真理を求めることなく本分は尽くせない

2023年9月26日

オランダ 宋羽

数年前、私は福音を広め始めました。神にすがってこの本分をしっかり尽くそうと決意した。そこで、毎日長い時間をかけて御言葉を読み、真理を身につけ、原則を学び、わからないことがあれば人に尋ねました。すぐに一人で本分を尽くせるようになり、心から神に感謝しました。その時は、本分に対する意欲が高く、成果も改善する一方でした。その後しばらくすると、班長に選ばれました。喜ぶとともに、こう思いました。「もっと代償を払って、これまでの2倍努力して、もっと多くの人が終わりの日の神の働きを受け入れるように頑張ろう。そうすれば、責任感や能力があり、真理を求める人間だとわかってもらえる。兄弟姉妹も私を認めて、尊敬してくれるわ」と。

それから数ヵ月は、起床後すぐに本分に取り組み、食べることも忘れるほどでした。デボーションもせず、御言葉も読まなかった。デボーションをしたり御言葉を読んだら、本分に必要な時間をとられて、成果を出すことができないと思った。集会で、他の人が御言葉を読んだり経験を交わったりしている時も本分ことを考えていました。心を落ち着かせて、御言葉について集中して考えることはおろか、他の人の経験や理解に耳を傾けることさえしなかった。そのうち、日々自分が見せている堕落した性質に気づかなくなりました。どんどんごう慢になり、本分でも人と仲良く協力できず、パートナーの働きがうまくいっていないのを見て、彼女を見下すようになった。2年も福音を広めているのに、新米の私に劣るなんて、もう少ししたら絶対に私の方が上になるわと思った。自分が正しいと思った時は、自分の考えを押し通したくて、彼女と話し合わず、知らせることすらしませんでした。班長としての働きの進捗を聞かれた時も、伝えたくないと思いました。指導者が来て働きについて聞かれた時に、彼女が進捗や働きを詳しく説明したら、お株を奪われてしまうと思った。そして指導者の前で、パートナーが本分に無責任だといつも言っていました。その後、私の状態を知った指導者が、仲良く協力することについて交わり、私が人に相談をしないこと、パートナーを見下すこと、人の粗さがしばかりするのは、ごう慢さの表れだと言いました。でも自分を全くわかっていなかった私は、それからも、パートナーと協力できないのは彼女が無責任だからと考え、彼女を見下していました。その後、私がこの出来事から何も学んでいないと知った指導者から、私がごう慢で理知に欠けるという理由で取り扱いを受け、本分にも影響するから、自分を振り返るようにと言われました。そう言われて、腹が立ちました。毎日遅くまで本分を尽くして、苦しみ、代償を払い、成果もあげている。堕落した性質を見せたから何だというの? 本分でこんなに成果を出しているのになぜ刈り込みを受けるの? とても惨めな気持ちになって、神の前で祈りました。神の旨を理解できるように導いてくださいと。

ある日デボーションの時に、御言葉のこの一節を読みました。「人が真理を追い求めているか否かを、どのように判断すべきですか。まず最初に注意するべきことは、その人が本分を尽くしたり行動したりしながら何を見せ、表わしているかです。そこから人の性質がわかります。性質から、その人が何らかの変化を遂げたかどうか、いのちの入りを得たかどうかがわかります。行動する時に堕落した性質しか見せず、真理の現実が少しもないなら、その人が真理を追求している人でないことは間違いありません。真理を追求していない人にいのちの入りはありますか。いいえ、まったくありません。彼らが日々行なうこと、駆け回り、費やし、苦しむこと、支払う代価など、それが何であれ、それはどれも奉仕であり、彼らは効力者です。神を信じるようになって何年になるかに関係なく、何よりも大事なのは真理を愛しているか否かです。ある人が何を愛して追い求めているかは、何をするのが一番好きかでわかります。行なうことの大半が真理の原則と神の要求に合致していれば、それは真理を愛して追い求めている人です。真理を実践することができ、日々行なうことが本分を尽くすことなら、その人にはいのちの入りがあり、真理の現実を有しています。ある事柄に関して行動が不適切であったり、真理の原則の把握が不正確であったり、偏見を抱いていたり、時として傲慢で独善的になり、自分の見方にこだわって真理を受け入れられないことがあったりしても、後になって悔い改め、真理を実践することができるなら、それは疑いの余地なく、その人はいのちに入っており、真理を追い求めていることの証拠です。