福音の伝道で困難に直面した時

2023年9月26日

2020年、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。主の再来を迎えられたことは素晴らしい祝福でした。このとてつもなく重大な知らせを広めるため、福音の働きを始めたんです。もっとたくさんの人が神の声を聞いて、神のもとに戻れたらいいと思いました。でも、2022年2月、ミャンマー政府による宗教信仰の弾圧によって、私の教会が迫害を受け、福音の働きにも大きく影響しました。兄弟姉妹が怖気づいて集会にこなくなったり、本分への意欲を失ったりして福音の働きは停滞状態になりました。当時、私も本分に対して受け身になり、指導者に言われたことをただこなすだけでした。私は普通に潤しをしているのに、みんな集会を休みがちで、本分にも受け身。私にはどうしようもないと思いました。ネット接続が不安定で働きについて知るために兄弟姉妹と繋がれない時は、ネット環境を求めて外に出なければいけませんでした。長い時間探し回っても、ネットにつながる場所を見つけられず、そのうちに働きについて知る気も失せてしまいました。当時、私は姉妹の親せきに福音を広めていて、一家3人が終わりの日の神の御働きを受け入れたので、その家に10日間滞在して潤しをしました。3人の新人を潤すことに満足した私は、それ以上福音を広めたくなくなったんです。こう思いました。「近くの村では噂が広まっていて福音を広めるのは難しい。この3人にうまく潤しができれば、その親戚や友達に福音を広められるようになるわ。福音を広めるいい方法じゃないかしら?」と。だから兄弟姉妹から近くの村に福音を広める対象がいると言われても、その人たちに福音を広める方法を話し合うこともなかった。それが福音の働きに直に影響しました。

その後、働きについて話し合った時に、指導者から、私たちの教会のその月の福音の働きは全く進んでいないと言われ、他の問題も指摘されました。それを聞いてとても悲しくなった。そして、ある姉妹に言われました。私は現状に満足して、本分を前進させようとしていないと。それで目が覚めました。自分が本分の重荷を背負わず、教会指導者としてすべきことをせず、困難に向き合い解決しようとしなかったことが、福音の働きに影響したのだとわかって、考えれば考えるほど辛くなった。反省する中で、この御言葉を読んだんです。「現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある。この事実を明確に理解できないなら、あなたは重荷を担わないだろう。あなたが神の旨に配慮すればするほど、神があなたに託す重荷も大きくなる。自分勝手な者はそうした物事に煩わされたがらず、代償を払いたがらず、その結果として、神に完全にされる機会を失うのだ。これは自らを害する行為ではないだろうか。あなたが神の旨に配慮する者であれば、教会のために真の重荷を抱くようになる。だが、それは教会のための重荷と言うより、自分のいのちのための重荷と言ったほうがいい。なぜならあなたが教会のために抱くこの重荷は、あなたがその経験によって神に完全にされるためのものだからだ。したがって、教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である。このことを明確に理解しているか。あなたが属する教会が砂のように乱れているにもかかわらず、あなたが憂慮も懸念もせず、兄弟姉妹が神の言葉を普通に飲み食いしていなくても見て見ぬふりさえしているなら、あなたは何の重荷も負っていない。そのような者は神に好まれない。神が好む者は、義に飢え渇き、神の旨に配慮している(『神の出現と働き』「完全にされるべく、神の旨に配慮せよ」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉について考えると、罪悪感が湧いてきました。教会指導者だったのに、福音の働きが進んでないことを知ってもすぐに対処しようとせず、客観的な事実を言い訳にして、ネット環境がなかったから、働きについて知らなくても仕方ないと思った。兄弟姉妹から福音を広める対象がいると聞いても、福音を広める方法を交わろうとしなかった。姉妹が働きについて話し合いたくても私に連絡が取れない状態だった。教会に対する迫害で、兄弟姉妹が怖気づき、集会に来たり本分を尽くしたりできなくても、真理を求めて解決しようとしなかった。やっと気づいたんです。福音の働きが停滞した直接の原因は、私の行動だと。御言葉にはこうあります。「現在、教会のための重荷をまったく担っていない者もいる。そうした者は怠惰で不注意で、自らの肉のことしか考えていない。彼らは極度に自分勝手で、盲目でもある」。自分がこの御言葉にある身勝手な人間だと気づきました。教会の働きの重荷を背負わず、現状に満足し、自分の安らぎを優先し、苦しみに耐え代償を払うことを拒んだ。福音の働きが進んでいなくても、不安やプレッシャーを感じることなく、困難のせいで気持ちがくじけ、消極的になった。本当に自分勝手でした!他の地域で同じように政府の迫害を受けている教会では、兄弟姉妹が福音を広め、新しい教会を立てているのに、私たちの教会の福音の働きが止まっているのは、私が自分勝手で卑しく、重荷や責任を負わなかったせい。神への申し訳さでいっぱいになりました。かつて重荷を背負っていた時は、真の道を調べる人がいると知れば、すぐに福音役を割り当て、兄弟姉妹が問題に直面した時は、真理を交わり解決していました。協力すればするほど聖霊の働きを得られ、福音の働きがうまくいき、心の安らぎと喜びを感じられました。でも最近は、重荷を背負わず本分を尽くしていたので福音の働きがうまくいかなかった。そして、この御言葉を読んだんです。「教会のために最大の重荷を担う者、いのちに入るための重荷を負う者は、神によって完全にされる者である」。やっと少し理解できました。神の御旨に配慮し、教会の働きの重荷を背負う人だけが神によって完全にされるのだと。そして、このまま消極的な状態を変えなければ、教会の働きに影響するだけでなく、いずれ暴かれ淘汰されると。そう考えると少し怖くなりました。消極的な態度と怠慢さを改めようと思い、神に祈りました。私が重荷を背負えるようになり、神の御旨を考え、本分をうまく尽くせるよう導いて下さいと。

