神を信じる道に踏み出す
1991年、私は神の恵みにより、病気がきっかけで全能神に従い始めました。当時は神を信じることについて何も知りませんでしたが、面白いことに、私は全能神の御言葉を飲み食いするのを楽しんでいました。その御言葉をとても素晴らしいと感じ、歌ったり祈りを捧げたりしていると、涙を流すほど聖霊に感動することがたびたびあったのです。心の中に感じる優しさや喜びは、まるで楽しい出来事が起きたかのようでした。特に、聖霊が偉大な働きをなさっている中での集会では、まるで自分の肉を超えて第三の天国で暮らし、俗世間に属するすべてのものが風に吹き飛ばされてしまったかのように感じました。心の喜びと幸せを言葉で表現することはできません。自分が世界で一番幸せな人だと感じたものです。そのため当時は、神を信仰することは単に神の恵みを享受することだと思っていました。
神の御言葉がどんどん公開されるにつれ(当時は御言葉の一節が次から次へと絶えず教会に送られてきたのです)、私の知識も豊富になっていきました。やがて私は、単に神の恵みを享受するだけでは満足できなくなりました。神の御言葉の中で、神が「初子」たちに偉大な祝福を授けられることを知り、私はいつの日か神とともに統治することを期待して、自分も初子になりたいと思いました。後に、神のときが近づいていることを御言葉の中で知り、一層切迫した思いになって、「私が神を信じ始めたのは遅かった。だからこの祝福を得られないのではないか。もっと努力しなくては」と考えました。そのため、教会の采配を受けて本分を尽くすとき、私は積極的に取り組みました。苦難を恐れず、初子になるという祝福を授かれるよう、すべてを捨てて神に従おうと決意しました。実際には、私たちが初子になれると神が明言なさったことはありません。神が私たちを「子ら」とお呼びになり、いま引き上げてくださるのだから、私たちはきっと初子になれると信じるのは、単に私たちが野心に溢れて大それた欲望を抱いているからなのです。私はこのように、自分は当然のこととして初子になったと信じていました。その後、公開されたばかりの神の御言葉の中で「効力者」が頻繁に言及されるのを目にし、効力者の裁きに関する言及がどんどん増えていきました。私は内心こう考えました。「幸い私は全能神に従っている。そうでなければ奉仕者になってしまうところだ」初子に対する神の祝福と約束について読んだ私は、その一部は自分のものになると信じていました。また神の癒しの御言葉と初子に対する説教を読んだとき、それは自分に向けられているものだとも感じました。次の御言葉を読んで、私は特に嬉しくなりました。「わたしの子ら、わたしの愛する者たちの上には、この大災害が降りかかることがないのは確実である。わたしは一分一秒も欠かさずわたしの子らの面倒をみるだろう。あなた方はその痛みや苦しみにはきっと堪えられないだろう。だが、むしろそれはわたしの子らを完成させるためと、彼らの中でわたしの言葉を成就するためであり、あなた方がわたしの全能を知り、いのちにおいてさらに成長し、少しでも早くわたしの重荷を背負い、わたしの経営(救いの)計画が完成するようにひたすら尽くすようになるためである。わたしのこのやり方によって、あなた方は幸せになり、喜ぶはずである。わたしはすべてをあなた方に引き渡し、あなた方に支配させる。わたしはすべてをあなた方の手に委ねる。子供が父親の全財産を相続するのであれば、わたしの長子たち、すなわち、あなた方の場合はなおさら全てを相続するはずではないだろうか。あなた方は本当に祝福されている。大災害に苦しむのではなく、あなた方は永久に続く祝福を享受するのである。何という栄光だろう。何と素晴らしい栄光だろう。」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六十八章」〔『言葉』第1巻〕)私は「これは夢だろうか。私は天からそんな素晴らしいマナを授かったのか」と思い、どうしても信じられませんでした。しかし、兄弟姉妹に私の信仰は小さ過ぎると言われたくなかったので、あえて信じずにいるのはやめようと思いました。
