神の証しをする方法をどのように学んだか
去年の六月、潤し役の執事に選ばれ、終わりの日の神の働きを受け入れた人を潤すことになった。「本分をしっかり尽くして神の愛に報いなきゃ」って思ったわ。最初は多くの困難に見舞われた。仕事が忙しくてちゃんと集会に出てこない兄弟姉妹もいれば、宗教界や共産党の中傷に騙され、集会に出たがらない人、家族に邪魔され消極的かつ弱気になって、本分を尽くせない人もいた。そう考え、もの凄いプレッシャーを感じたわ。兄弟姉妹をちゃんと潤し、真理を理解して正しい道に踏み出せるようにするには、多くの働きが必要。そのころ、わたしは神に祈ってすがり、真理を求めてみんなの問題と困難を解決した。しばらくすると、大半がきちんと集会に出るようになって、本分を尽くす意義を学んでそれを引き受ける人もいた。わたしはこの成果に喜び、自分を褒めずにいられなかった。「自分はきっとこの働きに適してる。でなければ、こんな成果は上げられない」。その後は兄弟姉妹が自分の状態や困難について話すのを訊くたび、自分のほうが優れ、経験豊富なことを見せつけるようになった。
あるとき、新人を潤し始めたばかりの姉妹たちとの集会で、共産党の激しい迫害と取り締まりに遭い、消極的になって怯えてる新人の話になった。でも解決に向けてどう交わればいいかわからずにいたの。そこで考えた。わたしは最近そうした問題を解決して、成果を上げた。真理の交わりでこうした問題をどう解決したかを伝え、自分は真理を一番理解している有能な働き手だと知らしめるいい機会。それで自信満々に言った。「最近、同じ状態にある兄弟姉妹を潤したの。そのとき不安だったから、ちゃんと潤すために何度も集会を開き、彼らの状態に適した御言葉を読んで真理を交わったわ。往復でバイクを50キロ以上走らせたほど。しばらく潤すと、神の働き、全能、知恵を多少認識して、神が働きの中で赤い大きな竜を引き立て役として使っていることを知り、神を信頼するようになった。もう共産党の迫害に縛られず、福音を広めて神の働きを証ししたいと思うまでになったの……。」交わりの途中、姉妹たちは惹きつけられたようにわたしを見てた。達成感を覚えて、話すにつれて元気が湧いたわ。話し終えると、姉妹が感動してこう言うの。「あなたの経験のおかげで問題がはっきりわかり、混乱が消えました」。別の姉妹は羨ましそうに言った。「問題解決は朝飯前ですね。さらにいい経験があれば、どうか交わってください。あなたから学びたいんです」。そんな褒め言葉に、とても嬉しくなった。働きの成果はひとえに神の導きで、わたしの努力じゃないと言ったけど、内心、そうした成果のために苦しみ、代価を払ったと思ってた。その後、さらに自分を誇示するようになった。
ある集会で、働きで成果が上がらず消極的になってる姉妹がいて、色んな困難について話したの。わたしは思った。「自分も同じ問題や欠点を抱えていると言えば、みんなに見くびられるかしら? わたしは彼女の働きの責任者だから、成功体験を伝えて、そうした難問や困難に遭ったとき、真理の交わりで問題解決したと教えよう。そうすれば問題を解決できるし、もっと仰ぎ見てもらえる」。そう考えて、弱さや欠点を語るのはやめにして、本分がいかに効果的だったかを自慢した。「最近、わたしは5人を潤し、支えたの。宗教的観念を持ってる人もいれば、お金に貪欲で集会にちゃんと出ない人、家庭の問題で消極的になり、弱ってる人もいた。わたしは1人ずつ訪ね、困難を克服して神の言葉を多数求め、一人ずつ交わって解決した。やがてみんな真理を理解し、観念を捨ててちゃんと集会に出て、進んで本分を引き受けた。ある兄弟は才能に優れた専門家で、俗世の地位と名声を求めて滅多に集会に出なかった。彼を支える過程で多くの困難があったけど、神にすがり、御言葉を読み聞かせ、神の旨について交わった。