困難を経て、神への愛が強まる
私は周瑞という名前で、全能神教会のクリスチャンです。物心ついた時から、両親が生活のために朝から晩まで畑で一生懸命働くのを見ていました。両親が大変な努力をしても、毎年のように稼ぎがほとんどなかったため、私たち一家の暮らしは常に困窮していました。権力や影響力のある人たちが一生懸命働かずに非常に安楽に暮らしているのを見ると、いつもうらやましく思ったため、「大きくなったら絶対に仕事で成功するか官僚になって、家族が貧乏で時代遅れなことを挽回し、両親も金持ちの生活ができるようにしよう」と堅く決心しました。しかし、この理想のために何年苦労しても、望みどおりに行くことはなく、貧しい暮らしを続けました。どれほど忙しくしても何の成果もないのではないかと不安でため息をつくことが多く、次第に人生への信念を失いました。ちょうど落胆して絶望し始めたその頃に、終わりの日の全能神の救いが私のもとに到来したのです。神の御言葉から、私は真理をある程度把握し、世の人の苦しみの根本原因を知りました。また、人が最も意義と価値のある人生を送るにはいかに生きるべきかを理解しました。混乱して無力でしたが、その時から人生の方向性を見出だしました。憂鬱と落胆を忘れ、新たな生命力がみなぎり、人生を再開する機会を得たように感じ、生きる希望が見えました。その後、いまだに苦しみと無力に生きている人々がこの非常に貴重な救いを得ることができるように、私はあちこちで終わりの日の神の救いを精力的に説いて回るようになりました。ところが、予期していなかったことに、福音を広めている最中に中国政府に二度捕らえられ、残忍で非人道的な拷問に苦しんだのです。この暗い悪魔のねぐらで、全能神は私のそばを決してお離れになりませんでした。神の御言葉は私に信仰と強さを与え、サタンの闇の勢力に対する勝利へと何度も導き、私の神への愛を強めてくれました。
2003年6月のある日のことでした。私と二人の兄弟はある村に福音を広めに行ったところ、悪人に密告されました。三台のパトカーに乗った警官が五、六人私たちのもとに走り寄り、何の質問もせずに手錠をかけ、私たちを押して蹴りながら車に押し込み、公安局に連行しました。車の中で私はあまり恐怖を感じませんでした。福音を広める目的は人々を救うことなのだから、何も悪いことをしておらず、公安局に着いて状況を説明すれば警察は釈放してくれるだろうと思いこんでいました。まさか中国政府の警官がどんな悪党や悪しき暴君よりも残忍で粗暴だとは知る由もありませんでした。公安局に着くと、警察は私たちに説明の機会も与えず、一人ずつ引き離して個別に質問しました。私が尋問室に入るとすぐに、警官から「共産党の方針は『自白する者には甘く、抵抗する者には厳しく』だ。知っているか」と怒鳴りつけられました。その後、その警官は私の個人情報を尋ねました。私の返事に不満そうな様子を見た別の警官が私の隣に歩いて来て、うなりました。
「ふん、聞き分けの悪い奴だ。思い知らせてやらないとな。それで本当のことを言うか試してやる」
そして手で合図をし、「レンガを何個か持って来い。それで奴をこらしめてやるんだ」と言いました。その警官が話し終わるともう二人の警官がすぐに近づいて来て、私の片手を取って、肩の上から背中に沿って下に引っ張りながら、もう片方の手をねじり上げ、両腕を強引に手錠でつなげました。直ちに腕が折れそうな耐えがたい痛みを感じました。私のような弱い者がどうしてそのような苦しみに耐えられるでしょうか。しばらくして私は地面に倒れました。これを見て、悪しき警察は手錠をいきなり持ち上げ、私の両手と背中の間にレンガを挟み込んだのです。何千匹ものアリに骨を噛まれているかのような激痛が突然私の胸を貫きました。苦悶に満ちた中、私は余力を出し切って「全能神、助けてください、全能神、助けてください」と願いました。その頃の私は、三ヶ月ほど前に終わりの日の神の救いを受け入れたばかりで、まだ御言葉があまり身についておらず、真理の理解も浅かったのですが、それでも神に懇願し続けるうちに、神は私に信仰と強さを与え、私の中に「神の証しを立てないと。絶対にサタンに屈してはいけない」という確固たる信念を植え付けてくださいました。それからは私は歯を食いしばり、断じて一言も話そうとしませんでした。焦って腹を立てた悪しき警官たちは私を威圧しようと別の残忍な策をしかけました。床に二つのレンガを置き、私をその上にひざまずかせながら、私の手錠を強く引っ張ったのです。私の両腕はあまりに耐えがたい急な痛みに襲われ、折れたかのように感じました。