ある日、私は興奮しながら集会へと向かい、そこで2人の指導者が教会に来ているのを見ました。交わりの最中、彼らは自分たちのことを効力者と呼びました。私はこれを聞いてショックを受け、こう尋ねました。「あなたたちが効力者なら、私たちはみな効力者なのではありませんか」彼らはためらわずに本当のことを言いました。「中国に住む私たちのほとんどが効力者です」私はこれを聞いてがっかりしました。そんなはずはない。これが現実なのか。しかし、彼らの重く苦渋に満ちた表情や、他の人たちの暗い表情を見ると、これを信じないわけにはいきませんでした。しかし、気が変わってこう考えました。「彼らは指導者として、それぞれの家族と仕事を手放し、神の働きのために沢山苦しみ、大きな代価を払ってきた。彼らに比べれば、私には多くのものが欠けている。彼らが効力者なら、他に何と言えるだろう。効力者は効力者なのだ」こう考えると、それほど怖くはありませんでした。
帰宅後、私は再度神の御言葉を読み、効力者について神が何とおっしゃっているかを探しました。そして次の一節を見つけました。「わたしのために心を伴わずに奉仕する人々よ、聞きなさい。あなた方はわたしに奉仕する時、わたしの恵みを多少受けることができる。つまり、あなた方はわたしの後の働きと将来生じることがらについてしばらくの間は知るだろうが、それを享受することは絶対にないだろう。これがわたしの恵みである。奉仕が完了したらすぐに離れなさい。ぐずぐずしてはいけない。わたしの長子である人々は高慢であってはならないが、誇りはもってもよい。わたしがあなた方に限りない祝福を与えたからである。滅びの標的になっている人々は自分自身に困難をもたらすべきではなく、自分の運命を哀れに思うべきではない。誰があなたをサタンの子孫にしたのか。わたしへの奉仕を終了した後、あなたは再度底なしの穴に戻るだろう。あなたはもはやわたしの役に立たないから、わたしがあなた方を、刑罰をもって取り扱い始めるからだ。わたしはいったん働きを開始したら決してやめない。わたしが行うことは完成され、わたしが完成させたことは永久に続く。これはわたしの長子たち、わたしの子ら、わたしの民に当てはまり、あなた方にも同様に当てはまる──あなた方に対するわたしの刑罰は永遠に続く。」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八十六章」〔『言葉』第1巻〕)これらの御言葉を読み終わったとたん、私はそれまで感じたことのない痛みに襲われました。すぐに神の御言葉の本を閉じ、あえてもう一度読もうとは思いませんでした。苦悩、困惑、そして不満の気持ちが一瞬にして心の中に一度に込み上がってきて、こう思いました。「昨日は幸せいっぱいのゆりかごの中にいたのに、今日は神の家から追い出されてしまった。昨日は神の御子だったのに、今日は神の敵、サタンの子孫になってしまった。昨日は神の祝福が無限に用意されていたのに、今日は底なしの穴が私の終着点で、永遠に懲罰を受けることになる。神が祝福を授けてくださらないのなら、どうしてさらに私を罰せられる必要があるのだろうか。私はいったい何をしてしまったのか。これはいったい何のためなのか」私はこの現実に向き合いたくありませんでした。この種の現実に向き合えなかったのです。目を閉じて、このことについてこれ以上考えたくありませんでした。そして、これがただの夢であってほしいと強く願いました。
それ以降、自分は効力者なのだと考えたとたん、言葉にならない痛みを胸に感じ、神の御言葉を読む気にもなれませんでした。しかし、神は非常に賢明でいらっしゃいます。人を罰して暴く神の御言葉には奥義が隅々まで行き渡っているだけでなく、将来の大惨事に関する預言や神の国の前途といったことが含まれています。私はそのすべてについて知りたかったので、まだ神の御言葉に背を向けることができませんでした。神の御言葉を読んでいると、剃刀のように鋭い御言葉が心を何度も突き、神の裁きと刑罰を受け入れずにはいられなくなりました。神の裁きの威厳ある怒りが絶えず自分に向けられていると感じたのです。痛みはさておき、私は自分がサタンによって堕落させられたという真実を知りました。私は赤い大きな竜の子であり、サタンの子孫であり、滅びの対象だったことがわかったのです。絶望に陥った私は、欲張って祝福を授かろうとするのを止め、自分は効力者であるという神がお定めになった運命を進んで受け入れました。効力者であることに心を捧げられると感じたとき、神はまたしても、私に潜む堕落した性質を引き出す環境を用意なさいました。ある日、神の御言葉を読んでいたところ、次の一節を目にしました。