すると、神の信者が真理を追い求める価値を理解して、評判や地位の追求は虚しく、神に従うことでのみ、真理といのちを得て神に救われるとわかり、進んで真理を追い求め、本分を尽くしたの」。交わりのあと、姉妹たちの顔には尊敬と憧れの表情が浮かんでた。そしてわたしが引用した御言葉を書き留めたわ。ある姉妹はこう言った。「あなたは真理を使って問題を解決し、神の旨を理解し、神に従い、本分を尽くすのを助けた。真理の現実がなければ無理です」。別の姉妹は感嘆するようにこう言った。「こうした問題があっても、わたしには解決できません。あなたのほうが経験豊富だから、問題解決に優れてるんです」。私もそう思ったわ。話し合いのあと、姉妹の一人が消極的になったの。素質が少ないと思い込み、真理を使って新人の問題を解決できないって。私は思った。「成功体験について話しすぎた? みんなの問題はわたしにとって単純だし、容易に解決できる。だからみんな無能に感じてわたしを見上げ、問題をすべて解決してもらおうとしてるんじゃない?」敬慕し、敬慕されることの害が頭に浮かんだわ。だけどこう思ったの。「わたしは自分の実際の経験を話してる。だから大丈夫」って。そのとき自分を反省せず、うやむやにした。その後、潤し役の姉妹二人に仕事ぶりを訊きに行ったの。到着するとすぐ、一人がこう言った。「よく来てくれました。問題を抱えて兄弟姉妹がいるんですが、解決できなくて。あなたのお話を聞きたいんです」。期待するような目を見て、興奮と不安を覚えた。興奮したのは仰ぎ見られてるから。でも、いつも自分の成果を話して彼女に尊敬させているのではと、不安だった。そして思った。「成功体験を話すのは実践の道を与え、教会の働きを守るため。それに実際の経験だけ話して、誇張なんかしていない」。そこでまた成功体験について交わると、みんないつものように尊敬と憧れの目で見て、わたしは喜んだ。
その後は集会のたび、本分でどれだけ苦しみ、代価を払ったか、どう真理を交わって問題解決したか、そして成功例を一つ一つ話した。だんだん、みんなわたしを崇め始めて、問題解決してもらうのを待った。仰ぎ見られ、尊敬されてるのを感じて喜んだわ。集会からの帰り道、兄弟姉妹の敬慕の表情を思い出して、高揚せずにはいられなかった。本分を尽くして短期間で、こんな多くの人に尊敬され、仰ぎ見られてる。そう思って元気と本分へのやる気が湧いた。でも崇められる喜びに浸ってるうち、不意に刈り込みと取り扱いを受けたの。
ある日、兄弟指導者が来てこう言った。「今度の教会選挙で、兄弟姉妹にあなたの評価を頼んだら、自分を誇示したがるとみんな言うの」。これを聞いた瞬間、恥ずかしさで顔が真っ赤になってこう思った。「自分を誇示したがるってどういうこと? 指導者にどう思われてる? みんなに顔向けできる?」急いで言い訳したわ。「自分が傲慢で、知らぬ間に誇示してることは認めます。でもわざと自分を誇示してるんじゃありません。自分の本当の経験と認識を伝えてるだけです」。自己認識してないわたしに、指導者はこう言った。「自分の経験を話してると言うけど、兄弟姉妹が神を頼って真理を求めず、あなたを見上げ、頼るのはなぜ? わざと誇示してるわけじゃないのに、自分の堕落や欠点、消極性や弱さ、内心の考えを話さないのはなぜ? あなたは自分の堕落や弱さじゃなく、いい面ばかり話し、それで真理を追い求め、経験豊富だという印象を与えてる。自分を高めて誇示してるんじゃない?」指導者に暴かれ、批判されて言葉もなかった。思えば、集会ではいつも成功体験ばかり話してるし、本分での逸脱や失敗を打ち明けたことなんか一度もない。本当に自分を誇示してる。大勢の兄弟姉妹の前で自分を誇示したけど、今ではみんなに見抜かれてる。穴があったら入りたいほど恥ずかしく、屈辱だった。考えれば考えるほど惨めになって涙が溢れ、神の前にひざまずいて祈った。「神よ、もう自分を誇示したくありません。反省して自己認識できるよう、どうかお導きを」。