二、三分間ひざまずいては床に倒れて動けなくなり、そのたびに警官たちに乱暴に手錠で持ち上げられ、ひざまずき続けるように強いられました。このような拷問が何度も繰り返されたのです。そのときは盛夏だったので、苦悶に暑さが重なり、玉の汗が顔から絶えず滴り落ちていました。持ちこたえるのがあまりにも困難で、息がしづらく、気を失いそうになりました。それでもこの悪しき警官連中は私の不幸を喜ぶだけでした。「大丈夫か」とその一人が言いました。「いつまでも話さないつもりなら、こっちは他にも色んな手があるからな」私が返答しないため、警官は「まだ足りないのか。次行くぞ」と息巻きました。こうした責苦を二、三時間受けた末、私は全身が痛み、力は全く残っていませんでした。床に倒れて動けなくなり、大小便を失禁しました。悪しき警官たちの野蛮な拷問に遭って、私はそれまで実に盲目で無知だった自分を本当に恨みました。単純にも公安局が道理の通用する場所で、警官たちが正義を守って、自分を釈放してくれると思いこんでいたのです。まさか彼らがこれほど悪意に満ちて残忍で、少しの証拠もなしに拷問で自白を強要し、私を半殺しの目に遭わせるとは思いませんでした。彼らは本物の極悪人です。私は体がバラバラに崩れ落ちたかのように床に横たわり、動きたくても動けませんでした。彼らがさらにどのように拷問してくるつもりなのかも、自分がどれだけ長く持ちこえられるかもわかりませんでした。苦しく無力な中、私ができることは、耐え続けられるように強さを与えてくださいと絶えず神に願うことだけでした。神は私の嘆願を聞き、憐れみをかけ、御言葉の一つを思い出させてくださいました。
「今は重大な時期である。落胆したり、弱気になったりしないよう気をつけなさい。すべてのことに前向きになり、振り返ってはならない。……あなたに最後の一呼吸が残っている限り、最後の最後までやり抜きなさい。このことだけが、称賛に値するのだ」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十章」〔『言葉』第1巻〕)
神の御言葉は私に大きな信仰と強さを与えてくださいました。まったくそのとおりです。光と義の道を歩んでいるのだから、私には続けていく信仰があるはずです。たとえ息絶えても、最後までやり通さなければなりません。神の御言葉は生命力にあふれており、御言葉のおかげで私はこの悪しき悪魔と最後まで戦う信仰と勇気を持つことができ、体力もだんだんある程度まで回復しました。その後、悪しき警察は私を尋問し続け、ずたずたに潰れるまで容赦なく両足を踏みつけました。しかし私はもう痛みを感じませんでした。これが神のすばらしい御業によることを私は知っていました。私を憐れみ、私の弱さを気遣い、苦しみを和らげてくださったのです。後に、悪意ある警官は私たちを「治安を乱した」罪で拘留しました。その夜、私たちを一人ずつ三、四百斤(訳注:約二百キロ)のセメントの塊に手錠でつなぎ、翌日の夜までそのままにして、その後また地元の拘置所に移動させたのです。
拘置所に入るのは、一種の地獄に落とされるようなものでした。看守は私に色付きの電球を数珠つなぎにする仕事を課しました。ノルマは当初一日六千個でしたが、その後毎日増えて一万二千個にまでなりました。この過剰な仕事量の結果、指が疲れきりましたが、それでも作業が終わりませんでした。夜通しつなぎ続けるしかありませんでした。時には堪りかねて少しだけ眠りたかったのですが、それを見られるたびに直ちにひどく殴られました。看守は、「この囚人どもが仕事をすませていないか、ちゃんとやっていなければ、ペニシリンを何発か食らわしてやれ」と大声で獄中の「いじめ役」たちをけしかけさえしました。「ペニシリン」とは、囚人の股を膝蹴りし、痛がって身をかがめている間に背中の真ん中を激しくひじ打ちし、かかとで相手の足を踏みつけることです。この残忍な仕打ちを受けた人はその場で気を失うこともあれば、体が一生不随になることさえあります。この悪魔のような刑務所で、私は毎日骨の折れる重労働をし、さらに残忍な暴行も受けたのです。その上、毎日三度支給された食事は、味付けのない大根の葉と(腐った葉と根や砂や泥がよく混ざっている)空心菜に、百五十グラムほどの米飯と、米を洗うのに使われた水一杯という、犬や豚の餌以下でした。一日中、私はあまりの空腹で腹が絶えずゴロゴロ鳴っていました。こうした環境では全能神だけが頼りでした。殴られるといつも神に切実に祈り、「サタンの試みに打ち勝てるようにどうか信仰と強さを与えてください」と願いました。二十数日間の蹂躙と拷問の末、私の体はすっかりやつれて見違えるほどになっていました。両腕も両脚も力が入らず、まっすぐ立ち上がることもできず、腕を伸ばす力もありませんでした。狂った看守たちはそれでも私の苦境に無関心だっただけでなく、私の家族が送ってくれた数百元さえも横領しました。時間が経つにつれて、私の体調はますます悪化しました。あまりに衰弱したため、心の中で不平を言わずにいられませんでした。