「わたしがシオンに戻った後も、地上の者たちは、過去と同じようにわたしを讃美し続けるだろう。これらの忠実な効力者たちは、わたしに仕えるために今もなお待っているが、彼らの役割は終わるだろう。彼らにできる最善のことは、わたしが地上にいる状況を熟考することである。その時になると、わたしは災難を被るであろう人々に災害をもたらし始めるが、すべての者は、わたしが義の神であることを信じている通り[a]、わたしは決してそれらの忠実な効力者たちを罰することはなく、彼らはただわたしの恵みを受けるだろう。」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一百二十章」〔『言葉』第1巻〕)これを読んだ私は、秘かにこう思いました。「もうこれからは初子の権利について考えることは止め、偉大な祝福を欲しがるのも止めよう。今後は敬虔な効力者になることだけを追い求めよう。これから追い求めるのはそれだけだ。将来、教会からどんな働きをするよう指示されても、できるだけ敬虔に取り組んでいこう。敬虔な効力者になる機会を再び逃すことは絶対にできない。敬虔な効力者になることすらできず、ただの効力者でいるなら、奉仕を済ませたとたん、底なしの穴か、火と硫黄の湖に戻らなくてはならなくなる。だとしたら、いったい何のためになる」この考えをあえて人に話そうとはしませんでしたが、神の目から逃れることはできませんでした。私は次の神の御言葉を読んだのです。「わたし以外には、人間の本性を探ることができる者はいない。彼らは皆、自分の忠誠が不純であることを知らずに、自分たちがわたしに忠実であると思い込んでいる。これらの不純は、人々を破滅させであろう。というのは、それは赤い大きな竜の計略であるからだ。このことは、はるか昔にわたしによって露わにされた。わたしは全能なる神である。わたしがこれほど単純なことを理解しないことなどあろうか?わたしはあなたの血肉を透して、あなたの意図を見ることができる。わたしにとって、人間の本性を見抜くことは難しくないが、人々は自分の意図を知っている者は自分以外にはいないと考えて、利口ぶる。彼らは、全能なる神が天と地と万物の中に存在することを知らないのか?」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百十八章」〔『言葉』第1巻〕)「ほとんどの人たちが今、小さな希望を抱いているが、その希望が失望に転じると、それ以上先に進む意欲を失い、引き返すことを求める。前にも言ったが、わたしは本人の意志に反して誰もここに引き留めることはしない。だから、結果があなたにとってどうなるのか、慎重に考慮せよ。これは事実であり、あなたに対するわたしの空脅しではない。」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百十八章」〔『言葉』第1巻〕)これを読んだあと、心臓が激しく鼓動しました。神は人間のあらゆる側面を本当に見抜いておられるのだと感じたのです。私たちが何かを考えれば、神はそれをお知りになります。私たちが心の中で秘かに小さな望みを抱けば、神は嫌悪なさいます。このとき初めて、私は神への畏れをわずかに抱きました。これからは神と取引することを止め、効力者として正直に行動し、神の計画に従う決心をしたのです。
その後ようやく、この3か月にわたる経験が効力者の試練であることを知りました。神が人々において成就なさる、御言葉による試練の最初の働きなのです。私は効力者の試練を受けた後、神が慈悲深く愛情あふれる神でいらっしゃるだけでなく、人の背きを許さない、義にして威厳ある神でいらっしゃることを理解しました。神の御言葉には権威と力があり、人は畏れの心を育まずにはいられません。また人が神の創造物であり、神を信じて崇拝すべきであることも知りました。それは正しく適切なことです。理由や条件は必要ありません。そして野心や馬鹿げた欲望を抱いてはならないのです。何かを得るために神を信仰しているとしたら、その種の信仰は神を利用して欺くものです。それは良心と理知が欠けていることを示しています。神を信仰しながら何も得られず、しかも後で罰を受けることになっても、人は神を信仰すべきです。神は神なのですから、人は神を信じて従うべきです。また私は、自分が赤い大きな竜の子、サタンの子孫、滅びる者の1人であることも認識しました。