本分を尽くす過程で、ある人が堕落した性質や口いっぱいの嘘、尊大な態度、自分勝手さ、すさまじい傲慢さしか見せず、自分の思うままに行動し、好きなことを何でも行ない、神を何年信じていようと、説教をいくつ聞いていようと、そうした堕落した性質が最後まで少しも変わらないなら、これが真理を追い求めている人でないことは間違いありません。長年神を信じ、表向きは悪人でなく、多少の善行を行なう人が大勢います。そのような人は極めて熱心に神を信じていますが、いのちの性質は何ら変わらず、分かち合うべき経験や証しを少しももっていません。このような人は哀れではありませんか。何年ものあいだ神を信仰しながら、経験や証しがほんの少しもないのです。これは純然たる効力者です。彼らは実に哀れです!(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を実践しなければいのちに入れない」〔『言葉』第3巻〕)。神の御言葉は、真理を求めない人はいのちの入りをもたず、日々堕落した性質しか見せていないことを明らかにしました。努力し、苦労し、代償を払っても、彼らはしょせん奉仕しているにすぎない。このような人々は何年神を信じたところで変わらない、効力者なのです。真理を求めない者は効力者だという言葉を読んで、とても悲しくなり、涙が止まりませんでした。自分は神によって暴かれる類の人間なのだと思いました。本分で苦しみ、代償を払いましたが、真理を求めず、自分の性質を変えるこに力を注がず、デボーションも、御言葉を読むことも、神に近づくことも、時間の無駄だと感じ、兄弟姉妹と一緒に集会をしていても、心を静めて神の言葉について深く考えるどころか、他の人の経験や御言葉の理解の話を聞こうとすらしなかった。本分でごう慢さが現れた時、神の前に行き、真理を求めて解決しようとせず、パートナーの行動に目を光らせ、粗さがしばかりして、自分のことを全く理解していなかった。指導者に問題を指摘された時は、弁解し、自分を守った。本分で成果を上げているのだから、堕落した性質を見せていても、取り扱いを受けるべきじゃないとさえ思った。自分の行動を振り返ると、真理を求めようという気持ちが全くなく、周囲の出来事から教訓を学んだり、堕落した性質を解決するために真理を求めようともしなかった。ただ毎日堕落した性質を表していただけ。本分で成果を上げていても、神の目には、努力を浪費する効力者だったのです。以前の私は、本分で最も多く代償を払い、一番成果を出した人が真理を求める人で、神に認められると思っていた。それが都合のいい考えにすぎないと分かっていなかったのです。神にとって、真理を求めているかどうかは、表面的な努力や代償ではなく、いのちの性質を変化させたか、御言葉に沿って生き、真理の原則に沿って行動しているかで決まります。堕落した性質が解決されないまま、私がごう慢な性質で人に接しつづけ、名声と地位のためだけに本分を尽くしていたら、神は絶対に私の行動を認めてくれない。そのことに気づき、御言葉の中で、ごう慢な性質を解決し、人と仲良くし、名声と地位から逃れる方法が書かれた部分を飲み食いしました。御言葉を通して、自分の性質がごう慢すぎたと初めて分かった。自分の長所とパートナーの短所を比べることで、優越感を感じ、彼女を見下していました。働きの進捗状況を伝えたくなかったことも、指導者の前で彼女の欠点を進んで話したことも、名声と地位のために彼女をライバル視していたからです。それに気づいた後、パートナーに自分の堕落のことを打ち明け、だんだんと、仲良く仕事ができるようになり、働きもスムーズに進むようになりました。働きが順調なのは、神の導きのおかげだということにも気づきました。自分の手柄だと考えて、野心や欲望を満たすのではなく、栄誉は神に捧げるべきなのです。この経験の後、心から神に感謝しました。指導者の取り扱いがなければ、自分を振り返ることもなく、名声や地位のためにだけ働き、いのちの入りを重視しないことが、深刻な影響を招くなんて考えもしませんでした。あのままでは、ごう慢になる一方でした。これに気づいて、いのちの入りを真剣にとらえるようになりました。本分で自分が示したことや考えたことを毎日書きとめ、関連する御言葉を読みました。こんなふうに実践していると、神に近づいたような気がしてきました。本分で毎日収穫があり、心からやりがいを感じました。