「どうしてこの国では、神を信じる者はこんな苦しみに遭わないといけないのだ。私が福音を広めるのは、人々を神の御前に連れて行き、神の救いを得られるようにするためではないのか。それに犯罪など犯したこともないのに」
そう考えれば考えるほど耐え難くなり、被害感が増しました。できることは絶えず神に祈り、「どうか私を憐れみ、救ってください」と願うことだけでした。苦悩と無力感の中、神が私にご自身の御言葉からなる賛美歌を思い出させてくださいました。
「……2. あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。『このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。』あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。3. 赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「君たちは神の嗣業を受け取る者」より)
神の御言葉に大きな慰めと励ましを与えられ、私は御心を悟ることができました。私たちは無神論の国で神を信じているため、悪魔サタンの抑圧と迫害に遭う運命にあります。しかし、私たちがこの苦悩を受けることを神がお許しになっています。つまり、この苦しみには価値と意義があるのです。まさにそうした迫害と苦しみによって、神は私たちの中に真理を植え付け、神の約束を受ける資格を与えてくださいます。この「苦しみ」は神の祝福であり、この苦しみを通して神に忠実であり続けられることは、神のサタンに対する勝利の証であり、私が神のものになったことの動かぬ証拠でもあります。私は思いました。
「今日、神に従っているために中国共産党の悪魔たちの手でこんな迫害に苦しんでいるが、これは神が私に特別なご厚意を示してくださっているのだから、当然神の指揮に従い、しっかりした平静な心で喜んで向き合って受け入れるべきだ」
そして神が恵みの時代に語られた御言葉を思い出しました。
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:10)
そのとき、私の信仰と強さはさらに大きくなりました。サタンとその手下からどんな拷問を受けても、彼らに屈しないと決心し、神を証しして満足して頂こうと誓ったのです。権威と力の備わった御言葉により、私が内に抱いていた惨めさと無力感が拭い去られ、それまで受けてきた破滅的な肉体的苦痛が和らぎました。こうして私は暗闇の中で光が見え、霊がさらに強く、不屈になったのです。
その後、証拠がないにもかかわらず、中国政府は私を一年間の「労働による再教育」に処しました。警察が私を労働収容所に連行したとき、そこの看守は私がほとんど骨と皮だけで、もはや人間に見えない姿であることに気づきました。私が死ぬことを恐れて受け入れようとしなかったため、警官は私を拘置所に連れ戻すしかありませんでした。その時の私は、悪しき警察による拷問のため、物を食べることができなくなっていましたが、警察には治療を与えられるどころか、はったりだとさえ言われました。何も食べられずにいると、人を呼んで口をこじ開けて無理やり食料を流し込ませました。飲み込むのに手間取ると殴られました。日に三度、無理やり食べさせられ、ぼろ切れ人形のように殴られました。警察はこれ以上食べ物を押し込めないと見て、私をやむなく病院に連れて行きました。検査の結果、血管が硬化していたことが明らかになりました。血が黒くドロドロになり、まともに循環できなくなっていたのです。医者は「これ以上拘留が続けばこの男は間違いなく死ぬ」と言いました。それでも憎しみに満ちた悪しき警察は私を釈放しませんでした。その後、私は今にも死にそうだったので、他の囚人たちに「もうどうしようもない、終わったな」と言われました。そのときには苦悩のどん底で、「こんなに若く、終わりの日の神の働きを最近受け入れたばかりで、まだ楽しめることがたくさんあり、まだ神の栄光の日を見ていないのに」と感じました。中国政府に死に至る拷問を諦めて受ける気はまったくありませんでした。まったく無慈悲な悪しき警察連中を徹底して蔑み、中国政府というこのよこしまで天に背く非道でサタン的な政権をさらに憎みました。中国政府こそが真の神に従う自由を私から奪い、私を死の淵に追いやり、私が真の神を崇めることを許そうとしない張本人です。中国共産党は猛烈に神に抵抗し、クリスチャンを残忍に迫害し、神を信じるあらゆる人を根絶し、中国を神なき地に変えようと目論んでいます。この非道な悪魔サタンはまさに神の不倶戴天の敵であり、それも私が決して赦すことのできない敵です。私はたとえその日に拷問で命を落とすことになろうとも、絶対にサタンに妥協せず、屈しないことを誓いました。悲しみと憤りの中で、私は神が仰ったことを思い出しました。
