私は人生の正しい道を歩み始めたばかりです

2017年12月22日

私は貧しい農民の家庭に生まれました。私は幼少時代から分別のある子で、他の子供達と喧嘩することもなく、両親の言うことをよく聞いていました。こうして私は大人達から典型的な「良い女の子」として見られていました。他の親達は皆、私の両親は私の様な良い娘を持って幸せだと言って嫉妬するほどでした。私はこの様に、毎日周りの人からの褒め言葉を耳にしながら育ちました。私の小学校の成績はずば抜けて良く、テストの点はいつもトップでした。一度、私は地元で開催されたエッセイコンテストで満点を取った事があり、私の学校に栄誉を獲得しました。校長先生は私に賞と賞状を授与してくれた以外に、学校の生徒全員に私を見習う様に促したのです。私は急に学校の「セレブ」となり、クラスメート達からは「常勝の女将」というニックネームまで付けられました。私は、学校の先生達からの褒め言葉に、クラスメート達の羨望、そして両親からの溺愛に優越感を覚え、皆から尊敬される気分が大好きでした。この経験を踏まえて、私は人生で最も大きな喜びは人から尊敬されることであり、幸福感は人から褒められることで生まれるのだと強く信じる様になったのです。私は「どれだけ困難でしんどい事があっても、絶対に名声と地位のある人になって、決して人から見下されない様にしなきゃいけないわ」、と秘かに自分に言い聞かせました。それ以降、「野生のガンはその鳴き声を残し、人は評判を残す」、「生きるなら最高の男になれ、死ぬならば最高の魂になれ」といった格言が私の人生のモットーになりました。

しかし、私が13歳の時、私の父親が重病を患って入院してしまい、既に貧乏だった私の家族は深刻な借金を抱えてしまったのです。自分の父親が痛みにうめき、母親が私達の生活を維持するためにくたくたになっているのを見て、私はとても気の毒に思い、早く大きくなって両親の悲しみと痛みを分かち合える様になりたいと切望しました。こうして私は、「学校に行かなくても皆より出来が悪くなる訳がないわ。大きくなったら強くて成功を収める女性になってみせる。そうしたらまだ素晴らしい人生を送ることができるわよ!」と思いながら学校を中退するという苦渋の決断をしました。学校の成績が良かった私は、近所では「子供セレブ」的な存在でした。なので、私が中退したニュースが知れ渡った時、村民達は、「この子はほんとに馬鹿だなあ。中退だなんて、将来が台無しじゃないか」とか、「学歴が無い人を尊敬する人なんていないのに、あの子の人生は辛くて貧しくなるだろうな!」、などと言い始めたのです。小さい頃から褒められることに慣れていた私は、突然 「飛べない不死鳥は鶏以下だ」といった陰鬱な気分になってしまいました。私は外出すること、人に会うこと、見下される気分になることを恐れました。その様な辛さを避けようとした私は、2年の間、家からほとんど外に出ずにいつも無口でいました。同時に、強くて成功を収める女性になるという願望が増々強くなっていったため、その更に2年後、私は仕事を始めました。沢山の仕事に就きましたが、仕事がきつ過ぎるとか、ストレスが溜まり過ぎるとか、給料が低すぎるとか、上司が優しくないといった理由でいつもすぐに諦めてしまいました。何度も失敗しているうちに、私は完全にくじけてしまい、強くて成功を収める女性になるという私の夢は現実からかけ離れ過ぎていると感じる様になってしまいました。

2005年、私は終わりの日の全能の神の働きを受け入れる機会に恵まれました。それ以降は、私の生活スタイルと生活全体までもが完全に変わりました。私はこの神の御言葉を目にしたのです。「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。」(『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」〔『言葉』第1巻〕)神の力強い御言葉が私の心に響き、皆の運命は神の御手にあること、人々が個人的にコントロールできるものではないということ、人々はいずれの時であれ神の御主権と御計画から逃れることはできないということ、そして神の権威に服従すべきであるということを理解させてくださったのです。これが私達が幸運を得ることができる唯一の方法なのです。私が生まれた家庭、私の教育レベル、私の人生が貧しくなるのか、裕福になるのかといったことは全て、神が予め定められていることなのです。これは私が心や能力で変えられることではないのです。私は一心不乱に強く成功を収める女性に成長する決心をしてはいましたが、困難と苦しみに耐えながらも、安定した仕事を手にすることすらできていませんでした。