神様の御言葉が導いてくださる

2019年10月30日

神様の御言葉はこうおっしゃっています。「神が人を暴く意図はその人を淘汰することではなく、成長させることです。」(『キリストの言葉の記録』の「神の言葉を実践することでのみ、性質の変化が可能になる」より)以前、人を露わになさる神様の意図を誤解していたせいで、私は本分を尽くすうちに間違いを犯したり、困難に遭遇したり、失敗に直面したり、不運に見舞われたりするたびに消極性と誤解の中に引きこもっていました。仕事は消極的に怠けてしまい、神様の御心を求めることも、心の中で反省して自分を認識しようともしませんでした。そのせいで真理を得る多くの機会を失ってしまいました。神様が用意してくださった環境と、神様の御言葉による啓きとお導きのおかげで、私は後に自分の経験の偏りを突き止め、神様が人を露わになさるのは私たちを淘汰するためではなく、私たちのいのちが成長できるようにするためだと気づいたのです。神様の御心を理解してからというもの、私はもはや消極的になることも神様を誤解することもなく、実践して真理に至る道を見つけました。

私が教会で尽くしている本分は文書の整理です。神様のお導きのおかげで、しばらくは本分を尽くすうちにいくらかの成果を挙げていました。私が校正しまとめた福音資料を兄弟姉妹が調べても、まったく問題は見つかりませんでしたが、兄弟姉妹が自分たちで編集した福音資料となると、私は問題を見つけるだけでなく、彼らのために問題を修正したり解決したりすることもできました。兄弟姉妹はよい状況にいませんでしたが、私は神様の御言葉を基に自分の経験を彼らに伝え、それによって彼らが誤った状況から抜け出せるようにすることができました。そのことを思うと、私はとたんに大得意でした。本分を尽くすというとても素晴らしい仕事を成し遂げ、実際にいくらか進歩したかのように感じたのです。しかし大いに驚いたことに、私が二日かけてまとめた福音資料で問題が繰り返し持ち上がりました。ある日、姉妹が私に言いました。「あなたが福音資料で書く文章はいつももっと洗練されていたのに、この文書にはこんなにたくさん間違いがあるのはどういうことなの」私はずっと文章の校正が得意なほうだったので、しばらくそれを受け入れられず、考えました。「私はとても頑張ってこの福音資料を校正したのに、文章にまだ問題があるなんてどういうこと」この姉妹が資料に加えた修正を見て、いい気持ちがしませんでした。しかし、私は神様の御心を探し求めていなかったのです。この福音資料にもう一度目を通しただけで終わりにしていたのです。翌日、私が校正した別の福音資料を見直しながら、同じ姉妹が不意に私の校正した箇所の考え方は不明瞭で、全体的な議論が成り立っていないと言いました。そのうえ、責任者もこの資料を見て自分と同じ意見だとも言ったのです。それを聞くと、私は心からがっくりと落ち込みました。私は考えました。「どうしてこんなことがあり得るの。自分の文章で思考の流れをはっきりさせられなかったとか、内容全体の意味を伝えられなかったとか、どうしてそういうことがあり得るの。いま、この姉妹だけでなく責任者も私の仕事は基準を満たしていないと考えている。これはつまり文書全体の思考の流れに大きな欠陥があるということじゃないの。こんなにはっきりした問題を見逃すなんて、聖霊の働きを失ってしまったのかしら。人間としての素質に問題があるのかしら。この本分を尽くすのにふさわしくないのかしら……」考えれば考えるほど、私は弱くなるのを感じました。自分は完全に神様を誤解していたのであり、神様はもう自分に働きをしてくださっていないとか、神様は私を見捨てられたなどと感じました。昼食のとき、姉妹たちが一緒におしゃべりしたり笑ったりしているのを見ましたが、私は自分を元気づけることができませんでした。

