心の結び目をほどく

2022年4月12日

中国 春雨

去年の春、教会で伝道の本分を尽くしていたとき、ワン姉妹が福音執事に選ばれ、本分についてみんなで連絡を取り合うことになったの。しばらくして、彼女はずけずけものを言う人だとわかった。わたしに問題があると、厳しめの口調で直接言うの。働きの反省会をするときも、兄弟姉妹の目の前で問題点をずばり指摘することがあったわ。本当に気まずい思いをした。最初はぐっとこらえて叱責を受け入れ、これが彼女の本分なんだからと我慢した。でもそれが続くと耐えられなくなり、「わたしも本分を頑張ってる。どうしてミスしか見られないの」と思った。会議のとき、福音対象者のことを訊かれて、わたしはこう答えた。「何度か交わりをしたけれど、観念が多くて受け入れてくれず、行くのをやめました」。するとワン姉妹はみんなの前でこう非難したの。「自分の想像で決めつけてんるじゃない? 働きに力を入れず、福音を受け入れないなんてどうしてわかるの? その人が伝道の原則に符合する限り、すぐに行って証しを伝えなきゃだめ。軽率で無責任。それでどうして本分を尽くせるの?」彼女のしかめ面と厳しい口調に心底うんざりしたし、みんなにじっと見られ、本当に恥ずかしかった。確かに自分は間違ってるけど、みんなの前で批判する必要が本当にあるの? この人は無責任で重荷を背負ってないと、みんなに思われない? それまでわたしは評価されてたけど、たった一人を逃したせいで、彼女はわたしの面子を潰そうとしている。その後は兄弟姉妹の顔をまともに見られなかった。面目を守ろうといくつか弁解したけれど、ワン姉妹は容赦なかった。「あなたの欠点を指摘しなきゃ。あなたは問題があるたび言い訳して、手助けや意見を受け入れようとしない。それで本分を尽くせる?」それを聞いてますます動揺したわ。「何よ、偉そうに! みんながどう思うかわからないの? わざとわたしを貶め、顔に泥を塗ってるのよ。無責任に本分を尽くしてると思われるし、言い訳ばかりしてるという評判が立つ。みんなにどう思われる? もう誰にも信頼されず、評価もされないわ」顔が真っ赤になり、怒りと憤りを感じて、ワン姉妹を睨んだ。何も言わなかったけど、彼女への腹立ちと苛立ちでもう一杯。顔を見るのも話を聞くのも嫌だった。

その後はワン姉妹に反抗心を膨らませ、話を聞かず顔も見ようとしなかった。何か相談されても、仏頂面で何も言わない。仕方ないときだけ、しぶしぶいい加減に返事をしたの。本分の問題点を指摘されると腹が立って反感を覚え、無言で反抗した。集会のときも、自分の経験を伝える振りをしながら、ワン姉妹の堕落を暴こうとした。この人は傲慢だと見下されるように。よってたかって批判され、取り扱われればいいと思ったわ。みんなの前で傷つけられ、面子を潰された思いを味わいなさいって。その結果、ワン姉妹に偏見を抱き、本分で問題に遭遇しても、彼女に頼らない人が出てきた。距離を置き始めたの。それを見て不安と罪悪感を覚えた。ずけずけものを言うけど本分には誠実だし、みんなを引き込んで彼女を孤立させるなんて、働きの役に立たない。でも、みんなの前で叱られたのが忘れられず、心の壁を壊せなかった。その後、わたしと疎遠になった王姉妹は交わるのをやめ、話す時もわたしの顔色をうかがった。わたしは本当に気まずくて、良心が痛み、自分はやり過ぎたの、彼女を傷つけたの、と思った。でもみんなの前で面子を潰されたことを思い出すと、怒りが蘇って許す気になれなかった。わたしは闇の中で生きていて、祈っても言うべきことがなく、本分にも熱が入らなくなった。