その後、責任者や班長たちと一緒に、福音を広められる場所について話し合いました。そして全員が主を信仰している村を見つけましたが、その村に行ける適任者がいませんでした。私は思いました。「今度は神の御旨に配慮しなきゃ。前のように重荷を背負わないままじゃだめだわ。積極的に責任を果たそう」と。そこで私自ら、その村で福音を広めることにしました。でも少し不安もありました。それまで自分一人で終わりの日の神の御働きの証しをした経験がなかったので、明確に話ができるか心配だったんです。そしてこう思いました。「ネットはつながるのかしら?福音役の兄弟姉妹にオンラインで交わりをしてもらえるかしら?」と。でもその考えは間違いで、人を頼りにしていることに気づき、心の中で神に祈りました。その村で福音を広められるよう知恵を信仰心を下さいと。その村に着くと、姉妹がすぐに村長の家に連れて行ってくれました。そして村長が、牧師のところに行きましょうというのです。うれしく思いましたが、同時にこんな心配が浮かびました。「一人で福音を広めた経験がないから、牧師が観念を持っていた時にどう交ればいいかわからない。受け入れないどころか、反対されたらどうしよう?そしたらその村で福音を広めることができなくなるのでは?」とても不安になりました。牧師の家に着いた時、兄弟姉妹に電話して助けてもらおうとしましたが、電話がネットに繋がりません。どこから始めていいかわからず、何度も神に祈りました。終わりの日の神の御働きの証を立てられるよう、私のそばにいて、信仰心を下さいと。祈った後、この御言葉が頭に浮かびました。「人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)。そうです。神は全能で、あらゆる人や物はすべて神の手の中にある。人の心や人の霊もそうです。だから私に必要なのは神に頼ることでした。心の中で神に祈りました。「神よ、もし牧師があなたの羊ならば、あなたの声を理解し、あなたの働きを受け入れるはずですね」と。祈った後、心強さを感じました。神がそばにいれば不可能なことはないと思えたんです。そして、現在の災害や世界情勢を使って、主の再来の預言について話をしました。その話に納得した牧師は、主はおそらく再来したと考えて、私の話を聞かせるために、2人の牧師を呼びに行かせました。明確に話をして、彼らの問題を解決できるか不安だったので、心の中で何度も神を呼び、導いてくれるようお願いしました。イスラエルの民を連れてエジプトを出るよう神に告げられたモーセのことを考えました。エジプト王のもとに行くことは難しく危険だとわかっていても、モーセは従順に従い、神はモーセの後ろ盾になりました。そして神の導きによりモーセはイスラエルの民を連れてエジプトを出ました。また、ダビデとゴリアテの話も思い出しました。ゴリアテを見たイスラエルの民が恐れをなす中、ダビデだけが勇気を出して立ち向かった。こんなふうに言ったんです。「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍のヤーウェの名……によって、おまえに立ち向かう」(サムエル記上 17:45)。そして最後に、ダビデは小石だけでゴリアテを倒した。この2つの話から分かったのは、困難においては、まことの信仰をもつ人だけが神の御業を目の当たりにでき、人の終わりは神の始まりだということ。そう考えると勇気が湧きました。

