9. 違う形の愛

巴西ブラジル

2011年、私はある偶然のきっかけで中国からブラジルにやって来ました。到着した当初は新鮮な経験に圧倒されて好奇心で一杯になり、将来についてよい感触を得ていました。しかししばらくすると、この新鮮な感情は遠く離れた異国の地で自分を見つける孤独と苦しみに取って代わられました。毎日1人で帰宅し、1人で食事をとり、話しかける相手さえいないまま、日々まわりの壁を見つめていたのです。孤独を感じるあまり密かに泣くこともよくありました。苦悩と無力をもっとも強く感じていたまさにそのとき、主イエスが1人の友人という手段をお使いになって、私をある集会へと連れてくださいました。集会で主の御言葉を読み、賛美歌を歌い、祈ることを通じ、私の孤独な心は主によって慰められました。また聖書から、天地と万物が神によって作られたこと、人間もまた神の創造物であることを学びました。さらに、主イエスが人類の贖いのために十字架にかけられたこと、私たちを罪から贖われたのは主イエスでいらっしゃること、主こそが人類の唯一の贖い主でいらっしゃることも学びました。主の救いという他の何にもまして偉大なことを目の当たりにした私は深く感動し、主に一生つき従おう決意しました。そこで感謝祭の日に洗礼を受け、正式にクリスチャンとなったのです。私は歌うこと、とりわけ神の賛美歌を歌うことが好きだったので、洗礼後は聖歌隊に加わることで、教会のために積極的に働くようになりました。神のお導きと祝福のおかげで、私は平和と幸福のうちに生きていました。集会に赴いたり礼拝の中で神を讃えたりするたび、自分が活力で満たされるように感じたのです。

しかし、よいときは長続きしませんでした。教会で聖職を執り行なう一員になってみると、教会の兄弟姉妹が表面上は互いを気遣って世話をし合い、みな仲良くしているように見えながら、実際には言うことなすこと自分の利益のためだということが徐々にわかってきたのです。教会の職務を行ないながら個人的な損を一切被りたがらず、誰が多く働いたか、誰が少ししか働いていないかについて、互いの背後で噂し合うことがよくありました。牧師さえも極めて俗物的でした。献金の額に応じて人に接し、説教するたびわざわざ献金のことに触れるのです。集会に来た牧師が決まって一番関心を抱くのは、人々が献金しているかどうか、どれだけ献金したかといったことで、兄弟姉妹のいのちに関することは一切聞きたがりませんでした。愛について語っても、実際に行動するのを見たことはありません。兄弟や姉妹が困難に見舞われても、牧師は助けも支えもしません。しかしさらに腹が立ったのは、牧師がなおも人を批判し、無力で貧乏な兄弟姉妹を見下していたことです。教会のこうした状況を目の当たりにした私は失望すると同時に困惑しました。この教会が一般社会と同じようになってしまったのはどういうわけか。私は徐々に当初の愛と信仰を失い、日曜日に教会へ赴いても以前ほど積極的に参加しなくなりました。歌うことさえ嫌になり、毎週教会に出向くたび、外に立ってコーヒーを飲むか、座席で居眠りしていました。そして説教が終わると献金を渡してすぐに立ち去り、いつも悲しみと無力感を心に抱きながら教会をあとにするのです。