あるとき指導者からの手紙がチームに届き、ワン姉妹の評価をするよう指示された。公平かつ客観的に評価すべきなのはわかってたけど、いまだ恨みが残っていたから、彼女への不満と偏見を書き連ねた。彼女には愛がない、言動には啓きがなく、人を傷つけている、と。評価を読んだ指導者はきっと彼女を呼び出し、屈辱を味わわせるはず。本分から外すことだってあり得るし、そうなれば彼女と関わらずに済む。けれど評価を書き終わっても不安が残り、良心の咎めを感じた。ワン姉妹が本分で行なったあらゆること、実際の働きをできて誠実かつ実直に本分を尽くしていることが頭から離れない。彼女が福音執事になって以来、教会の伝道はずっと多くの成果を挙げた。でもわたしは、評価にそれを書かなかった。まったく不公平だわ! 考えれば考えるほど気分が悪くなったので、神の御前に出て祈ったの。「神よ、心が闇と苦痛に支配されています。自分が間違っているのはわかっていますが、ワン姉妹に正しく接することができません。どんな教訓を学ぶべきでしょう? 神よ、自分の欠点と堕落がわかるよう、どうか啓いてお導きください。この間違った状態から抜け出せるように」。

祈りのあと、この御言葉を読んだ。「日々の生活の中で、あなたどのような状況において、またどれほど多くの状況おいて、神を畏れていますか。そしてどのような事柄において、神を畏れていませんか。誰かを憎むとき、あなたはその人に厳しくあたったり、復讐したりすることができますか。(できます。)そうであれば、あなたがたは実に恐ろしい! あなたがたは神を畏れていません。そうしたことをできるというのは、あなたがたの性質が深刻なまでに下劣であることを意味します。……誰かが気に入らないとか、馬が合わないという理由で、その人を懲らしめる方法をいろいろと思いつくことができますか? 今までにそのようなことをしたことがありますか? どのくらいそのようなことをしましたか? あなたがたはいつも人を遠回しに見下し、辛辣な言葉を投げかけ、嫌味な態度になっていませんでしたか? (はい。)そのようなことをしたとき、あなたがたはどのような状態にありましたか? そのときは鬱憤を晴らして気分が良くなり、優位に立てたことでしょう。けれども後になって、『わたしはあんな卑劣なことをしてしまった。神を畏れず、あの人をとても不当に扱ってしまったと思ったことでしょう。心の奥で罪の意識を感じましたか? (はい。)それは神を畏れてはいないけれども、少なくとも多少の良心は持ち合わせているということです。では、これからもまだそのようなことを行う可能性がありますか? あなたは誰かを嫌っていて折り合いが悪いときや、その人があなたに従わなかったり言うことを聞かなかったりするときはいつでも、その人を攻撃して仕返しし、辛い目に合わせて上下関係を示そうと思うことがありますか? そして、『わたしが望むようにしないなら、機会を見つけて誰にも知られないように懲らしめてやる。誰にも気づかせはしないが、わたしの前に屈服させてやる。わたしの力を見せつけてやる。そうすれば、あえてわたしに盾突くものは誰もいなくなる!などと言うでしょうか。答えてください、そんなことをする人の人間性とはどういったものでしょうか。(悪意です。)人間性に関して言えば、その人には悪意があります。真理に照らして見れば、その人は神を畏れていないのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「信仰において正しい軌道へ乗るのに必要な五つの状態」)。御言葉を読んで心がとても痛んだ。振り返ると、自分はワン姉妹に偏見を抱いていた。みんなの前で欠点をずばり指摘し、わたしを取り扱ったから。面子を潰され、みんなからの印象が台無しだと思った。それ以来苛立ちと反感を抱き、彼女が何を言っても不満で一杯だった。集会で恨みや偏見を放つこともあった。彼女の強みや弱点を公平に評価するのでなく、自分の恨みを晴らそうとした。偏見や不満を書き連ね、指導者が彼女を解任するか、少なくとも刈り込んで取り扱い、貶めることを願った。わたしの怒りが和らぐように。わたしは彼女を恨み、面子を潰されたと報復に走った。二度とわたしを苦しめないよう、自分の力を見せつけようとした。わたしはもう手がつけられず、邪悪な性質を示してたわ。サタンの性質で生き、言動も自分勝手で、神への畏れなどまるでない。ワン姉妹が本分におけるわたしの欠点や欠陥を暴いたのは、神の家の働きに責任を負ってるから。自己認識できるよう助けてくれたの。でもわたしは反撃して孤立させ、彼女を傷つけ抑え込んだだけでなく、他のみんなが彼女の働きをけなすように仕向けた。そのせいで福音の働きに影響が出た。これは神の家の働きを乱し、邪魔しているのでは? とても卑劣で邪悪!

