40. 帰宅

慕义(ムイ)(韓国)

神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包み込んでいます。人間は無邪気で純粋で、重荷もなく気ままに、神に見守られながら幸せに暮らしています。……良心と人間味のある人なら、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じるでしょう」(「人にとって神の愛が如何に重要なことか」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。この神の御言葉を歌詞にした讃美歌を歌いはじめると、私は必ず湧き上がる感情を抑えられなくなります。それはかつて神を忌避し、神に反抗したことがあるからです。私はまるで迷える子羊のように、家に帰る道がわからなくなっていました。神の家に私を導き帰してくださったのは、神の揺るぎない愛です。この記事の中で私は、主を信じる兄弟姉妹にくわえて、まだ神に帰依していない友人にも、神の家に戻った私の体験を伝えたいと思います。

子供の頃は、父母の喧嘩が絶えなかったので、毎日びくびくしながら暮らしていました。中学校を卒業したあと、母が近所の人に強く勧められて主イエスを信仰しはじめたので、私も母について教会に行きました。その時から、神がすべての被造物の主であり、受肉された神自身が人類の罪を贖うために、十字架に磔にされ、人間の罪の捧げものになられた、ということは知っていました。神の人間への愛はそれほど偉大なのです!主の愛に感動した私は、主を心から信じよう、神の愛に報いようと決心し、おかげで人生の方向性と目的も見つかりました。それから私は頻繁に集会に出席し、聖書を読み、主に賛美を捧げました。すると次第に幸せを感じるようになったのです。とくに、終わりの日に主が雲に乗って再来されて、私たちを天の国に迎え入れられるという聖書の記述を読んだときは、さらに心が希望で満たされました。それに加えて、集会では牧師が聖書のこの言葉をたびたび詳しく解説してくれたのです。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝 1:11)。主イエスは白い雲に乗って降りて来られて、私たちを天の家に迎え入れてくださるのだと、私はいっそう強く確信するようになりました!

2005年、一人の韓国人と出会って交際するようになり、彼と一緒に韓国に行きました。言葉の壁があったので、中国人移住者の教会を探そうとしましたが見つからず、私の霊は弱くなる一方でした。私は知らず知らずのうちに、神から離れて行きました。韓国人の彼とは結婚しましたが、文化の違いがあまりにも大きかったせいで、一緒に暮らしつづけることはできず、間もなく離婚しました。私はこの結婚の失敗で精神的に大きなショックを受け、ひどく苦しみました。また友人も家族もいない異国の地にいたこともあって、孤独感はいっそう深まりました。私はただ静かに神に祈り、神に苦しい胸の内を明かすことしかできませんでした。私は神に、神の家に帰れるよう中国人の教会に導いてください、とお願いしました。

その1年後、私は長老派教会に中国人の聖職者を見つけて、天にも昇る心地になりました。ようやく、また教会で神に賛美を捧げられるのです。ところががっかりしたことに、集会では毎回、牧師がただ聖書を読みあげて、言葉の文字通りの意味を少し解説してくれるだけなのです。牧師の説教には、啓発的なことも面白いことも一切ありません。私たちのいのちの糧になるようなものはまったくないので、集会は単なる儀式にすぎなくなりました。集会のあいだ、小声でおしゃべりをしている人もいれば、携帯電話でゲームをしている人もいます。居眠りをしている人も、ただ異性との出会いを期待して来ている人も、互いの体に腕をまわしている人までいます。私は思いました。「教会は神殿で、神を敬い畏れる場所よ。ここには集会に参加するために来ているのに、神を畏敬する心をひとかけらでも持ち合わせている人は一人もいないのね。神はこの様子を見て呆れられているにちがいないわ!こんな不快な場所を主は見捨てられるのではないかしら?」ところが牧師と説教者はこうしたことが起こっているのに気づきもせず、意にも介していないような態度でいるのです。

