より多くの真理を理解しているのに、なぜ私は、体面と地位のために、繰り返し反抗的な態度を続け、神に抵抗したのだろうか。私は、私がつまずいた根本原因を突き止められるよう導いてくださるよう、神に何度も懇願しました。ある日、私は神の次の言葉を見つけました。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)。さらに、このことについては、『いのちに入ることに関する交流と教え)』の中でも、次のように書かれています。「サタンの本質と本性は裏切りである。サタンは始まりの時から神を裏切り、神を裏切った後、神が創造した地球上の人を騙し、嘲り、操り、コントロールすることにより、神と同じ立場に立ち、神の国とは別の国を作ろうとした。… あなたがたにも分かる通り、サタンの本性は、神を裏切ることではないだろうか。サタンが人類にしてきたすべてのことを鑑みると、サタンは正真正銘の神に抵抗する悪魔であり、サタンの本性は神を裏切ることであるのが明確に分かる。これらすべては絶対である」(『いのちに入ることに関する交流と教え その1』内、「あなた自身の腐敗した本質を知る方法)」より)。これらの言葉を反芻するうち、神を畏れて、震えを止めることができませんでした。私の生き様はまったくサタンのイメージそのもので、私は正真正銘のサタンの化身であり、傲慢で自惚れており、一切神を崇拝していないことが分かったのです。神は教会で本分を尽くし、神を畏れる心を持って、兄弟姉妹を神の前に連れて行き、彼らの心に神の場所を作り、神を畏れさせ、神に従わせることができるように私を引き上げました。しかし、神による引き上げを受けて、私は、神が私に本分を尽くさせようとした意図を察しておらず、兄弟姉妹がいのちに入ろうとするのを助けるという責任を一切感じていませんでした。その代わりに、私は、常に、人々に私に関心を向け、私の話を聞いてもらいたいと考え、その私自身の欲望により、どこへ行こうと、自分自身の名声を築き上げようとしていました。私は能力が高い人に焼きもちを焼いたり、力ある人に嫉妬したりして、頑固にも他者と優位性を競っていました。外目には私は人と競っていましたが、実際に私が競っていたのは神で、地位と権力について神と闘っていたのです。これは神の性質を深刻に背くもので、これは、神による懲罰を受けるべき行為です!しかし、神は私が行なったことに対して、私を取り扱うことはしませんでした。神は、ただ、私を裁き、罰し、懲らしめ、そして鍛えました。そして、私が自省し、悔い改めるよう、私から地位を剥奪しました。神の私への愛がとても深く、とても大きいことを認識しました!私は、心の中で後悔と自責の念を感じずにはいられませんでした。さらに、私の腐敗がとても深いことが本当に嫌になりました。私は神に従いましたが、真理を求めていませんでした。その代わりに、盲目的に、地位と体面のために努力していたのです。神の愛と救済に見合う生き方を本当にしていませんでした。自省すればするほど、「木は樹皮と共に生き、人はその体面と共に生きる」や、「野生のガチョウは声を残し、人は評判を残す」など、私がよすがとしていたことわざは、サタンが人を腐敗させ、傷つけるために利用していた嘘であったことがよりはっきりと見えました。サタンはこれらのものを利用し、人の魂を麻痺させ、人の心を歪め、人にいのちについて誤った見方をさせ、地位や名声、財、体面など無意味なものを追求することに躍起にならせ、最終的には神の道から外れ、神を裏切るように仕向け、これにより、人々が誤謬に従い、そのために働き、サタンの意のままに、被害を受け、傷付くようにするためのものであったことを認識しました。私は、サタンの嘘をよすがとし、いのちについて誤った見方をしていた人間の一人で、傲慢で、自惚れており、横柄で、心の中に神の場所はありませんでした。私は腐敗した状態で暮らし、神を敵として扱っていました。現在、私は神の慈悲を受け、二度と神に反抗することはありません。私は完全に自分を修復し、完全にサタンを捨て、私の心をすべて神に捧げ、神の心を安心させるよう、真の人間のようにいのちを全うしていきます。その後、私はこれからの道をどのように進むすべきか、神の心を満たすためにどのように真理を求めるべきかを模索しました。神様、私を再び導いてくださりありがとうございます。その時、神の言葉を見ました。「今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに対する従順を追い求めることができなくてはならない。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従えなくてはならず、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人であり、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。