その後、この御言葉を読んだの。「自分を高めて自分の証しをすること、自分を誇示すること、人々に自分を尊敬させようと試みること――堕落した人類にはこれらのことができます。自身のサタン的な本性に支配されているとき、人は本能的にこのように反応しますが、それは堕落した全人類に共通しています。通常、人はどのように自分を高め、自分の証しをしますか。どのようにしてその目的を達成しますか。このような人は、自分がどれほど働きを行なったか、どれほど苦しんだか、どれほど自分を費やしたか、どのような代価を払ったかを証しします。彼らはそうしたことを、自分を高める元手として用い、それによって人々の心の中でより高く、より確固として、より安全な場所を確保した上で、さらに多くの人が彼らを高く評価し、称賛し、尊敬し、さらには崇め、崇拝し、付き従うようにさせているのです。人はこの目的を達成するために、表向きは神を証しするようなことを多数行ないますが、本質的には自分を高め、自分の証しをしています。このように行動するのは、理知的なことですか。それらは理性の範囲外にあります。そうした人たちは恥知らずであり、自分が神のために何をしたかや、神のためにどれほど苦しんできたかを臆面もなく証しします。自分の才能、資質、経験、特別な技能、行動のための賢い技能、人々をもてあそぶのに用いる手段などを自慢しさえするのです。彼らが自分を高め、自分の証しをする方法は、自分を誇示して他者を蔑むというものです。そのような人はまた、自分の輝かしいところだけを見てもらえるよう、自分を偽って偽装し、自分の弱さ、欠点、そして欠陥を他者から隠します。彼らは消極的になっても、他の人たちに伝えようとすらしません。自分の心を打ち明けて共に交わる勇気がなく、何か間違ったことをすると、全力でそれを隠し、ごまかそうとします。本分を尽くす過程で教会の働きにもたらした害に触れることは決してありません。しかし、何か些細な貢献をしたり、小さな成果をあげたりすると、すぐにそれを自慢します。自分がいかに有能か、自分の素質がいかに優れているか、自分がいかに並外れているか、そして普通の人に比べてどれほど優れているかを、全世界に知らせたくてうずうずしているのです。これは、自分を高め、自分の証しをする方法ではありませんか。自分を高め、自分の証しをすることは、良心と理知を持つ人がすることですか。違います。では、人がそのようにするとき、通常どのような性質が明らかになりますか。明らかになる主な性質の一つは傲慢さであり、不実さがそれに続きます。不実さには、自分にできるあらゆることをして、他人に自分を尊敬させることが含まれます。彼らが語る話はまったく水も漏らさぬものであり、彼らの言葉には動機と企みが明らかに含まれていながら、自分が誇示しているという事実を隠したがります。彼らが述べることのせいで、人は、この人は他者よりも優れており、肩を並べる者は一人もおらず、他の誰もがこの人より劣っていると考えてしまいます。そしてこの結果は、陰険な手段によって成し遂げられたのではありませんか。このような手段の裏には、どういった性質がありますか。また、邪悪さの要素はそこにありますか。これは邪悪な性質の一種です」(『反キリストを暴く』「第4条 彼らは自分を高め、自分の証しをする」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉が明かすことに、心が動かされた。わたしの振る舞いはまさに、御言葉が明かす自己顕示と自分の証しじゃない? 思えば本分を尽くす中で、自分の苦しみや、成功体験ばかり話してた。集会で兄弟姉妹が解決できない問題に触れても、わたしは真理を交わって神の旨を理解できるようにせず、本分で神にすがるよう言わなかった。