世の中というこの巨大な悪の大釜の中で暮らすうちに、私は次第に自堕落な生き方を受け入れはじめ、暇を見つけては友人とたびたび飲みに出かけるようになり、神の信者らしくふるまわなくなりました。それでも主から心が離れはじめると、必ず主のこの御言葉が心に浮かびました。「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである(マタイによる福音書 12:43–45)。主をいら立たせて嫌われるのを恐れる気持ちから、私は主の御言葉に引き止められて守られ、神から遠ざかりすぎることも行き過ぎた行動に出ることもありませんでした。主に見捨てられ、汚れた霊の手に落ちるのが怖かったのです。

2016年のクリスマスには、教会が士気を上げるために、芸達者な兄弟姉妹のグループによるショーを催しました。それまで面識のなかった姉妹が、神を讃える歌を歌いました。「1 これは感動的な、心温まるシーンです。そこには神と人間しかいませんが、その関係の親密さを見ると、感嘆の念に満たされます。神のあふれんばかりの愛は惜しみなく人間に注がれ、人間を包み込んでいます。人間は無邪気で純粋で、重荷もなく気ままに、神に見守られながら幸せに暮らしています。神は人間を気遣い、人間は神の保護と祝福の中で生きています。人間の行動と言動は一つひとつすべてが神と密接につながっており、神と切り離すことはできませんでした。2 神は人間を創った瞬間から、人間に対して責任を感じていたということです。神の責任とは何でしょうか。それは人間を守り、世話をするという責任です。神は人間が神の言葉を信頼し、従うことを望みました。3 それは神が人間に抱いた最初の期待でもあります。神はこの期待をもって、次のように言いました。あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。この単純な言葉には神の旨が表されています。そしてまた、神が心の中で人間に対する懸念を抱き初めていたことも示されています。4 この単純な言葉から、神の心をうかがい知ることができます。神の心に愛はあるでしょうか。また、懸念はあるでしょうか。これらの節では神の愛と懸念とが認められるだけでなく、それらを強く感じ取ることができます。良心と人間味のある人なら、温かみを感じ、愛され守られていると感じ、また幸せを感じるでしょう。5 そうしたことを感じたら、神に対してどのように行動するでしょうか。神とのつながりを感じるでしょうか。心の底から神を愛し、敬うでしょうか。心は神に近づくでしょうか。このことから、神の愛が人間にとってどれだけ重要かが見て取れるでしょう。しかしさらに重要なのは、人間が神の愛を認識し、それを理解することです」(「人にとって神の愛が如何に重要なことか」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。

讃美歌のひと言ひと言に私の胸は高鳴り、感激の涙がとめどなく流れ落ちました。神につき添われ、神に愛され、神が被造物に与えられるすべてのものを享受するこの美しい絵の中に、自分がいるように感じました。空気にも、光、水にも、どんなものにも神の愛はあふれているのです!神が私たちに与えられたものを私はことごとく享受していたのに、私の心は神から遠ざかっていました。このことで神はひどく悲しまれたのにちがいありません。とくに「あなたに良心や情があればその温もりと幸せな祝福を感じられるでしょう」という歌詞は、神が私の心と霊に呼びかけられているように感じました。2007年、私が夫とそれ以上暮らしつづけられなくなり、家と呼べるものがなくなったとき、神は私のために韓国の移住女性人権センターを用意してくださいました。センターは無料の食事と寝泊りする場所を提供し、弁護士を見つけてくれました。そして、無料で離婚の法的手続きの面倒を見てくれたのです。帰化の申請をするときなどは、神が長老派教会の長老を私の身元保証人にしてくださいました。ふつう韓国人が進んで人の身元保証人になることはめったにありません。とりわけ私は外国人で、しかもその教会には三、四回行っただけだったのです。神が秘かに助けてくださったおかげで、こうしたことがみな可能になったのだと私にはわかりました。また、帰化を申請する外国人は3000万ウォンの固定資産を持っている必要がありますが、私には300万ウォンの固定資産もありませんでした。移民局は、私が自活できることを示す在職証明書を提出するよう求めてきましたが、それで申請が難航するようなことはありませんでした……。神は私が窮地に陥ると必ず奇跡を起こしてくださいます。このことはすべて、神の至高性の表れなのです!神の愛は広大で深いのに、私はあまりにも反抗的でした。ずいぶん前から神を忘れて、神を失望させていたのです。この賞賛の讃美歌に霊を揺り動かされた私は、信仰を取り戻し、二度と放蕩に耽って神を悲しませまいと決意しました。

