新人の潤しで得た教訓
今年1月、教会で新信者を潤してました。その中に、ラン・ジエ姉妹とそのご主人がいたんですが、責任者はこう言った。ご主人は終わりの日の神の働きを調べ始めたばかり。集会に出たのも数回だから、支えと潤しが必要だと。
ラン・ジエのお宅に二度行ったけど、二人はそのたびに口論。後でわかった。世間の流れに従うあなたは敬虔な信者じゃないと、ラン・ジエがご主人を見下してたの。ご主人は真の道を調べ始めたばかりなのに、理不尽な要求をして怒りをぶつけていたら、進歩が妨げられる。あるとき、寛容と忍耐でもって人に接することを彼女に説いたら、腹を立てて、自分はもう忍耐してると言うのよ。しかも、「信じたくないならそれでいい。少なくともわたしの状態は影響を受けない」って。ご主人がそんなことを聞いたら教会を去るのではと不安が募り、嫌な気持ちになった。「この姉妹はとても傲慢。自分の不満をぶつけるだけで、人の気持ちを考えてない。しっかり交わり、この状況の深刻さを伝えなきゃ」。でもこっちが言い終えると、こう反論したの。「わたしだって怒りたくない。でも主人はいつも人付き合いや麻雀に忙しく、御言葉を読んでない。何度言っても聞かないのよ」。それを聞いて腹が立った。「堕落の兆候を見せてるのに、ただご主人を責めるだけ。自己認識がまったくない!」そこで、人の堕落した性質を暴く神の御言葉を読み、彼女の怒りは地位への欲が強すぎるせいだと説明した。かんしゃくを起こしてご主人に無理矢理言うことを聞かせるのは、堕落した性質だから直さないと。すると姉妹は、自分は傲慢すぎたと渋々認めたけど、その後もまったく変わらなかった。それから、さらに何度か交わり、ご主人への接し方を正してあら探しをせず、自己認識すべきだと言った。でもラン・ジエは言い訳を並べるだけ。どうすればいいの?ご主人にもっと集会に出てもらい、真の道に根ざせるようにしたかったけど、突然集会が全部中止になったの。
当時はラン・ジエを非難するばかり。「本当に傲慢でいつもご主人につらく当たってる。人間性がよくないの?何度も交わったのに、真理の実践も集会の維持もしない。彼女を潤すのはもう嫌だ」。あるとき、パートナーの姉妹とこの問題を話し合い、不満をぶつけた。すると経験の証しの動画を勧めてくれたんだけど、この御言葉に心打たれたの。神の御言葉にこうあります。「真の道を考察している人に接するときには、慎重さと注意深さを発揮し、愛に頼らなければなりません。なぜなら、真の道を考察している人はみな非信者であり、そのうち宗教的な人でも、程度の差はあれ非信者で、みな脆弱だからです。自分の観念に合わないことは否定しがちであり、自分の意思に合わない言葉には反論しがちです。したがって、このような人たちに福音を広めるには、わたしたちは寛容でなければなりません。わたしたちの最大限の愛、そして何らかの方法と取り組みが必要です。しかし何より大事なのは、彼らに神の言葉を読み聞かせ、神が人類を救うために表わしている真理をすべて伝え、神の声と創造主の言葉を聞かせることです。そうすれば彼らは恩恵を受けられます」(『終わりの日のキリスト講話集』「福音を広めることはすべての信者が道義上果たすべき本分である」〔『言葉』第3巻〕)。愛情をもって福音対象者一人ひとりに接し、大きな忍耐と愛で支え、真理を交わり御前に導くよう、神は求めていらっしゃる。これが福音伝道者の責任と義務。御言葉の一言一句に、人のいのちに対する神の愛情を感じられた。だからそうした要求をなさるの。人類に対する神の愛と理解を噛みしめるうち、恥ずかしくなった。ラン・ジエへの接し方を振り返ると、ご主人を叱りつけることについて何度か交わっても改善せず、腹を立て、勝手に御言葉を見つけて批判し、問題を分析して、彼女への不満を吐き出し、彼女の感情や背丈は顧みなかった。人間性が乏しいとパートナーの前で言ったほど。どこに愛情があるの?ラン・ジエは終わりの日の神の働きを受け入れてまだ半年。真理をさほど理解してない。問題に遭って堕落を見せるのは当然じゃない?わたしは愛情で彼女を導き、真理の実践を助けなかっただけでなく、嫌ってた。人間性がまったくない。それを考え、気づいた。ラン・ジエと何度か交わっても無駄だったのは、愛をもって交わらず、真理で問題を解決しなかったから。むしろ傲慢にも彼女を嫌い、決めつけ、怒りにまかせて叱った。こんなことで彼女が真理を理解し、状態をよくするのを助けられる?御前に出て祈り、自分の意図を正して、堕落した性質でラン・ジエに接するのをやめようと決意した。