その後、私は指導者に選ばれました。自分には欠点が多く、真理の理解も足りないし、真理の現実にも乏しい、だから問題を解決するための交わりができなくて、皆のいのちの入りを遅らせるのではと不安だった。自分の問題や悩みについて神の前で祈り、真理を求め、堕落した性質を認識し、御言葉から問題を取り扱う原則を見つけようとしました。その間、本分でたくさんの収穫がありました。でもそれから、本分に無責任であるとか、成果を出していないという理由で、働きを遅らせ、仲間やパートナーたちも実践的な働きをしていないという理由で次々と解任されていて、しかも解任の際は、その理由が全員に発表されたと知りました。とても不安になった。私も本分をしっかりと尽くせなかったら、解任されて、その理由を兄弟姉妹に暴かれて、自分がどんな人間かを皆に知られてしまう。恥ずかしいことだわ! そんなことになったら兄弟姉妹に顔向けができなくなる。暴かれたり解任されたりして、恥ずかしい思いをしたくなかった。その時に気づいたの。指導者であるということは、兄弟姉妹の目が常に自分に注がれ、パートナーにいつも監視されているということ。指導者の地位に留まり、皆から支持され、認められるには、本分で成果を出すしかない。成果を出せなければ、暴かれて解任されるのも時間の問題。それからは、より一層本分に力を入れるようになりました。毎日朝起きると、働きについて兄弟姉妹と話をし、進捗を監視し、各分野で問題や齟齬があれば原因を調査し、遅れが出ている部分を特定し、問題を解決する方法を学びました。そのうちに、御言葉を読むこと、神に近づくこと、そしてデボーションや、堕落した性質を振り返ることが後回しになりました。自分が堕落した性質を表していると気づいた時も神の前で祈り、御言葉を読んで反省すべきだと分かっていたけど、御言葉を読んで、反省し、深く考えるのは時間がかかるので、こう考えて自分の心を落ち着かせました。「堕落した性質は深く根付いていて、数日では解決できない。長期的なプロセスなのだから、私の堕落した性質をすぐに解決しなくても本分には影響しないわ。今一番大切なのは、本分で成果を上げること。時間ができたら御言葉を読んで問題を解決しよう。今すぐに堕落した性質を解決する必要はない」と。そして、毎日忙しく働いていたので、指導者や同労者は証を立てる文章を執筆するという神の家の求めにも取り組まなくなりました。重要だと思えなかったんです。働きで成果を出していることは、それ自体が証を立てていることになる。それに、本分で忙しくて文章を書く暇なんてありませんでした。時おり、自分の状態が間違っていると認識することもありました。働きにばかり時間を費やして、真理の追求やいのちの入りをおざなりにすべきじゃない。たくさんの働きをしても、真理を得られず、いのちの入りも進まなければ、後悔することになるのでは? そう思うと、体に力が湧いて、それからしばらくは、通常の霊的実践を行いました。自分の堕落と問題を解決するため、御言葉を飲み食いしました。でもしばらくして、私のパートナーが2人解任されました。実践的な働きをせず、肉の安らぎを求めたという理由でした。私は再び不安に駆られて、働きに全力を注ぐようになりました。本分で齟齬や漏れがあることに気づいた時は、休みなく働き続けました。そうすれば、指導者に働きのことを聞かれても、すぐに答えることができて、実践的な働きをしていると思ってもらえるから。

とても忙しく働いていて、堕落した性質に注意を払うことも、解決することもなかったのでだんだんとごう慢になり、ことが起こっても真理を求めず、すべてを自分の考えで行うようになりました。私が担当していた動画制作の働きで、責任者が作業を怠けて、勝手な行動をとっていたので、原則に則って解任するように指導者から指示を受けた時も、その人には才能と素質があるから、解任すれば動画制作の進捗と成果に影響すると考えて、すぐに解任しませんでした。その結果、制作された動画は何度も修正しなければならなくなり、教会の働きが遅れました。結局は、指導者が直接その責任者を解任しました。自分のごう慢さと勝手な考えが教会の働きに直接影響したのを見て、やっと少し状況を認識しました。どうしてこれほど大事なことを、ごう慢にも自分の考えで進めようとしたのか? 神に祈り、原則を求めようとしなかったのか? そしてこの時の自分の状態について考えました。毎日忙しく働き、まったく神に近づいていなかった。御言葉を読むことにも中途半端にしか取り組まず、堕落が現れても、すぐに真理を求めず解決もしなかったので、問題に対処する時にも、神に祈ろうと考えることもなく、自分の主観的な判断で物事を解決しようとした。

