病気の中で得た収穫

2022年7月16日

チャンリー 中国

2007年はわたしの人生の大きなターニングポイントになりました。その年、夫が交通事故に巻き込まれ、寝たきりになってしまったのです。二人の子どもはまだ幼く、家族にとって大変な時期でした。わたしも本当につらい思いをし、この先どうすればいいか見当もつかなかったのですが、そのとき、全能神による終わりの日の働きを受け入れました。神の御言葉を読むことで、人のいのちは神のおかげであり、また人の運命は神の手中にあるので、よき運命を得るには神を崇めて信じなければならないことがわかり、頼れるものを見つけたと感じました。それ以降、わたしは定期的に集会に参加するようになり、子どもと一緒に神の御言葉を読んで祈りました。そして間もなく、教会で本分を尽くすようになりました。

その後、わたしは教会指導者に選ばれたのですが、神の恵みに感謝してこう思いました。「信仰の道に入ったばかりなのに、教会指導者に選ばれた。自分は真理の追求に優れているに違いない。しっかり本分を尽くし、必要なことは何でもしよう。そうすればきっと救われるはず」。そう考えると本分への意欲が湧き、福音を宣べ伝えて本分を尽くすことに時間の大半を費やすようになりました。友人や親族はわたしの信仰に反対し、近所の人たちもわたしを中傷したり嘲ったりして、それで少し弱気になりましたが、本分から退くことはありませんでした。夫も神による終わりの日の働きを受け入れ、やがて本分を尽くすようになり、わたしは心から喜びました。「しっかり本分を尽くして神のために犠牲を払う限り、わたしたちはきっと神に祝福していただける」。特に兄弟姉妹から、あなたは苦しんで代価を払っていますねとか、あなたはきっと救われますよなどと言われると、本当に嬉しくなり、神のために努力する意欲がさらに湧きました。

2012年のある日、胸にしこりができて少し痛むので、これは深刻なのかしらと不安になりましたが、こう考え直しました。「いえ、そんなはずはない。わたしは毎日、教会で本分を尽くしてる。神のために本物の犠牲を払っている人に対し、神がそんなことをなさるはずはない。神のご加護があれば、深刻な病気になんてならないわ」。そう考えると不安は消し飛び、その後も変わらず本分を尽くし続けました。2013年に入り、中国共産党による信者への迫害がますますひどくなりました。地元では、夫もわたしも福音を宣べ伝えていることで有名で、常に逮捕される危険に晒されていたので、引き続き本分を尽くせるよう、自宅を離れて遠くに引っ越しました。その後、胸のしこりが大きくなり、これは何かの病気ではないかと心配になったのですが、これまで何年も深刻なことは起きていないし、神はきっとわたしを守ってくださっているはず、と考えました。しっかり本分を尽くしてさらに犠牲を払う限り、神はきっとわたしを憐れんでくださるから、深刻な病気になるわけがない。

2018年、わたしは体調を崩し、夫に連れられ病院へ行きました。すると医者から、胸のしこりがガチョウの卵ほどの大きさになっていて、これはよくない兆候だと言われました。けれど、すぐに手術するのはとてもリスクが高く、まずは化学療法を行ない、手術する前にしこりを小さくしようというのです。「よくない兆候」や「化学療法」という言葉を聞いて、わたしはパニックになりました。「化学療法を受けるのは癌になった人だけ。わたしも癌ってこと? こんなに若いのに、死んでしまうの?」。とても信じられません。わたしは廊下の長椅子にどさりと座り、激しく泣き出しました。

すると夫はわたしを慰めようと、「検査はこれが初回だし、正しいとは限らない。明日別の病院に行って、もう一度検査を受けてみよう」と言いました。

翌日、わたしたちは違う病院を訪れ、そこでわたしは生体検査を受けたのですが、医者は夫にこう告げました。「奥さんの状態は深刻で、癌の可能性があります。ぐずぐずしてはいられません。二日以内に手術しなければ」。