その後、こんな御言葉を読んだの。「聖霊が人々に働きかける時にその人が置かれる多くの状態をあなたは理解しなければならない。特に、一体となって神への奉仕を行なう人は、それらの状態をさらにしっかりと把握していなければならない。単に多くの経験や、入りを成し遂げる数多くの方法について語るだけであれば、それはあなたの経験が一方的過ぎることを示している。自分の真の状態を知らず、真理の原則を把握していないなら、性質の変化を成し遂げることはできない。聖霊の働きの原則を知らず、それが生み出す成果を理解していなければ、悪霊の働きを識別することは難しい。悪霊の働きや人間の観念を暴き、単刀直入に問題の核心に触れなければならない。また、人の実践における数多くの逸脱や、神への信仰において人が抱えるであろう問題を指摘し、その人がそれを認識できるようにしなければならない。少なくとも、人を否定的あるいは消極的に感じさせてはならない。しかし、大半の人に客観的に存在する困難をあなたは理解しなければならず、理不尽であったり、『豚に歌を歌わせようと』したりしてはならない。それは愚かな行為である。人が経験する数多くの困難を解決するには、まず聖霊の働きの動態を理解し、聖霊が様々な人にどう働きかけるのかを理解し、人が直面する困難やその人の欠点を理解しなければならない。そしてその問題における重要な課題を見抜き、逸脱したり誤ったりすることなくその根源に達しなければならない。このような人だけに一体となって神への奉仕を行なう資格がある」(『神の出現と働き』「牧者に適した人が備えているべきもの」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉をじっくり考え気づいた。伝道でも新人の潤しでも、相手の実際の問題や状態を常に把握し、関連する真理を交わって解決しないと。困難がわからず自分の信仰を基に交わるだけなら、問題を解決できないどころか、相手を傷つけ怒らせる。新人が堕落や消極性を見せ、何度か交わっても改善しなければ、まずはその問題について真理をはっきり交わったかどうかを反省すべき。交わりが明確でないせいで問題が解決しなければ、本分を尽くして責任を果たしたとは言えない。ラン・ジエへの接し方を考えずにはいられなかった。ご主人に怒りをぶつけるのを見て、この人は傲慢でご主人を押さえつけてると思い込み、絶えず批判し、堕落した性質を認識するよう強制したけど、問題は結局解決しなかった。落ち着いて問題を考えてやっと気づいたの。ラン・ジエがいつも立腹してたのは、ご主人が真の道の基盤をすぐに築き、集会にしっかり出続け、問題があれば神のご加護を得るよう望んでたから。だからご主人が人付き合いや麻雀で忙しく、御言葉を読まないと、腹を立てた。私はこの問題について交わらず、だから効果がまるでなかった。実際、私のほうが問題だった。新人の問題を特定して交わらず、人間性が乏しく真理を受け入れないと批判して、潤したくないと思ったほど。自分を認識してないし、人への愛が少しもない。これに気づいて恥ずかしさと罪悪感を覚えた。ラン・ジエへの態度をただし、彼女の実情に合わせて交わり、真理で問題を解決しないと。
次の日、また集会があったので、私が着くと、ラン・ジエが文句を言いだしたの。集会に出るとご主人がはっきり言ったのに、まだ戻って来ないって。そして探求者じゃないと決めつけ、もういいわと言うの。そこで、彼女の状況に照らして交わった。「集まって御言葉を読むようご主人に言ったのはいいことだけど、要求しすぎてはだめ。聞き入れないからって怒っていたら、従ってくれないわ。人はサタンに深く堕落させられ、真理を愛していない。だから真理の探求といのちの入りが遅いの。小さな洞察や認識を得るだけでも、多くの交わりと経験、それに躓きが必要。だから愛で人を支え、変わる時間を与えないと。神は人に性質を変えるよう求めてるけど、無理強いや理不尽な要求はしない。