これによって、私は、一生懸命に努力しても欲しいものが常に手に入る訳ではなく、それは神が御許しになることであるかどうかや、私の歩む道が神によって予め定められているものであるかどうかによるのだと認めざるを得ませんでした。そうでなければ、私が何を犠牲にしようとも、それは無駄になってしまうのです。神の御心を理解できた私は、自分の挫折にいらいらしたり、人の言うことも気にすることもなくなりました。代わりに、私は神を信じ、適切に真理を求め、有意義な人生を送る決心をしました。それ以降、私は毎日神の御言葉を読み、祈りを捧げ、讃美歌を歌い、兄弟姉妹達と一緒に集会に参加することを続けました。比較的早いスピードで真理を理解し、情熱を以て真理を求めていた私は、私に神の御言葉を注いでくれていた姉妹から好意的に評価されてとても嬉しくなりました。教会に入ってから、私は教会のリーダー達が私を霊的養成の最優先信者にするべきだと話しているのを聞いて、抑えがきかない程に嬉しくなって、足取も更に軽くなりました。そして私は自分にこう言いました。「全身全霊込めて真理を求めなきゃいけないわ。教会のリーダー達をがっかりさせる訳にはいかないもの。自分の評判のためでも一生懸命努力したら俗世間で失った名声と地位を教会の中で取り戻せるわ。」 当時私は神の御心については全く気にしませんでした。私は目の前で後光の様にまぶしくチラつく名誉、富、地位の事しか考えていなかったのです。

暫くして、私は教会で新信者に神の御言葉を注ぐ働きを尽くしました。兄弟姉妹達から褒められて、「霊的養成の最優先人物」の名に応えたかった私は自分の力を最大限に出して本分を尽くす決心をしました。私は、兄弟姉妹達に認められていれば、神も自然と私を御認めくださると思っていました。「懸命な働きと努力」が功を奏し、私はしばらくしてからやっとの思いで兄弟姉妹達からの称賛と激励を手にして自分の願いを叶えることができたのです。そして私は、「これだけ多くの兄弟姉妹達に認められているという事は、私が他の人達よりも優れているという事に違いないわ。リーダー達がこれを知ったら、私が昇格して重要な地位に就けること間違い無し。そうしたら、私の将来は確実に無限の可能性でいっぱいになるわ」、と思わずにいられなくなりました。自己満足に浸りながら生きていた私は、無意識のうちに自分の本分をいい加減に取り組む様になり、新信者に対して熱心に神の御言葉を注ぐことも止めてしまったのです。この結果、新信者の中に本当の神の御言葉の注ぎを受けられなくて否定的に、虚弱に生きる信者達が出てしまったのです。この状況に直面して動揺した私はこう思いました。「やっとの思いでこの‘名誉’を手にしたのに、何で私は新信者達にこんな生き方をさせてしまってるの?教会のリーダー達に知られたら間違いなく私は裁量が無いって言われて、私の本分にストップをかけられるかも知れないわ。そうしたら全てが駄目になってしまうじゃない。どうにかしてこの状況を改善しなきゃいけないわ。」その後数日の間、私は毎日外出して新信者達をサポートしました。時には、1つの集会のためにいくつもの丘を越え、徒歩で往復3、4時間もかけて参加しました。しかし、私はこれを全く辛いと感じませんでした。1か月後、私はもうくたくたでした。しかし、聖霊の働きを内に秘めていなかった私は神の御言葉について語っても退屈でつまらないものになってしまい、新信者達の状況をタイミング良く改善することができなかったのです。私は頭痛がするほどこれに苦しんだにもかかわらず、神の前で自省する必要があることにまだ気付きませんでした。私は長い間仕事の成果を挙げられず、新信者達の生活に害を及ぼしてしまい、ついには帰宅させられてしまいました。家に着いた時はまるで空から地面まで落下してきた様な気分になり、体全体がぐったりして、弱さまで感じました。私は大勢の兄弟姉妹達に尊敬されながらも、ここまで落ちぶれてしまったのかと振り返りました。兄弟姉妹達に知られたらどう見られるだろう?こう考えれば考えるほど、彼らに合わせる顔が無いと感じる様になり、私は集会に参加することを拒否して、毎日を泣きながら家で過ごしました。私は心の中で酷く悩みました。そして、ある日、私はこの神の御言葉を目にしたのです。「あなたがたは追求において、個人的な観念や希望や未来を多くもちすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望やとりとめもない欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望、そして観念はどれも典型的なサタン的な性質の表れである。…人間の心は、長年にわたり人間が生存のために依存してきた思想により腐敗させられ、その結果人間は不誠実で臆病で卑劣になった。