2. 清めへの道

クリストファー(フィリピン)

私はクリストファーという名前で、フィリピンにある家庭教会の牧師です。私は1987年に洗礼を授かり、主イエスの元に戻りました。そして主の御恵みにより、1996年に地元の教会で牧師となりました。当時、フィリピン国内の多くの場所で働き説教する以外にも、香港やマレーシア等で福音を説いていました。聖霊の働きと御導きにより、私には主のために行う働きにおいて無尽蔵なエネルギーと説教のための天啓があるように感じていました。私は兄弟姉妹たちが否定的で心弱くなっている時は頻繁に彼らを支えました。彼らの家族で主を信仰していない人たちが私に対し非友好的であっても、私は寛容かつ忍耐強くあることができ、主への信仰を失わず、主が彼らを変えてくださると信じていました。そのため、主を信仰し始めて以来、自分が大きな変化を遂げることができたと感じていました。しかし、2011年から、以前ほど強い聖霊の働きを感じなくなってしまったのです。私は自分の説教のための新たな啓示を徐々に失い、罪深い生活から抜け出す強さもなくなってしまいました。妻と娘が私の気に入らないことをするのを見ると、思わず彼女たちに腹を立て、怒りながら叱ってしまいました。私は、こういったことは主の御旨に沿っていないと分かっていましたが、自分を抑えられないことが頻繁にありました。私はこれについてとても頭を悩めました。罪を犯してはその告白をする生活から抜け出すため、私は聖書を読むことにさらなる努力を注ぎ、絶食し、祈りを捧げ、これについて共に追求し検討してくださる霊的な牧師をあちこちで探しました。しかし、私の努力は全て無駄に終わり、私の罪深い生活と魂の闇は全く変化しませんでした。

2016年の春のある夜、妻が聞いてきました。「クリストファー、最近とても悩んでいるみたいだけど、何なの?」私は妻に自分の悩みを告げました。「ここ数年のことなんだけど、自分は牧師で長年に渡って主を信仰しているにもかかわらず、なぜ罪深い生活から抜け出せられないんだろうか、と悩んでいるんだ。もう主を感じることができなくて、まるで主に見放されてしまったようなんだ。あちこちで説教しているのに、自由な時間ができるとたん、特に真夜中になるといつも心の中が空っぽで不安な気分になって、この気持がどんどん強くなっていく。自分が今まで長年主を信仰してきたこと、聖書を沢山読んできたこと、主の説教をたくさん聴いてきたことを考えて、自分の十字架を背負って自己を克服すると何度も決意してきたけれど、いつも罪に縛られている。自分の利益と面目を保つために嘘をつくこともできてしまい、『彼らの口には偽りがなく(ヨハネの黙示録14:5)という生き方を実現できていない。苦難や精錬に直面すると、これらは主の承諾があって起こっていると分かってはいても、どうしても主に文句を言って主を誤解せずにはいられず、喜んで自己を捨てることが全くできない。このように罪の中に生きていれば、主が来られても天国に入れないんじゃないかと思うんだ」。

これ聞いた妻はこう言いました。「クリストファー、どうしてそんな考え方ができるの? 信仰を持たなきゃだめよ。あなたは牧師なんだから! 私たちは罪のある生活を送って、罪の拘束から抜け出せていないけれども、聖書にはこう書いてあるわ。『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙 10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙 10:13)。根気強く聖書を読んで、集会に参加し、主に祈り、自分の十字架を背負い、再臨までひたすら主に従ってさえいれば、天国に入って主の祝福を受けることができるのよ」。

私は妻に言いました。「僕も前はそう考えていたけれど、ペテロの第一の手紙1章16節には『聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである』。僕は30年も主を信仰してきたけど、未だに主の道に従うことができないし、依然として罪の中に生きているし、頻繁に主に抵抗することもできてしまう。主のお求めになることを満たすなど到底できていない。ああ! 何度も主の教えに従うと決意してきたのに、主の御言葉を実践することができていない。こんなので、どうして天国に入るにふさわしくなれるというんだ? 主イエスは、『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである(マタイによる福音書 7:21)と仰った。主の御言葉によると、天国に入るのは僕たちが思っているほど単純ではないんだ。主は聖なるお方だ。では、主の御言葉を実践できず、主に頻繁に抵抗している者がどうして天国に引き上げていただけるというんだ? 変化を遂げ、神の御旨を行う人のみが天国に行けるんだよ!」