それを聞かされたわたしはすっかり力が脱けてしまい、心臓が凍りつくように感じました。「本当に癌なの? 癌だったら死んでしまう! どうしてわたしがこんな目に遭わなければならないの?」。ですが、こう思い直しました。「そんなはずはない。信者になってからというもの、わたしはいつも本分を尽くし、犠牲を払い、苦しんで代価を支払ってきた。他人の中傷や誹謗にも、共産党の迫害や追跡にも耐えてきたし、何があっても本分を尽くし続けた。どうして癌なんかに? 救われて天国に入る希望がなくなったの? 長年の犠牲がすべて無駄になってしまったの?」わたしはひどく動揺していました。

その夜はベッドに入っても寝返りを打つばかりで、一睡もできませんでした。どういうことなのか、まったくわかりません。これほど自分を費やしてきたのに、いったいどうしてこんな病気に? 神はどうしてわたしを守ってくださらなかったの? そして、二日以内に手術を受けなければならないことが頭をよぎりました。成功するかどうか、見当もつかない……わたしはつらくて仕方なくなってしまい、無言で神に祈りました。「神よ、わたしはいま、とてもつらい思いをしています。この状況をどう切り抜けるべきか、わかりません。どうかわたしを啓き、お導きください……」。祈りのあと、人間に対する神の最後の要求11箇条の中から、これを読みました。「5. あなたがわたしに対して常に忠実で、わたしを非常に愛してきたにもかかわらず、病や貧窮の苦しみを受けたり、友人や親戚に見捨てられたり、その他の人生における不幸に見舞われたとしたら、それでもわたしに対する忠誠や愛が続くだろうか。6. あなたが心に思い描いてきた物事が、一つもわたしの行ったことと一致しないとしたら、あなたはどのように将来の道を歩むだろうか。7. あなたが望むものを一切受け取れなかったとしても、引き続きわたしに付き従うか(『神の出現と働き』「極めて深刻な問題――裏切り〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。これらの要求を考えるうちに、わたしは気づきました。この病気はわたしに対する神の試験であり、わたしが心から神に忠実で、真に神を愛しているかどうかを確かめようとなさっているのだ、と。そして、ヨブが試練を受けたときのことを考えました。ヨブは財産と子どもたちを失い、全身が腫れ物で覆われました。神の御旨こそわからなかったものの、彼は神を責めるよりも自分を呪うほうを選び、ヤーウェ神の御名を称えました。ヨブは神への信仰を守り、従順であり続け、サタンの前で神の証しに立ったのです。一方のわたしは長年神を信じ、神の御言葉による糧をあれほど享受していながら、神の働きをまったく理解していませんでした。癌だとわかったときも、自分は救われず、天国の祝福を享受することもないなどと考え、神を誤解して責めました。長年にわたって神を信じ、これほど多くの犠牲を払ってきたのだから、神はきっとわたしが病気になるのを防いでくださると思っていたのです。神に暴かれて初めて、自分の犠牲はどれも、神の御旨への配慮からなされたものでも、あるいは真理を実践して神に満足いただくためになされたものでもないことがわかりました。それらは祝福を得て天国に入るため――わたしは神と取引していたのです。神に対するわたしのいわゆる忠誠心と愛は、まったくの作り話でした。誠実さのかけらもありません。わたしは神を本当に傷つけ、失望させてしまったのです。

その後、この神の御言葉を読みました。「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。人間の生死は自分の選択で生じるものなのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる。わたしは姿を現して人間にはっきり見られるようにはしないが、多くの人はわたしの顔を見ることを恐れ、わたしが彼らを打ち倒すのではないか、彼らを消し去るのではないかとひどく恐れる。人間はほんとうにわたしを知っているのか、知らないのか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉から、人の肉体と魂は神に由来するのだとわかりました。生死は神の手中にあり、わたしたちに決定権はありません。わたしたちは被造物として、神の采配に従う必要があります。これに気づいたわたしは、死がそれほど怖くなくなり、静かに決意しました。「手術の結果がどうであろうと、生きようと死のうと、自分のいのちを神に委ね、神の支配に従おう」。