むしろ自分の苦しみと問題解決能力を証しした。遠くまで旅して代価を払い、人々を潤したことばかり話して、困難の際に見せた弱さや欠点は話さなかった。いつも、集会では肯定的な入りや、重荷を背負って神の旨に配慮してること、兄弟姉妹に問題があれば真理を求めて解決してること、自分の潤しと支えのおかげで、大勢集会に出て本分を尽くしてることばかり話した。真理を理解し問題解決できると、みんなに思わせたの。みんなが真理を理解して信仰を持ち、本分を尽くしたいと思うのは、明らかに御言葉のおかげ。神の御言葉の成果なの。でもわたしは神を高めず、御言葉と働きの証しもしない。わたしの経験を聞いても神を認識できず、わたしを崇めた。問題があっても、神にすがらず真理を求めない。代わりにわたしの交わりで解決しようとして、救い主かもしれないと思うまでになったの。このままだと、わたしは人を自分の前に集めていたことにならない? そのときですら、自分を高めて誇示しているとは思わず、自分は実際の経験しか話してないと考えてた。自分の経験を語るとき、卑劣な意図を抱いているとやっとわかった。人の心の中で高い地位を占めようとしてたの。考えれば考えるほど、卑劣で恥知らずだと思ったわ。神の恵みでわたしは潤しの働きを得て、神の旨は、御言葉を交わって問題を解決し、神の前に人を導き、真理の理解と神の認識を助けることだった。でもわたしは本分で自分を誇示し、人に崇めさせるばかり。聖霊の働きの効果を自分の苦労の成果と見なして、自慢する元手にした。神の栄光を盗み、兄弟姉妹に仰ぎ見られ、崇拝されるのを楽しみながら、羞恥をまったく感じなかった。良心も理知も一切ない! あの姉妹がわたしを刈り込み、取り扱って、間違った道に気づき、すぐに引き返せるようにしてくれた。それは神の愛と救い。もう神の心を傷つけるわけにはいかない。悔い改めないと。
そのとき、御言葉の一節を思い出したの。「『経験を共有して伝える』とは、神の言葉に関する自分の経験と認識について語り、心の中のあらゆる考え、自分の有様、自分の中で明らかになった堕落した性質を声に出し、他の人たちにそれらを識別させた上で、真理についての語り合いを通じて問題を解決することです。このように経験を語り合って初めて、全員が益を受け、多くの収穫を得ます。これだけが真の教会生活です」(『終わりの日のキリスト講話集』「正直であることの最も基本的な実践」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を考えてわかった。経験の交わりに、個人の意図や野心や欲望があってはだめ。肯定的でも否定的でも、自分の本当の状態を絶えず兄弟姉妹に打ち明けるべき。わたしの経験から肯定的な面を吸収し、否定的な面を識別できるようにして、わたしも反抗的で堕落してると理解させ、見上げたり崇拝したりするのをやめさせないと。そうすれば、わたしの経験が教訓となり、みんなを間違った道から遠ざけられる。翌日の集会で、勇気を振り絞って自分の状態を話した。自己顕示してみんなに自分を仰ぎ見させたこと、どう反省して自己認識したかを分析して吐き出したの。その集会では落ち着きと喜びを感じたわ。
その後、ある姉妹がひどく気落ちしてると聞いた。こう言ったの。「あなたの経験や、みんなを効果的に助けたことを、いつも集会で聞いてますが、わたしには真理の現実がなく、素質も低いです。問題が起きても解決できず、ストレスを感じて本分をきちんと尽くせません」。これを聞いて恥ずかしくなって、こう思った。「彼女が消極的になってるのはわたしのせい。本分で神を高めず、みんながいのちの入りで抱える実際の問題を解決しなかった。いつも誇張して自分を誇示し、それで彼女は、わたしが真理を理解し背丈があると誤解した。もう間違いは繰り返せない。心を開いて打ち明けないと」。そこですべて話したの。自分の状態や、あのころわたしが自己顕示してたことを。本当は真理の現実がないこと、本分の成果が聖霊の働きと導きに由来してること、自分では何もできないことを知ってもらったの。姉妹は感動して言った。「わたしは真理を追い求めず、心に神の場所がありません。表面的な賜物を仰ぎ見て、それが神の働きと導きだとは知りませんでした。もう消極性と弱さの中で生きず、神にすがって本分を尽くしたいです」。