人間は意志の力や決意が欠落しているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には、克己的決意が完全に欠乏している上、闇の影響による呪縛を払いのける少しの勇気もない。人間の考えと生活は腐敗し、神への信仰に対する人間の考え方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人間が自分の神への信仰に対する考え方について語る時、それはただ聞くに堪えない。人間は皆、臆病で無能で卑劣であるが、また傷付きやすい。人間は闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと最大の努力をする。」(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉の厳しい御啓示により、私は最初から神に対する信仰を間違って捉えていたことを認識することができたのです。私は神に対する信仰を利用して俗世間では獲得できなかった名誉、富、地位を手にしようと試み、「兄弟姉妹達の称賛を得てさえいれば、昇格して重要な地位に就ける。そしたら神も私のことを好きになってくださり、褒めて下さる」、などといった馬鹿げたことを考えていたのです。このような思考に支配されていた私は虚弱で卑劣な人になってしまいました。私は兄弟姉妹達から称賛を得ると自信でいっぱいになるのですが、これを失うとたんにくじけて、落ち込んで、否定的になり引きこもってしまうのです。これでどう神を信仰できているというのでしょう?私は名誉、富、地位しか信じていなかったのです。神の御意図は私を優れた働き手に育て上げることでもなければ、私が自分の本分を尽くすことを利用して利己的な欲望を満たせる様にすることではなかったのです。むしろ、神は、私が自分の本分を尽くす過程を通じて、自分に足らない所を発見し、神の御言葉と働きを受け、より多くの真理を理解し手にした上で、最終的には神の御救いを受けられる様になることを願っておられたのです。同時に、神の信仰を始めたばかりの兄弟姉妹達ができるだけ早く神を信仰する正しい道に入るために、私が自分の経験と真理に関する知識を以て彼らが必要とするものを提供し、彼らが真の形で基盤を作るための手伝いをすることも願っておられたのです。しかし、名誉と地位、そして自分の個人的な野望を追い求めてばかりいた私は、全く神の御意図を知ろうとしていませんでした。この結果、聖霊の働きを全く受けることができなかった私は、どれだけ努力しても新信者達に神の御言葉を適切に注ぐことができなかったのです。私は自分の本分に取り組むことを止めさせらえた後、神の御救いを受ける希望を完全に失ったと勘違いし、極端なほどに否定的になり、神の御意図を誤解していたのです。この時、私は突然この神の御言葉を思い出したのです。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。」(『神の出現と働き』「過ちは人間を地獄へ導く」〔『言葉』第1巻〕)「人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかあるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうか、によって決められる。さらにそれは、一定の期間の聖霊の働きを経験した後、彼らの性質が変化したかどうかと彼らが神についての知識をもっているかどうかによって、なおさら、決められる。」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)私は神の御言葉を受け、神の御意図と御要望を理解しました。私はこれまで、高い地位はより明るい将来と神からの更なる称賛を意味するものだと信じてきましたが、それは神の働きを世俗的な見解を以て判断していただけで、完全な間違いだったのです。神が人の行く末を判断し、決断されるのは、その人の地位、年功、こなしてきた働きの量ではなく、その人が真理を得ることができたかどうか、そして性情の変化を遂げることができたかを基にされるのです。その人が神の働きを通じて真理を得られておらず、性情の変化も遂げられていなかれば、その人の地位が高かろうが、どれだけの人に支持されていようが、それは意味を成さないのです。その人は神の御承認を得られないだけでなく、神から忌み嫌われ、拒否され、非難されてしまうのです。それぞれの本分を尽くしながら自分自身と神を知ることに注意を払い、それぞれの経験を以て兄弟姉妹達に神の御言葉を注いで彼らを支持した場合に限って、本当の問題を解決することができる様になり、兄弟姉妹達を導く道を見つけられる様になり、それぞれの働きを効果的なものにすることができるのです。