神は万物の創造主でいらっしゃるので、私がどのように扱われようともそれだけの価値があります。そのすべてが義であり、私は神の計画と采配に無条件で従うべきなのです。神と議論しようなどと試みるべきではなく、まして神に抵抗すべきではありません。今回の試練で明らかになった自分の愚かさを振り返ってみると、自分は本当に恥ずかしい存在であり、単に高い地位や偉大な祝福を受けたり、神のおそばでともに統治したりしたかっただけだとわかりました。期待していた祝福を受けられず、その代わり大惨事に苦しむ運命にあると知ったとたん、私は神を裏切ることさえ考えました。これらが完全に明らかになったことで、神を信じる自分の目標は祝福を得ることなのだと明確にわかりました。私は本当に恥知らずで、地位を巡って傲慢にも神と争っていました。大天使といったい何の違いがあるでしょう。私は本当に傲慢で、人がもつべき理知を完全に失っていました。効力者の試練を使って私を征服し、祝福を求める私の野心を打ち砕くという、神の働きにおけるこのようなお知恵がなければ、私は祝福を探し求める間違った道をいまなお突き進んでいたでしょう。自分の堕落した本質を理解するなど到底できず、神の御言葉の裁きと刑罰を従順に受け入れることなど特になかったはずです。結果として、私は救っていただくことも、完全にしていただくことも決して不可能だったでしょう。
奉仕者の試練を受けた後、私は祝福欲しさに神を信じたり、自分の本分を尽くしたりするのはもう止めよう、神と取引する目的で物事を行おうとするのも止めようと考えました。このように神を利用して欺くのはあまりにも卑劣だと感じたのです。しかし同時に、この試練を用いて人類をお救いになることが神の善意であることは理解しており、神は人をまったくお嫌いになっていないことも知っていました。神の人類への愛は、神がこの世界を創造なさって以来変わっていません。ゆえに、私はこれから神を信じて自分の本分を尽くすにあたり、神に満足していただいてその愛にお応えする道を求めていこうと思いました。しかし、祝福を得たり神と取引したりする意図は人々に深く根づいているので、1度の試練を経験するだけでそれを完全に払拭するのは不可能です。こういったものは時間が経てば再び浮かび上がってきます。そのため、神は私たちをより深く、より完全に征服してお救いになるべく、刑罰のときの試練、死の試練、そして7年間の試練といった試練を何度か立て続けに実行なさいます。これらの試練の中で私が最も苦しみ、最も得るものが多かったのは、1999年に受けた7年間の試練でした。
1999年、私は教会の指導者に選ばれました。この年は偶然にも、神の国の福音が大幅に拡大しており、救われる可能性のある人全員を救うべく努力するという要請が神の家から出ていました。私は神の家からこの指示が出たのを見て、神の働きも2000年には成就するだろうと思いました。より多くの魂を得て、時が来たら自分が好ましい終着点にたどり着けるようにと、私は朝早くから夜遅くまで福音の働きに精を出しました。教会内での生活はと言うと、私は単に姿を見せて決まり切った動作を繰り返すだけでした自分の意図が間違っていることには気づいていたものの、祝福を得たいという欲望をどうしても抑えられなかったのです。当時はとても多忙で、神の御言葉を飲み食いすることを含め、福音の働き以外のことをしていれば、その妨げとなるだけだと感じていました。私はこのように働きに打ち込み、いつの間にかその年が終わりました。神の家が現地の人を選んで働きの補助にあたらせたため、私は自分の故郷に戻りました。
神の働きが成就すればきっと大惨事が起きると思った私は、故郷に戻ってからというもの毎日その大惨事、つまり神の働きの成就を自宅で待ちました。春節が間近に迫ったある日、教会指導者から交わりの言葉が届いて、そこには七年間の試練を経なければならないと書かれていました。私はその言葉に衝撃を受け、心が乱れました。そして神様と議論せずにはいられなくなりました。「別の7年間が私に近づいています。どうしてこんな形で生きていかなければならないのですか。ああ、神様、どうか私を消滅させてください。これ以上この苦難に耐えることはできません」私は翌日も落ち込んだまま、「まあとにかく、7年ということになったわけだ。明日は明日の風が吹く。外出して忘れてしまおう」と思いました。