妻は少し考えてからこう言いました。「あなたの言っていることは筋が通っているわ。主は聖なるお方で、私たちは依然として罪深いまま。私たちは神の御国に入るのにふさわしくない。だた……急に思いだしたんだけど、牧師のリュウ先生は教会に韓国人牧師のキム先生を招待していなかった? この問題について尋ねてみてはどうかしら?」私は言いました。「うん、それはいいな。主イエス様は『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう(マタイによる福音書 7:7)と仰った。僕たちが求め続けてさえいれば、主は僕たちを導いてくださるはずだ。牧師として、僕は兄弟姉妹のいのちを考慮しなきゃならない。僕が信仰においていいかげんなら、兄弟姉妹にとっても自分自身にとっても良くない。キム先生が到着するのを待って、この問題に関する意見を求めてみよう」。

私はキム牧師に相談するつもりだったので、彼の経歴を知りたくなりました。私はインターネットで彼の韓国人教会を検索してみました。検索結果の出たページに、https://jp.kingdomsalvation.orgというウェブサイトがありました。このウェブサイトを開いてみると、そこに書かれていた言葉に引き込まれました。「人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。これはとてもよく表現されていて、私は読み続けずにはいられませんでした。「したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。私はこれを読んでとても興奮しました。完全に理解することはできず、中には戸惑わせるようなことさえありましたが、それでも私は希望を持つことができました。私はこの中に自分を清め、自分を変える方法を見つけられる気がしました。私は祈りを聞いて下さったことを神に心から感謝しました。読み続けるにつれて、私はこれは本当に素晴らしい言葉で、自分の乾いた魂に水を注ぎながら導いてくれると感じました。そのウェブサイトに、「あなたの国または地域の福音ホットラインが見つからない場合はメッセージをお残しください。出来るだけ早くにご連絡を差し上げます」と書いてあるのを見て、さっと探しましたが、フィリピン福音ホットラインはなかったので直ぐにメッセージを残し、ためらうことなく自分の電話番号と電子メールアドレスを記入しました。

その夜、帰宅した後、私がこのことを妻に話すと、それを聞いた妻も同様に求めたいと思いました。翌日、私のメッセージに返信があり、その日の午後にネットで会話できることになり、このことを心から主に感謝しました。その日の午後、私たちはリュウ姉妹とスー姉妹と話をしました。この会話から、私は二人の姉妹は分かり易く、巧みに、識見をもって話していたように感じました。妻は私よりも意欲的で、こう言いました。「質問をしてもよろしいでしょうか?」姉妹は熱心な口調で「もちろんです」と返事してくれました。妻はこう言いました。「あなたたちの教会のウェブサイトには『終わりの日に神は裁きと刑罰の働きの段階をなされた』と書かれていますが、私と夫は聖くなければ誰も主を見ることはできず、それは主が聖なるお方であられるからだと分かっているのですが、『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙 10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙 10:13)。主イエスを信仰していれば、既に救われており、天国に行くことができるのならば、どうして終わりの日の神は裁きと刑罰の働きをなされているのでしょうか? 私はこれが理解できないので、お話しいただけると嬉しいのですが」。

リュウ姉妹が応えました。「神に感謝! それでは一緒に話し合って、神に私たちをお導きいただきましょう。まず最初に、ここで『救われる』とはどういう意味なのかに注目してみましょう。律法の時代の後期において、人々は誰もが神から遠ざかり、神を畏れる心を失ってしまいました。彼らは増々罪深くなり、失明したり、足が不自由だったり、病気に罹ったりした家畜や鳥を生贄として捧げるようにまでなってしまいました。あの時代の人々はもはや律法を守ってはおらず、誰もが律法を犯したために死刑に処せられる危険にありました。このような状況において、律法の下に生きる人々を確実な死から救うために、神は自ら受肉され、贖いの働きに着手され、最終的には人類全体の罪を贖うために十字架に釘付けにされたのです。人は主イエスを信仰することで罪を赦していただき、神の御前に行って神に祈りを捧げ、神の御恵みと祝福を授かるにふさわしい者となったのです。これが恵みの時代において『救われる』ということの本当の意味です。言い換えると、『救われる』とは単に人の罪が赦されるということでしかないのです。すなわち、神はもはや人々を罪に汚れているとは見なされませんが、これは人々がもともと罪深くないという意味ではありません。従って、救われるということは私たちが完全に清められて完全に救われたことを意味しているわけではありません。清められたければ、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れなければならないのです」。