働きながらも真理に入ることや性情の変化を求めず、盲目に名誉、富、地位のみを追いかけ、最終的には兄弟姉妹を次から次へと傷つける事しかできなかった私の様な人は個人的に除外される結末を迎えるのです。これについて考えた時、私は、自分が教会から本分の取り組みを止めさせられたのは、神が私の誤った意図と欲望、ならびに堕落した本性に焦点を当てて御造りくださった状況であり、私が出来るだけ早く自省し、自己認識を行い、追い求めるものを改め、真理を求める正しい道に進むことができる様にしてくださったいたのだと理解しました。その時、私は神の愛、御気遣い、御考えを深く感じ、神に祈りを捧げずにはいられなくなりました。「ああ、神様!私はあなたが深い愛を与えてくださったことに感謝してます。私は今まであなたの御意図を理解できずに、名誉、富、地位があればあなたに認めれいただけるものと勘違いしていました。これが原因で、私は自分の本分に取り組みながらも、全く真理に入ろうとしていませんでした。私は盲目に名誉と富を追いかけてばかりで、あなたの御要望から全く外れた事をしていました。しかし、あなたの御言葉の御啓示を受けた今、私はあなたの御要望を理解できています。私は、今後、今までの様にあなたの働きに真っ向から逆らう様なことはもうい致しません。性情の変化を起こすことを求め、真理を追い求める正しい道を歩んで行きます。」

その後すぐ、私は又しても教会から新信者に神の御言葉を注ぐ指示を受け、更には、若い姉妹と同居することも取り決められていました。この若い姉妹は率直で情熱のある性格をしていたので、私は、「自分は内向的で、人と喋るのが好きじゃないし、この若い姉妹は外向的で直言できるから、お互いの長所を学んで短所を補い合うことができるわ」、と考えました。私はこう考えていたものの、私と彼女の間にはまだ意見の食い違いと誤解がありました。不愉快な状況に陥るのを恐れた私は、自分の話し方と振る舞い方にもっと気を遣う様にして現状の改善を図りました。この若い姉妹は普段仕事をしていたので、私は忙しくしている彼女を見た時、彼女に良い印象を与えて良い関係を保てる様にと家事を全て引き受けることにしました。しかし、数か月後には私達の関係が更にぎくしゃくしてしまうとは想像していませんでした。これは私にとって特に残念で、つらい結果でした。しかし、私は内省して自分の堕落を認識する代わりに、この若い姉妹が付き合いにくい性格をしていて、理不尽過ぎるからだと考え彼女に意識を集中していたのです。ある日、この姉妹が仕事から帰宅して私が家事をしているのを見た時、私は熱心な性格だからこんな事をやっているだけだと素っ気なく言ったのです。これを聞いた私は、これ以上不満の涙を抑えることができなくなりました。その時、私は本当にすぐそこから出て、二度と戻りたくないと思いましたが、この姉妹は自分より若く、長い間神を信じられていないことについて考えました。自分自身を脇に置くことができずに、彼女に対する恨みを持ち続けたりしたら、教会のリーダー達や他の兄弟姉妹達にどんな目で見られるでしょうか?私は若い姉妹に対して愛情を示さずに、無責任なことをしていると言われてしまうでしょう。そしたら皆に合わせる顔がなくなってしまう。この状況の中、私は本当にどうしていいか分からなくなり、苦しみながら、神の前に行ってこう祈りを捧げました。「ああ、神様!私はとても苦しい思いをしています。まるで重い玉石に押し付けられて逃げ出す力を奪われてしまった様な感じです。しかし、私は、自分が置かれているこの状況にも、あなたの善意が込められていると信じています。私があなたの御意図を理解して、学ぶべき教訓を学ぶことができる様に、どうか御啓示をお与えください。」こう神に祈りを捧げた後、姉妹が偶然私を探しにきたので、私は心を開いて彼女に自分の状況について話しました。私の話しを聞いた後、彼女は私にこう言いました。「神の働きはその全てが人類を救うためのものであり、私達が置かれる状況もその全てが私達を訓練し、完全にするためのものなのです。こんなネガティブな考えを抱いているということは、依然として私達の内に神が御軽蔑されるサタンの毒が残っていることを意味しているのです。神はこの状況を通じて私達を完全にしてくださり、変えてもくださるのです。。。」この姉妹が去った後、私はベッドの上で何度も寝返りを打ち、眠りに就けなくこう考えました;「神は一体私の何を完全にされて、変えてくださるのかしら?」こう思った私は、起き上がってこの神の御言葉を読みました。「ある者の本性や、その者が誰に帰属するかは、その者の人生観や価値観から判断できる。サタンは教育と国家政府の影響力、そして有名人や偉人により人間を腐敗させる。そうした者の嘘と不合理は、人間のいのちとなり、本性となっている。『自分自身のことだけを考え、落伍者への懸念は不要』は、サタンの有名な格言であり、それは人間ひとりひとりに浸透して人間のいのちとなっている。