10. 天国は実は地上にある
私たち信者がもっとも強く切望しているのは、天国に入って主が人に賜わる永遠の幸福を享受できるようになることです。牧師は説教の中で、主が将来私たちに用意してくださる場所は天のうえで、そこには黄金の野や翡翠の壁があり、宝石がいたるところで光り輝いているとか、私たちはいのちの木の実を食べ、いのちの川の水を飲むことができるとか、もはや苦痛も涙も悲しみもなく、すべてが自由で解放されるなどと話していましたが、私はそれを聞くたび、感情と喜びのとてつもない高まりを感じたものです。それは私が心の底から待ち望んでいた場所であり、苦労と悲しみに満ちた地上での生活に私の心はすっかり疲れ果てていました。そこで私は福音の伝道に駆けずり回り、主のために自分を熱心に費やしました。福音を広めて教会を築き、どれほどつらかったり困難だったりしても決して立ち止まりませんでした。特に、私たちがいま終わりの日にいて、主がもうすぐお戻りになって私たち全員を天の家に連れてくださることを知ってからというもの、私はますます積極的に働き、自分を費やすようになったのです。
ある日、私は母の様子を見に妹の家に行きました。帰りがけに、妹がある本をくれ、注意深く読むように強く勧めてきました。私は心の中で思いました。「妹がくれた本は霊的な本に間違いない。今ちょうど私は霊的に干からびているような感じがするし、主の臨在が感じられない。聖書を読んでも何の啓発もない。家に着いたらこの本を注意深く読まなきゃ。何かを得られるかもしれない」。自宅に着くと、本を開いて読み始めましたが、知らぬ間にこの本に吸い込まれていきました。読めば読むほど、さらに読みたくなり、本の中の言葉には光があり、聖霊による照らしがあり、普通の人間がこれらの言葉を発することができるはずがないと感じました。この本を読んで以降、以前聖書を読んでも理解できなかった真理をいくつか理解できるようになり、心の中がはっきりし、喜びを感じました。この本のおかげで、私は祈って主にさらに近づきたいと思いました。信仰は深まり、霊的状態は増々よくなりました。私は思いました。「聖霊の働きのみが人に信仰と力を与え、霊的な糧と支えを施すことができる。この本にある言葉は聖霊のものに違いない」。その結果、私は毎朝起きたら先ず最初にこの本を読むことにしました。
ある日、私はこの本を開き、次の節を読みました。「神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。これを読むと、私は一瞬どっきりし、思いました。「人は将来地上で暮らす? 主イエスは、将来私たちは天で暮らすとお約束されなかった? なぜこの本には私たちが地上で暮らすなどと書いてあるの? どうしてこんなことが可能なの? 読み違えたかな?」こうして私はもう一度この節を注意深く読みなおしましたが、間違いなく人は将来地上で暮らすことになると書いてあったのです。これは実際に何を意味しているのだろうかと考えました。これではどうにもなりません。これが本当に何を意味するのか理解しなければなりません。私は読み続けました。「神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。……人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。読めば読むほど、私はさらに混乱していきました。人は地上から神を崇拝するのか? それはどのように起こるのか? 聖書には天で、と書かれているのではないのか? どうしたらそれが地上になるのか? 私は急いで聖書を手に取り、ヨハネによる福音書14章2-3節を開き、主イエスの御言葉を読みました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。主イエスは、主の復活と昇天は私たちの居場所を準備するためであったと明確に仰っておられるので、私たちの終着点は天にあるはずです。これが主の御約束です! 私は心の中で思いました。「この本に書かれていることは主の御言葉と違うから、これを読み続ける訳にはいかない」。本を閉じた後、私はとても混乱した状態に陥り、何がするべき正しいことなのか分からなくなりました。そこで絶え間なく主に祈りました。「ああ、主なる神様。どうか私を照らし、御導きください。私はこの本を読むべきでしょうか? 読むべきでないのでしょうか? ああ、主よ、どうか私を啓き、導いてください……」祈りを捧げた後、私はこの本を読んだ後に主との関係が近くなり、信仰について熱心さが増し、霊的な糧を得たと感じたことについて考えました。この本を置いて、読むことを止めてしまったら、私は霊的に干からびた以前の状態に逆戻りしてしまうと感じました。この本は大いに私のためになり、これが聖霊からきたもので、聖霊から来たものは何であれ間違っているはずはないという確信が持てたため、その一部が自分の観念と一致しないからといって、その本を拒否し、読まずにいるべきではないと分かっていました。私はこのことを考え抜いた後、心を決める前に本を読み続けるべきだと結論付けました。