自分が再びこの状態に陥っていることに気づいて、とても苦しみましたが、解決の方法が分かりません。ある日、こんな御言葉を読みました。「何よりも偉大な知恵は、万事において神を仰ぎ、神を頼りにすることです(『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰は世界の悪しき風潮を見通すことから始めなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。そのとおり。神に祈り、神に頼り、自分を知れるよう神の導きを求めることができるのです。ですから、事あるごとに自分の悩みについて神の前で祈り、問題が解決されない理由を常に振り返り、深く考えるようにしました。ある日のデボーションで、この御言葉を読みました。「現在の働きに関しても、人々は『神殿は神よりも偉大である』という言葉に代表されるような物事を依然として行なっています。たとえば、自分の本分を尽くすことを仕事と考えており、神を証しすること、赤い大きな竜と戦うことを、人権保護、民主主義、そして自由のための政治活動だと考えています。また人々は、自分の技能を活用する本分を職務としていますが、神を畏れて悪を避けることを、遵守すべき単なる宗教的教義として扱っています。このような振る舞いは、『神殿は神よりも偉大である』というものと本質的に同じではないですか。二千年前、人々は形ある神殿で自分の個人的な仕事を行なっていたのに対し、現在において、人々は無形の神殿で自分の個人的な仕事を行なっているというだけの違いです。規則を重視する人は、規則を神よりも偉大なものと見なし、地位を好む人は、地位を神よりも偉大なものと見なし、職務を好む人は、職務を神よりも偉大ものと見なしています。そうした人たちが表わしていることのために、わたしは次のように言うのです。『人々は、口では神を最も偉大だと褒め讃えるが、その人たちの目には、あらゆる物事が神よりも偉大なものとして映る』。その理由は、神に付き従う道において、自分自身の才能を示したり、あるいは自分自身の仕事や職務を行なったりする機会を見出すとすぐ、人は神から離れ、自分が愛する職務に没頭してしまうからです。神が彼らに託した物事や、神の旨は、はるか昔に捨て去られたのです(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。この御言葉を読んで、自分があれほど忙しく働いたのは、名声や地位を求めていたからだと分かりました。指導者や同労者たちが実践的な働きをしていないために解任されていくのを見て、自分もそうなることを恐れた。彼らのように失敗したくなかった。彼らは実践的な働きをしていなかったのだから、私はもっと実践的な働きをしよう。そうすれば、解任されないと思った。指導者としての地位を守れるし、兄弟姉妹に暴かれ、分析されて、恥ずかしい思いをすることもない。自分の評判や地位が、真理を求めることと同じくらい大事だった。だから、必死で本分を尽くし、人一倍働いた。私が働きの進捗を監視し、問題を解決し、実践的な働きができる優れた指導者だと分かれば、兄弟姉妹は私を支持して、認めてくれて、教会での居場所が確保できると思った。名声と地位を追い求めるのに必死になりすぎて、神の求めを忘れていたんです。真理といのちの入りを追うことは神の求めなのに、真剣にとらえていなかった。自分が正しいと思うことに固執して、「堕落した性質はとても根深い」「堕落した性質を急いで解決する必要はない」「少しの堕落は本分に影響しない。一番重要なのは成果だ」「本分で忙しすぎて時間がないから、時間ができた時に御言葉を読み、真理を求めよう」こういった言葉を、いのちの入りに力を注がない言い訳にして、評判や地位のために働く理由にした。自分の評判と地位を守るために、本分を尽くすという大義名分の下、自分のために行動した。もっと働いて、もっと成果を出すことしか考えていなかった。この方法を使って自分の地位と利益を守り、野心や欲望を満たそうとした。本当に卑しく、恥知らずでした!