姉妹たちの交流を聞いて初めて、妻と私は「ローマ人への手紙」に記されている「救われる」ということは、主イエスによる救いを受け入れ、もはや律法を違反したことによって死刑を宣告されずに済むということを指しているのだと理解しました。「救われる」というのは私たちが想像していたような完全に清められるということではなかったのです。姉妹たちの言っていたことは筋が通っていました。「救われる」ことについてのこの説明は、私たちが罪を犯してはその告白をするといった状態に生きていることに符合していました。つまり、主イエスがなされたことは贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではなかったのです。人がひとたび主を信仰すれば、救われはしますが、それは完全に清められたことを意味しているわけではないのです。姉妹たちの交流を聞いて、私はそこに探し求めるべき真理があると感じたので、話を聞き続ける意欲を示しました。私はこう言いました。

「主に感謝! 素晴らしいお話しです。お二人とこのように話したおかげで、『救われる』ことの真義が理解できました。どうぞお話しを続けてください。主が私たちをお導きくださいますように」。スー姉妹が続けてこう言いました。「分かりました。全能神の御言葉の節をいくつか読んでみましょう。そうしたら全てがさらに明らかになりますよ。全能神はこう仰りました。「当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。私たちがもし恵みの時代における神の贖いの働きに固執し、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れないでいると、私たちの罪深さの根本的な問題は解決されないということが全能神の御言葉から分かります。終わりの日に全能神は来臨され、贖いの働きを土台の上に人を裁き、清める段階の働きをなさっています。全能神は人の堕落という真相を明らかにする真理を語り、人のサタンのような本性を裁いておられます。全能神は人々のサタンのような性質を変え、人々をサタンの支配から完全に解放するために来臨されました。そうして人が完全な救いを得られるようにです。全能神の終わりの日における裁きの働きが、人々を清め、救い、完全にする上で最も重要かつ根本的な働きであることは明らかです。従って、終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れて初めて、人はその堕落した本質と神の義なる性質についての真の認識を得て、サタンの影響から完全に抜け出し、神に救っていただき、神に従い、神を崇拝し、神の御旨と調和した人になることができるのです」。

この話を聴いた後、私は心が明るくなり、長年の混乱がついに解消したように感じました。神は恵みの時代において贖いの働きをされただけで、それは人々から堕落したサタンのような性質を取り除く働きではなかったのです。終わりの日に受肉された神を通して真理を明らかにする裁きの働きは、人類を完全に清め、救う働きなのです。となると、神はどのようにして人々を実際に清め、変化させ、完全に御救いになるのでしょうか。私はこの疑問の答えを知ることを熱望しましたので、こう質問せずにはいられませんでした。「今仰ったことは理解できますし、再臨された主による裁きの働きの段階を通してのみ清められるということも分かります。これは正に私が長い間待ちわびていたことです。今本当に知りたいのは全能神がどのようにして裁きの働きにより人々を清め、御救いになるのかということです。これについても分かち合いをお願いします」。

スー姉妹は続けました。「全能神がどのようにして裁きの働きをされ、人々を清められ、御救いになるかという質問は、変化と清めを成し遂げることを希望する人にとって特に重要です。全能神の御言葉は真理のこの側面についてお話しになられています。あなたにその御言葉を送ります。是非お読みください!」

