私の霊を欺いたものとは何なのか?
ある日、私は集会の通知を受けました。通常であれば、これは良いお知らせとして受け止めるのですが、最近の私の業務のずさんな状態を考えたとたんに、不安に駆られました。私が何の業務も済ませていないことを監督者が知ったら、私は何らかの取り扱いを受け、解任される可能性さえあります。一体どうしたらよいのでしょう?翌日私は重い心を引きずりながら集会の場所へと足を運びました。集会の場所に着くと、私の監督者はまだ到着していなかったのですが、同僚の姿が何人か見えました。私は思わず、「彼らの仕事の状態はどうなんだろう。前回の集会ではほぼ仕事は終了していると言っていたから、既に全部終わっているに違いない。もしまともな仕事ができてないのが私だけとしたら、まずいことになる」、などと心の中で嘆きました。その後、皆でそれぞれの進捗状況について話し合っていると、意外にも未完了の仕事をかかえている同僚が沢山いることを耳にして、私は驚きました。これを聞いて私は、それまで重かった気持がとたんに軽くなり、「仕事を終えていないのは私だけでないどころか、誰も終わっていないじゃないか。心配ない。私達全員が解任されることなどありえない」、と心の中で安心したのでした。落ち着かない気持が一瞬にしてほとんど消え去りました。
自分自身を慰めながら、気が楽になり始めた時、ある説教の一節を思い出しました。「人が神の家族に世俗的な見解を持ち込む時、それは観念であり、神に背くものとなります。多くの人々は不信者と同じ目で物事をとらえます。彼らは心に真理を抱いていないため、神の家族を訪れると、神の家族の働きを世俗的な見解をもとに解釈し、神の家族に関する事柄について意見します。その結果、彼らは尻込みし、常に弱く、否定的になり、真理を求めることができない、または対価を払うことすらできなくなるのです。これは彼らの無知さにより生じるものではないでしょうか?」(『いのちの入りについての交流および教え』の「人の観念と裁き」より)。この言葉に影響を受けた私は、先程の自分のリアクションについて考えました。自分の仕事が済んでいないことを考えた時は、心がとても重く感じて心配せずにはいられませんでしたが、私の同僚も同じく仕事を済ませていないと知ったとたんに、気が楽になり、何も達成できてないのは私だけでなかったなどとやましさを感じることなく安心していました。監督者に取り扱われるとなれば、それは皆同じことであり、私以外にも仕事を済ませていない同僚が沢山いるんだから、監督者は私達全員を解任することなどできないはずです。「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」、などといった考えはサタンの観念により支配されているものではないでしょうか?私は実際にサタンの観念をもとに教会の活動原則を評価していたのではないでしょうか?私はサタンの論理的観念を教会に対し適用し、それを用いて自分自身を慰め、そして自分自身の欲を満たしていたのです。でもそれは、単に自分自身を傷つけていただけなのではないでしょうか?私は紛れもなく盲目で無知だったのです!振り返ってみると、以前私は幾度もこのサタンの観念に支配され、自分自身を慰めていたのです。しばらくの間、私はいのちに入ることなく、肉の中に生き、自分自身の救いについて心配しながらも、真理を得ることができていない兄弟や姉妹達を見ると、煩いから開放され頭を悩ますことを止めていました。多くの者がいのちに入ることができていなければ、神は私達全員をふるいにかけることなどしないでしょう?と私は考えていたのです。したがって、私は自分自身のいのちにおける責任を感じることなく、自由放任的に身勝手な生活を送っていたのです。しばらく何の記事も書けておらず、自責の念に苦しんでいた時でさえ、何も書けていない他者を見たとたんに、心の中の自責の念が消えて無くなるのでした。「記事を書かないことなど、たいしたことじゃない。しかも、何も執筆できていないのは私だけじゃない」、などと自分に言い聞かせていたのです。福音伝導の活動においても結果が得られていない時、私は不安を感じました。しかし、私と同じく、福音伝導の活動で結果を出せていない同僚を見ると、自然と気持が落ち着き、皆が私と同じで、教会に誰も導くことができていないのは私だけではないなどと安心していたのです…しかしその時でした、私は「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」などといったサタンの観念が私の心に深く定着していたことに気付いたのです。