その後、自己反省を始めた。自己顕示は神に逆らうことだとわかってるのに、いつの間にかその道を歩むのはなぜ? 何が起きてるの? その後、御言葉の一節を読んだ。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます」(『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉の内容から理解できた。兄弟姉妹に自分を誇示し、仰ぎ見て崇拝するようにさせたのは、傲慢な本性に支配されてたから。これは神に逆らう道。傲慢な本性のせいで、本分で成果を上げると自分を褒め称えた。集会ではいつも働きの成果を誇張・誇示して、自分の能力を証明し、みんなに崇拝させた。本分で困難に遭うと弱気になり、反抗心や堕落を見せたけど、傑出して優れてると思わせたくて、それに触れなかった。みんなますますわたしを仰ぎ見たわ。兄弟姉妹に褒められると嬉しくなって、恥知らずにも尊敬と崇拝を楽しんだ。パウロも集会と伝道を楽しみ、聖霊の働きの効果を自分の元手にして、自分を誇示して高め、人を惑わし、信者全員を自分の前に連れ出した。そのため二千年後の今も、宗教界全体がパウロを崇めて高め、パウロの言葉を神の言葉と見なし、主イエスのことはまったく知らない。パウロは傲慢かつ独善的で、眼中に神がなく、神に逆らう反キリストの道を歩んだ。人の心の中で神の地位を占め、神の義なる性質を犯し、神の懲罰と呪いを受けた。わたしもパウロと同じじゃない? 傲慢かつ独善的で、自分を高めて誇示し、人に囲まれるのを喜ぶ。結果として数ヵ月も「演技」すると、みんなに仰ぎ見られ、崇拝され、心に神の場所はなかった。問題が起きると、みんな神じゃなく、わたしの交わりと解決を求めた。神に逆らい、兄弟姉妹を傷つけてたんじゃない? 神に逆らうパウロの反キリストの道を歩んだ。悔い改めないと、パウロと同じ最後を迎え、神に淘汰され、懲罰される。そのとき初めて、傲慢な本性に操られてることがわかった。恥知らずにも繰り返し自分を誇示して自慢し、兄弟姉妹を騙して崇拝させ、時には卑劣な意図を抱えたり、策を巡らすことさえあった。本当に邪悪! 自分が嫌になって憎み、もう二度と自己顕示しないと誓った。
その後、御言葉の朗読動画を観たの。全能神は言われます。「神の性質、神が所有するものと神の存在そのものを、人はどのように認識すべきですか。神の権威、神の全能性と英知をどのように認識すべきですか。神が万人と万物の中で何年働いてきたかを知る人はいますか。神が働き、すべての人類を管理してきた期間が何年にわたるのか正確に知る人は一人もいませんし、誰も正確な数字を知りません。神はそのようなことを人類に報告しないのです。しかし、もしサタンがこれを僅かなりとも行なったとしたら、サタンはそれを公表しますか。間違いなく公表するでしょう。サタンは自分自身を誇示したいので、さらに多くの人を欺き、さらに多くの人に自分の功績を知らしめたいのです。なぜ神はその仕事を報告しないのですか。ここに、謙虚で隠された神の本質の一面があります。謙虚さと隠蔽性に相反するものは何ですか。傲慢さ、厚かましさ、自己顕示です。……反キリストはそれと変わりません。彼らは自分がするありとあらゆる些細なことを全員の前で自慢します。