ちょうどそのとき、神様の御言葉の一つを思い出しました。「真理を理解も実践もしていないとき、人はしばしばサタンの堕落した性質の中で生きています。サタンの様々な罠の中にあり、自分の将来、体面、地位、その他の益のために知恵を絞るのです。しかし、このような態度を自分の本分に、真理の探求と追求に向ければ、あなたは真理を得ます。」(『キリストの言葉の記録』の「本分を不注意かつおざなりに尽くす問題を解決するには」より)神様の御言葉は私を揺り起こしました。私は心を落ち着けて物事をもう一度よく考えました。過去数日間に私が見直していた資料で次から次へと問題が見つかりました。それなのに、このようなことが明らかになっていてもなお、私は神様の御心をまったく探し求めませんでした。それに、本分を尽くすにあたってこれらの問題が生じた原因は何か、性質と意図に問題があったからなのか、それとも仕事に熟練していなくて、なんらかの原則をよく把握していなかったからなのかを深く考えようとせず、こうした間違いの再発を防いで、本分を尽くしてよい成果を挙げるにはどうすればよいかを突き止めようともしませんでした。それらの現実的な問題をまったく考慮せず、その代わり、他人は自分をどう見ているのか、神様は私を露わにして淘汰なさりたいのかといった疑問が私の心をすっかり占めていました。私はずっとこのようなひねくれた考え方をしていて、正しい道についてまったく考えず、その結果、考えれば考えるほど否定的になって落ち込んでいき、本分を尽くすことへの関心を失ってしまいました。そのとき初めて、自分の経験の偏りに気づいたのです。神様に露わにしていただいてすぐ、私は真理を探し求めて問題を解決することに集中せず、その代わりに自分の評判や立場、将来と運命について考えていました。私はサタンに馬鹿にされていたのであり、そのせいで何年も神様を信じてきたのに一度もいのちに入っていけないでいたのです。このように落ち込んだままではいられません。こうした環境の中で神様の御心を探し求め、内省して自分を認識し、神様の御言葉の現実に入る必要があったのです。

私は神様の御前に出て自分を反省しました。露わにされた事実をずっと受け入れられないのはなぜでしょうか。本分を尽くすあいだに問題が起きるたび、いつもこんなに苦しむのはなぜでしょうか。その理由はいったい何ですか。祈り探し求めていると、私は神様の御言葉を思い出しました。「人類の堕落した性質は、あなたがたの気づいていない実際的な問題をはらんでいます。それは実に深刻な問題であり、一人ひとりの人間性に共通する問題です。それは人間性の最も大きな弱点であり、また人間の本性の実質のうち、突き止めて変えるのが最も難しい要素でもあります。人それ自身は被造物です。被造物が全能性を獲得することはできますか。完全無欠を成し遂げることができますか。万事に優れ、あらゆることを理解し、すべてを達成することができますか。できません。そうではありませんか。しかし、人間の内面には弱さがあります。人は技能や職務を学ぶとすぐ、自分は有能で、地位と価値がある人間であり、何らかの専門家だと感じます。どれだけ有能であろうとも、顕著な才能をもって傑出すると、自分を装い、重要人物のふりをし、何の欠点もなく完全無欠であるかのように見せかけます。人から見て、偉大で、力強く、実に有能で全能になることを望むのです。…普通の人間性にある弱点、欠点、無知、愚かさ、理解の欠如について、彼らはそれらを包み込み、覆い隠し、他人に見せず、自分を装い続けます。そのような人はいつも五里霧中の状態にあります。違いますか。彼らは夢を見ているのではないですか。自分が誰であるのかを知らず、普通の人間性をどう生きるべきかも知りません。実際の人間のように振る舞ったことが一度もないのです。振る舞いにおいてこのような道を選ぶなら、つまり地に足をつけるのではなく、空を飛びたいと願っていつも実際的でないことを考えているのなら、必ずや問題に遭遇します。正直に言えば、もしあなたがそうすれば、どれだけ神を信じようとも真理を理解することはなく、真理を得ることもできません。あなたが選ぶこのような人生の道は正しくなく、出発点が間違っているからです。いかに地に足をつけ、いかに一歩一歩着実に歩くかを学ばなければなりません。歩けるなら歩きなさい。走り方を学ぼうとしてはなりません。一歩ずつ歩くことができるなら、一度に二歩も歩こうとしてはなりません。しっかり地に足をつけた人になりなさい。超人や偉人や立派な人になろうとしてはいけません。