バスに乗ったとたん、自分の内に聖霊がいらっしゃり、次のように叱責なさっているのを感じました。「あのとき、あなたは進んで求め、代価を払いました。そして、自分は決して神のもとを離れない、どんな困難でもそれを背負って喜びは分かち合うと言いました。あなたは自分を欺く偽善者だったのです。あのときあなたは、自分は最後まで神を愛する、神とともにどんな困難も背負うと言いました……あなたは神を騙そうとする偽善者ではないのですか」聖霊の叱責を受け、私は思わず顔を伏せてしまいました。その通りです。私は以前に神の恵みを享受し、神に約束をしました。しかし困難に直面して苦しむはめになると、その言葉を引っ込めようとしたのです。私の約束はどれも単なる嘘ではないでしょうか。神は私をとても愛してくださっていたのに、私は自分の期待とまったく異なる状況に出くわすと、神に背を向けようとするほど大きな憤りを抱いてしまうのです。私はまさに恩知らずのけだものであり、単なる動物に過ぎません。こう思った私は外出する気をなくし、重い心を引きずって帰宅しました。私はこれまで「従順」であることを強いられてきましたが、神の働きがまだ7年も残っていると考えたとたん、心の中で諦めてしまい、何をするにしても急いだり心配したりすることがなくなりました。自分の本分に取り組むにしても、毎日が変わらないかのように重い気持ちでこなしていました。このような否定的で困難な状態にあった私は、徐々に聖霊の働きを失っていきました。自分の置かれた状態を改善したいと思いながら、それができずにいたのです。
ある日、神の御言葉を飲み食いしていたところ、次の言葉を目にしました。「ある人々が最初に本分を尽くしたとき、決して尽きることのないかのように活力に満ちていました。しかし、進むにつれて活力を失うように見えるのはどうしてでしょうか。当時そうであった人と今そうである人はふたりの異なる人のようです。人々はなぜ変わったのでしょうか。理由は何だったのでしょうか。正しい道に乗る前に神に対する人々の信仰が道を間違えたからです。そうした人々は間違った道を選びました。人々の最初の追求の中に隠された何かがあり、そしてある重要な時期にその何かが現れました。何が隠されていたのでしょうか。神を信じながら人々の心にあるのは期待で、それは神の日がすぐに到来し、人々の悲惨さが終わりになるだろうというものです。」(『キリストの言葉の記録』の「聖霊の働きを失った者は最も危険にさらされている」より)私は神の御言葉を受けて問題の根源を探し求めました。すると、自分の追求に隠れた望みがあり、神の日がもうすぐ来るので私はもう苦しまなくて済む、よき終着点にたどり着けると期待していたことがわかりました。最初からずっと、私の追求はこの期待に支配されており、期待通りにならないと、私は神を裏切り、死をもって逃れようと考えるほど、苦しみくじけてしまったのです。そのとき初めて、長年にわたって神に従ってきたにもかかわらず、実際には真理の道を追い求めていなかったことがわかりました。神の日ばかりに目を向け、神の祝福を受けるために神と取引していたのです。たとえそのときは神の家に留まり、神のおそばを離れないでいても、自分の中の堕落を解消しなければ、遅かれ早かれ神に反抗して背を向けることになるでしょう。自分の危険な状態を目の当たりにした私は、神の日を待ち望むという堕落を取り除くにはどうすればいいでしょうかと心の中で神に問いました。そして、再び次の神の御言葉を読みました。「この国であなた方がこうした苦しみを受け、神の働きを享受し得る一方で、外国人たちは本当にあなた方を羨やんでいることをあなたは知っていますか。外国人たちの望みは:わたしたちもまた神の働きを経験したく、そのためにいかなることにも耐えるでしょう。わたし私たちも真理を得ることを望みます。わたしたちもいくばくかの洞察力、霊的身丈を得たいのですが、残念ながら私たちにはその環境がありません。…赤い大きな竜の国でこの集団の人々を完全にし、この苦しみに耐えさせることは最大の高揚と言えるでしょう。『ずっと前にわたしはイスラエルからわたしの栄光を東方に持ってきました』とかつて言われました。あなた方はみなこの発言の意味を今理解するでしょうか。あなたはこれから先どのように道を歩むべきでしょうか。あなたは どのように真理を求めるべきでしょうか。真理を求めないなら、どうすればあなたは聖霊の働きを得られるでしょうか。