息子の不治の病に直面して

2022年12月9日

二年前、息子が突然腰の激痛を訴えたの。病院に行って検査したら、楽観できない結果だと医者に言われた。省の大病院に行って検査を受ける必要があるって。それを聞いてドキリとした。息子は深刻な病気かもしれない。でもこう考えたの。わたしは長年本分を尽くし、神のために犠牲を払い、たくさん苦しんできた。共産党の恐るべき圧迫と取り締まりに直面し、親しい人から馬鹿にされてもひるまず、立派に本分を尽くし続けた。神のためにしてきたことを考えれば、きっと息子を守ってくださるはず。結果は肝臓癌と肝硬変。医者によると、余命は3ヵ月か、長くて半年。青天の霹靂で、座ったまま混乱したわ。この現実が受け入れられなくて。息子はまだ37歳。どうしてこんなことに? わたしは震える手で検査結果を握りしめた。検査結果が間違ってるんじゃない? 呆然とベッドの端に座り、しばらく立ち直れなかった。涙がこぼれ、こう思ったわ。「息子はまだ若い。どうしてこんな重病になるの? 1つでも命が危ない病気なのに、2つだなんて。息子は我が家の大黒柱。いなくなったら家族はどうなるの? 息子の葬式を出すなんて、人生でこんなつらいことはないわ」。つらくなるばかりだったけど、友だちや親戚からこう責められた。「神を信じてるのに息子が病気なんてどういうこと? あなたの神は息子を守らなかった。信じて何になるの?」って。それに、信仰なんか捨てて、家で看護しなさいと言われたわ。こんな風に責められ、本当に苦しかった。いつも涙が出そうで、ぼんやり過ごしてた。祈ったり御言葉を読んだりする気にもならなくて、闇の中にいたわ。そこで祈ったの。「神よ、息子が病に冒されました。本当につらく、何ともできません。御旨を理解できるよう、どうかお導きを」。

そんなある日、この御言葉を読んだ。「人が試練を受けている際に弱くなったり、自分の中で消極性が生じたり、神の旨や自分の実践の道が明らかでなくなったりするのは普通のことである。だがいずれにせよ、あなたはヨブのように神の働きを信じなければならず、神を否定してはならない。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生におけるすべての物事がヤーウェによって授けられること、そしてそのすべてを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。……神は人々を完全にする働きを行なうが、人はそれを見ることも、それに触れることもできない。こうした状況において、あなたの信仰が必要とされるのである。肉眼で見えない何かがあるときに、人々の信仰が必要とされる。また、あなたが自分の観念を捨てられないとき、あなたの信仰が必要とされる。神の働きについてよく理解できないとき、あなたに求められるのは信仰をもつこと、そして揺るぎなく立って証しをすることである(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげでわかった。息子が病に冒されたのは、わたしに対する一種の試験。信仰に頼って切り抜けなきゃ。ヨブのことが浮かんだわ。彼は財産と山のような家畜をすべて失い、子どもたちも全員死に、全身が腫れ物で覆われた。そんな試練を受けても、神を責める前にまず自分を呪い、ヤーウェの名を讃えた。神の美しい証しをしたの。ヨブがこうした試練に見舞われていると、友人は嘲り、妻は彼を批判して、神を捨てて死になさいと言った。表向きは妻と友人たちがヨブを批判してるようだけど、その裏ではサタンが人の言葉を使ってヨブを試し、神を拒んで裏切らせようとしてたの。でもヨブはそれに負けず、妻を愚かな女と批判するほどだった。わたしの場合も、友人や家族の攻撃の裏にはサタンの計略がある。ヨブを見習い、神の証しに立たなければ。たわごとを聞いてちゃだめ。するとつらさと無力感が軽くなったわ。

数週間後に手術を受け、癌のコントロールに成功したわ。わたしは思った。信仰のおかげで神のご慈悲があったんだって。神が奇跡を見せてくだされば、息子はきっとよくなる。息子が全快したらどんなに素晴らしいかって思ったわ。すると、御言葉のこの一節が頭に浮かんだの。「あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉は、わたしの間違った信仰観と祝福への動機を鋭く暴いた。恥ずかしくなったわ。主を信じていても、祝福と恵みを求め、家族が祝福されることを望んでたの。終わりの日の神の働きを受け入れて以来、図々しく恵みを求めて祈ったことはないけれど、真理を追い求めず、神の認識もなかった。「現世で百倍望み、来世で永遠のいのちを得たい」なんて考えてた。神のために犠牲を払ってるんだから、きっと褒められて祝福され、家族も病気や災害から守られ、平和に暮らし、災いなんかないと思ってたの。だから家と職を捨てて本分を尽くし、心から喜んで苦しみに耐えた。でも息子が癌だと診断されると、息子の病気を知って苦痛に囚われ、本分へのやる気を失った。自分がどれだけ費やし、どれだけ苦しんだかを卑しく計算し、神と言い争い、息子を守ってくださらなかったと神を責めたの。こうした状況と、裁きと暴露の御言葉のおかげで、信仰での追求に対する見方が間違ってるとわかった。信仰のため、真理を求めて堕落を取り去るために物事を捨ててたんじゃなく、神の恵みや祝福と引き換えだったの。神と取引し、神を利用して騙してたのよ。家族が嵐や病気や災害を切り抜けられるよう、ひたすら神のご加護を求めてた。パンを食べて満足してる宗教界の人とどう違うでしょう? 追求への見方のひどさがわかったわ。それに気づいて神への借りを感じ、御前に出て祈ったの。息子の病気は神に委ね、神の支配と采配に従います、と。