その後、御言葉のこの一節を読んだので、「人々はこのように考えます。『あなたが親切にしてくれないなら、わたしだって親切にするものか。あなたがわたしに無礼なら、わたしだってあなたに対して無礼になろう。あなたが敬意をもってわたしに接しないなら、どうしてわたしが敬意をもってあなたに接するだろうか』これはどのような考え方ですか。復讐心に満ちた考え方ではないですか。普通の人から見れば、この種の見方は非現実的ではないですか。未信者にとって、『目には目を、歯には歯を』や『我が身で思い知れ』といった考え方はいずれも、人間の観念と完全に一致する正しい原理です。しかし、神を信じる人、真理の理解と性質の変化を求める人であるあなたは、このような言葉は正しいと言いますか、それとも間違いだと言いますか。それらを識別するには何をすべきですか。このようなものはどこから生じますか。それらは悪意に満ちたサタンの本性から生じます。それらは害毒を含み、悪意と醜悪さに満ちたサタンの真の顔、そしてその本性のまさに本質を含んでいるのです。そうした本性の本質を含む見方、思考、表現、話し方、さらには行為の本質は、いったいどのようなものですか。それらはサタンの性格ではありませんか。そうしたサタンの側面は、人間性と合致していますか。真理、あるいは真理の現実と合致していますか。それらは神に付き従う者がとるべき行動、もつべき考えと見方ですか。(違います。)」(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の堕落を解決することでのみ、否定的な状態から自由になれる」)「今日のあなたがたに対する要求――協調してともに働くこと―は、ヤーウェがイスラエル人に求めた奉仕に似ている。それをしないなら、奉仕などやめることである。……あなたがたは一人ひとりが神に仕える者として、自分自身の利益のみを考えるのではなく、そのあらゆる行いにおいて教会の利益を守ることができなければならない。互いを暗に批判しながら、一人だけで行動するということは認められない。そのように行動する人々は、神に仕える者としてふさわしくない! そのような人々はひどい性質を持っており、彼らの中にはわずかな人間性も残っていない。彼らは完全にサタンである! 彼らは獣である! 現在でさえ、いまだにこのようなことがあなたがたの間で起こっている。しまいにあなたがたは、交わりの最中に互いを攻撃し合い、わざと口実を探しては顔を真っ赤にしてつまらないことで言い争い、どちらも自分が引き下がろうとはせず、それぞれが心の内を隠しつつ、一心に相手を警戒して常に身構えている。そのような性質が、神への奉仕にふさわしいと言えるだろうか(『神の出現と働き』「イスラエルの民のように神に仕える」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉の暴きと裁きのおかげで、自分の報復の理由がわかったわ。それは教育や社会的影響を通じ、サタンがありとあらゆる俗世の哲学を吹き込んだから。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「目には目を、歯には歯を」、「相手が攻撃しなければ、こちらも攻撃しない。相手が攻撃すれば、必ず反撃する」、「我、人に背けども、人、我に背かせじ」。これらを肯定的に見て、それで生きていたの。何事も自分が中心で、みんながわたしに気を遣い、わたしの気に入る言動をするよう望んだ。みんなが正直に、正確な意見をするのを望まず、堕落を暴かれるのが特に嫌だった。利益が損なわれたとたん、その人と敵対し、卑劣な動機で報復した。わたしはサタンの性質に操られ、傲慢で利己的で邪悪になり、人間らしさを失った。これは神に憎まれ、他の人に嫌われること。兄弟姉妹が協調することを、神は求められてる。だから言動の中で神を畏れる心を持ち、御言葉をあらゆる振る舞いの基準にして、神の家の利益を第一に考え、自分の損得は考えちゃだめ。心と思いを一つにして本分を尽くすにはそれしかない。でもわたしはサタンの毒で生き、いつも自分の評判を守ろうとした。いい加減に本分を尽くしているのを知りながら、誰かに言われるのが許せなかった。ワン姉妹の手助けと指摘を屈辱と感じ、反省するのを拒んだだけでなく、彼女に腹を立てて報復した。自分に人間性も理知もないことがわかったわ。それに、真理を嫌って憎む自分のサタン的本性も。実は真理の敵、神の敵なの! なおも悔い改めなければ神の性質に背き、神に憎まれ淘汰されるでしょう。それに気づいて自分が心底嫌になった。そして神に祈って悔い改め、ワン姉妹への偏見を捨てて刈り込みと取り扱いを受け入れ、力を合わせて一緒に本分を尽くそうと思った。