「数千年におよぶ憎しみが心に凝縮され、数千年におよぶ罪深さが心に刻み込まれている。こうした状態で、どうして憎悪感を覚えずに居られようか。神の仇を討ち、神の敵を掃討し、敵が二度と蔓延ることを許してはならない。また敵が意のままに問題を起こすことを許してはならない。今がその時である:人は随分前からこのために全力を振り絞り、努力の限りを尽くし、費やせるだけ費やしてきた。それは、この悪魔の忌まわしい顔をはぎ取り、盲目にされた人々、あらゆる苦しみと苦難に耐えてきた人々が痛みから立ち上がり、この邪悪な古い悪魔に背を向けることができるようにするためである」(『神の出現と働き』「働きと入ること〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)
神の御言葉について黙考した後、私は中国政府の悪しき残忍な悪魔の素顔をさらにはっきり見極め、自分がその時点で生と死、善と悪の霊的な戦いに直面しているのだと悟りました。中国政府がこのように私をぼろぼろにする目的は、私に神を捨てて裏切るように強いることでしたが、神は私がしっかり立ち上がり、死による呪縛を脱し、神のために勝利の証しをするように注意と励ましを与えてくださいました。私は消極性の中に退くわけにはいきませんでした。懸命に神と息を合わせ、神の指揮と采配に従わなければなりません。ペテロのように死ぬまで服し、人生の最後の瞬間にはしっかり声高に神の証しをし、神の心をお慰めしなくてはならないのです。私の命は神の御手の中にあり、サタンはたとえ私の肉体を傷つけ殺することはできても、私の魂は滅ぼせず、ましてや神を信じて真理を追い求めようという私の決意を妨げることはできません。その日生き延びるか否かにかかわらず、ただ私の命を神に委ね、神の指揮を受け入れることを願いました。たとえ死ぬまで痛めつけられても、絶対にサタンに屈しません。自分の命を犠牲にしてもよいと思い、神の証しを立てようと決意したとき、神は他の囚人たちが私に食べさせようとするように仕向けることで、道を開いてくださいました。その時、私は胸を躍らせました。神が自分のそばにおられ、いつもともにいてくださったことを心の奥で知っていました。これまでずっと私を見守り、私の弱さを思いやり、入念にすべてを采配してくださっていたのです。その暗い悪魔のねぐらの中、体はぼろぼろにされながらも、私の心はもはやそれほど苦痛と苦悩を感じませんでした。その後、悪しき警官たちは私をさらに十五日間拘留しましたが、私が虫の息でいつ死んでもおかしくないと見てついに釈放せざるをえませんでした。私はもともと体重が五十キロ以上ありましたが、監禁された二か月間ほどのあいだ、拷問の末、骨と皮だけになって二十五~三十キロまでやせ、何とか生きてる状態でした。それでもこのけだもの連中は一万元の罰金を取ろうとしました。結局は、家族にそれほどの大金を用意するのが絶対に無理なことを見て、私の食費として六百元を請求し、それを支払ってからやっと私は釈放されました。
中国政府の手によるこの非人道的な拷問と虐待に苦しんだ私は、かろうじて地獄の門を逃れたような気分でした。私が生きて戻れたことは、すべて神のお気遣いと御加護のおかげです。神が私に大いなる救いを見せてくださったのです。神の愛を思うと、私は二倍に心を打たれ、神の御言葉の尊さをさらに深く実感しました。以来、私は毎日神の御言葉を熱心に読み、頻繁に神に祈りました。徐々に神が終わりの日に人類を救うためになさっている働きの理解を深めていきました。しばらくして、神のお気遣いのもと、体が次第に回復し、私は再び福音を広め、終わりの日の神の働きの証しをするようになりました。しかしサタン的政権は存続する限り、神の働きの妨害と破壊を試みることを決してやめません。その後、私は再び中国政府の警察による猛烈な追跡と逮捕に遭いました。