その時、2人の牧師がやってきました。私は聖書の預言を使って彼らに交わりをしました。終わりの日の神が現れ、受肉して働きを行うこと、神の受肉の意味や、受肉の定義、神が裁きと清めの御働きのために来られたこと、終わりの日の神の御名は全能神であり、全能神が主イエスの再来であると証しをしました。すると最初の牧師が感激のあまり泣き始め、涙を拭きながらこう言うのです。「主の教えを説いて40年、その再来をずっと待ち焦がれてきました。そして今、ついに再来されたんですね!今日主をお迎えできたことを神に深く感謝します!」と。それを聞いた、私ももらい泣きし、神に心から感謝しました。私の交わりはそれほど深くなかったので、その牧師が福音を受け入れ、御言葉を理解したのは、ひとえに神の導きのおかげなんです。

福音を受け入れた牧師は、私の話を今夜村中の人に聞かせようと言いました。私はとても感激して、心の中で何度も神に感謝しました。その夜、牧師と村長が2つの村の人々を集めて、主が再来したという吉報を伝えたんです。その夜、30人以上が終わりの日の神の御働きを受け入れました。ある村人は、「政府が主への信仰を禁止してから4年になります。苦しみの中を生きてきて、集会も開けなかった。神に感謝!」と言いました。と言いました。別の村人も感動して、「何年も集会を開けてなかったんです。あなたが福音を広めに来てくれたから、神の声を聞けた。心から神に感謝します」と言いました。そして一夜のうちに、福音が村中に広まりました。最初に福音を説いた時は、まさか牧師やこれほど多くの村人が受け入れるなんて思わなかった。本当に不思議なことです!聖霊の働きのおかげだとわかってはいたものの、自分には能力があり、本分で成果を出せるんだとも考えました。そして気づけば、自尊心がふくらみ、現状に満足するようになって、潤し役の姉妹と一緒にその新人たちを潤すだけでいい、もう福音を広めたくないと思うようになりました。その間、教会の働きについて知ろうともせず、神に祈る回数も減りました。

ある日、充電中に電話がショートしてしまったので、SIMカードを違う電話に入れたんですが、その電話も壊れたんです。その時に、自分が壁にぶつかっていることに気づき、これは神の教えではないかと思いました。そして自分の問題を反省し始めました。この御言葉を読みました。「あなたがたの誰もが通常、個人的な犠牲を払う意欲もやる気もない怠惰な状態にある。またはただ受け身に待っており、人によっては不平を言うこともある。そうした人は神の働きの目的や重要性を理解しておらず、真理を追求することが困難である。そのような人は真理を嫌悪しており、最終的には淘汰される。彼らの誰も完全にされることはできず、誰も生き残ることはできない。サタンの力に抗うというわずかな決意もないなら、彼らに希望はない(『神の出現と働き』「実践(7)」〔『言葉』第1巻〕)。「受動的に神に付き従う者となってはならず、自分の好奇心をそそることを追求してはならない。あなたは冷たくも熱くもないので、いずれ自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう。真理を得て、それを生きることができるように、このような消極性と受動性を取り除き、肯定的な物事の追求と自分の弱さの克服に熟達しなければならない。自身の弱みについて、あなたが恐れることは一切なく、自身の欠点があなたの最大の問題なのではない。あなたの最大の問題であり、最大の欠点であるのは、あなたが冷たくも熱くもなく、真理を追求する願望に欠けていることである。あなたがた全員の最大の問題は、臆病な精神によって現状に満足し、ただ受動的に待っていることである。それがあなたがたにとって最大の障害であり、真理の追求における最大の敵である(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んで自分を振り返りました。福音が村全体に広まったのを見て、神が私の本分の成果に満足していると感じ、自分に誇りを持ち、現状に満足し、福音をさらに広めようという気が失せてしまった。一度成果を出したら、それ以上前進したくなくなった。現状に満足したいという願望が強すぎたんです。前も現状に満足したことで、福音の働きを遅らせてしまったのに、まさに同じことを繰り返している。神は私たちに、誠心誠意本分を尽くすことを求めているのに、こんな本分のやり方で神に喜んでもらえるはずがない。そして気づいたんです。本分で前進しないということは、後退しているということ。そしていのちの入りや福音の働きの成果で後れを取ることになると。私はいつも現状に満足して、真理を求めず、神から遠ざかっていたんです。このままでは自分を苦しめるだけ。現状に満足してしまうことが真理を求め本分を尽くすうえで最大の障壁となり、自分に害を与え、身の破滅を招くところでした。この御言葉の通りです。「あなたは冷たくも熱くもないので、いずれ自分を滅ぼし、いのちの成長を遅れさせるだろう」。黙示録にはこうあります。「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう(ヨハネの黙示録 3:16)。私は御言葉にあるぬるま湯でした。冷たくも熱くもなく現状に満足していた。こんな状態を続ければ、希望を失い、いずれ淘汰されることになる。そう考ると恐ろしくなり、悔い改めるため神に祈りました。今後どのような困難に直面しても、努力を怠らず、ひるまず、決して現状に満足しませんと。

