39. 主の再臨をお迎えした

伝揚 アメリカ

2010年、私はアメリカでとても寒い冬を経験しました。風雪を伴う厳しい寒さに加え、さらに深刻だったのは私の心が一種の「寒波」に襲われたように感じたことです。内装事業に携わる私たちにとって、冬は一番厳しい季節です。冬になると仕事がほとんどなく、職を失いそうになるほどです。今年は私にとってアメリカ生活の1年目、移住して間もない私にとっては戸惑うことばかりでした。アパートを借りるのも仕事を見つけるのも簡単ではなく、毎日が大変なことでいっぱいでした。アパートの家賃を払うのにお金を借りるはめになったほどです。このような苦難に直面した私は憂鬱になり、生活が耐えがたく感じるようになりました。夜になると、私は冷たい壁を目の前に、あまりの悲しさにひたすら泣きたくなりました。ある日、私が悲しみと不安に駆られながらぼんやりぶらついていると、主イエスの福音を広めている人が私にカードを渡してこう言いました。「主イエスはあなたを愛しておられます。兄弟、私たちの教会に来て主の福音を聞いてください!」私は心の中でこう思いました。「いまは何もすることがないから、聞きに行っても損はないだろう。暇つぶしに行ってみようか」

こうして私は教会に足を踏み入れ、牧師が読み上げる主イエスの御言葉に耳を傾けました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネによる福音書 3:16)。私はこれを聞いて主の愛に深く心を打たれました。どう感じたかを明確に説明することはできませんが、主の愛は本物であり、この世で見つけられるどんな愛をも超越しているように感じました。私の悲しみに満ちた心が大いに慰められた気がして、その結果、私は主イエスに心から頼ることに決めました。その後、私は日曜日になると熱心に集会に参加するようになり、その熱意溢れる追求が功を奏してすぐに教会の同労者になりました。

教会で2年間仕えたあと、主が私のそばにいらっしゃる感覚がますます弱くなっていきました。聖書を読んでも啓かれている気がせず、祈りを捧げても感動せず、集会に参加しても何かを得ているようには感じられなかったのです。さらに、教会の誰もが日中に罪を犯して夜に告白する生活を送っていて、牧師であろうと、長老であろうと、あるいは一般信者であろうと、全員が罪に縛られ、嫉妬混じりの口論をし、互いに共謀して派閥を組み、名誉と利益を求めて争い、世俗の物事を無闇に求めていることを知りました。ありとあらゆる不正行為がますます多く行われつつあったのです。私はまた、一般社会の人々が日に日に堕落してますます邪悪かつ利己的になり、災害が世界中で生じていることも知りました。地震、飢餓、流行病が絶えず発生しているのです。世の終わりになって主イエスがもうすぐ再臨されることを、ありとあらゆるしるしが明らかにしていました。牧師と長老は次の聖書の聖句について私たちによく説教しました「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。彼らは説教の中で、世の終わりには偽キリストが現れると向こう見ずにも主張し、決して見知らぬ者の説教に耳を傾けてはならないと私たちに言いました。そのうえ、私たちの教会の信者を除き、その他の教派の信者はみな間違っており、自分たちが騙されたて結局誤った道を歩まないよう、その他の人々を慎重に見極める必要があるとまで言いました。私は牧師がそのように説教するのを頻繁に聞いていたので、自分にこう言い聞かせました。「主の来臨が目前に迫ったこの重大なとき、道を踏み外すわけにはいかない。必ず主への信仰を維持しなくては」。