2004年11月のある日、冬の冷たい風がひどく吹き、空気が厚い雪で渦巻いていました。私と何人かの兄弟姉妹は福音を広めていたのですが、そのあいだに私は中共警察に尾行されていました。その夜の8時に、集会の最中に突然、玄関でドアをしつこく叩く音と「ドアを開けろ。公安局だ。今すぐ開けないと蹴破るぞ」と叫ぶ声が聞こえました。考える間もなく、私たちは急いでビデオCDプレーヤー、書籍、その他の資料を隠しました。しばらくして警官が五、六人ドアを破って入って来て、盗賊か追いはぎのように突進してきました。そのうちの一人が「誰も動くな。頭に手を置いて、壁際にしゃがみ込め」と怒鳴りました。すぐに数人の警官が各部屋に駆け込み、あちこち荒らしまわると、小型ビデオCDプレーヤー四台と神への信仰に関する書籍数冊を没収しました。その後直ちに私たちをパトカーに押し込み、地元の警察署に連行しました。私はそこに行く途中、昨年悪しき警官たちに加えられたおぞましい拷問の場面が次々に脳裏によみがえり、この悪魔のような警察に今度はどんな手で苦しめられるのかわからず、大変緊張せざるをえませんでした。彼らの残忍さに耐えかねて、神を裏切ることをしてしまうのではないかと恐れ、黙って熱心に神に祈りました。すると不意に、数日前に集会の際に読んだ御言葉をいくつか思い出したのです。
「私は兄弟姉妹に対する希望に満ちており、あなたがたが落胆したり意欲を喪失したりせず、そして、神が何をしようとも、あなたがたは火のるつぼのようであり、決して生半可ではなく、神の働きが完全に現れ、神が監督する劇が終わるまで、最後まで貫徹できると信じている」(『神の出現と働き』「道……〔8〕」〔『言葉』第1巻〕)
「私達全員が『団結して働き、 最後まで献身し、決して別れず、常に共にある』という誓いを立てられるように。私達の心が道を逸れず、私達の意志が揺るぐことがないように兄弟姉妹が神の前でこの決意ができるように」(『神の出現と働き』「道……〔5〕」〔『言葉』第1巻〕)
神の御言葉は私の心を揺さぶりました。神が人類に救いをもたらすために天から地に降りられ、ご自身の働きにおいて非常に多くの試練と苦難を受けられたことを私は思いました。人々がどんなに厳しい状況にあっても、神に最後まで揺るぎなく忠誠であり続けることが神のお望みです。神によって選ばれた者、神の御言葉の施しを享受した者として、私には神に完全に自分を捧げる義務がありました。私は思いました。
「どんなに苦しみ、痛めつけられても心は信仰に満ちたままでなくてはならない。神への気持ちは変わらず、意志は揺らいではいけない。声高に神を証しするのであり、絶対にサタンに屈服してはならない。それに神を裏切って無意味で卑しい生き様をさらすのももってのほかだ。神こそ私が頼る方であり、それ以上に強力な支えなのだ。私が神と真摯に協力する限り、神は確実に私をサタンに対する勝利に導いてくださる」
こうして、私は黙って神に誓いました。
「神よ、たとえ自分の命を犠牲にせざるをえなくても、私はあなたを証しします。どんな苦しみに遭っても、真の道を守ります」
神の御言葉に元気づけられて、私の信仰は百倍になり、すべてを犠牲にしてでも神の証しを立てる信念と決心を見出しました。
警察署に着くとすぐに、警官は急いでストーブで体を温めました。彼らはみな私をにらみつけ、眉をひそめて燃えるような目つきと厳しい声で尋問しました。
「しゃべるんだ。名前は何だ。何人に宣教した。誰と連絡を取っていた。教会の指導者は誰だ」
私があくまで沈黙を守るつもりでいると知ると、悪しき警官の一人がその残忍な本性を表して私に跳び掛かり、首を乱暴につかみ、頭を何度も壁に叩きつけました。私はついにめまいと耳鳴りがしました。次にこぶしを上げ、私の顔と頭を猛然と殴りながら、叫びました。
「お前が指導者だろう。何とか言え。さもないと建物のてっぺんから吊るして、凍え死にさせるぞ」
この悪しき警官たちは私を三十分以上も激しく殴り、最後には私は目から火が出て鼻血が流れていました。彼らの望みどおりに話さなかったため、私は公安局に連行されました。そこに向かう途中、私は悪しき警官からたった今受けた狂気の暴行を思い、不覚にも恐怖が波のように押し寄せました。私は思いました。
「地元の警察署に着いてからこんな非情な仕打ちなら、公安局の警察はどこまで残忍なやり方で拷問してくるだろう。嫌な予感がする。今度は生きて出られないかも…」
このことをじっくり考えると、心は言葉にならない絶望と悲しみで満たされました。つらく無力な中、一年前悪しき警察によって死の寸前まで拷問されていたところを神のおかげで奇跡的に生き伸びられたことをふと思い出しました。すぐに心が明るくなり、思いました。