人間は自分のサタン的な性質に支配され、内面に野望や欲求を抱いていますが、それは人間性の中に隠されています。つまり、人は地上にとどまっていたいと思うことはなく、上空にのぼることを絶えず望んでいるのです。けれど、上空は誰がとどまる場所ですか。そこはサタンの場所であり、人の場所ではありません。神は人を造ったとき、人の日常生活が完全に正常で、生活様式が規律正しいものとなるように、またいかに人間でいるべきかについて一般的な知識を得て、どのように生活を送り、神を崇拝すべきか学べるように人を地上に置いたのです。神はあなたに羽を授けず、空中にとどまることを許しませんでした。羽があるのは鳥であり、空中をさまようのはサタンと悪霊と汚れた霊です。それらは人ではありません。人がそのような野心を抱き続け、並外れて優れた人間、他人と違う特別な人間になりたいといつも思っているなら、それは問題です。まず何より、考えの根本が間違っています。『並外れて優れた』とはどのような考えですか。『他人より頭一つ抜きん出る』『あらゆる比較を許さない』『完全無欠』…」(『キリストの言葉の記録』の「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」より)「通常の状況において、万事に優れた人はおらず、『あらゆることに精通した人』もいません。あなたの脳がどれだけ発達していようと、見識がどれほど広範囲にわたろうと、あなたが理解していないこと、気づいていないこと、知らない仕事や技能が必ずあります。あらゆる事業や職業において、あなたが気づいていない知識の欠如、あなたにできないこと、あなたの能力を超えることが常に存在するのです。」(『キリストの言葉の記録』の「神の言葉を実践することでのみ、性質の変化が可能になる」より) 神様の御言葉を深く考えて自分の状況と比べたあと、神様に露わにしていただくのを受け入れられなかったことに初めて気づきました。傲慢なサタン的本性に支配されていたのがその理由でした。私はいつも完全で、欠点がなく、立派で、勇敢な人になろうとしていました。どこに行こうと、どこで本分を尽くしていようと、最も優れた最高の人間に常になりたかったのです。成功するためにはそうした人間にならなければならず、さもなければ役立たずの欠陥品だと感じていました。それで、本分を尽くしているあいだに問題が生じるたび、私は落ち着いてそれに向き合わず、神様によるこのような暴露を受け入れず、自分の欠点を認めることもなかったのです。むしろ大いに驚き、自分が間違いを犯したはずはないと考え、どうしてこんなことが起きたのだろうと不思議に思っていました。そのせいで否定と誤解の中に生き、自分を正しく扱うことさえできないほどでした。本当に自分をよく認識しておらず、あまりに高く評価していたのです。神様の御言葉は、私がいつも完全で、欠点がなく、立派な人間になろうとしていたことを明らかにしてくださいました。それはひとえにサタンの野望と欲望から生じたものです。実際には単なる被造物に過ぎず、完全を成し遂げるなど永遠に不可能なのに、サタンは私をからかい堕落させていたのです。神様は立派になったり完全になったりするよう私たちにお求めになったことはありません。神様ならば、私たちが地に足の着いた存在になり、着実な進歩を成し遂げ、完全な誠実さをもって振る舞うようになさるでしょう。私はどのようなものであれ自分の基準と霊的背丈を基にして、自分の役割を果たし、神様の働きに服従することを学び、全力で本分を尽くすべきなのです。そうして初めて被造物にふさわしい理知を有するのです。誰ひとりとして完全ではありません。普通の人には必ず欠点や不得意なことがあります。本分を尽くすにあたって偏りや問題が生じたことはまったく正常であり、私は実際に露わにされることで自分の欠点に気づきました。絶えず改善を重ねてそれらの欠点を補うことでのみ、さらに進歩し、これまでよりさらにしっかりと本分を尽くせるようになるのです。自分の問題や欠点に正しく対処できず、真理を求めてそれらを解決しないなら、どうして進歩を遂げられるでしょうか。そのとき初めて、自分がどれほど欲望や野望に支配されていたかを認識しました。私はあまりに生意気になっていて、自分についての認識などまったくありませんでした。完全な人間になるという私の追求は神様の御心にまったく反することであり、ゆえに神様の祝福とお導きを得られるはずがなかったのです。