ひとたび服従すると、心の中に安心感が押し寄せてきました。手術室へと運ばれる中、わたしはひたすら祈りました。その後、手術は成功したと医者に言われましたが、今後の推移を確かめるために、除去したしこりを検査する必要があるとのことでした。わたしはそれを聞いて、「手術が成功したのは神が守ってくださったおかげだわ」と思いました。手術を終えた他の患者は弱り果て、取り乱しているのに、自分は弱っておらず、元気もある。また病棟の他の患者からも、とても手術を受けたようには見えないと言われました。その言葉に、わたしは心の中でひたすら神に感謝しつつ、同時にこう思いました。「胸のしこりに気づいたのは6年前。これが癌だったら、ずっと以前に悪化していたはず。でもその間ずっと、体調が悪くなることはなかった。たぶん癌ではないのかも。それに癌だとしても、神は全能でいらっしゃるから、何も問題が起きないようにしてくださる」。以前、わたしはある兄弟姉妹の話を聞いたことがあります。彼らは日頃から神にすがっていたのですが、重い病気になったとき、神の不思議な御業を目の当たりにしたというのです。わたしも神のためにいつも犠牲を払ってきたのだから、神はきっとわたしを守ってくださるはず。

三日後、わたしは希望を胸に検査結果を聞きに行きましたが、その希望は絶望へと変わりました。本当に癌だというのです。

わたしは身動きせずにじっと座り、検査結果を見つめたあと、涙をこぼしながらそれを読みました。かなり経ってからようやく落ち着き、こう考えました。「神はこの病気をお使いになって、わたしを暴いて淘汰なさろうとしているの? 神に奉仕する資格はもうないということ? 自分は長年神を信じて犠牲を払い、風雨の中でも福音を宣べ伝えた。神はそれを覚えていらっしゃらないの? これで神への信仰が終わってしまうの?」。わたしはますます動揺し、気力も完全になくなりました。

その後は食欲はおろか、話す気力さえありませんでした。栄養を補給してもっと運動するようにと医者は言うのですが、わたしはこう考えていました。「死刑宣告を受け取ったのよ。栄養補給や運動に何の意味があるの? とにかく、いずれ死ぬんだから」。そして絶望のあまり、こう思わずにはいられません。「信仰の道へ入る前に病気になったものの、神を信じ始めて快方に向かった兄弟姉妹が大勢いる。でもわたしは、神への信仰を見つけからというもの、毎日本分を尽くしてきた。どうして癌なんかに? これまで、犠牲を払うのは救いを受けるための切符と思っていたけれど、いまでは救われないだけでなく、癌で死のうとしている」。神への非難と誤解が、とめどなくあふれ出てきました。絶望の中、わたしは涙ながらに神に語りかけました。「神よ、わたしは本当につらいです。病気になってしまい、あなたの御旨がわからずにいます。御旨を理解できるよう、どうかわたしを啓き、お導きください」。

その後、神のこの御言葉を読んだのです。「すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる(『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげで、神の御旨がわかりました。神は病を用いることで、わたしの内なる堕落、反抗心、そして汚れた動機を暴き出し、わたしが自己認識して堕落を捨て去り、神による救いを得られるようにしてくださっているのです。しかしわたしは、神はわたしのいのちを奪って淘汰なさろうとしていると思い込み、神を誤解して責め、すっかり諦めて絶望に陥りました。自分の犠牲に値段をつけ、それを自分の手柄にして神と言い争い、果ては自分の死を利用して神と争おうとしました。良心をすっかり失っていたのです! 神への申し訳なさを強く感じたわたしは、神の御前に出て祈り、病気になったときに服従できず、それどころか神を誤解して責めた理由を見つけようとしました。