2016年9月中旬のある日、私は朱姉妹から予期せぬ電話をもらいました。朱姉妹は私たちの教会に所属する長年の信者で、熱心な探求者でした。私たちはいつも親しくしていたので、彼女から電話をもらってとても嬉しくなりました。そして朱姉妹が興奮気味にこう言うのを私は聞きました。「兄弟、良いお知らせがあるのよ。主イエスが全能神としてお戻りになったの! 今回、神は人を裁き、清め、救う働きをなさるために受肉されたのよ!」私はこの言葉を聞いていささか驚き、心の中でこう思いました。「朱姉妹は主の道を守っていないんじゃないか? 他の教派に加わってしまったのか? どうしてこれほど愚かになってしまったんだ? 世の終わりには偽キリストが現れると、牧師や長老が何度も繰り返し力説していたのに。どうして彼女は聞いていなかったんだ? 主がもうすぐ来られるというこの重大なとき、信仰の中で道に迷ってしまったら、長年にわたって信仰を実践してきたことが無駄になってしまうのではないか?」こう考えた私は恐る恐る朱姉妹に尋ねました。「姉妹、聖書には世の終わりに偽……」。しかし、私が話し終えるのも待たず、朱姉妹はこう言って話を遮りました。「兄弟、主イエスは私たちに『人をさばくな』と注意なさいました。神に断罪されないよう、自分勝手に判断してはなりません」。姉妹の警告を受け、私は主のこの御言葉について考えました。「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう(ルカによる福音書 6:37)。私はそれ以上あえて何も言いませんでした。しかし、主の再臨という一大事について、朱姉妹と私はそれぞれ自分の意見を持っており、互いに相手を説得しようとしました。そこで自分の言い分を交代で主張しましたが、結局どちらも相手を説得できませんでした。

それから1ヵ月以上にわたり、朱姉妹は何度も私に電話をかけて全能神の国の福音を宣べ伝えようとしましたが、私はそのたびにそれを拒否し、私たちの教会に戻って主を信じ続けるよう促しました。その後、彼女の全能神への信仰がとても堅く、揺れ動くことは微塵もないとわかったので、彼女を説得を諦めました。そのとき私はこう言いました。「今後、私は自分の主イエスをそのまま信仰するから、あなたは全能神を信じればいい。お互いの邪魔はしないようにしましょう!」その後、朱姉妹が世の終わりの神の働きを証ししようと電話してくるたび、私は口実をもうけて彼女を避けました。こうして世の終わりの神の働きを拒絶し続けたのですが、彼女は私に福音を宣べ伝えようとするのを諦めませんでした。