そのほかにも、これに類似する人生哲学の格言がある。…そうした者の人生哲学や成功の格言や物事の実行方法など、人間のいのちや行為、他人に対する行動や処遇には、それ以外にも数多くのサタンの毒が含まれて居る。そうした者には、真理がほぼ皆無である。あらゆる者が赤い大きな竜の毒で満たされており、そうした毒は全てサタンに由来する。したがって、人間の髄液や血に流れているのは、全てサタンの物事である。」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)この神の御言葉について熟考していると、私は、「ここ数か月の間、どうして私はこんなに落胆したり、苦しんだりしているのかしら?サタンのどんな毒に私の振る舞いが支配されているのかしら?」、と深く考え込みました。神の御啓示の下、私は自分の心が徐々に元気を取り戻し、今までずっと名誉と地位に強くこだわってきたのは、「野生のガンはその鳴き声を残し、人は評判を残す」、「木はその樹皮と共に生き、人はその顔と共に生きる」、「生きるなら最高の男になれ、死ぬならば最高の魂になれ」といったサタンの毒に支配されて、混乱させられていたからだと気が付きました。こういったサタンの毒が知らぬうちに私の振る舞いのガイドラインと人生目標となってしまい、それは私が名声と地位を手にしてのみ有意義で価値のある人生を送ることができるといった誤った信念を抱く様に仕向けていたのです。私は、この毒に支配されながら、面目と虚栄心、そして他人の意見を重要視していたのです。私の言動の全ては、人々の持つ自分の印象と自分の地位を保つために行っていた事だったのです。この苦しみと敵意は全てはサタンが引き起こしていたことだったのです。私は、あの若い姉妹と同居を始めて以来、不適切な言動をして悪く思われないように、常に慎重に仲良くする様にして、彼女に良い印象を持ってもらおうとしていた自分を思い出しました。私はそうして彼女のご機嫌を取りながら、愚かな事をしていたのです。若い姉妹に取り扱われた時、私はその機会を利用して自己認識するどころか、面目を気にして彼女に対する不満と偏見でいっぱいになり、この環境から逃げ出したくもなりました。自分の印象と面目を守りたかった私は、あの若い姉妹が多少の堕落を見せたり、彼女が真理に沿わないことをしているのを見た時ですら、彼女を怒らせて増々疎遠な関係になることを恐れて彼女に心を開こうとしなかったのです…しかしながら、サタンのこの毒は私を増々偽善的かつ狡猾にし、私はしんどく辛い生活を余儀なくされてしまったのです。私はこの悪魔のおりを打ち破り、この偽りの顔をはぎ取って、完全に自由に、安心して生きれる様になりたいと強く願いました。しかし、これを自力で実現できなかった私は、神の前で跪き、この様に胸の内を吐露したのです。「ああ、神様!私は今まで、称賛と名誉を喜びとして捉えていました。しかし、私は間違っていたと分かりました。こういった物を追い求めることは素晴らしい喜びなんかではなく、むしろ苦しみ、憂うつ、束縛そして拘束を引き起こすのだと分かりました。」また、私が名誉、富、地位、そして面面目と虚栄心を追い求めていたのも、私がサタンの観念に騙され、コントロールされていたからだったということも明確に分かりました。私の苦しみは、全てサタンが引き起こしていたのです。ああ、神様!私は本当にこれ以上サタンの観念を以て生きていきたくありません。どうか私を御救いください。正しい実践の仕方を御示しください。サタンの罠を打ち破り、あなたの御要望に従いながら行動していく自信と力を御与えください。」この祈りを捧げた後、私はかつてない安心感を得ました。それと同時に、自分の堕落した性情を改めるには、真理を追い求める以外にないことにも気が付いたのです。その後、私は神の御言葉のこの節を目にしました。「もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。このようにすれば、これらの人間関係は、肉の上にではなく、神の愛という土台の上に成り立つのである。そこには肉に基づく相互関係は、ほとんど存在しないが、霊においては、交わりと同時に、互いへの愛、慰め、補給がある。これら全ては、神を満足させる心を基礎として為されるのである。このような人間関係は人生哲学によって保たれているのではなく、神のために重荷を荷うことによって自然と形成される。これらの関係には、人間の努力は不要であり、それは神の言葉の原則により行われる。あなたには、神の心に対して思慮深くあろうとする意欲があるだろうか。…あなたは、自ら進んで心を完全に神に捧げ尽くし、人々の間で自分の地位を考慮しないだろうか。」