そして、この神の御言葉を読みました。「何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)。「そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの単純な目的しか持っていない。その目的とは祝福を受けることである。このような者たちは、その目的に直接関係しないその他一切のことに、わざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じて祝福を受け取ること以上に正当な目標はなく、それがまさに彼らの信仰の価値なのである。その目的に貢献しなければ、彼らはそれにまったく心を動かされない。今日神を信じている人のほとんどは、そういう状態である。そのような者たちの目的や意図は、もっともらしく見える。神を信じ、また神のために費やし、神に身を捧げ、本分を尽くすからである。青春を犠牲にし、家族と職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。最終的な目標のために自分の関心のありどころを変え、人生観を変え、求める方向までも変える。しかし、神を信仰する目的を変えることはできない。彼らは自分自身の理想を管理するために駆け回る。どんなに道が遠くとも、途中でどんな困難や障害に遭おうとも、頑張り抜いて死をも恐れない。彼らはどんな力に突き動かされて、そのような形で献身を続けるのか。彼らの良心だろうか。偉大で高潔な人格だろうか。最後の最後まで悪の力と戦おうとする決意だろうか。報いを求めずに神を証しするという信念だろうか。神の旨を実現させるためならすべてを喜んで捨てるという忠誠心だろうか。それとも、途方もない個人的欲求を一貫して放棄する奉仕の精神だろうか。神の経営の働きを理解していない人がそれほど多くを捧げるというのは、ただただ奇跡である。ここでは、そうした人がどれほど多くを捧げてきたかは語らずにおこう。しかしながら、彼らの振る舞いは分析するだけの価値が十分にある。彼らと密接に関わりのある恩恵とは別に、神を理解しない人がそれほどまでに神のために捧げる理由が他に何かあるだろうか。このことの中に、これまで認識されていなかった問題が見つかる。つまり、人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある。物事がこういう状態に至った今、誰がこの趨勢を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになったかを、どれほどの人が本当に理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである(『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉が剣のように心を突き刺し、わたしは心底恥ずかしくなりました。神が言われる通り、わたしの信仰の裏にある動機は、将来の祝福を得るためではなかったでしょうか? 表向きはどれほど犠牲を払っているように見えても、単に神と取引していただけで、それはひとえに祝福のため。心から神に従っておらず、被造物の本分を尽くしてもいない。信仰の道に入ってすぐのころ、自分が災害に見舞われることはなく、祝福されて神の御国に入れると、わたしは思っていました。そのため自分のすべてをなげうち、何があっても本分を尽くしました。子どもたちを学校に送り迎えする時間もなかったほどです。他人に誹謗中傷され、共産党に追われて迫害されても、本分が妨げられることはありませんでした。そのため、自分は神に忠実で、神はきっとわたしを称え、祝福してくださるはずだと思い込んでいたのです。ところが癌だと判明すると、じぶんはもう終わりだとか、天国に入る夢も泡と消えてしまったなどと思いました。そうして誤解と非難の気持ちで一杯になり、神と言い争ったあげく、自分の死を利用して神と争おうとしました。事実を突きつけられたわたしは、自分が本分を尽くして苦しみ、自身を費やしていたのはすべて、その見返りによき終着点を得るためだったのだと気づきました。わたしと神との関係はまさに、「雇われ人と雇い主の関係」だったのです。代価を支払うたびに報いを求め、真に神を愛してなどいませんでした。神を利用し、騙そうとしていたのです。信仰に対する見方がそのようであれば、神はわたしを憎んで忌み嫌うより他ありません。神がこの病気を使ってわたしを目覚めさせていなければ、わたしは相変わらず間違った信仰観にしがみつき、神はしまいにわたしを見捨て、淘汰されていたでしょう。これに気づいたわたしは、後悔と自責の念で一杯になり、ひざまずいて神に祈りました。「神よ、あなたがこの病を通じてわたしを暴いていなければ、わたしは自分の間違った信仰観を認識していなかったはずです。御言葉の裁きと啓示のおかげで、わたしの霊が目覚めました。間違った動機を正し、祝福への願望を捨てたいと思います。病気が治ろうと治るまいと、生きようと死のうと、あなたに従ってまいります」。祈り終えると心がずっと安らぎ、状態もかなりよくなりました。それ以降は運動と栄養補給を続け、健康状態も日々改善していき、程なく退院できました。