11月のある朝、まだ夜も明け切らぬ午前5時過ぎ、自宅の玄関のベルを鳴りました。ドアを開けるとそこには朱姉妹と、兄弟姉妹が1人ずついました。私は朱姉妹を見て大いに警戒し、こう思いました。「はっきり言わなかったか? それでもはるばる我が家に来るなんてどういうことなんだ? 何を言われても全能神を信じるつもりはない」。私たちは同じ教会の一員としてお互いを長年知り合う仲でしたが、私は彼らに厳しいことを言って家の中には入れませんでした。私の断固たる態度を見た朱姉妹はがっかりした表情を見せ、感情で声を詰まらせながらこう言いました。「兄弟、あなたに神の国の福音を宣べ伝えに来たのは、私が聖霊に動かされているからです。神の愛を受けていなければ、自尊心を捨ててあなたに何度も福音を宣べ伝えようとすることはできなかったでしょう。兄弟、主イエスは本当に再臨されたのよ。いま現在、聖霊は神の新たな働きを受け入れた人々に働きをなさっています。聖霊の働きなくして、誰がこれだけの信念と意志の力をもって、あなたに福音を宣べ伝えに来ると思いますか? あなたも私たちの教会の現状を見てきました。兄弟姉妹はみな罪に縛られながら暮らし、そこから逃れる力がありません。今回、神は人間を裁く御言葉を表わし、私たちの罪を取り除き、私たちを清める働きをなさるべくおいでになりました。世の終わりの神の働きを逃したら、神の救いを得る機会はもうありませんよ」。姉妹の誠実な言葉に私は感動し、気持ちが少し和らぎました。特に、彼女が私たちの教会の現状について話したとき、自分が教会で目にした出来事が突然頭にひらめきました。私が最初に仕えた教会では、牧師が言行不一致なことをして、大金を寄付した人は牧師たちに笑顔で迎えられ、大きな気遣いを受けていました。ところが、大した献金をしない人は誰もが牧師たちに無視され、見下されていました。私はこれを見るのが本当に耐えられなかったので、別の教会に加わりました。その教会では、同労者が互いを仲間外れにし合い、嫉妬混じりの口論を起こし、互いに共謀して派閥を組んでいるのを目の当たりにし、彼らは俗世の人々と何ら変わりませんでした。私はそれにひどくがっかりしました。最初はまた他の教会に移りたくなりましたが、ある兄弟から、自分はすでに沢山の教会を渡り歩いたけれど、どこに行っても同じように荒廃していて暗い状況だと言われたのです……また、自分が罪の中で暮らしながら見せた様々な振る舞いについても考え、心が揺れ始めました。「主イエスは本当に肉においてお戻りになり、罪を根絶する働きをなさっているのだろうか?」まさにそのとき、朱姉妹が続けてこう言いました。「全能神が再臨された主でいらっしゃるかどうかは、全能神の御言葉を読めばわかります。主イエスがいらっしゃって働きをなさったとき、主の弟子たちは主の御言葉と働きを通じ、主が預言されていた救世主でいらっしゃることを認識したからこそ、主に従ったのです。今日、全能神が働きをなさるべくおいでになった主イエスの出現でいらっしゃるかどうかを判断するためにも、全能神の働きと御言葉に目を向けなければなりません。全能神の御言葉を読んだあとも、全能神は再臨された主ではないと信じるのであれば、私は無理に信じさせるつもりはありません。あなたに福音を宣べ伝えるのも止めます。なぜなら、ご自身の福音を受け入れるよう、神が誰かに強制されたことはないからです」。