「私が生きるか死ぬかは神の手にあるのではないか。神のお許しがなければ、サタンはどんな手を使っても私を殺すことはできない。これまでの神のすばらしい御業を目にしたのに、どうして忘れられたのだろうか。どうしてそこまで信仰がなかったのだ」
その瞬間、自分の霊的背丈がまだ未熟であると悟りました。死が差し迫る試練に直面しても、いまだに神のおそばに立てなかったのです。神の御言葉の一つを思い出さずにはいられませんでした。
「しかし、自分の心の中で生きることは、サタンの虜となることであり、それは行き止まりである。これは今とても簡単なことである。あなたの心でわたしを見上げなさい。そうすれば、あなたの霊はすぐに強くなり、あなたは実践するための道を持ち、わたしはあなたを一歩一歩導くだろう。わたしの言葉は、あらゆる時にあらゆる場所で、あなたに明らかにされる。それがどこであれ、いつであれ、またどんなに状況が不利であれ、あなたの心でわたしを見上げるなら、わたしはあなたにはっきりと示し、わたしの心はあなたに現される。このようにして、あなたは前に延びる道を走り抜き、自分の道を見失うことは決してないだろう」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十三章」〔『言葉』第1巻〕)
神の御言葉は導きの灯台であり、おかげで私の思いはますます明らかになりました。神のお望みはこの困難な環境を用いて私を清めることであり、危機の最中に私が自分の観念や想像、肉への執着を捨て、神にのみ頼り、神の御言葉に頼って前進するようになることだと私は悟りました。これは、私が神の働きを体験するように神が導いてくださる重要な瞬間であり、私は絶対にひるんではならないと知りました。私は自分の生と死を完全に神の手に委ね、神に頼りつつ、最後までサタンと戦わなければならなかったのです。
公安局に着くと、警官は再び私たちを引き離して個別に尋問しました。彼らが私から神への信仰に関する事柄を無理に聞き出そうとし続けるなか、そのうちの一人は、私がどうしても口を閉じたままでいようとしていたことに激怒しました。
「黙ってただですむと思っているのか。我慢ならん」
警官はそう言いながら、両手で私の襟をつかみ、サンドバッグのように床に投げ飛ばしました。それから、他の悪しき警官がよってたかって私が苦痛で転げまわるまで蹴って踏みつけました。そして、私の頭に足を乗せてきつく押しつけ、前後に引きずりました。私はまだ一年前に受けた野蛮な拷問から完全に回復していなかったので、再びひどく殴られた後、急にめまいと吐き気を催しました。頭の天辺からつま先まで苦痛に見舞われ、体はボールのように丸く縮こまりました。次に、悪しき警察に靴と靴下を破り取られ、裸足で床に立たされました。あまりの寒さで歯が勝手にガチガチ鳴り、両足の感覚がすっかりなくなりました。もう限界だ、いつ床に倒れてもおかしくないと感じました。悪意に満ちた警官の残忍な責苦に、怒りと憤りを燃やさずにはいられませんでした。この極悪な鬼たちを蔑み、卑劣で反動的な中国政府を忌み嫌いました。中国政府は天に背き、神の敵であり、神を裏切り拒むように強いるため、私を抹殺しようと躍起になって蹂躙、拷問しました。サタンの残虐非道さを前に、私は神の愛に一層思いを馳せました。人類に救いをもたらすべく、そして私たちの今後の生存のため、神自ら私たちのもとで歩んで働きをなさりながら、極度の屈辱に耐えられたことを私はじっくり考えました。神は私たちのためにご自身の命を捧げ、真理を追い求めて救いを得る道に私たちを導くために今では辛抱強く真剣に御言葉を表してくださっています……神が人類の救いのために払われた大変な代償をすべて集計すると、神よりも私を愛してくれる者はいないと感じました。神は他の誰よりも私の命を尊んでくださいます。サタンは私を傷つけるか、むさぼって殺すことしかできません。その時、私は心に神への愛と崇敬の念が更に募るのを感じ、静かに神に祈らずにいられませんでした。
「神よ、このように導き救ってくださってありがとうございます。今日サタンにどのように拷問されても、私はあなたと協力するために必ず懸命に働きます。悪魔の軍門には下らないと誓います」
肉体は拷問で弱く無力になっていましたが、神の愛による励ましで心は堅く強くなり、決して悪しき警官たちに屈しませんでした。彼らは私を翌朝の一時まで拷問し続け、本当に何らの情報も私からは得られないと見ると、しぶしぶ拘置所に連れて行きました。