私は全能神の御言葉を興奮しながら読みました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

私が御言葉を読み終えると、スー姉妹は続けてこう話してくれました。「全能神の御言葉は神がどのように人々を裁き、清められるかをとても明白にご説明されています。終わりの日の神は、人類を裁き、清め、救うために、人の堕落した性質と神に抵抗するサタンのような性質に関する真理をおもに語っておられます。全能神は真理の多くの側面についてお語りになりました。例えば、サタンがどのようにして人々を堕落させるか、神がどのようにして人々を御救いになられるか、人に従うとはどういうことか、神に従うとはどういうことか、神を信仰するにあたってどのような観点を抱くべきか、人の性質の変化とはどういうことか、神を畏れ悪を避けるとはどういうことか、神の性質を害するとはどういうことか、正直な人になる方法等です。これらの真理には全て権威と力があり、人々にいのちの糧を与えることができるのです。これは神が人類にお与えになった永遠のいのちへの道なのです。神の御言葉を受け入れ、実践する限り、人は清めと救いを受けることができるのです。全能神による裁きの働きを数年間体験し、私たちはこれらを身をもって体験しています。人を裁き、刑罰を与え、暴露する全能神の御言葉を読むと、御言葉は私たちの反抗心、堕落、抵抗、誤った意図、観念、想像、さらには心の奥に隠れているサタンの毒までを明らかにするもろ刃の剣であるように感じます。それは私たちが確かにサタンにあまりに深く堕落させられており、傲慢で、独善的で、不正直かつ狡猾で、利己的、意地悪で、自分の利益以外の全てに盲目であるといったサタン的な性質に溢れていて、神への畏れなどないことを気付かせてくださいます。私たちの行動、心、考えを満たしているものは汚れかつ堕落であり、何の人間らしさもないことが分かります。私たちは恥ずかしさのあまり見せる顔がないと感じますが、サタンの堕落した性質を指針にして生き続けたら、この先いつも神に嫌われる人となり、決して神から称賛を得られるようにはなれず、除外と懲罰を受ける運命になるのだと気づきます。全能神の御言葉による裁きと明示は、私たちに神の威厳ある、怒りに満ちた、義なる性質を認識させ、徐々に神を畏れる心を育て、真の悔い改めと変化を遂げさせてくださるのです。今、私たちは少し人間らしさをもって生きていると感じており、確かに神の偉大な御救いを受けたのだと理解しています。神の裁きを受けていなければ、私たちは人に侵されることを容認なさらない神の義なる性質も神の聖く善良な本質を知る機会がなかったことでしょう。自分自身の反抗心や堕落を嫌うこともなく、堕落を捨て去り清められることもできなかったでしょう。ですから、神の裁きと刑罰を経験すればするほど、神の裁きと刑罰は私たちにとって最高の御加護であり、最も偉大な祝福であり、最も真なる御救いであることがより明確に分かるのです!」

リュー姉妹もこう話されました。「終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きは人々を完全に清め、救い、完全にするための働きです。終わり日のキリストの御座の前で裁きを受け入れなければ、いのちの性質の清めと変化を遂げることができません。その結果として確実に神から拒否かつ除外され、地獄に落ちて滅びることになります。救いを授かり天国に入る機会はありません。これは絶対です」。

私は嬉々として言いました。「神に感謝します! お話を聞いてから心がとても明るくなったような気がします。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、罪深い生活を送り、それから抜け出す力がありませんでした。今私は、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、罪の束縛と抑制から抜け出すことはできないのだと理解しました。私はやっと清めと救いへの道を発見したのです」。数日間の交流後、私と妻は真理をある程度理解し、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。

私に愛と救いをくださる全能神に感謝いたします! 牧師として、私には知り合いの他の全ての牧師と兄弟姉妹を神の前に導く責任と義務があります。兄弟姉妹としばらく協力した後、集会に頻繁に参加する教会の兄弟姉妹数十名全員が全能神を受け入れただけでなく、他の家庭教会の牧師を一人神の家族へと導き、その教会の兄弟姉妹の大多数も神のもとへ連れ戻しました。私はこの兄弟姉妹たちが終わりの日の神の御救いを受け入れて、神の御座の前で引き上げられたのを見て感動しました。この全てが全能神の働きの結実です。すべての栄光は全能神のもの!

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