朱姉妹がこう言ったあと、私は一瞬ためらい、心の中でこう思いました。「自分もそれを読んでみて、全能神の語るどの真理が、朱姉妹にここまで堅い全能神への信仰を授けたのか確かめてみよう」。その後すぐ、私はドアを開けて朱姉妹たちを自宅に入れました。朱姉妹が紹介してくれたところによると、2人は全能神教会の張慶姉妹と劉凱明兄弟とのことでした。そして朱姉妹はこう言いました。「伝揚兄弟、私が世の終わりの全能神の働きを受け入れてから数ヵ月が経ちました。私は自ら全能神教会に出向いてそれを確かめ、そこでの教会生活に参加しました。個人的な体験と熱心な調査の結果、全能神教会は本当に聖霊の働きが宿っている教会だとわかりました。真の教会であり、間違いなく神から生じたものです。あなたと私は長年にわたって同じ教会の一員でした。そしてその教会の同労者であるあなたは、そこで何が起きているかを私以上によく知っているはずです。私たちの教会ではかなり前に聖霊が働きを止めてしまいました。それは誰もが知っていることです。牧師は私たちにいのちをほどこす説教ができません。他の教派をどう攻撃するかとか、それらにどう用心すべきかとか、そういったことばかり説教し、私たちの教会を離れさえしなければきっと救われるなどと言っています。しかし実際には、主の御言葉の中にそのようにせよという根拠はありません。彼らは自分たちの地位を守り、生活を維持するためだけにそうしているのであって、私たちのいのちのことは何一つ考慮していません。本当に私たちのいのちに責任を負っているのであれば、聖霊の働きがとうの昔に止まっている宗教に私たちをあくまでとどめ、私たちが飢え死にしたり、聖霊の働きがない教会に囚われて死んだりするのを座して待つのではなく、率先して私たちを導き、聖霊の働きが宿る教会を探すべきなのです」。これを聞いたあと、私は心の中でこう思いました。「朱姉妹はまさに現状を言い当てている。いまの教会には本当に聖霊の働きが宿っていないし、牧師と長老のすることはどれも、私たち信者のいのちを考慮しているわけではない。長年にわたってこの教会にとどまったせいで、主が私たちのそばにいらっしゃらないという感覚がますます強くなってしまった。ずっと前から自分の霊が干からび、行き詰まりに突き当たったかのように光から遠ざかってしまったんだ」。朱姉妹が合理的かつ本質を突いた形で話すのを聞いて、私はこれ以上彼らの訪問に反発する気になれませんでした。