私は再び神様の御言葉を読みました。「神が人を暴く意図はその人を淘汰することではなく、成長させることです。さらに、時としてあなたは自分が暴かれていると考えますが、実際にはそうではないのです。人の素質は劣っていて真理を理解できず、加えて傲慢な性質があるので、しばしば好んで自分を誇示し、反抗的な性質を有し、誠実でなく、不注意、無関心で、自分の仕事をきちんと行なわず、本分を正しく尽くしません。一方、自分に与えられた原則を時々忘れ、片方の耳から入ってもう一方の耳から出ていくのに任せています。自分の好きなようにし、他の人ともっと交わりをする前に行動し、自分の思い通りにふるまいます。することに効果はほとんどなく、原則に真っ向から反しています。これについては懲らしめられるべきですが、淘汰されたとどうして言えますか。このことに正しく取り組まなければなりません。何が正しい取り組み方ですか。真理を理解していない事柄においては、探し求めなければなりません。それは単に教義の理解を求め、それ以上は何もしなくてもいいということではありません。神の旨を理解し、神の家が何らかの働きを行なう際の背後にある原則を理解しなければならないのです。その原則とは何ですか。教義ではありません。それにはいくつかの基準があり、働きの手引きにはそうした事柄についてどのような判断が記されているか、上層部はそうした働きを行なうことについて何を命じたか、神の言葉はそのような本分を尽くすことについてどう述べているか、神の旨をどう満たすべきかを探し求めなければなりません。神の旨を満たす基準は何ですか。真理の原則にしたがって行動することです。大まかな方向としては、神の家の益と働きを優先することです。より絞って言えば、あらゆる側面において大きな問題がなく、神に屈辱がもたらされてはならないということです。これらの原則に精通すれば、人の不安は徐々に薄まりますか。誤解も消えてゆきますか。いったん自分の誤解を捨て去り、神について不合理な考えをもたないようになれば、徐々に消極的な事柄があなたの中で支配的な地位を占めなくなり、そうした事柄に正しく取り組むようになります。ゆえに、真理を探し求め、神の旨を理解しようと求めることは重要なのです。」(『キリストの言葉の記録』の「神の言葉を実践することでのみ、性質の変化が可能になる」より)神様の御言葉のおかげで、神様が私を暴かれたのは淘汰するためではなく、本分を尽くす際の欠点を私に突き止めさせ、堕落した性質のどの部分が本分を尽くすことをいまだに妨げているかを私に学ばせるためなのだと理解できました。そうすることで、私がこれらの問題を適時解決し、働きの結果を絶えず高め、できるだけ速やかにいのちの性質を変えられるようにするためなのです。神様の御心を理解したあと、私は自分を落ち着かせ、最近行なった福音資料の見直し二件のどちらにおいても問題が生じた理由を探し求めました。注意深く考えてみると、自分の文書整理に改善が見られるたび、自分を高く評価して自己満足に浸っていたことに気づきました。さらに進歩しようと努力せず、次に資料を扱うときはとても不注意になり、単に型通りの仕事をしただけでした。資料に含まれている真理の詳細については、私はそれを理解していないにもかかわらず、背後にある原則を探し求めていませんでした。それがどういう意味かについての大ざっぱな考えがあるだけで、混乱したまま継続していたのです。だとすると、本分を尽くすにあたって問題が生じたのは不思議なことでしょうか。じっくり考えていると、真理を求めて自分の堕落した性質を解決し、自分の仕事を勤勉に終わらせることにより多くの努力を傾ければ、それらの問題は実際に避けられると気づきました。私が真理を求めてこれらの問題を解決できるように、神様は事実を暴かれることで、私の堕落した性質と、私が本分を尽くすときに抱いていた態度を認識させてくださいました。これはまさに神様の私への愛ではないでしょうか。その認識は私の心を明るくしました。神様への誤解をやめて自分の状況を急いで修正し、本分を尽くすことに心を捧げなければならないと気づいたのです。その後、私は責任者と一緒にその福音資料の論法をさらに深く掘り下げ、校正の方向性を原則に従って決定しました。翌日、資料を再び見直したところ、驚いたことにメリハリのついた文章になっており、作業を終えるころにはさらに大きな自信と落ち着きを感じました。

この経験のおかげで、本分を尽くすにあたって偏りや問題があるときは、神様が自分を暴かれるのではないかと不安になったり恐れたりしてはいけないことに気づきました。暴かれてもすぐに真理を求めて問題を解決せず、否定的な状態にいたまま絶えず自分の限界を決め付け、それによって真理を得る多くの機会を失い、いのちの進歩を遅らせるほうが恐ろしいのです。今後はどんなつまずきや失敗に直面しようとも、いつも神様の御前で真理を求め、反省して自分を認識するようにし、神様の御言葉を用いて自分の堕落した性質を解決し、真理に入る道を求めたいと思います。そのように実践することでのみ、いのちの進歩をさらに遂げてより効果的に本分を尽くせるのです。

小誠(陝西省)

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