家に戻ると、夫と子どもたちが福音を宣べ伝え、本分を尽くしに出かける一方、わたしはベッドに横たわるより他になく、本分を尽くすこともできず、そのため少し落ち込みました。いつ完全に治癒するのか、再び本分を尽くせるようになるのかわからない。本分を尽くせなければ、自分はただの重荷じゃない? そうなれば、どうして救われるだろう? このように考えていたところ、祝福への願望がまたも醜い頭をもたげてきたことに気づいたので、急いで神に祈り、御言葉のこの文章を読みました。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「外面的な変化と性質の変化の違い」)。神を信じる中で神と取引し、物事が思い通りに行かないと神に逆らい、抵抗していたのは、ありとあらゆるサタンの害毒がわたしを支配していたからだと、御言葉のおかげでわかりました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「利成らずば早起きは無駄」といったサタンの哲学で生きていたのです。わたしの行ないはすべて自分のため、自分に利益をもたらすためでした。あまりに利己的で不実です。信仰においてさえも、苦労して忙しくしてきたのは、祝福と報いを得るためで、真理を追い求めたり、性質を変えたりすることにはまったく集中していませんでした。望んでいた祝福が得られないと、自分のサタン的本性が噴き出し、神を誤解して責め、神のために行なってきたことを悔やみました。パウロは主のために働き、多くの苦しみを受けましたが、真理への愛がなく、神を知ることや性質を変えることを求めませんでした。苦しみと犠牲の見返りとして、義の冠を欲するばかりだったのです。結局、彼のサタン的性質は変化せず、傲慢さのために理知を残らず失い、自分こそがキリストだと証しして人々を自分の前に連れ出しました。それは神の性質に背くことであり、パウロはそのために永遠の懲罰を受けました。わたしも、このままサタンの害毒で生き続ければ、最後はパウロのようになるだけだということはわかっていました。神に逆らったせいで、きっと神に懲罰されます。祝福を求めて真理を追い求めないことがいかに危険かがわかり、わたしは心から神に感謝しました。信仰での追求に関するわたしの間違った観点を理解させ、神に逆らう道を歩んでいることをわからせるために、神はありがたくもこの病気を用いることで、反省して自己認識する機会をわたしにくださったのです。

その後、この神の御言葉を読みました。「神は永遠に至高かつ尊厳ある方であり、一方人間は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、いつも自分の為に得る努力しかしない。神は人類の生存のために永遠に労苦しているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは一回の打撃にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって、他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全てを継承し、表現する者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいかなる時や状況においても、義を裏切り、神から遠く離れてしまう可能性がある(『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」〔『言葉』第1巻〕)。わたしは大いに感動しながらこの御言葉をじっくり考えました。サタンによって深く堕落させられた人類を救われるべく、神は血のにじむような犠牲を払われた。二千年前、神は人類を贖うために、ユダヤの地で初めて肉となられ、嘲りや中傷に耐え、ユダヤ教の信者に迫害され、虐待された。最後は十字架にかけられ、それによって贖いの働きを成し遂げられた。そして今日、人類を永遠に清めて救うべく、神は中国の地で再び肉となられた。共産党に追われて迫害される中、隠れる場所も安らぐ場所もないだけでなく、わたしたち信者による誤解、非難、不服従、そして抵抗に耐えなければならない。それでも神はひたすら人類を救おうとされ、わたしたちのためにできることを静かになさって、何も見返りをお求めにならない。ところがわたしは本分で犠牲を払いつつ、その見返りに祝福と終着点を期待し、良心に反して神と取引した。あまりに利己的で不実です! とても真の信者とは言えません。これに気づいたわたしは神の御前に出て、悔い改めようと祈りました。

そしてある日のデボーションで、この御言葉を読みました。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「神を信じる目的は、神を満足させ、神が求める性質を生きることで、神の業と栄光がこの無価値な人々の集団を通じて示されるようにすることである。これが神を信じる正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは神を信じることについて正しい観点をもち、神の言葉を得ることを求めなければならない。神の言葉を飲み食いし、真理を生きられるようにならなければならず、とりわけ神の実際の業、全宇宙を通じて為される神の素晴らしい業、そして、神が肉において行なう実践的な働きを見られるようになる必要がある。人は実際の経験を通じ、神が自分にどう働きを行なうのか、自分に対する神の旨が何かを理解することができる。それはどれも、人々の堕落したサタン的性質を排除するのが目的である。自分の中にある汚れと不義を一掃し、誤った意図を取り除き、神に対する真の信仰を育んだ後、真の信仰をもつことでのみ、あなたは神を真に愛することができる(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。わたしたちが信仰で追い求めるべき正しい目標を、神の御言葉は示しています。わたしたちが経験の中でいかに懲らしめられようとも、神はとりわけわたしたちを清めて救うために、すべてを采配なさいます。わたしは受容と服従の心でそのすべてに向き合い、状況に応じた真理を求めて堕落した性質を解消し、何事においても神に満足いただき、神の愛に報いる必要があるのだとわかりました。正しい追求はこれしかありません。そこで、祝福を求めて神と取引するのはもうやめよう、病気が今後どのような経過を辿ろうと、最後の一息まで神を崇めようと決意しました。神が本分を尽くす機会を再び与えてくださっても、祝福を求めて神と取引しない。本分を尽くす中でひたすら真理を追求し、性質の変化を求めよう。