ちょうどそのとき、彼女と一緒に来ていた劉兄弟がこう言いました。「兄弟、宗教界がこれほど荒廃しているのは、神がいらっしゃって新たな働きをなさり、聖霊の働きが前進しているにもかかわらず、神がなさっている新たな働きに人々が追いついていないのが理由です。それよりさらに大きな理由として、牧師と長老が主の戒律に従っておらず、主の御言葉を実践することもなく、代わりに世間の悪しき潮流を追いかけるよう信者を導き、神の新たな働きに抵抗し、それを断罪すらしているということがあります。主イエスがいらっしゃって働きをなさったとき、神殿は牛や羊や鳩が売られ、金銭が両替される場所に変わってしまいましたが、まさにそれと同じなのです。祭司は律法に違反し、神を欺くために傷のついた動物を生贄として捧げ、パリサイ人は富を切望し、自分たちの地位の特権を享受しましたが、このような罪は他にも犯されていました。神に仕える者ですら罪の中で生き、心の中に神への畏れをこれっぽっちも抱いていませんでした。そのことは、聖霊がもはや神殿に宿っていないこと、聖霊の働きが前進したこと、そして律法の時代における神の働きが終わったことを十分に物語っていました。おいでになった主イエスは律法の時代の働きをもとに贖いの働きをなさり、聖霊はもはやヤ―ウェ神の御名を守って律法に固執する者たちの中で働かれてはいませんでした。その代わり、聖霊の働きは主イエスによる新たな働きを受け入れた者たちへと移ったのです。神の臨在を失った神殿はますます荒廃し、最終的には盗人の巣窟と化しました。一方、主イエスの弟子たちは主の救いを受け、主の教えを実践し、信念と力をもって主に従い、そして主の福音を証ししてそれを宣べ伝えるべく、自分の家と仕事を捨て、迫害や逆境を恐れませんでした。これらはすべて、聖霊の働きが彼らの内で成し遂げた効果だったのではないでしょうか? 同様に、今日の主の再臨は、古い時代が終わり、新しい時代が始まったことを示しています。聖霊は恵みの時代の教会で働くのをとうの昔にやめられており、むしろ、神の新たな働きを受け入れた者たちに働きを始められました。これは聖書に記された次の預言を成就しています。『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた(アモス書 4:7)。『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、ヤーウェの言葉を聞くことのききんである(アモス書 8:11)。全能神もこうおっしゃっています。「神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人々を彼の前に迎え、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなるだろう。それはヨセフのようだ。みな食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼は食べ物を持っていたためである。飢饉を避けるために、人々は真の道を求めなければならない。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人の喜びのために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼るだろう(『神の出現と働き』「千年神の国が到来した」〔『言葉』第1巻〕)。「神は人々のこの集団を、宇宙全体におよぶ神の働きの唯一の焦点に据えた。神はあなたがたのために、心血を残らず注いだのである。神は宇宙全体の霊の働きをことごとく取り戻し、あなたがたに与えてきた。だからわたしは、あなたがたは幸運な人たちだと言うのである。そのうえ、神はイスラエルから、すなわち自身の選民からあなたがたへと自らの栄光を移し、この集団を通じて自身の計画の目的が完全に現れるようにする。ゆえに、あなたがたが神の遺産を受け取る者である。それ以上に、あなたがたは神の栄光の相続人である(『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」〔『言葉』第1巻〕)。「なぜなら、宗教の中にいる者たちは神の新たな働きを受け入れることができず、過去の働きに固守するだけであり、したがって神はこれらの人々を見捨てて、神の新たな働きを受け入れる人々に対して、その働きを行うからである。彼らは神の新たな働きにおいて協力する者であり、このようにしてのみ、神の経営計画を成し遂げることができる(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。これらの御言葉から、聖霊はもはや恵みの時代の教会で働かれておらず、ゆえに人々が教会を蘇らせようとどれだけ頑張っても、あるいはどのような人間の手段を用いても無駄だということがわかります。カトリック教会もプロテスタントの教派もすべて同じです。それらの信者の霊は干からびて飢えに苦しみ、彼らの信仰と愛は次第に冷めてゆき、主の教えを守れず、その多くが世間の悪しき潮流に従い、富を追い求め、世俗的な物を切望しています。教会は荒廃した場所と化しました。一方、全能神教会の兄弟姉妹は、世の終わりの神の働きを受け入れるべく様々な宗派を離れた人たち、あるいは様々な職業から集まった人たちです。彼らは神の御声を聞いて神の御座に立ち返った賢い処女なのです。神の御座から流れ出るいのちの生ける水のほどこしを受け、神ご自身に導かれ、心を一つにして神の国の福音を宣べ伝え、その証しをしています。彼らは世間の冷笑や中傷、様々な宗派の指導者による暴言と断罪に耐え、ときには殴られることすらあり、逮捕されたり、自宅を捜索されたり、所有物を押収されたりすること、そして中国共産党による残酷な拷問や投獄にも耐えています。それでも信念を持ち、力を持ち、愛を持ち、そして粘り強く、かつ揺るぎなく全能神に従い、世の終わりの神の働きを証ししているのです。彼らは自分の力でそうできているのではありません。これらはすべて、聖霊の働きによって得られる効果なのです! さらに、宗教界を飢えに追い込まれた神の御心を見いだす必要があります、神がそうされた目的は、心から神を信じ、真理を渇望する人たちに宗教とのつながりを断ち切らせ、宗教の反キリストによる策略と支配を自分のもとから一掃させ、それぞれの宗教から離れさせることだからです。そうすることで、彼らは神の足跡と出現を探し求め、世の終わりにおける神の裁きの働きを受け入れて、神に清められ完全にしていただくことができます。同時に、宗教に残ってパンを腹一杯食べることを求め、まごころ込めて神を愛さず、その代わりに人を偶像化してそれに従う非信者は暴かれて淘汰されます。このような形で、すべての人はそれぞれの種類に応じて選り分けられます。これは神の御知恵と全能ではないでしょうか?」