2017年2月19日、私はひどい頭痛と目の痛みに襲われました。病院に行きましたが、治療を受けても良くなりません。通っている教会の姉妹が、伝統的な漢方医学の心得がある友人を紹介して、治療の効果が出るまで1週間しかかからない、と教えてくれました。姉妹に連れられて治療を受けたその日、私たちは、漢方医学を知る友人のそのまた友人である、という名前の兄弟に出会いました。主を信じる兄弟との出会いは思いがけなかったので、これは神のはからいにちがいないと思いました。私は兄弟と聖書について話しはじめました。兄弟は聖書にある十人の処女のたとえ話をみんなに朗読してくれました。兄弟が私に尋ねました。「姉妹、あなたは主の再来を待ち望んでいますか?」私は答えました。「もちろんです!」すると兄弟が言いました。「では主はどのようにしてお戻りになるのでしょう?」私は躊躇なく答えました。

「聖書には、主は雲に乗って降臨されると書かれています!」兄弟は言いました。「あのですね。主はすでに再来されているのですよ」。私はそれを聞いてびっくりして尋ねました。「マルコによる福音書の13章32節にはこう書かれていますよ。『その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる』。主がいつ来られるかは誰も知らないのです。あなたは主が再来されているとおっしゃいますが、それはどうやってわかるのですか?」兄弟は私の質問に直接答えず、代わりに主の再来に関する聖書の預言をいくつか挙げました。これはルカによる福音書の12章40節です。「あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。ルカによる福音書の17章24-26節にはこうあります。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」。ヨハネの黙示録3章20節にはこうも書いてありますよ。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。それからヨハネによる福音書第10章27節にはこういう記述もあります。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」。

預言を読み終わると、兄弟は言いました。「主がいつ来られるのかは誰も知らないので、主は注意を怠らずに目を見開いているよう私たちに求められています。ただし預言によれば、主が再来されるときは人の子の形をとることになります。人の子とは神が人間になられる、つまり神が受肉されるということです。主が来られる正確な時期はわからなくても、その御声を聞けばわかるでしょう。というのも神の羊には神の御声が聞こえ、御声が聞こえたとき羊は神について行くからです……」。私はその時牧師が、主イエスが受肉して再来したと証しをする者は詐欺師だと言っていたことを思い出しました。私はそれ以上兄弟の話を聞く気にならなかったので、牧師にメールを送って「主が受肉して再来されたと私に言う人がいます。どこの教会の人でしょうか?」と聞きました。すると牧師から「東方閃電の人ですよ」という返信がありました。また牧師は、そこをすぐに立ち去って、もうその人たちと接触しないように、と言いました。さらに彼らの本を読まないようにしてほしい、という言葉に続いて、異端に対してどう警戒べきかという説教を送信してきました。牧師の言うことは何でも正しいにちがいないと思っていた私は、彼らの説教にはもう二度と耳を貸さずにひたすら無視することにしました。

20日の午後、治療を受けていると、驚いたことにその場所に兄弟が妹を連れて来て、再来された主の働きについていろいろ話しました。ところが、その日の朝母の訃報を受け取ったばかりでもあり、彼らの説教はいささか疑わしいとも思っていたので、何を言われても頭に入りませんでした。そんなことが3日間続きましたが、兄弟は私に福音を伝えることを諦めていないようでした。ただ私は内心ひどく動揺していたので、私にかまわないでください、と伝えました。私は言いました。「放っておいてください。あなたがしゃべりつづけてここから離れないなら、私が出ていきます!」兄弟は私に本当に聞く気がないのを見てとり、出ていくしかありませんでした。兄弟はもう二度と現れないのではないかと思っていましたが、驚いたことにその翌日にという名の兄弟を連れて来て、また私に福音を説きました。私は心の中で思いました。「どうしてこの人はこんなことを続けるのかしら?」体面を保つためには我慢するしかありませんでしたが、彼らと議論することはありませんでした。私は二人に冷淡な態度を取っていましたが、兄弟は辛抱強く私に話しかけつづけました。兄弟は言いました。「主はすでにこの世に受肉して再来され、裁きと刑罰の働きを行われているのです……」。兄弟が辛抱強く愛に溢れていることを知り、また私に福音を説く労苦をいとわない様子を見て、私は思いました。「私の教会の人たちは弱いわ。あの人たちの信仰と愛は冷えつつあるもの。東方閃電の信者の信仰と愛は、どうしてそんなに強いんだろう?私に根気強く福音を伝える彼らの努力を支えているのは、どんな力なんだろう?聖霊の働きがなければ、自分だけの力でこんなことができるはずはないわ!」