この観念の支配下にあった私は、自分の本分に取り組む際、常に自分に甘く、全力を尽くすこともなく、最善の結果を求めてもいませんでした。それは教会の取り組みにおいて大きな損失となっただけでなく、私自身のいのちにおいても重大な損失となっていたのです。「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」といったサタンの虚偽の毒に屈した私は、教会での業務において何の責任を担うこともなく、中途半端な仕事で済ませ、何の結果を得ようともしていませんでした。私は神の創造物として持つべき良心や理性を失ってしまっていたのです。「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」というサタンの観念に囚われてしまった私はただ単にいいかげんな形で神に従っていたのです。私は神を信じることに何の重要性も結びつけていませんでした。私は真剣に真理を求めてなどおらず、いのちに入ることに関心もなく、またはそれに集中してもいませんでした。人生の目標や方向性もない状態でした。適当に生き、必要最低限の仕事しかしていなかったのです。その時初めて、私はサタンの「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」という観念により傷つけられ、普通の人が持つ良心、理性、誠実さ、そして尊厳を喪失していたと分かったのです。落ち着いて考えてみると、私はサタンの「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」という観念を信じ、「もし多くの人が罪を犯すなら、神は私達に対して寛大であり、誰かに責任を課すなどということはしない」と信じ、神が実際にその様な形で人々を取り扱われるか否かということを決して考えることもないまま、自分自身の狭い想像力と観念の中に生きていたのです。この時私は、この神の言葉を考えずにはいられませんでした。「神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。」(『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)神の性情はいかなる者が犯すことも許されない、そして神は人を滅ぼす決断をする際に罪人の数は考慮されないことを意味するこの神の言葉に私は畏れ、思わず震えてしまいました。過去を振り返ると、ノアが生きた時代の人々は罪深く、性的に乱れ、神はノアの家族以外でその時代に生きた人々全員を滅ぼされました。これは神がソドムの都市を滅ぼされたことと似ています。現在、世の終わりに存在する人口は数十億。ノアの時代を生きた人々の数を大幅に上回っています。しかし神は、世の終わりには非常に多くの罪人が存在しているからといて、法を破棄され憐みを示しておりません神はこの者達は軽蔑、刑罰、嫌悪、そして拒絶のみ値するとお考えであり、ありとあらゆる天災や人為的な災難を用いてこの者達を地上から徐々に一掃されようとしています。最終的に、神は、お救いになる数人を除き、その他全ての者を完全に滅ぼされます。この時初めて、私は神の性情をどれだけ理解できていなかったかに気付いたのです。私は、神がいかなる者にも犯すことを許されない、義なる、聖い神であることを理解できておらず、それはサタンの嘘に困惑し、その狡猾な計略の罠に落ちてしまうほどでした。神の啓きを頂くことがなければ、私は今日、依然として罪に生きることを罪と理解できず、そのまま生き続け、最終的には私がなぜ死ななくてはならないのかも理解できずに罰を受けていたことでしょう。非常に危険な人生を送ってきたものです。
私は、神の啓きのおかげで、サタンの欺きから目覚めることができ、そして「皆がやっているのであれば、それは罪ではない」という観念は完全にサタンの持つ異端の虚偽であったことに気付くことができて感謝しています。これは人々を傷つけ破滅させることを狙ったサタンの狡猾な計略だったのです。さらに、神は義しく、神の性情はいかなる罪も許されることはなく、神は人の最後をその者が真理を抱いているか否かで決定し、真理を抱いていない者に対し特別に憐みを示すことはないのだと、私は知りました。今後、私は、真理を求め、神を理解し、神の言葉をもとに全ての事物をとらえ、神の言葉を自分自身に課す厳しい要求の基準とし、サタンの虚偽と欺き全てを捨て、そして真理を信じて生きる者へと育っていくために全力を尽くします。
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