2016年8月のある日曜日、私は公園で李敏姉妹と会いました。彼女はアメリカ出身で、クラスメイトに高暁英姉妹と劉芳姉妹がいました。みな主を信じており、私たちは芝生に座りながらおしゃべりに花を咲かせました。様々なことを話しているうちに話題が教会の状況になり、私は教会で目にしたことをすべて彼女たちに伝えました。話し終えると、李敏姉妹が考え込む様子でうなずいてからこう言いました。「現在、あなたの教会がそのようになっただけでなく、宗教界全体が聖霊の働きを失い、闇と荒廃の中に陥ってしまいました。かつて主イエスは『また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう(マタイによる福音書 24:12)と預言なさいました。いま私たちは終わりの日の最後の時期にいますが、宗教ではますます無法がはびこっています。牧師も長老も主の掟を守らず、主の道を実践せず、そのように罪の中で生きるのを大して気にしていません。教会の繁栄が聖霊の働きの成果であることを、私たちはみな知っています。今日、神はすでに新たな働きをなさっており、聖霊の働きは神の新たな働きを受け入れ、それに従う人々の集団に移りました。宗教の牧師や長老は、信者が終わりの日の神の働きを求めて調べるように導かず、それどころかありとあらゆる噂や嘘をまき散らし、信者が神に立ち返るのを防ぐことで、神の新たな働きに抵抗し、それを断罪しているのです。彼らは神の憎しみと拒絶に遭い、そのため宗教界全体に神の祝福がなく、聖霊の働きを完全に失い、主に捨てられ淘汰されたのです。それゆえ、教会はますます荒廃して暗くなります。それはまさに、主イエスが受肉されて働きをなさったときと同じです。主イエスの働きによって恵みの時代が始まり、律法の時代は幕を下ろしました。主イエスにつき従った人は神の新たな働きを受け入れ、それに従ったので聖霊の働きを得ましたが、主イエスを受け入れず神殿にとどまった人の間で、聖霊は働きをなさいませんでした。ゆえに、かつて神の栄光に満ち溢れ、信者が神を崇拝した場所である神殿は、取引の場、盗賊の住みかとなったのです。言い換えると、教会の荒廃には2つの理由があります。1つは牧師や長老が神の掟に従わず、神の御言葉を実践することもなく、絶えず罪を犯して悪事をなしていること、もう1つは神が新たな働きをなさっていて聖霊の働きが移ったのに、人々が神の足跡と歩調を合わせていないことです。しかし、教会の荒廃の裏には神の御心があり、そこには探し求めるべき真理があります。神は教会の荒廃を通じて、心から真に神を信じるすべての人、真理を渇望するすべての人に宗教を捨てさせ、それによって彼らが聖霊の働きを探し求め、神の足跡と歩調を合わせ、神の御前に出て神の現在の働きと救いを得られるようになさっているのです」。

李姉妹の交わりを聞いたあと、私はうなずいてこう言いました。「あなたの言うことは正しい。まさにあなたの言うとおりだ。教会はもともと神を崇拝する場所だったが、いまや教会は一般社会と何ら違わない。そのうえ、牧師が宣べ伝えることに新たな光はなく、それを聞いても何の喜びも得られず、人はみな闇の中で生きている。実際のところ、それは私たちが神の新たな働きに歩調を合わせていないからだ。では、神の新たな働きに歩調を合わせるため、私たちはいま何をすべきだろうか」。すると李姉妹はこう答えました。「主イエスはずっと以前に戻られています。終わりの日、神は人の子として受肉され、全能神の御名のもとに真理を表わし、人類を裁いて清める段階の働きをなさってきました。私たちは終わりの日における神の働きに歩調を合わせ、神の御言葉の裁きを受け入れなければなりません。そうして初めて聖霊の働きを得られるのです」。主イエスがもうお戻りになって裁きの働きをなさっていると聞き、私は驚いてこう考えました。「裁きとは、罪人だと宣告された人を罰することじゃないのか。神は終わりの日においでになって、神を信じない人を裁かれる。主イエスを信じる我々はすでに罪を赦されているし、救いの恵みにあずかってきた。主はおいでになるとき、我々を直接天国へと引き上げてくださるのだから、神の裁きを受ける必要なんてないじゃないか。おいでになって我々を裁くとはどういうことだ」。私がその考えを口にしたところ、劉芳姉妹がこう言いました。「兄弟、私はもう一週間にわたり、高姉妹と一緒に終わりの日の全能神の働きを調べてきました。全能神の御言葉を読むことで、それが神のお声だとわかったんです。全能神はまさに再臨された主イエスでいらっしゃいます。全能神の御言葉をお読みなさい。そうすればわかりますから。主イエスがお戻りになって裁きの働きをなさったのは、主を信じる私たちは罪を赦されたものの、逃れることのできない罪の中でいまも常に生きているからです。私たちは罪の束縛と支配から自由になることができず、神が真理を表わして私たちを裁いて清められ、私たちの罪深い本性と、サタン的な堕落した性質を一掃なさることを本当に必要としています。全能神による終わりの日の裁きの働きは、主イエスの贖いの働きを土台として築かれた、より新しい高次の働きです。それは御言葉の裁きを通じて人を完全に清めて救い、素晴らしい終着点へと導くのです」。その後、3人はさらに多くの真理を私に辛抱強く説いてくれました。しかし彼女たちがなんと言おうと、主がご自身を信じる人を裁かれるべくお戻りになったことを、私はどうしても受け入れられませんでした。この内心の葛藤と戦いながら、同時に当惑も覚えました。高姉妹も劉姉妹も非常に敬虔な信者であり、主に対する2人の信仰と愛は誰もが認めています。ならば、ご自身を信じる人を裁かれるべく主イエスがお戻りになっているとか、主は私たちを直接天国へとお引き上げにならないと信じているのはどういうことでしょう。この件には、私の知らない奥義や真理があるということなのでしょうか。