拘置所に着くと、悪しき警官は再び「いじめ役」たちを扇動し、私を罰する手を考えるだけ考えるように仕向けました。その時の私はあまりの拷問の末、全身が切り傷や打撲傷で覆われていました。まったく足の自由が利かず、監房に入ったとたんにこけて、凍てついた床に倒れました。私のこの有様を見た「いじめ役」たちは無言で私をつかみ上げ、拳で頭を殴りました。私は目が回るまで彼らに殴られ、再び床にどさりと倒れました。その後やって来た囚人たち全員にからかわれ、彼らの指示で片方の手を床に押し付けながらもう片方の手を耳に当てて、床の上でコンパスのように回ることを強いられました。二回り以上する前にめまいがして床に倒れると再び蹴られ、殴られました。その上囚人の一人に腹部を激しく突かれたため、その場ですぐに意識を失いました。その後、囚人たちは毎日私を様々な手で痛めつけて虐待し、皿洗いやトイレ掃除といった汚い日課をすべてさせるように看守から指示されました。雪の日に冷たいシャワーを浴びることまで強制されました。しかもシャワーを浴びる度に頭からつま先までせっけんを泡立ててから冷水を全身にゆっくり流すように強いられしました。三十分近くシャワーを浴びた後、あまりの寒さで全身が紫になり震えていました。この非人道的な責め苦と虐待の中、私は絶えず神に祈り、もし神を離れれば完全にサタンの捕虜となってしまうだろうと恐れました。祈りを通して神の御言葉が私に響き渡り、導いてくださいました。
「神が勝利者と呼ぶ者は、サタンの影響下に置かれ、サタンに包囲された時、つまり闇の軍勢の中にいる時でも、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があっても、あなたが依然として純真な心と神に対する真実の愛を維持できるのであれば、それは、あなたが神の前で証しに立っているということであり、それは神が言うところの勝利者となることである」(『神の出現と働き』「あなたは神への忠誠を保たなければならない」〔『言葉』第1巻〕)
神の御言葉は、私の思考を照らして落ち着かせる光でした。サタンに包囲されているときこそ神への忠実さと愛をもつ必要があると私にはわかっていました。この悲惨な環境は私の体に苦しみと痛みをもたらしましたが、その背後には神の広大な愛と祝福が隠れていました。神が私にサタンの前で神を証ししてサタンを徹底的にはずかしめて打ち負かす機会を与えてくださったのです。そのため、私はこの苦しみを経験しつつ、「最後まで辛抱し、この暗い悪魔のねぐらで神の導きに頼って神の証を立て、勝利者になるよう努めなければ」と何度も何度も自分に言い聞かせました。神の御言葉の導きで、私の心は堅く強くなりました。衰弱と苦痛で肉体をぼろぼろにされても、私は自分がそれにすべて耐えてサタンと決死の戦いを繰り広げ、神の証しを立てて息絶えられる自信がありました。
二十日以上投獄された後、私は突然ひどい風邪をひきました。両手両足が痛んで自由が利かなくなり、体力がすっかりなくなり、思考が混乱しました。状態の悪化と他の囚人たちの容赦ない暴行と拷問のために、これ以上耐えられないと感じました。心の中でとりわけ弱さと憂鬱を感じ、こう思いました。
「この毎日の拷問と虐待はいつ終わるのだろう。今度は判決を下されるようだから、生きて出られる見込みはない」
すると心が不意に底なしの深淵の中に落ちたように感じ、あまりに深い絶望と苦痛に沈んで抜けようがありませんでした。この上ない絶望にある時、神の御言葉の賛美歌を思い出しました。
「わたしはあなたがたが多くの感動的な言葉を語ったり、興奮するような物語りを語れることを望まない。むしろ、わたしに立派な証しをすること、現実に完全に深く入ることができることを求める。.…もはや自分の前途については考えず、すべての物事における神の采配に委ねるとわたしの前で決心したそのとおりに行動しなさい。わたしの家の内に立つ者はみな、できる限りの努力をしなければならない。わたしの地上での働きの最終部分に自己の最善を差し出さなければならない。あなたは、このように実践する気持ちがほんとうにあるだろうか」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「あなたがたは本当に神の采配に服従できるか」より)