その後、御言葉をいくつか読むことで、私の間違った考えを認識することができました。神は言われます。「聖霊の働きを長年経験しても、パウロ自身の変化はほとんど無きに等しかった。自身の生来の状態に留まり、以前のパウロのままだったのだ。それは単に、長年の働きにおける困難を乗り越えた後、『働く』方法と忍耐を学んだに過ぎず、彼の以前の本性、つまり非常に負けず嫌いで貪欲な本性は、相変わらずそのままだった。そうして長年働いた後、パウロは自分の堕落した性質を自覚しておらず、以前の古い性質を捨ててもいなかったので、それらの古い性質が彼の働きにおいて明らかに見て取れた。彼はより多くの働きを経験したに過ぎず、それでもその経験量は少なすぎ、彼自身を変えることも、自身の追求の存在価値や意義に対する考え方を変えることもできなかった。……人が救われるか否かは、働きの量や献身の度合いによるのではなく、聖霊の働きを知っているかどうか、真理を実践できるかどうか、そして追求に対する考え方が真理と一致しているかどうかで決まるのである(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。「仮にあなたが多くの働きを行い、人々がその教えから学んでも、あなた自身は変わらず、そのうえ何の証しも真の経験も持たず、死の直前になっても自分のしたことに何の証しもないままだとしたら、あなたは変化した人だと言えるだろうか。真理を追い求める人だと言えるだろうか。当時、聖霊があなたを用いたとき、それは単に働きに使える部分を用いたのであって、そうでない部分は用いなかった。あなたが変わることを追い求めるのであれば、用いられる過程で徐々に完全にされるはずである。それでも聖霊は、あなたが最終的に神のものとされるかどうかに責任を負うことはなく、それはあなたがどう追い求めるか次第である。自分個人の性質に変化がなければ、それは追求に対するあなたの観点が間違っているからである。また何の見返りも与えられないのであれば、それはあなたの問題であり、あなたが自ら真理を実践せず、神の願いを満たせないことが原因である。要するに、自分自身の経験以上に重要なことはなく、自分自身の入りこそが最も肝心なのだ。中には結局こう言う人もいるだろう。『わたしはあなたのために大いに働きました。立派な功績を残したわけではありませんが、真面目に努力してきました。だからどうか、わたしを天国に入れていのちの果実を食べさせてはいただけませんか』。わたしがどのような人間を望んでいるか、あなたは知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたは多くの働きを長年にわたって行ってきたかもしれないが、最後のときになっても甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることを望んだところで、天の法がそれを許さない。創世から今日まで、人がいかに取り入ろうとも、その人がわたしの国に入るにあたり、わたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを求めねばならない。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、それは自分の性質の変化を求める人であり、喜んで神の証しをし、神の被造物として本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが完全にされるのだ。見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えようとしないのであれば、あなたの努力はどれも徒労に終わる。これは不変の真理である(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは、ペテロとパウロの実質の違いから、いのちを追い求めない人の努力はすべて徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心の中で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質を捨て去り、神の願いを満たすことを求め、神の被造物の本分を尽くさなければならない。