そう考えていると、李敏姉妹が1冊の本を取り出し、真剣な口調でこう言いました。「兄弟、主イエスは『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである(マタイによる福音書 5:3)とおっしゃいました。結論に飛びついてはいけません。いいですね?まずは全能神の御言葉が神のお声かどうか、私たちのいのちに糧を施せるかどうか、私たちを清めて救えるかどうかを確かめましょう。そうすれば、全能神が再臨された主イエスでいらっしゃるかどうかがわかります。神の羊は神のお声を聞くと、私は信じています。なので、一緒に神の御言葉を読みましょう」。私はあまり気乗りがせず、返事をしませんでした。その態度を見て、3人の姉妹は少し悲しそうな顔をしています。すると劉姉妹が出し抜けに「まずは祈って、それから神の御言葉を読みましょうよ」と提案しました。3人の姉妹が祈り始めたので、私もそれにならうしかありませんでした。祈りながらも、心を静めることがほとんどできません。姉妹たちが何を祈っているかは聞こえませんでしたが、その振る舞い方に私は心を動かされました。神に対する彼女たちの態度は誠実そのもので、何事においても神の御心を求めます。彼女たちは私が終わりの日の神の働きを調べることを望んでいますが、その望みは神の愛から生まれたものでもあるのです。祈り終えたあと、李姉妹が私に本を渡しながら、真剣な声で言いました。「この『真の道を考察する100のQ&A』という本に書かれている質問の大半は、あらゆる教派の人たちが問いかけているものです。各質問に答えるため、それに関係する一節が神の御言葉から選ばれているんです。さあ、ちょっと読んでみてください」。私はその本を受け取りたくありませんでしたが、李姉妹の口調が真剣そのものなので再び高姉妹と劉姉妹を見たところ、私がそれを調べて探し求めることをどれほど強く望んでいるかがわかりました。そして主の到来をお迎えするのがどれだけ重大なことかと考え、それを軽率に扱ってはいけないと思いました。そこで私は本を受け取り、こう言いました。「わかったよ。この本は受け取るから、もう今日はこの話をやめよう。まずは私がこの本を読んで、それからもっと話し合おうよ」。

帰宅後、私はその本を部屋の片隅に放りました。心が乱れていたのです。劉姉妹が交わってくれたことに思いを馳せると、すべてが明瞭かつ明白に感じられました。彼女が言ったことはどれも事実ですが、お戻りになった主がなぜ裁きの働きをなさるのかがどうしてもわかりません。じっくり考えましたが、それでもわからないのです。しかし主の再臨の件については以前に聞いたことがあったので、自分の結論を無闇に下し、じっと運命を甘受することはできません。そこで、この本に目を通して識別力を養うのがいいだろうと考えました。そうして6日がかりでその本を最初から最後まで読み通しました。すると、それまで聞いたことのない数多くの真理と奥義を全能神が明かしてくださったことがわかり、それらを読むことで大いに糧を施されました。また全能神の御言葉を読んでいると、多くのことが主イエスと同じ口調で語られているとも感じました。それらの御言葉には権威と力があり、神ご自身がお語りになっているかのようです。そのため、私は本を読み終わったあと、全能神による裁きの働きがどういうものかをよりよく理解したいと思い、高姉妹に会って尋ねることにしました。