あなたが聖霊の働きを失えば、あなたは最大の危機にあるでしょう。現在の苦しみは些細なものです。それがあなたにとって何の役に立つのか知っているでしょうか。」(『キリストの言葉の記録』の「聖霊の働きを失った者は最も危険にさらされている」より)この神の御言葉から、人々が今日苦しみを受けられることには重要な意義があるのだとわかりましたが、そのような苦しみに実際何の意義があるのかはわかりませんでした。苦しむことの意義を見出せて初めて、神の日を待ち望む自分の状態を本当の意味で変えられるのだとしかわからなかったのです。それこそが問題解決への道というわけです。そのときは苦しみの意義を理解していなかったものの、私にできる唯一のことは真理を積極的に追求し、さらに多くの真理を求めることでした。真理を得て初めて苦しむことの意義を本当の意味で理解でき、そのとき初めて自分の中の堕落を払拭できるからです。
時間の経過が速まったかのように、あっという間に2009年になっていました。あの7年間がいつの間にか過ぎ去ったのです。ここまで来ると、7年は想像していたほど長くはなかったと、ようやく感じられるようになりました。ここ数年間、神の御言葉において表わされた裁きと、神の試練と精練による啓示の中に、私は自分の本当の顔を見てきました。自分は正真正銘赤い大きな竜の子だったことがわかったのです。それと言うのも、私は「何の得もないなら早起きするな。すべてにおいて利益を最優先せよ」といった赤い大きな竜の害毒で一杯だったからです。これは赤い大きな竜の姿の典型的な現れです。この害毒の支配下で、私の神に対する信仰は祝福を得ることだけが目的でした。神のために費やしても私はそこにタイムリミットを設け、少しの苦しみで多くの祝福を得ようとしていました。祝福を受けようとするこの強い意図と、取引を試みる私の態度を取り除くため、神は私に対して複数の試練と精練を成就なさいました。その時初めて、私の神への信仰における堕落が清められたのです。そして神の啓示の中で、自分がサタンの堕落した性質で一杯だったこともわかりました。私は傲慢で、嘘つきで、利己的で、卑劣で、無謀で、中途半端だったのです。おかげで自分の正体がよりはっきりと見え、自分があまりに深くサタンに堕落させられていたこと、自分がサタンの子であることがわかりました。当時、私が神を信じて従うことができたのはまさに神の賞揚と恵みであり、また神の裁きと刑罰を受けられたのはさらに大きな祝福でした。神に対する感謝が膨らむ一方で私の要求は減り、神に対する服従が強まる一方で自分への愛は減っていきました。私は自分の堕落したサタン的性質を払拭し、心から神に従い崇拝する人になることだけを願いました。この小さな成果は、神の骨身を惜しまぬ努力を始めとする、計り知れない神の働きによって達成されたのです。神の働きを今日まで経験した結果、神による人類の救いは本当に大変なことなのだとようやく理解できました。神の働きは非常に実践的であり、人類を変えてお救いになる神の働きは人々が想像するほど単純なものではないのです。いま、私はもはや、神の日が一日も早く到来することを待ち望むだけの無知な子供ではありません。自分の堕落があまりに深く、神の救いを大いに必要としており、また神の裁き、刑罰、試練、精練を受ける必要も大いにあると常に感じています。今後は正常な人間性にあるべき良心と理性を自分のものにして、人類をお救いになる神の働きを正しく経験しなければなりません。最終的に模範的な真の人間として生き、神の喜びを受けるとき、私の心は満たされるでしょう。今日、7年間の試練が降りかかった際に自分が露わにしたことについて振り返ると、私は神に対してあまりにも恩義があり、神の御心をひどく傷つけてしまったと感じます。神の働きが2000年に成就していたら、まったく汚らわしい私は間違いなく滅びの対象になっていたでしょう。7年間の試練はまさに神の私に対する寛容であり、哀れみでした。そしてそれ以上に、神の私に対する最も真実の、最も現実的な救いだったのです。