私たちが堕落した性質で生き、御言葉に従わないのを見ても、神は怒りを放たず、私たちを見捨てもせず、御言葉で啓いて導き、物事を少しずつ経験させ、徐々に真理を理解して、変化できるようにしてくれる。神の接し方はとても優しいわ。だから、家族が集会に出て御言葉をもっと読むようにして、なるべく早く基盤を築かせるのは正しいこと。でも相手の困難に共感して、辛抱強く導き、支える必要がある。そうすればきっと聞き入れる」。それを聞いて、ラン・ジエはため息をついてこう言った。「私は主人に、もっと集まり御言葉を読むよういつも言ってる。それが彼のためだと思って、聞き入れさせようとするけど、聞き入れなければ怒りをぶつける。こんな接し方じゃ夫を傷つけるわ。私は間違ってた。今後は御言葉に沿って実践し、堕落した性質で接するのをやめます」。私もラン・ジエが多少理解して、笑顔なのを見てほっとした。それから一緒に御言葉を読んだの。「他人をどのように扱うべきかは、神の言葉の中にはっきり示されているか、あるいはその中でほのめかされています。神が人類を扱う態度は、人が互いの扱いの際にとるべき態度です。神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、あるいは神を信じるようになってまだ日が浅い人もいれば、本性と本質が悪くなく、悪意もなく、ただ少し無知だったり、素質に欠けていたりするだけの人もいます。あるいはあまりに多くの束縛を受け、いまだ真理を理解せずいのちに入っていないので、愚かなことをしたりばかげた行動に走ったりするのを免れないという人もいます。しかし、神は人の一時的な愚かさに固執せず、人の心だけを見ます。真理を追い求めると決意しているなら、その人は正しく、それがその人の目標ならば、神はその人を観察し、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。一度の過ちのために神が人を打ち殺すことはありません。人はそのように行動することがよくありますが、神は決して人をそのようには扱いません。神がそのように人を扱わないのであれば、なぜ人は他人をそのように扱うのですか。それはその人の堕落した性質を示していませんか。それがまさにその人の堕落した性質なのです。神が無知で愚かな人をどう扱うか、霊的背丈が未熟な人をどう扱うか、人間の堕落した性質が普通に表われているのをどう扱うか、悪意に満ちた人をどう扱うかをあなたはしっかり見なければなりません。神は異なる人々をそれぞれ違う方法で扱い、また異なる人々の無数の状態を扱う様々な方法もあります。あなたはこれらの真理を理解しなければなりません。いったんこの真理を理解すれば、物事をどのように経験すべきか、原則に沿って人を扱うにはどうすればよいかがわかります」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を得るには、近くの人や出来事や物事から学ばなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。読み終えると、素晴らしい御言葉ねとラン・ジエが言って、もっと交わってほしいと頼んだの。私はこう交わった。「人と接して相手の欠点や問題に気づいたら、愛をもって穏やかにそれを持ち出し、過大な要求をしてはだめ。真理を受け入れる時間を与え、徐々に改善するのを待つべき。私たちがサタンに深く堕落させられ、真理の受け入れと実践に多くの障害や困難があるのを、神はご存じ。真理を理解してるのに、すぐ実践できないこともある。神は何度も交わり、時にはわからないかもと思って辛抱強く例を示し、理解できるようあらゆる手段で導く。御言葉で導くこともあれば、兄弟姉妹の指摘を通じてのこともある。私たちが鈍く反抗的で、いくら交わりをしても効果がないと、神は実際の環境を整えて懲らしめ、刈り込んで取り扱い、私たちの心を揺るがす。神は優しさと愛をもって働き、押しつけることはない。厳しく懲らしめ、裁いて暴くことがあっても、私たちは神の愛と慈悲を感じられる。私たちは経験を通じ、神の接し方には特に原則があり、多くの真理を聞いても変化しないからといって、軽々しく見捨てないとわかる。人に対する神の愛と忍耐は底知れず、人類を救いたいと強く誠実に願っているの」。