翌日、私が高姉妹の自宅を訪れたところ、たまたま彼女の友人が何名かそこにいました。みな終わりの日の全能神の働きを受け入れており、集会を開いて互いに交わり合っていたのです。挨拶を交わしたあと、李敏姉妹がいきなり核心を突く質問を私にしました。「兄弟、あなたにはまだどのような観念がありますか。終わりの日の神の働きのうち、どの側面を理解したいですか。私たちと一緒に交わりましょう」。私は答えました。「聖霊の働きが移ったせいで教会は終わりの日に荒廃したと、あなたは言ったね。それは受け入れられるんだが、主を信じる私たちはすでに罪を赦され、主は私たちを罪人とは見ていらっしゃらない。それでも神が裁きの働きをなさろうとするのはなぜなのか。神がその段階の働きをなされなければ、私たちは天国に引き上げていただくことができないのだろうか。神が人を裁かれるとき、その人は断罪されないのか。私たちはみな懲罰されなければならないのか。だとしたら、私たちはどうやって天国へ引き上げていただけるのか」。すると李敏姉妹はこう言いました。「大半の人の観念に関する限り、再臨された主イエスに裁かれるのは、神を信じていない非信者です。神は人を裁かれるので、その人は断罪と懲罰を受けることになると信じています。主を信じる人は罪を赦されている、主はおいでになるとき自分たちを直接天国へ引き上げてくださり、決して自分たちを裁かれないと信じているのです。そう信じることで、その人たちは神の御心を完全に誤解し、神の働きを知らないことを示しています。実際のところ、終わりの日における全能神の働き、すなわち真理を表わされ、人を裁いて清められる働きは、まさに信者を天国へと引き上げるためになされるのです。聖書に『さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)と記されているのを、私たちはみな知っています。終わりの日における神の裁きの働きがまず神の家から始められることを、この預言ははっきり語っています。つまりその働きは、心から神を信じて終わりの日の神の働きを受け入れる人たちから始められるのです。なので、主を信じることは神の裁きを受け入れなくてもよいという意味だと私たちは考えますが、その見方は間違っています。終わりの日、神は御言葉を用いられることで、御座の前に出るすべての人を裁き、それらの人を清めて救い、災害に先立ち勝利者の集団をお作りになります。その後、大災害が降りかかるとき、神は善に報いて悪を懲罰なさいます。このようにして、終わりの日における神の裁きの働きは進行するのです。終わりの日における神の裁きの働きからは誰も逃れられませんが、神の裁きを受け入れて従う人にとって、それは清めであり、救いであり、完全にしていただくことです。終わりに日における神の裁きの働きを拒んで抵抗する人について言えば、神の御言葉の裁きから隠れることはできても、最後の大災害による裁きからは逃れられません。これは事実です。神が終わりの日に私たちを裁かれようとなさっている理由は、全能神の御言葉がとてもはっきり説明しています。神の御言葉の一節を読みましょう。全能神はこうおっしゃっています。『あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉から、私たちは主イエスを信じることで、罪を赦されたに過ぎないことがわかります。現実には、みな罪を犯しては告白するという悪循環の中で生きており、神が御言葉を表わされ、私たちを裁いて清められることをいまだに必要としています。清められて初めて、私たちは天国へと引き上げていただくのにふさわしくなれるのです。それは聖書に記されています。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記 11:44)。『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル人への手紙 12:14)。神は聖くていらっしゃいます。汚れて堕落した人は神のお顔を見ることができず、神の国に入るのにふさわしくありません。主イエスによってなされた贖いの働きは私たちの罪を赦しただけで、堕落した性質と罪深い本性まで赦したわけではありません。したがって、傲慢、自惚れ、不実、狡猾、利己心、邪悪、貪欲、真理を嫌い不正を楽しむといった、私たちの堕落したサタン的性質はいまなお残っているのです。これらの堕落した性質はまさに、私たちが罪を犯して神を裏切るようにさせる根源です。それらが解消されなければ、私たちは頻繁に罪を犯し、名声と利益を求めて互いに争い、嫉妬も露わに言い争い、嘘をついて騙し、自分を高め、自分の証しをするといったことをします。特に神の働きが自分の観念に合わないとき、私たちはなおも自分の観念と想像に頼って神を裁き、拒み、断罪し、神の働きに抵抗します。神に抵抗するこのような人が、どうして天国に引き上げていただけるでしょうか。神は終わりの日に真理を表わし、裁きの働きをなさいますが、その目的は私たちの堕落したサタン的性質を清め、天国に引き上げていただくという私たちの夢を実現させるためです。神の裁きを受け入れ、自分の堕落した性質を振り払い、清められて変化するとき、私たちは神のお約束を受け継ぎ、神によって天国へと導いていただくのにふさわしくなるのです」。