でも福音の働きに積極的に取り組もうとした矢先、再び大きな問題に直面したんです。誰かの通報で、福音を広めに来たことが役人たちに知られてしまいました。もし見つかれば、私たちだけでなく村人や村長も逮捕されます。そのため関わり合いになることを恐れた村長たちから、落ち着くまで村から姿を消してほしいと言われたんです。私は思いました。「私たちがいなくなれば、あの新人たちはどうなるの?福音を受け入れたばかりでまだまったく基礎ができていない。でも私たち2人が留まれば、かなり人目につきやすくなるわ」と。結局、潤し役の姉妹が村を去り、私が1人村に残って新人を支えることになりました。これが最善の策だとわかりながらも、悲しい気持ちは消えなかった。見知らぬ場所でたった一人になったように感じました。牧師にはまだ多くの観念があって真の道を完全に理解していないうえに、逮捕を恐れて、私に村を離れて欲しがっている。つい卑屈になりました。牧師や村長は私を追い出そうとしていて、まるでホームレスみたい。そんな状態では祈りをささげる意欲もわかず、少しホームシックになりました。牧師に交わりをした時、まだ多くの観念を持っていたので、牧師は理解力があまりよくないのだと思いました。新人たちが逮捕を恐れて集会に来なくなった時も彼らを支えるという重荷を背負おうとしなかった。こう思っていたんです。「何人かは来たんだからいいわ。皆に声をかけたけど、他の人は来なかったんだから、これ以上できることはない」と。そして、定期的に集会に来る新人は減り続け、私は困難に苦しみ、気持ちはどんどん沈んでいきました。その後、ある姉妹との電話の中で私の状態について話すと、その姉妹がこの御言葉を送ってくれたんです。「真理を得ていない人とはこのような人で、みな情熱で生きています。それは維持するのがとてつもなく難しい情熱です。このような人は、毎日誰かに説教と交わりをしてもらわなければならず、潤して施す人や支えてくれる人が誰もいないと、再び心が冷め、気が緩んでしまいます。心が緩むと本分における効果が弱まります。もっと懸命に働くならば効果が増し、本分の遂行もますます生産的になって、得るものも増えます。これがあなたがたの経験ですか。……人には意志がなければなりません。意志のある人だけが真に真理のために努力でき、真理を理解して初めて本分を正しく尽くし、神を満足させ、サタンを辱めることができます。あなたにこのような誠実さがあり、自分のために企まず、ただ真理を得て本分を正しく尽くそうとするのなら、本分の遂行は正常になり、ずっと変わることがありません。どのような状況に置かれても、ひたすら本分を尽くせるようになるのです。誰が、あるいは何があなたを惑わしたり、妨げたりすることになろうとも、あなたの気分の良し悪しに関係なく、本分を正常に尽くすことができます。そうすると、神はあなたについて安心でき、聖霊は、真理の原則を理解することにおいてあなたを啓き、真理の現実に入るようにあなたを導くことができるので、結果としてあなたの本分の遂行が基準に達するのは確実です。……すべては神の手中にあり、人間は神に協力しているに過ぎないのだと信じなければなりません。あなたの心が誠実なら、神にはそれが見え、あなたのためにすべての道を開き、困難がもはや困難でなくなるようにします。このような信仰をあなたはもつべきです。それゆえ、全力を注いで、心を込めて務めている限り、本分を尽くしているときは何も心配する必要がありません。神があなたに難題をもたらしたり、できないことを行なうよう強制したりすることはないのです(『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰で何より重要なのは、神の言葉を実践し、経験することである」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉によれば、私はやる気のある時だけ本分を尽くし、神に忠実ではありませんでした。政府の迫害に直面すると、村長からは村を去るように言われ、新人は逮捕を恐れて集会に来なくなったそのような困難に見舞われて、積極的な態度で神の導きを求めたり、新人が信仰の基礎を築けるように潤しに全力で取り組んだりせず、受け身になって、たった数人の新人が来ただけで満足した。私が重荷を背負わず、前に進もうとしていなかったので、集会に来る新人の数は減り続けました。この御言葉の通りです。「心が緩むと本分における効果が弱まります。もっと懸命に働くならば効果が増し、本分の遂行もますます生産的になって、得るものも増えます」。この御言葉の通りなんです。重荷を背負い、代償を払う覚悟がある時は、神の導きと祝福を得られ、福音の働きで成果を出せたけど、困難に直面した時は、本分で重荷を背負わず、無責任で、弱く、受け身になり、本分がうまくいかなくなった。本分を尽くせるのは神の恵みだったのに、神を満足させることができなかった。本当に反抗的でした!