(『神の出現と働き』「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」〔『言葉』第1巻〕)神の御言葉は私に実践すべき正しい道をはっきりと指し示してくださいました。それは、正直な人を実践し、今後は名誉と富にこだわらず、人々に対する自分の印象と地位を維持することを止め、代わりに、自分の心を神に捧げ、全てにおいて神の御言葉を崇め、証言し、真理を実践して神に従うべきだということでした。こうすれば、私は神と普通の関係を築ける様になるからです。神と普通の関係を持つことができれば、自然に他の人達とも普通の関係を持てる様になるのです。それ故に、私は心の中で、神の御言葉に従って行動して、自分の堕落した性情も徐々に払拭していく決心をしました。それ以降、私は意識的に、頻繁にあの若い姉妹と会話をして、神の御言葉を一緒に読む様にしました。私達の本分で問題に直面し、自分達で解決できない場合は一緒に神に祈りを捧げ、神の御言葉の中でその答えを探しました。私達はとても仲良くなれたのです。気が付くと、体の重みと憂鬱感が全て消え去っており、私の顔に待ちわびていた笑顔が戻ったのです。私は、神の御言葉を実践して得た安心感と喜びを深く感じることができました。私は自分を救ってくださった神に心から感謝しています。

数か月の辛い精錬を受けた後、私は、神は私達が世俗的な観念を以て人との関係を維持することをお許しにならない理由をやっと理解できました。それは、世俗的な観念といわゆる格言というものは、サタンが人々に植え付ける毒であり、サタンが人々を盲目にし、傷つけるために使う道具だからです。この様なサタンの観念は人々に隔壁、対立、そして死を引き起こさせ、人々に憂鬱と苦しみのみをもたらすのです。なぜならそれは、サタン自身が堕落であり、隔壁そのものであるからで、人々は神の御言葉を基に、そして神の御要求通りに行動してのみお互い和解し合うことができるのです。人々は、神の御言葉通りに生きて、それに従いながら行動してのみ、サタンの邪悪な支配を打ち破り、神の前で完全な自由と安心感の中を生きることができるのです。同時に、私は、若い姉妹との同居は神によるすばらしい采配であり、神が私の内深くに潜むサタンの毒と私の日常的なニーズに焦点を置いて用意してくださったものであったということも分かりました。もし神がこの様な働きをしてくださっていなければ、私は自分が、「野生のガンはその鳴き声を残し、人は評判を残す」や「木はその樹皮と共に生き、人はその顔と共に生きる」といったサタンの毒にどれほど酷く犯されていたかという現実を認識することはなかったでしょう。私はそのままこの様な毒を良いものとして崇拝し続けて、増々傲慢になり、堕落して、最終的には零落して破滅していたことでしょう。こういった状況と試練は正に神の私に対する偉大な御救いだったのです!

後に、私は神から称賛され教会のリーダーへと昇任しました。当初、問題にぶつかった時、私は頻繁に兄弟姉妹達の提案に耳を傾け、自分に対する人の意見は気にしていませんでした。しかし、すぐに私の名誉と富に対する欲望が又しても膨らみ始めたのです。この本分については私の方が他のリーダー達よりも先に取り組み始めていたので、兄弟姉妹達は問題があれば自然と私を頼りにしてくれていました。次第に、私は調子に乗り出し、まだあの姉妹よりも優れていると思い始めたのです。あの姉妹との会議があれば、私はいつも重要に思える様な教義について語りながら自己顕示をして、兄弟姉妹達から評価と称賛を得ようとしたり、私の方が彼女より優れていると彼らに思わせようとまでしていました。一度、小さなグループ会議を行っていた際、私はあの姉妹が少し話をした後、「もっと喋らなきゃ。そうしないと兄弟姉妹達に彼女の方が私より優れていると思われてしまうわ」、と思ったのです。こうして、彼女が一呼吸置いたとたんに私は割って入って喋り続けたのです。私が丁度リズムに乗り始めた時、隣にた兄弟が私の邪魔をしてこう言ったのです。「そんな空虚な教義についてばっかり話していてもしょうがないですよ。兄弟姉妹達のためになる実用的な経験とか知識について話すべきだと思います。」この兄弟の言葉を聞いて、私は公共の場でビンタをうけた様な気分になりました。私は赤面しながらこう思いました。「兄弟姉妹達に尊敬してもらえる様にもう少し喋ろうと思ってたのに、もう凄い恥ずかしい事になってしまったじゃない!」その時私は地面に穴を見つけて隠れたくなりました。私が心の中で苦しんでいた時、この兄弟が神の御言葉のこの節を読んだのです。「特にパウロを偶像化する人々も居る。そうした者は、講演をすることや外部で業を行うことを好む。そうした者は、集まって話し合う事を好み、人々が自分の話を聞き、崇拝し、自分達のところに集まってくるのを好む。そうした者は、他人の心に自分の信望を築くのを好み、他人が自分の像を尊ぶことに価値を見出す。