それを聞いていると、神の証しをしているかのようですが、じっくり耳を傾けたなら、彼らが神の証しをしているのではなく、自分を顕示し、自分をよく見せようとしていることに気づきます。彼らの発言の裏にある動機と本質は、選民と地位を巡って神と競うというものです。神は謙虚で目立たないようにしていますが、サタンは自分を誇示します。そこに違いはありますか。自己顕示に対して謙虚で目立たないこと。優れているのはどちらですか。(謙虚で目立たないことです。)サタンは謙虚と言えますか。(言えません。)なぜですか。その邪悪な本性と本質から判断すると、サタンは価値のないくずです。サタンが自分を誇示しなかったなら驚くべきことでしょう。どうしてサタンを『謙虚である』と言えるでしょうか。『謙虚さ』とは神についての言葉です。神の身分、本質、そして性質は気高く高潔ですが、神が自己顕示することは決してありません。神は謙虚で目立たないようにしており、自分がしたことを人に見せることもありませんが、神がかくも目立たないように働くうちに、人類は絶えず施され、糧を与えられ、導かれます。これはすべて神が整えたことです。神がそうしたことを決して明かさず、決して語らないのは、目立たなさと謙虚さですか。神が謙虚なのはまさに、そうしたことをできるにもかかわらず、語ることも明かすことも決してなく、人とそのことについて論じないからです。そうしたことをできないあなたに、謙虚さを語る何の権利があるというのですか。あなたはそうしたことを何もしなかったのに、あくまで自分の手柄にしようとします。これを恥知らずと言います。神は人類を導きつつ、かくも偉大な働きを遂行し、全宇宙を統治しています。神の権威と力はかくも広大ですが、『わたしの能力は並外れている』などと神が言ったことはありません。神はひたすら万物の間に隠れつつ、万物を統治し、人類に糧を与えて施し、全人類が世代から世代へと継続できるようにしています。例えば空気と日光、あるいは人類の生存に必要なすべての物質を考えてみなさい。それらはすべて、絶え間なく流れ出ています。神が人に施していることに、疑問の余地はありません。では、仮にサタンが何かよいことをしたなら、それを隠し続け、名もなき英雄に留まることがあるでしょうか。決してありません。以前に危険な働きを引き受け、犠牲を払って苦しみに耐え、刑務所に送られることさえあったかもしれない、教会の中にいる反キリストと同じです。また、神の家の働きにおいて、ある面でかつて貢献した人もいます。彼らはそうしたことを決して忘れず、生涯にわたって自分の手柄にする資格があると思い込み、それを生涯にわたる自分の資本であると考えますが、これは彼らがいかにちっぽけな人間であるかを示しています。人は実にちっぽけで、サタンは恥知らずなのです」(『反キリストを暴く』「第7条 彼らは邪悪、陰険、不実である(2)」〔『言葉』第4巻〕)。この御言葉を見て恥ずかしくなった。神は創造主。権威と力があり、最高の地位に就いてる。なのに堕落した人類を救うために自ら肉となり、静かに真理を表わし、人に施し救ってる。神は至高で全能なのに、神の地位を誇らない。人類を救うためにどれほど働いたか、恥辱と苦痛にどれだけ耐えたか、決して誇示しない。むしろ人のあいだに謙虚に隠れて働きをなさる。堕落した人間にこんなことはできない。神の本質が聖く美しいことがわかると、自分の傲慢さと独善、自分を誇示したことがますます恥ずかしくなった。サタンにひどく堕落させられた、不潔な人間なの。神から見て取るに足らないのに、恥知らずにも自分を高めて誇示し、みんなが仰ぎ見て崇拝するようにさせた。傲慢さのあまり理知を失い、神の御前で生きるにふさわしくない! 恥ずかしさの中、神に祈った。「神よ、あなたの裁きと暴きによって、人間らしさがないまま生きてることがわかりました。こんな生き方はもう嫌です。神よ、真理を実践し、サタン的性質の束縛から脱せるようどうかお導きを」。