神を信じて付き従う以上、あらゆるものを神に捧げ、個人的な選択や要求はせず、神の願いを満たすことを成し遂げるべきである。あなたは被造物なのだから、自分を創った主に従うべきである。なぜなら、あなたは自分を支配することが本来できず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのだ。また被造物である以上、本分を守り、自分の立場を守らねばならず、自身の本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって押さえつけたりしているのではなく、むしろあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人であれば必ず到達できる、あるいは到達しなければならない道である(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んで、信仰で追い求めるべきものが間違っていたとやっと気づけました。神に認められるかどうかは、どれほどの働きを行ったかや教会でどれほど高い地位にいるかではなく、真理を追い求め、いのちの性質を変えることができたか、によって決まります。評判や地位のためだけに働きをすれば、しばらくの間は地位を守れても、真のいのちの経験の証を立てられず、やがて神の家での居場所を失い、遅かれ早かれ淘汰されます。例えばパウロは、何年も旅し、自分を費やし、福音を広め、多くの人を獲得しましたが、その働きはすべて、名声や地位、褒美や栄冠を得るためのものでした。真理を追い求めず、堕落した性質は変わることはなく、自分の苦しみや投獄の経験を語っては自分を高め、少しの啓きを得れば、それをひけらかすため諸教会に手紙を書き、競争心が強く、他の使徒に従おうとしなかった。自分は他の使徒より上だと証をし、ごう慢で理知を失っていた。パウロは決して自分のいのちの性質を変えようとせず、神に抵抗する自分の本性を全く認識していなかったのです。そして自分の働きを、神と取引するための資本と考えた。どんどんごう慢になり、キリストとして生きたという証さえ立てるようになり、神に抵抗する反キリストをの道を歩んでいきました。そして結局、神の性質に背いたパウロは、永遠に懲罰を受けるため地獄に送られました。常に名声と地位を求め、いのちの性質を変えることに力を注がなかった私は、パウロと同じ道を歩いていたのでは? パートナーが次々と解任されていったのを見て、私も同じ目に遭うと恐れ、評判と地位を守るため、ますます働きにのめり込んだ。働きで少し成果が出ると、自分はよくやったと思い、私の性質はどんどんごう慢になっていき、真理や原則を追わずに本分を尽くした。指導者から、原則に則って責任者を解任するよう言われた時も、まだ彼は貢献できると思ったから、解任したくなかった。その結果、ふさわしくない人物が責任者の地位に留まったので、動画は何度も修正されて、働きに遅れが出て、教会の働きを損ねることになった。自分のごう慢さと、自分の意思を通そうとする頑固さは名声と地位を求め、いのちの入りを重視していないことと直接関係していることが分かりました。名声や地位を求めるほどに、心に神の居場所がなくなって、物事が起こっても真理を求めず、自分だけに頼った。以前は、もっと実践的な働きをすれば、解任されないと思っていたけど、今はわかりました。働きや、自分の評判を地位を守ることばかりに力を注ぎ、堕落した性質を解決しなければ、どんどんごう慢になり、神に抵抗し、やがてはパウロのように神に暴かれ淘汰されると。神は全員を公平に、正しく扱います。神の国に入れるのは、真理を求め、実践し、いのちの性質を変える人だけ。神を何年も信じていても、いのちの性質が全く変わらず、神の知識を少しも得られず、いのちの経験の証を全く立てられず、神への奉仕しかできない者は、神の国に入れません。これは神の義によって決まっています。評判や地位を守るため働きだけに力を注いでいた時、真理を求めない理由や言い訳をいつもさがしていました。