このとき、もう一人という名前の兄弟がいて、私と同じように終わりの日の全能神の働きについて話を聞いていました。私は終始投げやりな態度で上の空でいたのですが、兄弟は全能神教会について熱心に知ろうとしていました。兄弟は、以前全能神の福音を説かれたときは拒んだが、今日ふたたびそれを聞いたのは神に与えられた機会にちがいないので、積極的に知りたいと思うようになった、と話していました。兄弟は、私が牧師の言葉に関心を向けるばかりで、心を開いて探求していないと見ていました。そこで私のために、マタイによる福音書の5章3-6節を見つけてくれたのです。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。… 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう」。主の御言葉を読んだあと、私は思いました。「私はどうして主の御前で心を落ち着かせて真理を追求できないのだろう?万が一主が本当に再来されていたら、そしてこの人たちの説教に耳を傾けてより深く知ろうとしないなら、私は取り残されるのではないかしら?私ももう少し心を開かなければ。そして自分の想像にもとづいてやみくもに結論を出してはならないのよ」。心静かに全能神の福音について真剣に調べようと決心したその矢先、私の教会の説教師から思いがけなく電話がかかってきて、全能神教会の人たちとまだ一緒にいるのかと聞かれました。一緒にいます、と答えると、説教師はまた彼らとの接触をやめるようにと念を押しました。説教師が熱心に戒めるので、今しがた全能神教会についてよく知ろうとした思いは吹き飛びました。私は思いました。「牧師や説教師は私なんかよりずっと聖書を理解して、主が再来されたとは認めていないんだもの。私は聖書についてほとんど何もわかっていなくて洞察力もないのだから、ただ牧師や説教師が言うことを聞いているほうがいいわ」。私は電話を切ると、兄弟に告げました。「兄弟がそうしたことについて知りがっているなら、お二人で議論を続ければよいでしょう。私はもう聞いていませんから」。その言葉通りに、私はふたたび唐突に神の救いを拒んだのです。

一週間の治療のあと、私は仕事に復帰しました。母が亡くなったので悲しくて苦しくてたまらず、母のことを思わずにはいられませんでした。毎日職場から帰宅すると、母の写真を見て話しかけました。ある日、私はふと思いました。「私は主の信者なのだから困難を経験したり弱ったりしたときはいつでも、そうしたことを主にお話できるのよ」。その後は、辛いことに出会うたびに主の御前に出て祈り、主にお慰めくださいとお願いしました。ところがどんなに祈っても、心が動かされることはありませんでした。時には祈りながら眠りに落ちることもありました。その当時は毎日ひどく不安な状態で暮らしていたので、背後でちょっと物音がしただけで、なんとも言えない恐怖を覚えました。恐怖と無力感に捉われた私は、主に懸命に祈りました。「あぁ主よ!私の心は暗闇に満たされ、私は恐怖に震えています。もしかして私はどこかで過ちを犯したのでしょうか?あぁ主よ!ここのところ、あなたが全能神として再来されたという人たちの話を聞いています。あぁ主よ!あなたが本当に再来されていて、本当にあの人たちが話していた全能神であられるなら、兄弟が私に電話かメールをくれるよう時間と環境を調節してください。あの人たちが戻って来たらどんなことを言おうと、あなたの新たな働きと御言葉を喜んで素直に受け入れるつもりでいます。それがもしあなたの働きでないなら、そしてあの人たちが私に伝えるメッセージが間違っていて人を惑わすものだったら、どうか彼らの道をふさいで、もう二度と戻って来させないでください」。