それから、私は神の御言葉の別の一節を読みました。「神の証しをするときは、神が人々をどのように裁き罰するか、どのような試練を用いて人々を精錬し、あなたがたの性質を変えるかを主に語るべきです。また、自分の経験においてどれだけ多くの堕落が表わされたか、自分がどれだけ耐えてきたか、神に抵抗することをどれだけ行なったか、最後はどのようにして神に征服されたか、神の働きに関する真の認識が自分にどれだけあるか、どのようにして神の証しをし、神の愛に報いるべきかも語るべきです。こうした言葉に中身を持たせつつ、簡潔に語りなさい。空虚な理論について話してはいけません。もっと地に足のついた話をしなさい。心から語りなさい。あなたがたはそのように経験しなければなりません。自分自身を誇示しようと、深遠に見えながらも空虚な理論で着飾ってはいけません。そうすることはかなり傲慢で理知に欠けるように見えます。本当の物事を、自分の実際の経験から、そして心からもっと語るべきです。それが他人にとって最も有益であるとともに、彼らが目にするのに最適なのです。あなたがたはかつて、神に最も強く反対し、神に服従しようという気持ちが一番ない人々でしたが、今は征服されています。それを忘れてはいけません。これらのことについてもっと熟慮し、考えなさい。いったんそれをはっきり理解すれば、どのように証しをすべきかがわかります。さもないと理知に欠ける恥ずかしい行為をしがちになります」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉に実践の道を見つけた。自己顕示の問題を解決するには、意識して神を高めて証しし、神の働き、性質、人への要求を証しして、自分の反抗心と堕落、卑劣な意図、およびそうすることの結末を暴き、その後御言葉の裁きと刑罰をどう経験して、自己認識したかを話す。するとみんなわたしの堕落を見抜き、神の働きを認識して、神による人の救いを見て、神の愛を証しできる。それに、経験を話すときは心から正直に語り、誇張せず、誇示せず、人の上に立たないこと。そうした実践の道を理解すると、意識的に実践し始めた。ある日の集会で、本分で評判と地位を追求することをある兄弟が話したの。自分とみんなを比較して、惨めさを感じて解決できずにいた。その状態を聞いたわたしはこう思った。「彼の問題を解決すれば、今後経験について話すとき、わたしの交わりで状態が変わったと言うはず。兄弟姉妹はわたしを仰ぎ見て、真理を理解し背丈があると言うだろう。交わりの言葉と考えを組み立て、自分の経験を話さなきゃ」。その瞬間、またサタン的な演技をしてることに突然気づいて、自責の念を感じた。ハエの死骸を飲み込んだみたいに、自分の内心の考えに吐き気がした。そこで神に祈り、今度こそ自分に背いて神を高め、証しできるよう力を求めたの。そして兄弟に、わたしも過去に評判と地位を求めたこと、地位と富を巡って争い、失敗して解任された経験、その後御言葉の裁きと暴きを通じ、反省して自己認識し、多少変化したことを話した。交わりのあと、その兄弟は自分の本性が傲慢で、評判と地位を求めるのは反キリストの道だと気づき、悔い改めを願った。その交わりを聞いて、神に感謝せずにいられなかった。これはまさに神の導き。
その後は集会で兄弟姉妹と交わるとき、自己顕示することもあったけど、以前ほどあからさまでも深刻でもなくなった。自己顕示してもそれに気づき、神に祈って自分に背いたの。徐々に自己顕示が少なくなり、自慢したいと思うこともなくなって、わたしを変えたのは御言葉の裁き、刑罰、刈り込み、取り扱いだとわかった。全能神の救いに感謝してるわ!
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