その後すぐ、私は又この本を手に取って読み続けました。「人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。私はこのことを何度も熟考し、思いました。「この節には神の安息の場は天にあり、人は安息するとき、地上で神を崇拝すると書いてある。ということは、地上が本当に人の安息の場所だってこと? そんなことはあり得ない! 主イエスは、主がどこにおられようとも、私たちは主の側にいることになると既に仰っておられ、主イエスは復活され、昇天されたのだから、私たちも間違いなく昇天するはず!」私は過去数年間、主のためにあちこちを歩き回ったこと、多くの苦しみを耐え抜いたことを思い返しました。あれだけの苦しみはどれも、いずれ昇天してこの世の苦しみに絶えなくてもよくなるためではなかったのでしょうか? この本に書いてあることが本当に正しく、人は将来も地上で暮らすことになるのであれば、私の希望は無駄だったということなのでしょうか? 私は動くこともできず、ベッドに座り、頭からつま先まで力が入りませんでした。これについて考えれば考えるほど、落ち着いてはいられなくなりました。このことをなんとか解明したくて、私は急いで妹の家に行きました。
妹の家に着くと、そこには中年女性がいて、妹はリー姉妹と紹介してくれました。その後すぐ、私はこの本を読んだ後に感じたことを二人に打ち明けました。リー姉妹は私の話を聞いた後、話してくれました。「チェンさん、主を信仰する私たちは全員が主イエスは人のための場所を用意してくださると御約束され、主がどこにおられようとも私たちもそこにいることになると信じています。主は昇天されておられるので、主が将来再臨される時、主は間違いなく私たちを天に迎え、私たちは主と共に天で暮らすことになると考えています。しかし、このような想像と推論が成り立つのか考えたことがありますか? 私たちの想像通りに主が来臨され、天で暮らすために私たちを御連れくださるのであれば、主の祈りにある『御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』(マタイによる福音書 6:10)という言葉とヨハネの黙示録に記された『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして』(ヨハネの黙示録 21:3)という預言は意味を成さなくなりませんか? どうやってこれらが成就することができるというのでしょうか? 神が私たちに御与えくださる終着点が天にあれば、神が最初に人類を創造なさった時、神が私たちを地上で生活させた意義は何だったのでしょうか?」これには全く納得がいかなかった私は、こう言って反論しました。「聖書にはそう書いてありますが、主御自身は仰いました。『あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである』(ヨハネによる福音書 14:2-3)。主イエスは復活された後に昇天されました。そしてこの聖句で主は私たちのための場所を準備しに行かれると仰っておられます。主のおられる場所に私たちも行くと主は仰っておられます。従って、これは、私たちが地上で永遠のいのちを手にするのではなく、昇天して永遠のいのちを手にすることを神が御約束されたことを証明しています。これを否定できる人はいません!」リー姉妹は根気強く話し続けました。「主が主を信仰する人たちのための場所を準備してくださっておられるのは真実ですが、その場所は実際は地上にあるのでしょうか? それとも天にあるのでしょうか? 主の御言葉はそれについて言及していません。では、主が私たちのために準備してくださっておられる場所は天にあると言う時、一体何を根拠にそう言っているのでしょうか? これは主が実際になされた御約束なのでしょうか? それとも観念や想像でしょうか? 主を信仰する私たちにとっては、全てが主の御言葉に基づいているべきであり、私たち自身の観念と想像で主の御言葉を汚して、それが主の御言葉の意味であると主張するべきではないのです。これは個人的な考えや動機に沿って主の御言葉を説明していることになりませんか? これは主の御言葉を曲解していることになりませんか? 主の御言葉を説明するために自分たちの頭の中にある想像や、私たちの思考や好みに頼ることはできないのです。それは過ちを犯すことです。創世記2章7-8節には『ヤーウェ神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。ヤーウェ神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた』とあります。神が最初に地上で人類を創造されたこと、そして人類を創造される前には人類の生存に適した環境を整えるために全てを創造されたことは明らかです。私たちを地上で生活させようという神の御旨が分かります。これに加え、主の祈りでは、主は私たちに神の御国が地上に来ることを神に祈らせておられます。これはヨハネの黙示録でも預言されています。『この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった』(ヨハネの黙示録 11:15)。『神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み』(ヨハネの黙示録 21:3)。この聖句と預言から、神が私たちのために準備してくださっておられる場所は地上にあり、私たちの将来の終着点も地上にあって、天ではないことが分かります」。リー姉妹の話の内容は私の観念とは正反対でした。私は彼女の言ったことに全く耳を傾けませんでした。私は立ち上がると、怒って彼女に言いました。