神の御言葉と兄弟が説く教えに耳を傾けていると、まったく現実的で実態と完全に一致しているように聞こえました。私は夢から目覚めたような気がして、さまざな教会が荒廃している根源を理解しました。その瞬間、私はようやく自分がどれだけ鈍感だったかを知りました。牧師や長老から一般信者にいたるまで、誰もが罪に縛られ、教会に無法と悪行がはびこっているのを知りながら、私は神の御心を求めることも、聖霊の働きを探求することもしませんでした。そのうえ神の御声を聞くことにまったく注意を払っておらず、結果として聖霊の働きによって知らぬ間に淘汰されていたのです。私は全能神の御言葉を注意深く読む必要があることに気づきました。その日、朱姉妹たちは帰り際、ここに来て再び私と語り合う日取りを決めたうえ、『子羊に従って新しい歌を歌おう』という本を置いていってくれました。私は喜んでそれを受け取りました。

その後、『子羊に従って新しい歌を歌おう』という全能神の御言葉の本を読んでいると、神が人類を救うためになさる3段階の働き、神による世の終わりの裁きの働き、神の国の美しさといった数々の奥義を全能神の御言葉が明らかにしていることがわかり、おかげで神の働きをより深く理解することができました。私の干からびた霊は癒され、読めば読むほどこの本をますます愛好するようになりました。以前は朝の5時半に起床していましたが、『子羊に従って新しい歌を歌おう』をもらってからは全能神の御言葉を読んでそれをじっくり考えようと午前4時半に起きるようになり、私の霊は大きな満足を感じました。ある朝、「あなたは本当に神を信じる人なのか」という章を読んでいると、心が大きく揺り動かされました。全能神は人の心の奥底を吟味なさる神でいらっしゃり、自分では決して知り得ない私たちの堕落した本性を暴かれたのです。私はそれによって、サタンによる自分の堕落の真相を認識できるようになりました。次の全能神の御言葉を読んで、それは真実だと特に思ったものです。「いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う。そのような人は決してキリストの承認を得ることはない。……神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人々に属することを知るべきである」。この神の御言葉をじっくり考えながら、私はひたすら自分に問いかけました。「自分は心から神を信じている者か? 真理を尊重しているか? 自分は長年主を信じてきたが、その間ずっと何を尊重してきたのか?」私は自分も大半の兄弟姉妹と同じだったと思いました。表面的には聖書を読み、集会に参加していたけれども、主の御言葉を経験したり実践したりすることには何ら注意を払っていませんでした。むしろ、牧師の説教や聖書の聖句の字義を尊重していたのです。私は牧師が説教する聖書の知識や神学の教義を何の疑問も抱かず信じていました。彼らの説教が本当に真理を含んでいるかどうか、主の御心と一致しているかどうかを考えたことは一度もなく、主の御言葉を通じて説教の内容を検証し、判断したことも当然ながらありません。私たち信者は彼らの説教をそのまま信じただけでした。いまそれを振り返り、人を無闇に偶像化した自分がいかに愚かで無知だったかに気づいたのです。そして牧師や長老による説教を思い出しました。彼らの説教は献金についてだったり、他の教派を警戒して教会を閉鎖することだったりして、そうでなければずっと前から宣べ伝えている同じ古いことしか説教しません。そこには新たな光も啓きもなく、私たちにほどこせるものが何一つないうえ、私たちの魂の乾きも、教会の荒廃も解決できません。そのため、兄弟姉妹は集会に参加しても動作を繰り返すだけでした中には集会の途中でおしゃべりしたり、居眠りしたり、携帯電話でゲームをしたりする人もいました。私はこのような暗く荒廃した教会の中で生きていましたが、神の御心を求めることも、聖霊の働きを求めることも知りませんでした。明らかに、私は真理を求める人でもなければ、心から神を信じる人でもなかったのです。全能神はこうおっしゃっています。「いずれにしても、真理を重んじない者はすべて、不信者であり真理を裏切る者であるとわたしは言う」。「神は世界にも、一人の人間にも属さず、本当に神を信じ、礼拝し、献身的で忠実なすべての人々に属することを知るべきである」。これらの御言葉は本当に現実であり、私は突然「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネによる福音書 14:6)という主イエスの御言葉を思い出しました。そしてそのとき、神が真理でいらっしゃり、人に真理を与えるべく働きをなさることを認識し、心から神を信じる人は真理を求めてそれを得ることに注意を払うのだと理解しました。神の信者である私は真理を求めることに注意を払っていませんでした。ならば、私は信仰をだらだら続けていただけではなかったでしょうか。このような形で神を信じて、どうして神に認めていただけるでしょうか。全能神の御言葉は私にとってとても有益でした! 全能神の御言葉を読めば読むほど、自分が多くの点で足りていないことを感じるようになりました。そこで、働いているときを除き、自由な時間をすべて全能神の御言葉を読むことに費やしました。すると心の底から、これが真の道だと確信したのです。しかし、私は主イエスのこの御言葉にいまだ当惑していました。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)。私はこの御言葉の内なる意味がわからなかったので、朱姉妹たちがまた来てくれたときに探求することにしました。

朱姉妹と他の兄弟姉妹が予定通りの時間に私の自宅を訪れたので、私は朱姉妹にこう言いました。「ここ数日、私は全能神の御言葉をかなり読んでいますが、全能神のお語りになる一言一句が真理であって、自分がまさに必要としているもののように感じます。以前、朱姉妹は全能神の働きを調べることを私に何度も勧めてくれましたが、世の終わりに偽キリストが現われて人々を惑わすと牧師が説教していたので、私は真の道を調べることを拒否していました。しかしいまはそれを心から後悔しています。とは言え、私はまだそのことについて混乱しているので、あなたたちと一緒に探求したいと思います。主イエスはこうおっしゃいました。『そのとき、だれかがあなたがたに「見よ、ここにキリストがいる」、また、「あそこにいる」と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう(マタイによる福音書 24:23-24)この御言葉についてあなたたちはどう理解していますか?」