その後、御言葉の別の一節を読みました。「『本分をしっかりと守る』とはどういう意味ですか。それは、どのような困難に遭遇しようとも、諦めたり、逃げたり、責任を放棄したりせず、全力を尽くすことです。これが本分をしっかりと守ることです。例えば、あなたが何かをするように取り決められたとします。あなたを見張っている人は誰もおらず、監視や催促する人もいません。あなたにとって、『本分をしっかりと守る』とはどのようなことですか。(神の厳しい監視を受け入れ、神の前で生きることです)神の厳しい監視を受け入れることはその第一歩であり、その側面の一つです。もう一方の側面は、するべきことに誠心誠意取り組むことです。誠心誠意取り組むためには、何をしなければいけませんか。真理を受け入れ、実践しなければなりません。神の求めはすべて受け入れ従わなければなりません。本分を自分の個人的なこととして扱い、他の人からの配慮や、絶え間ない監視や確認、催促、監督、さらには取り扱いや刈り込みを必要としてはなりません。『この本分を尽くすのは私の責任。私がやるべきこと。この本分は私が行なうように与えられ、私は原則を教わり理解したのだから、固い決意をもって一心に取り組もう。ちゃんとやり遂げるまで全力を尽くそう。やめろと言われるまでは絶対にやめない。その時まで一心に尽くそう』と自分に言い聞かせなければなりません。これが、本分を誠心誠意、しっかりと守ることの意味です。人はこのように行動しなければなりません。では、本分を誠心誠意、しっかりと守るためには何を備えていなければなりませんか。まずは被造物がもつべき良心がなければなりません。これは最低限必要なことです。加えて、忠誠も必要です。人として神の委託を受け入れるには、忠誠を尽くさなくてはなりません。神に完全に忠実でなくてはならず、半端な気持ちだったり、責任を取らなかったり、自分の興味や気分に基づいて行動したりすることはできないのです。それは忠実とは言えません。忠実とはどういうことでしょうか。それは自分の本分を尽くすうえで、気分や環境、人、出来事、物事に左右されないということです。『わたしは神からこの委託を受け取りました。神がそれをわたしに下さったのであり、これこそわたしがなすべきことです。それゆえ、わたしはこれを自分の問題として、良い結果を出せそうなあらゆる方法で、神を満足させることを重視しながら行います』と自分に言い聞かせなければなりません。このような状態にあるなら、あなたは良心に支配されているだけでなく、そこには忠誠もあります。あなたがただそれを終わらせるだけで満足し、効率的に行なって結果を出そうという意欲がなく、少し努力するだけで十分だと感じているなら、それは単なる良心の標準であるだけで、忠誠とは言えません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んで、本分を尽くし続ける方法がわかりました。この本分は私に与えられたものなので、最善を尽くさなければいけないんです。誰も監督していなくても、困難に直面したり、自分の利益と干渉することになったり、苦しむことになっても、神の精査を受けいれ、本分をうまく尽くさなければ。福音の働きが続いている以上、全力を尽くして取り組み、自分の使命のように扱うべきで、投げ出したり、責任を放棄したり、気分に左右されたりすべきじゃなかった。それが本分を尽くし続ける方法です。