「もうたくさんです! 私は天国に行けるようにと長年に渡って主のために走り回り、労力を費やし、苦しい思いをしてきたのです! 私は今までずっと主が私を天の御家へと御連れ下さって、これ以上地上で苦しまなくてすむようになることを楽しみに待ってきたんです。それなのにあなたは私たちの終着点は地上にあると言うなんて。そんなこと絶対に受け入れられません」。こう言うと、私は背を向けてその場を後にしました。妹が私に話を少しは分からせようと駆け寄ってきました。「お姉さん、どうしてそんなに頑固なの? お姉さんが固執しているその観念は正しいの? 主が『あなたがたのために、場所を用意しに行く』と仰った本当の意味を知らないのに、自分の意見を貫こうとしている。愚かなことをしていると思わない? これは真理を求める人が持つべき態度じゃないわ! 私たちが待ちわびる主イエスは既に再臨されている。全能神は再臨された主イエスなの! 私がお姉さんに読むように渡した本は神御自身の御言葉が書いてあるのよ! 私たちを迎えてくださるように毎日再臨を待っていた主は、戻ってこられたの。注意して耳を傾けていなきゃ。この一生に一度の機会を逃す訳にはいかないのよ!」
私は妹がこう言ったのを聞いてびっくりしました。どうしても今耳にしたことを信じることができませんでした。「主が再臨されておられるですって? それは本当なの?」妹はこう言いました。「この本に書かれている言葉は聖霊から来たって前に言ったのはお姉さんでしょ? これを読んだ時、心の糧を大いに授かって、聖霊の働きも内に宿って、主との関係も近くなったって言ってたでしょ? 考えてみて。主の御言葉以外に誰がそんな効果を得られる話し方ができるって言うの? 今、主は働きを実行して、新たな御言葉を発するために再臨され、私たちは神の御言葉の素晴らしさを味わうことができる。もしこのことを探求も調査もせず、ただ盲目的に私たち自身の観念と想像と聖書の文字通りの意味だけに固執し続けていたら、私たちは最終的には自滅することになるわ。聖書に精通していたパリサイ人たちは当時、盲目的に聖書の文字そのものに固執し、聖書に関する自分たちの理解が正しいのかどうか、またはそれが神の御旨と一致しているのかどうかを全く疑おうとしなかった。むしろ、彼らはメシアとは呼ばれていない者は来たるべく救世主ではないと考えて、主イエス様の道が人のいのちに糧を与えることができるのかどうか、それが実践の道を示すことができるのかどうかを調査しなかった。ただ頑固に自分たちの観念と想像に固執し、盲目的に主イエス様の救いを拒否し、最終的には主を十字架に釘付けにするという凶悪な罪を犯したのよ。私たちはパリサイ人たちの足跡を辿って神に抵抗する道を歩むわけにはいかないわ!」妹の言葉を聞いた後、私は妹の言ったことは筋が通っていると思いました。主の御言葉だけが霊が干からびた状態にある時に頼れる解決策です。私はこの本の御言葉を読むようになって以来、自分の霊的状態がどんどん改善していったことを思い返しました。この本は私に神への信仰を与えてくれ、私は主の臨在を感じることができました。真理をいくつか理解できるようにさえなったのです。もしかしてこの本の御言葉は本当に再臨された主の御発言なのでしょうか? 主の再臨は非常に重要な事です。盲目的に拒否して判断してはならず、調査して探し求める努力をするべきであることは分かりました。真理を求めず、神に抵抗しながら自分たちの観念に固執したパリサイ人のようになるわけにはいかないのです! この時、私は嬉しい驚きと同時に怖くもなりました。嬉しい驚きは、私は今まで主を信仰してきて、主が再臨され私を天国に受け入れてくださり、地上での苦しい生活から解放され、心配事のない生活を送れることを心待ちにしていたからで、その日、主が再臨されておられるという知らせを聞いたからです。これは本当に重要で、喜ばしい出来事でした。怖くなったのは、もし全能神が再臨された主であられるのだとしたら、主に天国に受け入れていただくという私の夢が砕け散ってしまうからでした。私の心は動揺し、さまざまな感情であふれました。無力感に駆られ、私は祈りを通じて主に頼るしかありませんでした。「ああ、主なる神様! 私は毎日、主が来臨されて私を天国の御家に連れて行ってくださることを待ちわびていました。しかし、妹たちは主が私のために御用意くださった終着点はこの地上にあると言っています。私は本当にこの事実と向き合うことができません。私は本当に地上でこのような苦難に満ちた生活を続けたくありません。ああ、主なる神様! 私は今、心の中で本当に苦しんでいます。どうか私を御助け、この先の道へと御導きください」。祈りを捧げた後、主イエスが仰った御言葉を思いだしました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書 5:3)その通りです! 主は心が貧しくて、真理を求める人たちを好まれ、そのような人たちだけが天国に入れます。私も心の乏しい人になるべきなのです。妹たちの話を注意深く聴くことだけが主の御旨に従うことなのです。