すると張姉妹がこう言いました。「神に感謝いたします。神がこの交わりにおいて私たちを導いてくださいますように。あなたが挙げた疑問についてですが、まず最初に、主イエスがその御言葉をおっしゃった目的と、主がその御言葉にどういった意味を込められたかを理解する必要があります。主イエスは、再臨するときにはキリスト、すなわち人の子として再び受肉すると私たちにおっしゃいましたが、この聖句の中で、偽キリストも現われてしるしや不思議を見せ、人々を惑わそうとするだろうともおっしゃいました。つまり、神が次に肉において出現されるとき、これら偽キリストも現われるということです。このことから、これら偽キリストに惑わされないよう識別力を育まなければならないと私たちに伝えるべく、主はその御言葉をおっしゃったのだとわかります。私たちが主の来臨というよき知らせを広める人に耳を貸さず、絶えず彼らを締め出すようにするために、その御言葉をおっしゃったわけではないのです。そのように振る舞うことは間違いであり、主の御旨を完全に誤解することになります。主イエスはこう預言なさいました。『夜中に、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。主の御言葉は、主は再臨されるときにその御声を使って神の羊をお呼びになり、神の羊は主の御声を通じて主を認識し、主に立ち返ることをとても明確にしています。つまり、主の再臨をお迎えできるかどうかは、ひとえに神の御声に気づけるかどうかにかかっているのです。神の御声に耳を澄ませず、主の再臨の福音を宣べ伝える人たちを絶えず拒否していたのでは、主の前で扉を閉ざして外に締め出すことにならないでしょうか? 主の御言葉から、偽キリストの顕著な特徴はしるしを見せ、奇跡を起こせることだとわかります。そうして主イエスが過去になさった働きをまねて、病人を癒やしたり悪霊を追い払ったりするといったしるしや奇跡を見せ、それによって人を惑わそうとするのです。しかし、偽キリストは悪霊の化身なので、彼らがどのようなしるしを見せたとしても、何の真理も表わせません。これは反論の余地がない事実です。全能神の御言葉は偽キリストの表われと本質を極めて明確にしています。全能神の御言葉から何節か見てみましょう。そうすれはあなたも理解できるはずです。全能神はこうおっしゃっています。『もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている(『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」〔『言葉』第1巻〕)。『この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉は、偽キリストがみなキリストを装う悪霊であることをとても明確にしています。彼らは自分を神と呼びますが、キリストの本質を有していないのでこれっぽっちも真理がなく、神の働きをすることは当然ながらできません。彼らにできるのは神のあとをつけて、主イエスがすでになさった働きをまねることだけです。偽キリストが人々に真理をもたらしたり、実践の新たな道を授けたりすることはできません。世間に出回っている模造品は本物の商品をまねて作っているものだと誰もが知っていますが、偽キリストもこれと同じです。彼らは主イエスがなさった働きをまねることで、病人を癒やしたり悪霊を追い払ったりして人々を惑わしますが、死者を蘇らせるとか、パン5枚と魚2匹で5,000人の空腹を満たすといった奇跡を起こせるわけがないのです。それゆえ、自らキリストと名乗り、自分は主イエスの再臨だと言ってしるしや不思議を起こし、病人を癒やして悪霊を追い払う者は、疑問の余地なく偽キリストなのです。しかし、キリストは受肉された神ご自身、肉において具現化された神の霊でいらっしゃり、普通の人間性と完全なる神性をおもちで、間違いなく神ご自身でいらっしゃいます。全能神はこうおっしゃっています。『受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の本質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの本質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。ゆえに、キリストだけが神ご自身の働きを行ない、真理を表わし、神の性質を表わして人にほどこし、人を牧養することがおできになります。キリストだけが人類を贖って救う働きを行ない、古い時代を終わらせ、新しい時代を始めることがおできになるのです。さらに、神の働きは常に新しく、決して古くないので、神が同じ働きを繰り返されることは決してありません。それゆえ、キリストはいらっしゃって働きをなさるたび、いつも新しい働きをもたらし、神の性質、および神が有するものと神そのものを表わしてくださいます。例えば主イエスがおいでになって働きをなさったとき、主は律法の時代に幕を閉じて恵みの時代を始められ、人々が罪を告白して悔い改められるようにする説教をなさるとともに、人々に敵を愛すること、謙虚であること、辛抱強く他人を許すことを教えてくださいました。これらは主イエスがなさったことの一部に過ぎません。主イエスは神の愛情に満ちた憐れみ深い性質を人間に示してくださいました。同様に、全能神は世の終わりに来臨され、恵みの時代を終わらせて神の国の時代を始められました。主イエスによる贖いの働きをもとに、ご自身の御言葉によって人間を裁いて清める働きをなさっており、私たちが清められて救っていただくのに必要な真理を残らず与え、自分から罪を取り除いて救いを得る道を示し、威厳と怒りに満ちた神の義なる性質を表わされています。その働きと御言葉を通じ、全能神が受肉された神でいらっしゃり、世の終わりに人々の間に来臨された神ご自身でいらっしゃることが完全にわかります」。