その後、集会に来ない新人に交わりをしに行きました。こう言ったんです。「もしも夜集会に来られないのなら、昼間の都合のいい時間に私が来て交わります」と。これに感動した何人かの新人が集会に来る気になってくれました。ある夜、牧師や村人たちを呼んで集会を開きました。そして言いました。「現在神の働きは終わりを迎えようとしています。政府の迫害を恐れず、集会に来て御言葉を読みましょう。恐れれば、神の救いを失うことになります。災害がますます大きくなる今、人類を救えるのは全能神だけです。神は万物を支配すると考え、神への信仰心をもち、迫害にもひるんではいけません。私はあなたの村で福音を広めたので、見つかれば逮捕されます。若い女性として、逮捕されるのは怖いです。ではなぜ村を去らないのでしょう?これが私の責任だからです。皆さんは神の御国の福音を受け入れ、神の御声を聞きました。迫害が近づいた時、皆さんは私に村を去るように言いましたが、自分の身を守るために皆さんを置いていなくなれば、本分を失うことになります」。正直にそう打ち明けると、牧師が言いました。「これからは彼女を守らなければなりません。この村で福音を広めていることは絶対に口外しないこと。誰かに聞かれても知らないと言いましょう」と。牧師の言葉を聞いて、とても感動しました。牧師にはまだ多くの観念があったけど、追い求める意志はあったので、特に観念に焦点をあてた交わりをし、兄弟姉妹も全能神の御言葉を牧師に送ってくれました。牧師は熱心に聞き、いくつかの観念を解決できたんです。その後、牧師が積極的に集会に参加するようになり、村人にも言いました。「みんなで集会に出席しましょう。終わりの日の神の御働きを受け入れ、従い、遅れをとらないようにしなければ。全能神は主イエスの再来です!」と。神に感謝!この経験を経て、全ては神の手中にあると実感しました。それまでも口ではそう言っていましたが、その時、全てが本当に神の手中にあることを実際に経験できたんです。人が誠実に神に協力すれば、神は導いてくれます。神がいれば、不可能はないのです。

しばらくして、地方の役人がやってきて、牧師と私を役所に連れて行きました。緊張し、恐ろしかったですが、すべては神の手中にあることを思い出し、神がこの状況を許したのだから、私は従うのみだと思ったんです。道を歩きながら、静かに神に祈り、私のそばにいてくださいとお願いしました。するとこの御言葉が頭に浮かびました。「サタンがいかに『強力』か、その大胆さと野望がどれほどのものか、危害を加える能力がどれほどのものか、人間を堕落させ、誘惑する技能の幅広さがどれほどのものか、人間を脅かす策略や計略がどれほど狡猾か、そしてサタンの存在する形態がどれほど変化可能かを問わず、サタンは一つの生物も創れたことも、万物の存在に関する法則や規律を定められたこともなく、いのちあるものかどうかにかかわらず、何かの物体を支配して操れたこともありません。宇宙と大空の中に、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに支配されたり操られたりしている人間や物はまったく存在しません。それとは逆に、サタンは神の支配下で暮らすしかなく、その上神の指示と命令にすべて従う必要があります。神の許しがなければ、サタンはひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難です。また、地面の蟻を自由に動かすことさえできず、ましてや神の創った人類を動かすことなど不可能です(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉を思うと心が落ち着き、恐怖心が薄れ、すべてが神の手中にあると信じられました。

役所では鍵のかかった取調室に入れられました。その時、牧師の片頭痛が再発したんです。体に力が入らず、手足は震え、ひどく苦しみ、このまま死んでしまうかもと思うほどでした。私は牧師に交わりをし、こう言いました。「この状況は私たちへの試練です。心から神に従うかを試されているんです。すべては神の手中にあって、サタンは神の許可なしには何もできません。だから信じましょう」と。交わりの後、牧師は感動の涙を流しました。そして「神に感謝!すべては神の手中にあって、神がそばにいるのだから、死など恐れない」と言いました。そしてこう言いました。「取り調べが始まったら、あなたは私の娘だと言います。仕事の手伝いに来たのだと」。そして牧師と私は自信をもってこの状況に立ち向かいました。結局、役所からは300元の罰金を科されただけでした。

この逮捕を経験して、神の統治が全能あること、そして人の心と霊はすべて神の手中にあると分かりました。福音を広める道は、多くの困難と危険を伴いますが、この期間を経て、私は少し成長しました。以前迫害された時は消極的になりましたが、今は危険に直面しても積極的に責任を果たすことができます。この変化、そしてこの貴重な収穫は、他の方法では決して得られなかったでしょう。神に感謝!

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