ラン・ジエと交わったあと、突然思ったの。「神の要求のうち、私はどれだけ実践した?ご主人に正しく接する方法を彼女に交わっただけで、彼女に正しく接してない!ご主人に腹を立て、何度か交わっても変化しないのを見ると、傲慢で人間性がなく、口先だけだと内心批判したわ」。自分のことを振り返ると、恥ずかしくなった。ラン・ジエは新人で経験が浅いのに、私は傲慢な本性を無理に認識させ、変化するよう要求した。彼女が変化しないと、真理を求めも受け入れもしない人だと決めつけ、人間性が乏しいと批判さえした。明らかに彼女の状態を把握してないし、それについて交わりもせず、受け入れ、従い、変化するよう強いた。本当に傲慢で理不尽。そのとき、自分が堕落した性質を見せてたことに気づいたの。ラン・ジエの状態はまさに鏡。おかげで自分の堕落がわかった。彼女は神を信じてまだ半年だから、反省して自己認識できないのは普通のこと。わたしは長年神を信じ、たびたび真理を交わり問題を解決してるのに、実際どれだけ実践した?言うことだけは立派で実践しないなんて、教義しか語らないパリサイ人と同じじゃない?そのとき、この御言葉が脳裏に浮かんだ。「自分の問題を解決するためではなく、働きや説教のため、他人に施すためだけに真理を備え、真理の実践などは気にもかけない人がいます。そのような人の交わりは純粋な理解から成り、真理と合致しているかもしれませんが、自分自身を真理に照らして評価することも、真理を実践したり経験したりすることもありません。ここでの問題は何ですか。この人は真理を自身のいのちとして本当に受け入れていますか。いいえ、受け入れてはいません。人の説く教義がどれだけ純粋であっても、その人に真理の現実があるということにはなりません。真理を備えるには、まずは自ら真理に入っていなくてはならず、真理を理解したら実践しなければなりません。自分の入りに集中せず、自分が目立つために他人に真理を説こうとしているなら、その意図は間違っています。偽指導者にはこのように働き、自分が理解している真理を絶えず他の人に説き、新しい信者に施し、人には真理を実践して本分をしっかり尽くし、消極的になってはならないと教える者が多数います。これらの言葉はどれも立派で、愛情に満ちてさえいますが、話している本人が真理を実践しないのはなぜですか。なぜいのちに入っていないのですか。いったい何が起きているのですか。このような人は実際に真理を愛していますか。そう言うのは簡単ではありません。イスラエルのパリサイ人も聖書をこのように人に説きましたが、自分たちは神の戒めを守ることができませんでした。主イエスが現われて働きを行なったとき、彼らは神の声を聞いたものの、主に抵抗して主イエスを十字架にかけ、神に呪われました。したがって、真理を受け入れることも実践することもない人はみな、神に断罪されます。何と哀れな人たちでしょう。彼らの説く字句からなる教義が人を助けられるなら、なぜ彼らは助からないのですか。このような人は、現実を持たない偽善者と呼んで差し支えありません。彼らは真理の字句を人に施し、それを実践させますが、彼ら自身はほんの少しも実践しません。このような人は恥知らずではありませんか。真理の現実がないのに、人に教義の字句を説いて、あるかのように振る舞います。これは故意に騙し、害することではありませんか。このような人が暴かれ淘汰されても、それは自業自得です。憐れむ価値もありません」(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は私の状況を正確に示してる。ラン・ジエを潤していたとき、堕落した性質で生き、正しく接しなかった。堕落した性質を見せて真理を受け入れないことにだけ目を向け、自分がどんな堕落を示したかは反省しなかった。自分の醜い顔を認識せず、恥知らずにも御言葉で彼女を責め、変化を要求した。人は堕落を反省しなきゃならないけど、自分は堕落しておらず反省する必要はないみたいに。本当に自己認識がない恥知らず!御言葉を使って人と交わり、問題を解決してたけど、まったく反省せず入りもなかった。偽りの偽善者パリサイ人とどう違う?こんな風に本分を尽くして、どうして人を助けられるというの?