姉妹の交わりと全能神の御言葉を聞いた私はこう考えました。「主を信じるとき、その人の罪は赦される。しかしそれは、それ以上罪を犯さないということではない。まったくそのとおりだ。牧師や長老から普通の信者に至るまで、自分を含めた教会の人たちに目を向けると、みんな日中に罪を犯して夜に告白する状態の中で生き、罪の束縛と支配から逃れられない。神の御言葉によって裁かれ清められてからでないと、主のお顔を拝見することはとてもできないようだ。そう考えると、神がおいでになって、人を裁いて清める働きをなさることが絶対に必要なんだ。俺は以前、主への信仰があれば裁かれる必要はないと信じていた。主はご自身を信じない者を裁かれるためにいらっしゃるのだと考えていたんだ。いま、この観念が神の御心とまったく一致しないこと、誤解だということがわかった」。すると高姉妹が、『カナンの地にある喜び』という全能神教会が制作した歌と踊りの動画を再生してくれました。「神の家に帰ると私は喜びと高揚を感じる。ついに私は幸運にも実際の全能神を見る。神の言葉は人々を神の国の時代へと導き入れる。神の言葉は私に道を示し、人として歩むべき道を私は理解する。私は神により潤っている。生けるいのちの水で。神と対面するのは喜び。比類なき喜び。私はもう探し回らない。天国という私の夢はついに実現した……」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』より)。歌全体が喜びと活気に満ちていて、信じられないほど刺激的でした。動画に登場する兄弟姉妹全員の顔が幸せに溢れており、一緒に賛美歌を歌わずにはいられません。私たちも音楽に合わせて踊り始め、心が喜びで満たされました。神の御言葉の施しを受けた兄弟姉妹が、祝福されて喜びで一杯なのがわかります。その人たちは神の裁きと刑罰を受けましたが、それでも何一つ不安に感じず、それどころか解放されて自由になり、喜びと幸せで満たされているのです。私は宗教に対する自分の信念と熱意が跡形もなく消え去り、教会の荒廃と闇しか目にしなかったことを考えました。一方、全能神教会の兄弟姉妹は聖霊の働きで満ち溢れています。真理に関する彼らの交わりは光を放ち、精力的に神を讃え、大いなる興奮と活力をもって神の証しをしています。比べてみると、彼らは私とまったく異なる世界に生きているようです。そのとき、自分が家に帰って母親の抱擁の暖かさを享受している、さまよえる孤児のような気がしました。そしてこう考えました。「ここには探し求めるべき真理が確かにある。主の到来をお迎えして天国に引き上げていただく機会を逃さないよう、終わりの日における神の裁きの働きの真理ついて、兄弟姉妹がしてくれる交わりにじっくり耳を傾けなければならない」。

次いで李姉妹が神の御言葉をさらに2節読んでくれました。「神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする。中にはそれが理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う人がいる。そのような人は『神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうして完全になれるのか』と言う。神の働きを理解しない人はこのように言うのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。「裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

それから李姉妹は私たちにこう交わってくれました。「サタンによって堕落させられた私たちは、みなサタンの支配下で暮らし、神に抵抗する腐敗した者になってしまいました。神の義にして聖い実質によれば、私たちは誰もが神の呪いと滅ぼしの対象ですが、それは神の御心が人類を滅ぼされることではなく、むしろ人類をお救いになるということなのです。ゆえに、神は人をサタンの支配下から完全にお救いになるべく、終わりの日に御言葉を表わされ、人を裁いて清める働きをなさいます。実のところ裁きの働きとは、神が御言葉をお使いになり、反抗的で神に抵抗する人の言動、本性、本質を暴かれ、それによって人が自分の堕落した本質とその堕落の真相を知り、神の義にして聖い性質を認識し、自分を嫌悪するようにさせることです。すると、人は真に悔い改めて変化し、自分の堕落したサタン的性質を振り払い、神のものにしていただくことができます。このようにして、人は完全な救いを得るのです。神の御言葉による裁きと刑罰を通じてのみ、自分が堕落に満ちていること、利己心、傲慢、不実、貪欲といった堕落した性質をいつでもどこでも示すこと、観念と想像、大それた欲望、神に対する理不尽な要求で一杯であること、自分に良心や理知、忠実さや服従心が一切ないことがわかります。神の裁きを受け入れれば受け入れるほど、自分がいかに深く堕落しているか、人間性がいかに欠けているかを認識するのです。そして自分を嫌悪し、心の中で自分を憎み始めます。神の裁きを受け入れるほど神の聖さと義がわかり、心が神を畏れるようになります。進んで肉の欲望を捨て、神の御言葉にしたがって生きるようになります。その後、私たちのものの見方や堕落した性質の中で変化が生じ、いくらか本物の人間らしく生き始めます。そうして、神の裁きと刑罰が私たちに対する神の偉大な愛にして救いであることを、真に理解するようになるのです。神の裁きと刑罰がなければ、私たちはみな滅びの対象になるでしょう」。