それから程なくして、神はわたしに試験を課しました。

ある日のこと、教会の集会から戻ってきた娘がこう言うのです。信者を潤しているワン姉妹が警察に尾行されているものの、代わりとなる人物がまだ見つかっていないと。そして、教会の中でその仕事を引き受けられるのは誰かと訊きました。わたしは以前にその本分を尽くしたことがあり、よく知っていたので、自分が適任だと思いました。しかし、手術を受けてからまだ20日ほどしか経っていないことが脳裏をよぎりました。傷口はまだ完全に癒えておらず、天候も暑くなりつつある。また傷口は、自宅で一日何度か洗浄する必要がある。この本分を引き受け、傷口を洗浄する暇もないほど忙しくなれば、炎症を引き起こすかもしれない。腕の自由もまだ完全には利かず、電動スクーターで毎日駆け回れば、傷も治らないし、そうなれば本当に病気になってしまう。こうした状況でその本分を引き受けたら、きっと健康が損なわれる。しかしそこで、わたしはこう考えました。「この本分にふさわしい人はまだ見つかっていない。わたしが引き受けなければ、神の家の働きが後退することにならないかしら? わたしはどうすればいいの?」すると、神の御言葉の一節が頭に浮かびました。「神への信仰と真理の追求において、次のように言えるとします。『どんな病気や不愉快な出来事であろうと、それがわたしに起こることを神が許すのなら、たとえ神が何をしようとも、わたしは服従し、被造物としての位置にとどまらなければならない。まず何よりも真理のこの側面、つまり服従を実践、遂行し、神への服従という現実を生きなければならない。さらに、神から託されたことや、尽くすべき本分を脇にのけてはならない。たとえ最後の一息になっても、本分を固守しなければならない』。これが証しをするということではありませんか(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を常々熟考すれば道が得られる」)。神の御言葉はわたしに実践の道を授けてくれました。傷口はまだ完全には癒えていないものの、利己的で下劣になり、自分のことばかり考えて神の家のことを考えないなんてもう駄目。自分は長年にわたり、祝福を求めて本分を尽くし、神と取引してきた。神の御旨に配慮することも、神に満足いただこうと何かをすることもなかった。神には本当に借りがある! この本分を尽くす人が今すぐ必要だし、自分はそうしたいと望んでいる。自分の健康がどうなろうと、神に安らぎをもたらせればそれでいい。神の御言葉に導かれたおかげで、わたしが病気に束縛されることはもはやなく、自ら志願してその本分を引き受けました。

その本分に自分のすべてをつぎ込むと、神の不思議な加護を目にしました。一週間後、傷口は悪化するどころか、完全に治癒していたのです。医者はこう言いました。「こうした手術の後では、腕にリンパ浮腫が発生するのが普通で、回復してから一ヵ月以上経っても、化学療法が必要になる」。しかしわたしの場合、その本分を始めてからというもの、傷口の痛みがなくなり、腕にリンパ浮腫が発生することも、化学療法を受ける必要もありませんでした。いまでは手術から一年以上経過していますが、身体は健康そのものです。神の不思議な御業に感謝します。この神の御言葉を、わたしは自ら経験したのですから。「生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である(『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」〔『言葉』第1巻〕)。ひとたび無理な要求を捨てて神と取引するのをやめたわたしは、神の権威と支配がわかるとともに、神の不思議な御業を目の当たりにしたのです!

この病気による試練は、表面上は災難のように見えましたが、そこには神の愛が隠されていました。わたしは神の御言葉による啓きと導きのおかげで、祝福を得る動機と自分の不純を多少認識できました。また神への服従も強まり、病気を経験したのは神からの祝福であって、それはわたしを清めて変えるためだということが本当にわかりました。神の救いに感謝します!

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