驚いたことに、このように祈ったあと神は私が願ったことを寸分たがわず叶えてくださいました。兄弟が本当に電話をかけてきたのです。私は彼にここ数日間起こったことをすべて打ち明けました。兄弟は、私の心が暗かったのは終わりの日の神の働きを拒んで、神に反抗したからだと言いました。そして私に終わりの日の神の働きについて調べつづけてもらいたいと言いましたが、私はこの時その忠告を拒みませんでした。

それから間もなく兄弟から福音の映画が送られてきました。その映画の次のような台詞に私は心を揺さぶられてはっとしました。「私たちは神を信じているのだから、人ではなく神の御言葉を聞くべきである」。「その通りだわ!」と私は思いました。「私が信じているのは神なのだから、聞くべきなのは神の御言葉なのよ!それなのに兄弟と兄弟が終わりの日の神の働きについて話してくれているあいだ、私は牧師にそれについて質問しつづけていたのだわ。そして牧師と説教者の言うことに従い、全能神の新たな働きや神の御言葉について、熱心に調べる気にならなかったのよ。主は信じていたけど、主に祈ったり主を探求したりはせず、その代わりやみくもに牧師と説教者が言うことを信じていたんだ。私は何と愚かだったんだろう!聖書には『人間に従うよりは、神に従うべきである』(使徒行伝 5:29)と書かれているのに。私は主を信じていても主に従っていなかったのよ。その代わり人に従っていたのだから、人間を信じて従う者になっていたのではないのかしら?それは主に抵抗し背くことではないかしら?全能神が再来した主イエスであられ、私が全能神を受け入れようとせずに、こんなふうに神に反抗し抵抗するなら、私は盲目な愚か者ではないだろうか?私は主を締め出していたのではないの?」

そう考えるうちに、悔やんでも悔やみきれない気持ちになり涙がこみ上げてきました。

私はまたもや主の御前に出て祈りました。「主イエス・キリストよ!あなたがすでに受肉して再来されていて、あなたが終わりの日のキリスである全能神だと福音を説く人がいます。私にはどうしてもそうとは思えませんが、あなたの御声を聞き分けられるよう、あなたの御前に出てあなたを探求し、あなたに啓いていただくことを望んでいます。あなたが本当に再来されていて全能神であられるなら、私はあなたに悔い改めを示して、あなたの働きと救いを受け入れたいのです。どうか私をあなたの御前にお戻しください」。祈り終わると、ある種の喜びとともに慰められているという言葉にできない感覚を覚えました。そうした感覚を味わったのは久しぶりでした。私は主が私の祈りをお聞きになり、慰めてくださっているのがわかり、そうしたことが神が私に与えられた証しなのだと悟りました。私はすぐにでも全能神教会に行ってそうしたことについて調べたかったのですが、全能神教会の兄弟姉妹の感情を害したのにちがいないと思ったので、どうしても気が引けて教会へは行けませんでした。

そうしたジレンマのまっただ中にいるときに、兄弟が電話をかけてきて、時間はありますかと尋ねたあと、終わりの日の全能神の働きについて調査を続けられるといいですね、と言いました。私は兄弟に心配事について話しました。兄弟は言いました。「大丈夫ですよ。私たち神の信者はみなひとつの家族ですから、全能神教会の兄弟姉妹は全然気にしていませんよ」。その言葉を聞いたとき、神が私の霊的背丈が未熟であることに理解を示してくださったことがわかったので、翌日兄弟と一緒に全能神教会に行きました。

全能神教会の兄弟姉妹は私が戻る道を見つけたことを喜んでくれました。そして主イエスが再来されて、終わりの日に真理を表され、神の家から始まる裁きの働きを行われていることを私に正式に証ししてくれました。終わりの日の神の受肉の意味や、人類を救うための受肉の重要性についても話してくれました。その後、私は次のような神の御言葉を読みました。「わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)