……人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。まるで灯台のように、神の言葉が私の取るべき道を示し、私の心を啓きました。神は、地位があるか否かに関わらず、どんな環境にあるかに関わらず、人が真理を求めるために最善を尽くし、神による手配や定めに従い、愛を探し、神を満足させることができることを望んでいます。これは、真理を求める最も正しい方法であり、創造物が歩むべきいのちの正しい道です。そのため、私は神の前で決心しました。あぁ、神よ。いのちの正しい道を示してくださり、ありがとうございます。私の過去の地位は、神からの引き上げによるものでした。地位のない今日も、また、神の義によるものです。私はちっぽけな創造物に過ぎません。これから、私は真理を求め、すべての神の定めに従っていくことのみを望んでいます。
その後、神の言葉を読み、教会での生活を続ける中で、私の状態は、素早く通常状態に戻りました。教会は再び私に適した働きを割り当てました。また、私は、何かが起きるたび、神の意思を探し、自分自身を知ろうとし、それを解決するのに適した神の言葉を見つけることで、本分を尽くすことの真理を求めることに集中しました。体面や地位が関係する物事に直面する時は、心にある考えがあっても、祈りと神の言葉を通して、真理を求め、自分自身を捨てることで、徐々に、これらのものにコントロールされないでいられるようになり、平穏な心で本分を尽くすことができるようになりました。私ほど長い間神を信じていない兄弟姉妹が重要な権限を任せられた時は、真理を求めることにより、各個人が尽くすべき本分は神によって運命づけられたものであり、私は神の采配に従う必要があるということを理解できるようになりました。その結果、正しい方法でこれを取り扱うことができました。兄弟姉妹が私の本性や本質を取り扱い、これを指摘する時は、私は体面を失ったと感じても、祈りを通して従順になることができました。これは、神の愛が私に降り注いだためで、私のいのちの性質を変えるのに大きく役に立ちました。過去には、体面にあまりにもフォーカスしすぎたため、私のことを見下すのが怖く、誰にも心を打ち明けることができませんでした。今は、神の要求に従い、正直な人間になるために練習を重ね、問題が起きた時は、兄弟姉妹に打ち明けています。これにより、魂の奥底で特に安心と幸せを感じています。これらの変化を目の当たりにし、私は、神の終わりの日の刑罰と裁きの働きにより私にもたらされた変化に対し、神に感謝し、神を賞賛せずにはいられませんでした。
全能なる神に従うようになり、数年経ちます。思い返すと、サタンの毒が私の魂を侵食していました。私は、長年に渡り、サタンの支配下で生活しており、サタンによる被害を受け、嘲られていました。いのちの価値や意味について、知りませんでした。光を見ることも、真の幸せや喜びを見つけることもできませんでした。不幸の深淵に沈み込み、そこから自分自身を救い出すことができませんでした。現在、神による繰り返しの刑罰と裁きにより、私はサタンの害を排除することができ、安心感と自由を得ることができました。自分の良心と理性を取り戻し、明るく正しいいのちの道で神に従いながら真理を求めるという正しい目標もあります。神の刑罰と裁きを通して、神の無私かつ誠実な愛を真に経験し、祝福を噛みしめ、世俗の人が経験できないような愛を受け取っています。神だけがサタンの不幸の海から人間を救い出すことができ、神の刑罰と裁きの働きだけが人の内部に入り込んだサタンの毒を浄化し、人に真の人間らしくいのちを全うさせ、正しいいのちの道を歩ませることができます。神の刑罰と裁きは光です。これは、神が人間に授けた最大の恵みで、最高の保護で、最も価値のある宝です。全能なる神の言葉も次のように言っています。「ペテロは、神の刑罰と裁きは人間のための最高の守りであり、最も素晴らしい恵みであると信じていた。人間が目を覚まし、肉を憎み、サタンを憎むことができるのは、神の刑罰と裁きによる他ない。神の厳しい鍛錬は、人間をサタンの影響から解放し、自分の狭い世界から解放し、神の顔の光の中で生きることができるようにする。刑罰と裁きよりも優れた救いはない」(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。神よ、私を救い、生まれ変わらせるために刑罰と裁きをお与えくださり、ありがとうございます!これからの神を信じる私の道で、真理を追求し、さらなる神の刑罰と裁きを受け、サタンの毒を完全に排除して浄化され、神のことを本当に知り、神のことを正真正銘愛する人となるための努力を惜しみません。すべての栄光は神のものです。アーメン!
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