姉妹の交わりはここで終わりましたが、私は彼女の言葉にとても感動し、神の愛がいかに偉大で真実であるかを知りました。神は人類を愛される神なのです。人をお救いになる神の善意を誤解していたのは私のほうでした。神は人を断罪して懲罰するために裁きをなさると考え、神が終わりの日に御言葉を表わして人類を裁かれることはさらに真実の愛であるとか、より偉大な私たちの救いであるとは考えもしなかったのです。全能神に感謝いたします。全能神の御言葉を読み、姉妹の交わりを聞くことで、私は神の裁きの働きをいくらか理解し、神への誤解は一掃されました。そして全能神は再臨された主イエスに他ならないと固く信じ、神の裁きの働きを進んで受け入れたくなりました。私は混乱の霧を完全に脱し、顔が喜びの笑みで溢れました。すると李姉妹が嬉しそうにこう言いました。「あなたを導いてくださった神に感謝します。これはすべて神の御言葉の成果です。このことから、私たちは真理を理解するようになる前、神と神の働きに関する観念を生じさせるかもしれないけれど、真理を求めて受け入れ、神の御言葉に耳を傾ける限り、真理を理解して神の働きを知り、自分の観念と想像も煙のように消えてなくなることがわかります。そうして神の御心を理解することができ、もはや神を誤解しなくなるのです」。私は喜んでうなずき、自分を救ってくださった神に感謝しました。

終わりの日における神の働きを受け入れた私は、全能神教会の福音動画や音楽映像や賛美歌を高姉妹たちと日頃から共有できるよう、携帯電話にメッセージアプリをインストールしました。また全能神教会が制作した『玉座から命の川の水が流れ出る』という福音映画は、それを見た私に大きな衝撃を与えました。映画に登場する教会の荒廃した状況は私たちの教会の状況とまさに同じで、そうした荒廃の根源を完全にはっきり示していたのです。神の働きが移り、神はもはや宗教の教会では働かれていないので、終わりの日の全能神の働きを受け入れない人はみな飢餓に苦しんでいます。ところが全能神の御言葉を受け入れた人は、神によるいのちの水の施しを受け、神とともに幸福な生活を送っているのです。また『待つ』という映画を見て、私はため息をつかずにいられませんでした。映画に登場する老いた牧師は生涯を通じて主を信じ、自分の懸命な働きは賞賛に値するものだと考えてきました。そして自分が天国に引き上げていただけるよう、主の到来をひたすら待っていました。しかし、主は雲に乗って降臨され、まず自分に啓示を与えてくださるという信念にあくまでこだわっていました。その頑固さのせいで、彼は終わりの日の神の働きに抵抗してそれを受け入れず、最後は空を見つめながら雲を待ち続け、後悔のうちに死にました。この苦い教訓は本当に見る者を考えさせます。それと同時に、神から祝福を得ることを求めるだけで、その裁きと清めを受け入れたがらない反抗的な息子であるこの私を救い、御座の前に導いて最後の日の救いを得させてくださったことに、私は心の中で大いに喜び、全能神に感謝を捧げました。

現在、私は全能神教会で教会生活を送っており、神の御言葉の裁きと刑罰を実際に経験することで、神が裁きの働きをなさることがいかに現実的で実際的かを徐々に認識し始めました。神が人の不実な本性を暴かれたとき、自分は決して嘘をつかないという理由で、私は神の御言葉が明らかにした実際の状況を認めなかったのだと思いました。神が私に用意してくださった現実の状況に遭遇したとき、私は無意識のうちに嘘をついて自分の益を守り、虚栄心を保とうとしました。さらに、心の中で不実とごまかしを抱くとともに、知られたくない多くの秘密を抱えていました。そのことにより、神の御言葉が明かすことはどれも真実であり、実際の状況であり、それが人の本性にして実質なのだとわかりました。そのとき初めて、私は心の底から神の御言葉に確信を抱き、一刻も早く真理を求めてごまかしに満ちた自分の本性を変えたいという欲求をもちました。この経験のあと、神の実際的な裁きと刑罰がなければ、自分の不実な本性を知ることも、真理を実践して自分の不実な性質を変えることもできなかったはずだということがわかるようになりました。神の裁きと刑罰はまさに私を清めて救っていたのであり、いずれも違う形の愛なのです。私はこの特別な愛を大事にし、神の裁きと刑罰を受け入れるとともに、神に満足していただけるよう、できるだけすぐに変化して新しい人間になりたいと思います。

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