この7年間を乗り切ったあと、私はそれまで理解できないでいた神の次の御言葉についてじっくり考えました。「この国であなた方がこうした苦しみを受け、神の働きを享受し得る一方で、外国人たちは本当にあなた方を羨やんでいることをあなたは知っていますか。外国人たちの望みは:わたしたちもまた神の働きを経験したく、そのためにいかなることにも耐えるでしょう。わたし私たちも真理を得ることを望みます。わたしたちもいくばくかの洞察力、霊的身丈を得たいのですが、残念ながら私たちにはその環境がありません。…赤い大きな竜の国でこの集団の人々を完全にし、この苦しみに耐えさせることは最大の高揚と言えるでしょう。「ずっと前にわたしはイスラエルからわたしの栄光を東方に持ってきました」とかつて言われました。あなた方はみなこの発言の意味を今理解するでしょうか。」(『キリストの言葉の記録』の「聖霊の働きを失った者は最も危険にさらされている」より)私はこの御言葉の意味が少しは理解できるようになりました。苦しみは本当に有意義なことだと、ようやく感じ取ることができたのです。私はこれらの試練を経験しながら苦しみましたが、その後初めて、自分がとても貴重で価値あるものを得たことに気づきました。またこれらの試練を経験する中で、全能神の義なる性質と、神の全能性とお知恵を目にしました。私は神の慈愛を理解し、神の子らに対する父のような深い愛を体験したのです。さらに、神の御言葉の権威と力を実感すると同時に、サタンによる自分の堕落の真相も目の当たりにしました。神が救いの働きの中で直面される困難を見、神が尊敬すべき聖なる方でいらっしゃること、人類が醜く卑劣な存在であることを知りました。そして、神が人類を征服してお救いになり、神を信じる正しい道へと導かれるのも経験しました。いま考えてみると、神が試練に次ぐ試練を通じて私のためにこの骨の折れる働きをなさってくださらなければ、私がこのように理解することはなかったでしょう。困難と精練は人がいのちの成長を遂げる上でとても有益なことです。これらを通じて、人は神を信じる過程で最も実用的かつ貴重なもの、すなわち真理を得ることができます。苦しむことの価値と意義を知って以来、私は悠々と神の国に入ることを夢見るのは止めました。むしろ、しっかり地に足をつけて神の働きを経験し、本当の意味で真理を求めて自分を変えるつもりです。
数年間にわたって神の働きを経験する中で、私はついに次の神の御言葉の実質的な意味を少しは理解できるようになりました。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)神からの試練を経験する以前、私は祝福を受ける強い意図と、神と取引する姿勢で満ちていました。建前上、神を信じることがどういうことか、神を信じる目的は何かをわかっていても、私の視線は祝福されることだけに向いていたのです。まったく真理に注意を払わず、自分の堕落した性質を取り除いて神の御心を満足させることや、神を受け入れることを自分の目標にしていませんでした。そのとき初めて、神は受肉なさったとき、祝福を受けようとする人類の意図と、神と取引しようとする人類の姿勢を正すことを、主な働きにされていたのだと理解できました。なぜならそれらの事柄が、人類が神を信信じる正しい道に入る上でつまずきの石となっていたからです。このようなものを心に抱いていると、人は真理を求めようとしません。追求の正しい目標をもたず、誤った道を歩むことになります。それは神がお認めになる道ではありません。現在、神の征服と救いの働きのおかげで、私の内にあったサタンの要塞は破壊されました。私はついに、祝福を授かることや大惨事に見舞われることを懸念したり、心配したりすることがなくなったのです。大それた欲望を必死になって追い求めたり、大惨事を免れようと条件について議論したり、要求したりすることもなくなりました。この堕落がなくなった私はより気楽になり、自由になった感じがしました。これで落ち着いて、適切な形で真理を追い求めることができます。これこそが、全能神による試練と精練の働きの成果です。神を信じる真の道へと私を導いたのは、全能神による試練と精練の働きなのです。今後、神がどのような試練の働きをさらになされようと、また私が苦痛に満ちた精練をどれだけ受けることになろうとも、私はそれに従い、それを受け入れ、本当の意味で経験していきます。長年にわたる血のにじむような神の努力に報いるため、そこから真理を求めて堕落のない性質を自分のものにして、神の御心を満足させていきます。
脚注
a.原文に「通り」の語句は含まれていない。
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