御言葉の一行一行に心を打たれ、私は深く恥じ入りました。何度苦渋の涙を流したかを振り返り、万事において神に自身を捧げ、神の指揮と采配に従う決心を固めました。また、拷問の苦しみを受けていた私を神の御言葉が導いてくださったとき、命がけで神の証を立てることを御前で誓ったのに、いざ実際の代償を払って神にご満足いただくことを本当に神に求められると、私はそうするどころか命に卑しくも執着して死を恐れて、自分の身がどうなるかだけを気にかけていたことも思い起こしました。神の御心を完全に無視し、できるだけ早く自分の苦境を逃れて安全圏に行くことしか考えていなかったのです。自分がどれほど実に低俗で無価値であるかを悟りました。神への信仰が不十分で、あまりにも不実でした。神に真に献身することができず、この身の中に本当の従順がなかったのです。そのとき、私は神が終わりの日の働きにおいて求められているのは人類の真の愛と忠実さであると理解しました。これが神の最後の要求であり、神が人類に託された最後の使命なのです。
「神を信じる者として、私は完全に神の手に自身を置くべきだ。私の命は神に与えられたのだから、私の生死の最終的な決定権は神にある。私は神を選んだのだから、神に自分を捧げ、神の指揮に従うべきだ。どんな苦しみや屈辱にさらされようと、神に献身して行動すべきだ。自分の選択や要求を持つべきではない。これは私の本分であり、私が持つべき理知だ。私がまだ呼吸をして生きているのは、すべて神の御加護とお気遣いのおかげだった。神によるいのちのほどこしだったのだ。それがなければとっくに悪魔につぶされて死んでいなかっただろうか。私がこのような深い苦しみと困難を最初に経験したとき、神が克服するよう導いてくださった。今やどんな理由があって神への信仰を失うのだ。どうして否定的で軟弱になり、尻込みして逃げたがることができるのだ」
この考えが浮かぶと、私は静かに自分の罪を神に告白しました。
「全能神よ、私はとても自分勝手で貪欲です。ただあなたの愛と祝福を享受したいだけで、心からあなたに自身を捧げたいとは思っていませんでした。刑務所で長く苦しみに耐えなければならないと思うと、ただ自由になってそれを避けたいと思います。本当にあなたの気持ちをひどく傷つけてしまいました。神よ、これ以上深く沈みたくありません。ただあなたの指揮と采配に従い、あなたの導きを受け入れたいと思います。たとえ獄死しても、あなたを証ししたいのです。死ぬまで拷問されるかもしれませんが、最後まであなたに忠実であります」
祈った後、私は二倍に心を打たれました。苦痛はそれまでのままでしたが、心の中では、神にご満足いただくという誓いを果たすまであきらめないという信仰と決意を感じていました。死に至るまで神を証しするという決意と自信が芽生えると、奇跡的なことがすぐに起こりました。ある早朝、ベッドから起き上がると、どちらの足にも感覚がないことに気づきました。歩くのはおろか、立つこともまったくできませんでした。悪しき警察は当初私の話を信じず、はったりだと思いこみ、無理に立ち上がらせようとしました。しかし私はどんなに頑張っても立てませんでした。彼らは翌日戻ってきて、再び私の体を調べました。私の両足が凍るように冷たく、血がまったく通っていなかったため、彼らは私が本当に麻痺していると納得しました。その後、私の家族に「家に連れて帰ってもいい」と連絡しました。私が帰宅した日、足の感覚が奇跡的に戻り、何の不自由もなく歩けるようになりました。これはすべて全能神が私の弱さに憐れみを示してくださったおかげだと私は心の奥で知っています。神ご自身が私のために道を開いてくださったため、私は中国政府による一か月の不法拘留の末、サタンのねぐらから無事に出ることができたのです。
二度拘留され、中国政府の非人道的で残忍な拷問を受けた後、私は肉体的な苦しみを多少受け、死にかけもしましたが、このとてつもない経験は二度とも、私が神への信仰を持つ道の強固な土台となりました。私の苦しみと困難の最中に、全能神は私に最も実践的な真理の潤しといのちのほどこしを与えてくださいました。こうして私は中国政府とその真理への憎悪、神への敵意、その悪魔的な素顔を徹底的に見極め、猛烈に神に抵抗して神の信者を迫害するという中国政府の凶悪な犯罪を詳しく知ることができただけでなく、神の御言葉の力と権威の理解も授けられました。私が中共の魔の爪を二度逃がれて生き延びられたのは、すべて神のお気遣いと憐れみの結果でした。さらに言えば、神のとてつもない生命力の具現と確証でもありました。私は今や、全能神がいつでもどこでも常に私の唯一の支えと救いであると深く悟っています。この人生でどんな危険や困難に遭遇しても、全能神につき従い、積極的に御言葉を広めて御名を証しし、真実の献身で神の愛に報いることに専念しようと決意しました。
江西省 周瑞(チョウルイ)
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