「堕落した性質は根深く、すぐには解決できない」とか「これくらいの堕落は本分に影響しない。成果を出すことが一番大事」とか、こういった言い訳は真理と一致していません。堕落した性質は根深く、一度に変えられない。でも少しずつ掘り出して、御言葉を当てはめて分析し、御言葉の中に実践の道を見つける必要がある。その経験を経て初めて、真理を得て堕落を解決できる。堕落した性質が解決されなければ、教会の働きを乱すような行動をとってしまう可能性がある。それが本分に影響しないわけがありません。私はごう慢で、自分の考えに従って本分を尽くそうとしたので、真の働きをしない責任者をすぐに解任せずに、働きを大きく損ねてしまった。そして、いつも本分を言い訳にして、御言葉を読むことも、神の前で自分を顧みることもしなかった。でもこの言い訳には全く正当性がなかった。本分を尽くすことは、神の働きを経験する最善の方法です。いのちの入りは、本分を尽くすことから始まります。本分を尽くす際に見せた状態や、生まれた考えや観点を、神の前で振り返り、真理を求め、教訓を学ぶことができます、私は働きにばかり力を注ぎ、名声や地位を追い、いのちの入りを求めなかった。本当に盲目で無知でした! だから神の前で誓いました。名声や地位のために働くことはやめ、真理をいのちの入りを追い求めますと。

その後、御言葉の一節を読んで、実践の道を見つけました。「あなたがたの神への信仰について言えば、自身の本分をしっかり尽くすことに加えて鍵となるのは、真理を理解し、真理の現実に入り、さらに努力していのちへ入ることです。何が起ころうとも、学ぶべき教訓があるので、軽々しく見過ごしてはいけません。それについて互いに交わるべきであり、そうすれば聖霊の啓きと照らしを受け、真理を理解できるようになります。交わりを通じて実践の道を得て、神の働きをどのように経験すべきかがわかり、知らない間に問題のいくつかが解決され、はっきりわからない物事がどんどん減り、さらに多くの真理を理解するようになります。このようにして、自分でも気づかないうちに霊的背丈が成長するのです。率先して真理に努力を傾け、真理に心を注がなければなりません。……いつも教義の空虚な言葉を語ったり、決まり文句をおうむ返しに繰り返したり、仰々しいことを言ったりし、規則に従うばかりで、真理の実践を重視しない人は、何年間信仰しようと何一つ得られません。何かを得るのはどのような人ですか。それは誠実に本分を尽くし、進んで真理を実践する人、神から託されたことを自分の使命と捉える人、神のために費やすことに喜んで一生を捧げ、自分のために企みを行なわない人、地にしっかり足をつけ、神の指揮に従う人です。このような人は、本分を尽くし、あらゆることを正しく行なおうと懸命に努力するうちに、真理の原則を把握でき、神への証しという成果を上げ、神の旨を満たすことができます。本分を尽くしている過程で困難に見舞われると、神に祈って神の旨を推し量ろうと努め、神から来る指揮と采配に従うことができ、何を行なうにしても真理を求めて実践します。決まり文句をわけもわからぬまま繰り返したり、仰々しいことを言ったりせず、地にしっかり足をつけて物事を行ない、原則にていねいに従うことに専念します。何をするにも懸命に努力し、あらゆることを理解しようと必死に努め、多くの事柄において真理を実践することができ、その後は認識と理解を得て、教訓を学び、真に何かを得ることができます。また、間違った考えを抱いたときは神に祈り、真理を求めてそのような考えを解消します。理解している真理が何であれ、心の中でそれを深く把握し、自分の経験と証しを語ることができます。このような人は最終的には真理を獲得します(『終わりの日のキリスト講話集』「神への信仰で何より重要なのは、神の言葉を実践し、経験することである」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉の中に、真理を求めるための実践の道がありました。問題があれば、神の前で祈り、振り返り、真理を求め、自分を知る必要があります。何事も誠実に取り扱い、そこから教訓を学ぶべきです。その時、神の家では指導者や同労者に執筆の練習を求めました。