その後、協調して働くことに関する真理を求め、それに入る中で、御言葉の朗読動画を見ました。全能神は言われます。「愛や憎しみは正常な人間が持つべきものですが、愛するものと憎むものの区別は明確にしなければなりません。あなたは心の中で神を愛し、真理を愛し、肯定的なものを愛し、兄弟姉妹を愛すべきであり、一方で悪魔サタンを憎み、否定的なことを憎み、反キリストを憎み、邪悪な人々を憎まなければなりません。兄弟姉妹に対して憎しみを抱けば、彼らを抑圧し恨みを晴らそうとしたくなるでしょうが、それはとても恐ろしいことです。中には憎しみに満ちた考えや発想、つまり邪悪な考えばかり抱いているものの、決して悪事を犯さない人がいます。誰かと仲良くできれば仲良くし、できなければその人と距離を置きますが、そのことが自分の本分や正常な人間関係に影響することはありません。心に神を抱き、神を畏れているからです。彼らは神を怒らせることはしたがらないし、そうなることを恐れています。そういう人たちは誰かについて一定の考えを抱くこともありますが、神に背きたくはないので、それを実行することは一切なく、不適切な一言を発することすらありません。これはどういう振る舞いでしょうか。それは、原則と公平性をもって振る舞い物事に対処するというやり方の例だといえます。もし誰かと性格が合わず、その人をあまり好きでなかったとしても、その人と一緒に働くときは公平な態度を取るでしょうし、本分を果たす中で自分の鬱憤を晴らしたり、本分をおろそかにしたり、不満をぶつけて神の家の利益を害したりはしないでしょう。あなたは原則に従って物事を行うことができますし、そのため基本的な神への畏敬を持っていることになります。もう少し上級者なら、誰かに落度や欠点がいくつかあって、場合によってはその人に気分を害されたり自分の利益を損なわれたりしても、なおその人を助けるだけの能力があります。それは、あなたの中に愛があること、あなたが人間性、真理の現実、そして神への畏敬を有していることを意味します。あなたの現在の背丈でこれを成し遂げることができなくても、原則に沿って物事を行ない、自分を律し、人に接することができるなら、それも神を畏れるうちに入ります。これは最も基本的なことです(『終わりの日のキリスト講話集』の「信仰において正しい軌道へ乗るのに必要な五つの状態」)。愛と憎しみを区別し、原則に沿ってみんなと接するよう、神は求められてる。相手が悪人や反キリストなら、容赦なく暴いて拒む必要がある。真理を愛する人なら、多少の傲慢さや欠点があっても、態度を正して寛容と愛で接するべき。ワン姉妹のことを考えると、本当にずけずけものを言って、そのときは我慢できなかったけど、あとで思うと彼女は正しかった。自分の気づかない欠点を指摘され、プライドが傷つき、つらい思いをしたけれど、神はそんな状況を使ってわたしの虚栄心を正し、ワン姉妹の取り扱いと監視を通じて、本分に身を入れるよう駆り立てた。おかげで本分での欠点をすぐに正せたし、実は恵みだったの! みんなの指摘や助けがなければ、いのちの入りや本分で進歩するのは無理。王姉妹はわたしを怒らせるのを恐れず、欠点をずばり指摘した。それは正義感で、わたしへの愛と支えがあったの。それに責任感を持って本分を尽くし、実際の働きをしてる。その彼女に報復したわたしは、人間ですらない!