ちょうどその時、リー姉妹が言いました。「主は『心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう』(マタイによる福音書 5:8)と仰いました。主の御言葉に耳を傾け、主をお迎えするためには心が純粋であるべきです。今日、神が成される働きは私たちの観念や想像とは一致しませんが、それでも神がなさることは全て善良であり、それは全て人類のためであり、全てに神の御心が込められており、その中には探し求めるべき真理があります。これを完全に理解していないのであれば、私たちは先ず自分たちを脇に置いて、真理を求める努力をしなければなりません。そうすることで、私たちは神の御啓示を受け、神の御旨を理解することができるのです。チェンさん、どうか心を開いて、まだ理解できないことを話してください。話し合って一緒に探求しましょう」。私はリー姉妹の言ったことは筋が通っていて、自分は落ち着いて探求すべきだと感じたのでこう言いました。「リー姉妹、一つ分からないことがあります。どうして私たちの終着点は天にはなく、この地上にあるのですか?」リー姉妹はヨハネによる福音書3章13節の「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」とイザヤ書66章1節の「天はわが位、地はわが足台である」を見つけて、私にこの二節を読ませました。そして、この二節の意味について話してくれました。姉妹の話は突然私の心に光をもたらしました。私はこれらの聖句を以前から知っていたのに、今まで一度も熟考したことがなかったのでしょうか? 天は神の御座であり、地は神の足台であるため、天から降臨された人の子以外に昇天できる人は存在しないと、主はっきりと仰っておられます。それなのに、どうしたら人が昇天するにふさわしくなれるというのでしょうか? 神は人を地上で創造され、人を地上で生活させられました。神が人を創造されて以来、人は何世代にも渡って地上で暮らし増えてきました。神が人類を救うためになされた仕事も全て地上で行われてきました。これは神が遠い昔にお決めになったことであり、誰にも変えられないことです。リー姉妹は続けて、聖書で主が私たちのために場所を用意すると仰ったことに話を関連付けていきました。リー姉妹の説明では、これは終わりの日における受肉した神の出現と地上での働きのことであり、私たちが終わりの日に生まれ、神の御声を聞き、神の御座の前に連れてゆかれ、神による終わりの日の裁きと清めを受け、最後には神の国に導かれることを神はすでにお決めになっていたのだそうです。これが「わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネによる福音書 14:3)の真の意味なのです。神の御国は実は地上にあり、人類の終着点も天ではなく、地上にあることが分かりました! 私は自分の観念と想像の中に生き続けてきた間、神の再臨をただ私を天の生活にお連れ下さることに限定していましたが、これは実は主の御旨にも事実にも一致しないことです! しかし、私はそれでもサタンに苦しめられるような地上での生活を送りたくありませんでした。私はこの気持ちをリー姉妹に説明しました。
私の話を聞いた後、リー姉妹は『言葉は肉において現れる』という本を開き、全能神の御言葉の中から一節を読んでくれました。「安息の中の生活とは、戦いも汚れも、継続する不義もない生活である。言い換えれば、そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する勢力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその種類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが、人類が安息に入った生活である。……神と人が安息に入った後、サタンはもはや存在せず、サタン同様、邪悪な者も、もはや存在しない。神と人が安息に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある邪悪な者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような邪悪な者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、そうして初めて、神の働きが完全に終わる。これは神と人が安息に入る前提である」(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。
全能神の御言葉を読み、将来私たちは依然として地上で生き続けるけれど、神が人類を救う働きの最終段階をひとたび終了されたら、サタンは破壊され、地上での生活において私たちはもう二度とサタンから悩まされることはなくなり、苦労したり心配したりすることも、涙を流したりため息をつくこともなくなるのだと私は理解するにいたりました。私たちの生活はアダムとエバがかつてエデンの園で暮らしていた時のようになるのです。私たちは自由に神を崇拝できるようになり、神と共に美しく、恵まれた生活を送るのです。これが人類の終着点であり、神が終わりの日における働きの中で一番最後に達成なさることなのです。これは本当に偉大なことです! その瞬間、私は叫びました。「誰が人類の終着点についてこれほど明確に語ることができるのでしょうか? 一体だれが人類の最後を取り決めることができるのでしょうか? それは神のみがし得ることです!」全能神の御言葉の中に私は神の御声を認め、全能神の働きとは神の出現であり働きであることだと知ったのです! 私の中にあった観念はついに消え去り、私は終わりの日の全能神の働きを喜んで受け入れ、神の御座の前に戻りました。