素質を高めて真理を備えられるように。執筆の練習をしなければ、神に用いられるのにふさわしくない、と。たとえ地位があっても、いずれ淘汰されます。私は神の旨にをさらに深く理解しました。神の家は指導者や同労者に真理を追い、いのちの入りを持つよう求める。真理を求めない人は、遅かれ早かれ淘汰されることになるのです。それまで働きに没頭し、いのちの入りに力を注いていなかったので、合格をもらえるような証言は、何年も書いていませんでした。私は本分で多くの挫折や失敗や過ちを経験し、堕落した性質を見せ、刈り込みや取り扱いを受けました。真理を求め、いのちの入りに集中したければ、文章を書くことから始める必要がありました。そこでまず、最も記憶に残っている刈り込みと取り扱いを選び出し、刈り込みと取り扱いを受けた理由を振り返りました。食事中や洗濯をしている時、そして寝る前に、その出来事をめぐる当時の状況や、自分が見せた堕落した性質、飲み食いした神の御言葉、御言葉で見つけた実践の道、そして誤った考えや観点について考えました。考えるほどに、自分の経験がはっきりわかるようになり、刈り取りと取り扱いから学ぶべき教訓が明らかになりました。そして御言葉から、自分の堕落した性質について、より深い理解を得ることができました。こうも思いました。文章を書くことで、神の前で心を静め、自分の状態についてよく考え、御言葉をかみ砕き、反省し、自分を知ることができる。このすべてが、いのちの入りを大きく助けることになりました。以前の私はとても無知で、いのちの入りを求めることや、文章執筆は時間の無駄で、本分の成果に影響すると思っていましたが、そうでないことがわかりました。むしろ自分の状態についてよく考え、御言葉を使って自分を振り返る機会が増えることは、問題をより明確に理解する助けになります。以前は、常に評判や地位のために働き、評判や地位を失うことを恐れ、もし失敗をすれば、指導者に悪い印象をもたれてしまうと不安でした。本分に齟齬や失敗があって、指導者に問題を指摘されたり、刈り込みや取り扱いを受けた時は、刈り込みや取り扱いは私を助けるためだとわかっていても、その後はいつも気落ちして、疑心暗鬼になった。素質がなく、働きを行う能力もなく、何の役にも立たないと思われるのでは? 指導者があまりにも多くの問題を見つけたら、私の本分はそこで終わりなのでは? 常に重荷を背負っているような気がしていました。いのちの入りに集中し、毎日自分の環境から教訓を得るようになると、指導者が私の本分に問題を見つけて、交わりをしてくれた時も、以前ほど気持ちが沈まなくなった。指導者にどう思われるか、心配することも減りました。間違いを犯したことを後悔し、齟齬が生じた理由や、過ちの原因となった堕落した性質や誤謬について振り返り、認識に達すると、御言葉に答えを求め、状況を変えることができました。この実践により、本分が以前ほど辛いものではなくなったんです。

いのちの入りに力を注ぐことの素晴らしさもわかったので、神の前で祈り、御言葉を基により一層自分を振り返り、真理を求めると伝えました。本分が忙しくなり、朝や食事の時、寝る前に御言葉を読む時間が取れない時は、自分の最近の状態や、自分が表した堕落した性質、反省のために読むべき御言葉について考え、それがわかったら、時間ができた時にその部分を読むようにしています。以前に比べて、堕落した性質がすぐに解決されなくても大したことはなく、時間ができるまで待とうとも思わなくなりました。そうしてしばらく経ちますが、自分が表す考えに以前より敏感になりました。いまだに時々、本分で齟齬が見られることもありますが、御言葉の中に実践の道を見つけることができます。信仰において真理を求めることの大切さをますます実感しています。私たちは地に足をつけて神の御言葉を経験し、すべてを理解しようと頑張るべきです。常にベストを尽くし、いのちの入りの重荷を背負い、真理を求めることで、神の導きを受けられます。そして自分の周りの出来事すべてから、真理を理解し教訓を得ることができるのです。

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