その後、別の朗読動画を視聴しました。全能神は言われます。「他者の欠点にばかり目を向けるのでなく、頻繁に自分自身を反省し、その後は積極的に、他者を邪魔したり傷つけたりした自分の行為を別の人に認めなさい。心を開いて交わることを学び、神の言葉を基に実践的な交わりをするにはどうすればよいかを、何度も一緒に話し合いなさい。あなたの生活環境がいつもこのようであれば、兄弟姉妹のあいだの関係は正常になります。未信者同士の関係のように、複雑でも、無関心でも、冷酷でも、残忍でもありません。あなたは徐々に、こうした関係から脱していきます。兄弟姉妹はますます近く親密になり、互いに支え合い、愛し合うことができるようになります。心には善意があり、あるいは互いに寛容になって思いやれる心構えがあります。互いに争い、相手を踏みにじり、嫉妬し合い、密かな競争に手を染め、こっそり侮り合い、軽蔑し合い、誰も相手に従わないという状態や態度の中にいるのでなく、互いに支えて気遣うのです。……ゆえに、兄弟姉妹と仲良く付き合う方法をまずは学ばなくてはなりません。互いに寛容になり、相手を許容し、互いの並外れた点、互いの長所を見られるようになりなさい。そして、他者の意見を受け入れる術、自分の奥底に潜り込んで自己反省を行ない、自己認識を得る術を学びなさい(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理現実に入ることを実践する上で、最も基本的な原則」)。御言葉からわかった。誰かに批判や指導を受けたときは、口調や態度に関係なく、自分の考えに合っていようといまいと、自我を捨てて受け入れるべき。そのときは意味がわからなくても、報復してはいけないし、神の御前で祈り、求めなければ。自分に降りかかることはどれも、神のお許しを得ている。いのちの入りと学習に必要なこと。だからまずは従い、反省して、同時に関連する御言葉を探して問題を解決する。みんなとの付き合いでは、長所をもっと考慮し、矛盾があればまず反省して、真理を求めなければ。進んで自分の欠点を認めて堕落を打ち明け、みんなに心を見てもらう。これが仲良く協力することの前提で、入るべき原則でもある。

その後ワン姉妹と会って、自分が示した堕落と、それをどう解決したかを打ち明けた。すると心が軽くなり、二人のあいだの壁も消えたの。その後は一緒に働くとき、ずばりと言われてプライドが傷つき、反感を覚えることもあったけど、急いで神に祈り、自分を捨てた。神のお許しがあるんだから、問題を調べて意見を聞かなきゃ。これを実践すると彼女への偏見が消え、付き合いも楽に感じた。一緒に本分を尽くし、福音の働きも徐々に改善したの。この経験でわかったけど、御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、御言葉を基に行動しなければ、堕落を解消して普通の人間らしく生きるのは無理。全能神の救いに感謝します!

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