…この者がそのように行動する場合、その行動は、その者が傲慢であり自惚れていることを証明するに十分である。この者は全く神を崇拝しておらず、高い地位を求め、他人に対する権威を掌握すること、他人をわがものにすること、他人の心に自分の信望を築くことを望む。これは典型的なサタンの像である。この者の本性に顕在するのは、傲慢さと自惚れ、神への崇拝に対する消極性、他人から崇拝されることに対する切望である。」(『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より)神の裁きの御言葉は私の心に針の様に突き刺さり、私は更に恥ずかしい思いをしました。私は、神に対する信仰を始める以前は、皆に感心されることをとりわけ喜び、そして注目を浴び、強くて成功を手にする女性になろうと全身全霊を注いでいたことを思い出しました。この夢が砕け散った後、私は教会で名誉、富、地位を手にする夢を果たすことができると思っていたのです。特にこの時期においては、私は秘かにあの姉妹と争って、兄弟姉妹達に尊敬されようとしていたのです。表面的には他の人と地位を争い合っていた様に見えたかもしれませんが、実際には神を相手に地位を争っていたのです。なぜなら、神を信じる人は神を尊敬し、神を崇め、心で神を受け入れるべきだからです。代わりに、私は兄弟姉妹達から受け入れられ、尊敬され、崇められようとしていたのです。これは神に対する露骨な反抗だと言えないでしょうか?この事実を目の当たりにして、私は初めて自分の本性は神に反するものであったと知ったのです。神の刑罰と裁きを受けずに、自分の性情に変化を引き起こせてもいなければ、表面的には神のために情熱を以て積極的に労力を費やしている様に見えても、実際には悪事を働いて、神に反抗しているだけなのです。これと同時に、私は、サタンが様々な方法で人類の心と魂に毒を染み込ませ、名誉、富、地位の奪い合いをさせることで人類を堕落に陥れ、これによって人類が神から徐々に離れて行き、神を裏切る様に仕向けて最終的には地獄に引きずりこむということを明確に知ることができたのです。こう考えていると、私は畏れを感じずにはいられなくなり、自分の盲目さと愚かさ、深刻な堕落、自分の奥深くに根を張ったサタンの毒を嫌う様にもなりました。私は名誉、富、地位に対する欲望に支配されていなければ、いずれの人、出来事、物にコントロールされることもなく、神の創造物としての自分の本分を尽くして神の御心を満たす事だけを求めていたことでしょう。名誉、富、地位にコントロールされていなければ、私は自分の本分を尽くしながら神を崇め、神の証言をし、兄弟姉妹達を神の前に導く事に集中していたことでしょう。名誉、富、地位にコントロールされていなければ、私は憂鬱と苦しみの中を生きることもなく、真理がもたらす安心と幸福を得られないということもなかったでしょう。名誉、富、地位にコントロールされていなければ、見せ掛けによって人を騙して信用と感心を得るなどということはせずに、兄弟姉妹達と普通の関係を築いてお互いを心から助け合えていたことでしょう。。。この全てがサタンの仕業で、私が神の裁きを受けたあの日まで私を苦しめ続けていたのです。サタンは本当に卑劣過ぎて、邪悪過ぎるのです。そして、間違いなく魂をむさぼり食う悪魔なのです!神の御啓示と御指導の下、私は自分の肉を捨てて真理を実践する意思と勇気を持つ様になりました。そして私は神にこう祈りを捧げました。「ああ、神様!今日、私がこの状況に置かれているのは、名誉、富そして地位による影響のせいなんです。私はこの様なものを追い求めるために、あなたの御要望を後回しにして、幾度となくあなたに背き、抵抗し、あなたを悲しませ、不愉快な思いをさせてしまいました。今私はこの様な事を心の底から嫌いになりました。私はこれらを捨て去り、完全に断念します。どうかこの先の道へ私をお導きください。」それ以降、私は控えめに行動する様になり、集会の場でも自分の実体験について語ることに集中し始めました。兄弟姉妹達が問題を抱えている時は、彼らが神の御意図を理解して、神の愛を認識することができるように、私は意識的に心を開いて自分が実際に問題を抱えていた時に神の御言葉による御啓示と御指導を受けた体験について話しました。私は、この様に振る舞っていると気が楽になり、心の中も明るくなった様に感じ、毎日がとても充実する様になりました。