神の御言葉とこの姉妹が説く教えを聞いたあと、私は夢から目覚めた気分になり、やっと真のキリストと偽キリストの見分け方を理解しました。私はこのことに嬉しくなると同時に恥ずかしくもなりました。真理をもたない自分がいかに哀れかを認識したからです。そして、世の終わりの神の働きを何度も拒否したことを考えたところ、それは偽キリストに惑わされることを恐れていたせいであり、結果としてのどを詰まらせることを恐れて食事をしない人のように、真のキリストを拒否していたのだとわかりました。主がお戻りになって私の扉を叩かれたとき、私は神の御声を聞くことを拒否し、幾度となく神の前で扉を閉ざしたのです。しかし、神は私を救うことを諦められたわけではなく、それどころかこの兄弟姉妹たちを私の自宅に来させ、福音を宣べ伝えさせてくださったのです。神は本当に私のもとを離れておらず、神の愛はかくも偉大なのです! 私は牧師の言うことを信じていたせいで、再臨された主の証しをする人はみな偽キリストを宣べ伝えていると決めつけていました。主の御言葉を誤解し、全能神を拒んで断罪したうえ、抵抗までしていたのです。また、自分の観念こそ正しいと信じていましたが、私はそれほどまでに愚かだったのです! 真のキリストと偽キリストの違いに関する全能神の御言葉を読まず、この兄弟姉妹たちが説く教えを聞いていなければ、私は決して真のキリストと偽キリストを識別できず、ただ牧師と長老たちの言葉に惑わされていたでしょう。そして牧師や長老に従って神の来臨に抵抗し、それを拒否し、かくして神の救いを受けるというこの極めて稀な機会を逃していたことでしょう。このように考えながら、私は朱姉妹たちにこう言いました。「全能神の御言葉を読み、あなたたちが説く教えを聞いて、私はようやく真のキリストと偽キリストの見分け方を知りました。いま、全能神が再臨された主イエスででいらっしゃることを確信したので、世の終わりの全能神の働きを喜んで受け入れたいと思います」。

教会生活に加わってからというもの、兄弟姉妹が多くの真理を理解していることと、彼らに比べて自分がかなり足りていないことに気づきました。そして心の中でこう思いました、「朱姉妹や他のみんなに、神の御言葉についてもっと教えを説いてもらって、さらに早く真理を理解できるよう助けてもらわなければ」。私はこの件について朱姉妹と話し合い、私の自宅を集会の場にしてもよいかと尋ねたところ、彼女はすぐさま賛成してくれました。その後、私たちは神の御言葉を読んで真理について語り合うために毎週集まるようになりました。私は次第に神の御言葉に関する知識をさらに得て、真理もますます理解できるようになりました。これらの御言葉が真理の表現であると心の底から感じることができたのです。その瞬間、主イエスのおっしゃったこの御言葉が頭に浮かびました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。私はさらに深く心を打たれ、すべてこの主の御言葉どおりになったことがわかりました。全能神は「御霊が諸教会に言うこと(ヨハネの黙示録 2:7)とおっしゃっています。人間がすべての真理を理解してそれに入れるよう、全能神は人間を導かれている最中です。世の終わりの神の働きを受け入れ、神が表わされる真理を受け入れることでのみ、清められ、救いを得て、神の御心に従う人になれるのです。私を神の家に引き戻し、神の御座の前に導いたのは全能神の御言葉でした。いま、私は神の御言葉から毎日ほどこしと導きを受け、安らぎと喜び、そして快適さを感じ、光で満たされている感覚があります。私は最後の最後まで真理を追い求め、全能神に従うべく、自分にできるすべてのことをしていきたいと思います。

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