この神の御言葉を読んだあと、私は兄弟姉妹が教えて証ししてくれた真理について、注意深く考えてみました。すると終わりの日の主の再来には二通りがあるのがわかりました。ひとつは隠れた降臨で、もうひとつは衆前での公然とした主の降臨です。となると、神の家から始まる受肉した全能神の裁きの働きは、まちがいなく隠れて降臨された主の働きになります。なぜなら受肉した神は人類に紛れて再来されたので、普通の人と同じ外見をされていて、見ただけでは誰にもそのお方が神であるとわからないからです。誰もその正体を知らず、このことは人々に秘密にされています。神の御声を聞き分けられる者だけが、神を知り、受け入れ、従うのです。主イエスもそうおっしゃっています。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。神の御声がわからない者はきっと神を普通の人として扱うでしょう。そして昔のユダヤ教のパリサイ人と同じように、神を否定し、抵抗し、拒むのです。パリサイ人は主イエスを見てもその正体がわからなかったので、主をやみくもに非難しました。現在は、主が人類を救われる隠れた働きの段階にあります。全能神は人を裁き、清め、完全にする御言葉を表されています。災厄が起こる前に、全能神は勝利者による集団を作られ、この勝利者の集団が完成したとき、受肉して隠れた降臨をされた神の働きは完了します。災厄が始まると、神は良き者に報い悪しき者を罰し、全世界の国々と民族の前に公然と現れられます。その時、まさしく聖書の記述通りに、主が公然と姿を現されるという預言が実現します。「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう(マタイによる福音書 24:30)。「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう」 (ヨハネの黙示録 1:7)。主が雲に乗って降臨されたとき、地上の諸族がみな胸を打って嘆くのはそのためなのです。そう思ったとき私の心は突然光で満たされ、私は隠れた降臨をされた主の働きが、私たちの大いなる救いであることを理解しました。主が隠れた降臨をされているあいだ、私たちは神の御言葉による裁きを受け入れることによってのみ、清められて神の救いを得ることができるのです。今神の裁きの働きを受け入れなければ、神が公然と雲の乗って姿を現されるとき、私たちは主に抵抗する者となり、必ず嘆いて歯ぎしりすることになります。その時点で悔やんでも遅すぎるのです。全能神もおっしゃっています。「神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている」。

全能神に感謝します!神の御言葉によってすべての奥義が明らかになりあらゆる側面での真理が明確に説明されて、私の目は開かれ、それ以来私は心底から確信しています。その後私は定期的に教会に通い、兄弟姉妹とともに終わりの日に神が表された御言葉を読みました。私たちは讃美歌を聞き、音楽動画や神の御言葉の朗読動画、福音の映画を観ました。すべて全能神教会の兄弟姉妹によって製作されたものです。どの集会でも何かしら新しいもの得たように感じ、例えようもなく幸せでした。とくに福音の映画の中で、兄弟姉妹があらゆる問題について詳しくはっきり説明しているので、長年私が主への信仰の中で抱いていた疑問や迷いが少しずつ解消されました。そして全能神教会が本当に聖霊の働きを得ていて、全能神が再来した主イエスであられることを理解したのです!それ以上にわくわくしたことがありました。この教会に通うようになった三日目に、2016年のクリスマスにステージで賛美の歌を披露した姉妹に会ったのです。この姉妹も終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのでした。私は心から神に感謝を捧げます!なぜなら私たちが子羊の足跡に歩調を合わせ、荒野からカナンの良き地にたどり着き、神の家に戻り、豊富に与えられる神のいのちの御言葉を神とともに享受するように仕向けてくださったのは、神の導きと啓きだったからです。

私が神の家に戻れたのは、神が特別な思いやりを示してくださったからだと思っています。自分の反抗的な本性を考えると、神の指導や導き、あるいは神の御言葉を説教してくれる兄弟姉妹の忍耐強さがなければ、私が主の再来を迎えられるはずはありません。神の私への愛は本当に偉大すぎて、何と表現してよいかわかりません!私はただ讃美歌を歌って神を賛美し、全能神にひたすら従いたいのです!

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