その後、戻ってきたご主人にラン・ジエはこう言った。「姉妹が御言葉を読んでくれて、自分の間違いに気づけた。傲慢な性質であなたを押さえこんでたの。今後は御言葉に沿って実践し、堕落した性質であなたに接するのをやめるわ」。ラン・ジエが御言葉を実践できたのを見て、ますます恥ずかしくなった。真理を受け入れない人だと決めつけてたのに、現実に顔を平手打ちされたみたい。帰る途中、ラン・ジエのことを決めつけ、批判したことを振り返り、罪悪感を覚え、この御言葉を考えたの。「心の中で真理を本当に理解していれば、どのように真理を実践して神に従うべきかがわかり、真理を追い求める道に自然と踏み出します。あなたの歩む道が正しい道で、神の旨に沿っているなら、聖霊の働きがあなたを離れることはありません。こうなれば、あなたが神を裏切る可能性は次第に小さくなります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、傲慢で自惚れた性質が自分にあれば、神に反抗しないように言われても意味はなく、どうしてもそうせずにはいられず、自制することができません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、他人を軽蔑するようになって、心の中には自分以外に誰もいなくなります。心の中に神の場所がなくなり、最後は神の場所に自分が座り、人が自分に従うことを要求し、自分で自分の思いや考え、観念を真理として崇めるようになります。傲慢で自惚れた本性に支配された人によって、かくも多くの悪事がなされているのです。悪事をなすという問題を解消するには、まず自身の本性を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を考えるうち、自分の堕落した性質がますますはっきりわかった。ラン・ジエを潤していたころ、何度か交わっても変化しないと、わたしは自分を反省せず、問題を正確に特定し、交わりで彼女の状況を解決できると思ったほど。言うことを聞かないなら、それは真理を受け入れてないから。ラン・ジエとは数回しか会ったことがなく、彼女のことをまったく知らないのに、軽率に批判して決めつけた。真理をはっきり理解し、何度か会っただけでその人の本質を見抜けるみたいに。繰り返し暴かれてやっと、人の問題の根源と本質を理解せず、振る舞い、本性、本質全体を基に接してなかったと気づいた。真理をまったく理解してないのに、自分をかたく信じ、自分の信念にしがみつき、自己認識がまったくなかった。このまま傲慢な性質で新人に接していたら、少なくとも偏見を抱くだろうし、彼らを押さえつけて傷つけ、いのちの入りを遅らせる。ひどい場合は批判して決めつけ、ぞんざいに見捨ててしまうかもしれない。大きな借りを作ってしまう。それに気づいて怖くなったけど、同時にほっとしたの。傲慢さを示したとき、パートナーがそれを指摘して、問題に気づいてすぐ変えられるようにしてくれた。これは神のご加護!その後働きのため、しばらく教会を離れることになった。一ヵ月後ラン・ジエと会ったんだけど、伝道しながら御言葉をどう経験し、その証しをしたかを話したの。そして感慨深げに続けた。「でも今は伝道を通じ、誰もが神について様々な観念を持ってるとわかりました。終わりの日の神の働きを受け入れ、御前に出るのは簡単じゃない。前はいつも、夫は追求してないと考え、あれこれやめろと求めた。要求し過ぎたのは私の間違い。御言葉は本当に素晴らしいし、もっともっと経験しないと」。それを聞いて嬉しかったけど、恥ずかしくなって感情に揺れ動いた。人が真理を受け入れるには、時間と経験が必要なの。その後、潤しの過程で新人が堕落の兆候を見せると、問題の根源を突き止めるのに集中し、関係する原則を求めて相手に接した。同時にわかったの。御前に出て基礎を築くのは時間がかかる過程。潤し支える過程で、自分も反省して正しくない状態を正し、愛情で彼らを支え、できるだけすぐに基礎を築いて御前に出られるようにした。そう本分を尽くしていると、穏やかさと落ち着きを感じたわ。