私は、神の裁きと刑罰を受け、神に何度も繰り返し取り扱われ、刈り入れられた後、やっと自分の内に潜むサタンの様な本性の実情について知り始めました。私は名誉、富、地位そして面目といったものに直面する度に、意識的に神に祈りを捧げ、神と協力し合い、自分の肉を捨て真理を実践しました。一度、近隣の教会にいた姉妹の状態が良くなかった時があり、これを聞いた私達は彼女と話しをするためにその教会に足を運び、彼女と率直に話し合いました。しばらくしてから、彼女の状態は改善し、彼女は積極的に福音業務に協力してくれる様になりました。彼女が連れて来た新信者の中に真理を渇望している人がいて、その人はとても迅速に成長していきました。これをうけて、私達は彼女を新信者の対応をする教会のリーダーに育てることにしました。しかしこの時、近隣の教会がこの姉妹に向こうの教会で本分を尽くして欲しいと手紙で依頼してきたのです。私はこれについて凄く気が進まなかったのですが、その時、こう考え直しました。「教会はその全てが一体化しているものなんだから、神の御要望はどの教会でも共通よね。彼女がどの教会に行っても本分を尽くしてさえいれば、神にご安心していただけるでしょう。私はまた名誉とか、富とか、地位のこと考えてたのかしら?まだ自分の個人的な印象とか面目に注目してたの?」そして私はこの神の御言葉を思い出しました。「人類とはなんと残酷で残忍だろうか!狡猾で陰謀を企て、互いに争い、名声や富の為に争い会い、殺し合う――そのようなことは一体いつ終わるのだろうか。神は何十万の言葉を話したのに、誰も理解しなかった。彼らは自分たちの家族や、息子や娘たちのために、また自分たちの職業や将来、地位、虚栄心、金銭のために、また衣服や、食物、肉のために働いて来た――誰の行動が真に神のためなのだろうか。神のために行動している者たちにしても、神を知る者たちはほとんどいない。自分たちの利益のために行動していない人たちは一体何人いるだろうか。自分たちの地位を維持するために周りの人たちを圧迫も差別もしない人たちは何人いるだろうか。」(『神の出現と働き』「悪人は必ず罰を受ける」〔『言葉』第1巻〕)この通りです!私の行動と振る舞いは酷いものだったのです。いつも名誉と富を追いかけて、そのいずれも神のためにやってることではなかったのです。私は何て自分勝手だったのでしょう!私は神の称賛と優しさを授かっていたにもかかわらず、名誉、富、地位を手にしようと毎日の様に苦心しながら努力して、頭を悩ませていたのです。名目の上では神を信じていても、私は神の御意図と御要望に従って行動していなかっただけでなく、実質的には全く神に従っていなかったのです。人が神を心から信じているか否かという神の御判断はその人の表面的な行いやその人に対する他人からの称賛に基づくものではなく、状況が困難になった時にその人が心に抱く神の御意図と合致しない欲望を抑えることができるかどうか、教会の利益を最優先に考えれるかどうか、全てにおいて神の御心を満たし、神を愛せるかどうかに基づいているのです。神の御意図を理解した後、私の心は突然朗らかになり、私はこの新信者を即座に近隣の教会に異動させました。

数年に渡って神の御言葉を体験した後、私はより明確に、この様に理解することができました。名誉、富、地位はサタンが人々を欺くために利用する道具であり、人々を束縛するために利用する鎖なのです。その支配を受けながら生きる人は、それによって自由を完全に奪われた状態で束縛され、騙されていくことを余儀なくされるのです。その一方、神の御言葉は真理であり、真の道であり、真の生き方なのです。神の御言葉の下に生きる人達は、神が投射してくださる光と、神がお与えくださる祝福の中で生きているのです。人類は、神の御要望を満たすためにある程度の努力を費やし、神の御求めになる様に真理を実践している限り、神の前で生きる安心感と自由を実感することができる様になるのです。名誉、富、地位がもたらした苦痛と辛い経験、そして神が私のために尽くしてくださった救いの働きを振り返ると、私は神に対して深い感謝の意と恩義を感じます。神は、私を名誉、富、地位の束縛から解放するために、様々な環境、人々、物、出来事を入念に御用意してくださり、神の実用的な働きを以て私を一歩一歩御導きくださり、御指導くださって、私が人生の正しい道を歩める様にしてくださったのです。それぞれの環境とその現れは神が入念に御計画してくださっていたもので、それぞれの裏には私に対する神の深い愛が込められていたのです。幾度となく神の刑罰と裁きを受け、私は自分の堕落の現状が徐々に見え始めました。私はまた神の実用的な働きに関する知識を得て、神の神聖さ、偉大さ、私心の無さを知り、人類を救おうとされる神の御考えと御気遣いを深く実感しました。私はこの先、可能な限り早く自分の堕落した性情を完全に清め、変えることができる様に、そして有意義で価値のある人生を誠実に貫いて行ける様に、より積極的に神の刑罰と裁き、そして神の試練と精錬を受けて行こうと思います。

河北省 師含

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