その後、息子は三、四回手術を受け、みるみる回復しているように見えた。食事もとれるし、軽い運動さえできるほど。わたしは喜んだ。息子が孫と歌って踊り、完全に健康そうに見えたときは特にそう。希望が持てたような気がして、こう思ったわ。人間の観点から見れば、あの病気は死刑宣告で、あと半年も生きられない。でも半年が過ぎ、こんな元気に暮らしてる。これは神の祝福とご加護。このまま行けば息子は全快するはず。でも、思い通りには行かなかったの。突然ご飯を飲み下すことができなくなって、お腹がどんどん腫れ上がり、腰を下ろすのもつらそう。検査の結果、癌は転移してなかったけど、肝硬変が悪化して腹水がたまってたの。息子に死が少しずつ迫ってるような気がして、また絶望に陥った。息子の病状ははっきりよくなってたのに、また悪化するなんてどういうこと? とてもいい子で誰とでも仲良くできるし、悪事を犯したことなんかない。友だちや親戚や隣人も、みんな褒めてる。わたしの信仰を喜んでるわけじゃないけど、邪魔することもない。それがどうして命に関わる病気になるの? その後こう思った。信者になってからずっと福音を広めてきたし、教会のことは何でも率先してやった。共産党の圧迫と取り締まりのせいで、家族は信仰に反対した。でも、どんな反対に遭っても決して引き下がらず、ひたすら本分を尽くした。多くのものを捨てたのに、どうしてこんな目に遭うの? これが長年の犠牲に対する報いなの? そう口には出さなかったけれど、神は義じゃないという感情に圧倒され、悲観的になって失望し、いつもぼんやりしてた。希望なんてなかったわ。ひどくつらくていつも泣いてばかり。

この一節を読んだの。「義とは決して公平であるとか理にかなっているといったことではなく、平等主義でもありません。または、どれほどの働きを成し遂げたかに応じて、ふさわしいものを割り当てることでも、行なった働きに報いることでも、尽くした努力に応じてしかるべきものを与えることでもありません。それは義ではありません。それは公平で理にかなっていることにすぎません。神の義なる性質を認識することのできる人はほとんどいません。ヨブが神のために証しを立てたあと、神がヨブを淘汰したとしましょう。これは義ですか。実のところ、義です。これをなぜ義と呼ぶのですか。人間は義をどのようにとらえますか。何かが人の観念に合致していれば、その人にとって、神は義だと言うことは簡単です。しかし、同じ事が自分の観念に合致しているように見えなければ―それが自分には理解できないものであれば―神は義だとは言い難くなるでしょう。当時、神がヨブを滅ぼしていたら、神は義だと人は言わなかったはずです。しかし実際のところ、人が堕落していようといまいと、また人の堕落が深いものであろうとなかろうと、神が人を滅ぼすとき、自己を正当化する必要がありますか。どのような根拠があってそのようなことをするのか、神は人に説明しなければなりませんか。神の決断は、『役に立つなら、わたしは人を滅ぼさない。そうでないなら滅ぼす』ということに基づかなければなりませんか。そのような必要は一切ありません。神の目からは、堕落していて神に反抗しそうな人には一切の価値がありません。神がそのような人をどのように扱おうと、それは適切で、すべては神の采配です。……神の本質は義なのです。神が行なうことを理解するのは簡単なことではありませんが、神が行なうことはすべて義であり、単に人が理解していないだけなのです。神がペテロをサタンに与えたとき、ペテロはどのように反応しましたか。『あなたが行なうことを人は推し量れませんが、あなたが行なうことのすべてにはあなたの善意が含まれています。そのすべてに義があるのです。あなたの知恵と業をどうして称えずにいられましょうか』。サタンが人間をどのように堕落させたのか、そして神が人間をどのように救うのかを人に示すために神はサタンを滅ぼすのではないということを、今あなたは知るべきです。最終的に、人はサタンにあまりに深く堕落させられたために、サタンによる人の堕落というおぞましい罪を人は目の当たりにし、神がサタンを滅ぼすときに人は神の義を見て、そこに神の性質と知恵が含まれていることを理解します。神が行なうことはすべて義なのです。これを推し量ることはできないかもしれませんが、自分勝手な判断をしてはなりません。神の行なうことがあなたには理にかなっていないように見えたり、それについて何らかの観念を抱いたりするなら、そのせいで神は義でないなどと言うことになり、すっかり理を欠いてしまいます。あなたも知っての通り、ペテロにも理解できないことがありましたが、そこには神の知恵があり、そのようなことには神の善意があるのだとペテロは確信していました。人間が何もかも理解することはできません。人には把握できないことが数多くあります。したがって、神の性質を知るというのは簡単なことではないのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「神の義なる性質をどのように認識するか」)。御言葉のおかげでわかった。神の義はわたしの想像と違って、完全に公正かつ平等で、払った分だけ得られるっていうわけじゃない。神は創造主で、その実質はまさに義。だから何を与えて取り上げようと、またわたしたちを祝福しようと、試練を通じて苦しませようと、そのすべてに神の知恵がある。これはどれも神の義なる性質を明かしてるの。ヨブは神の道に従い、一生神を畏れて悪を避けた。神から見て完全な人だけど、それでも神は彼を試した。試練に次ぐ試練で神への信仰と畏れはますます高まり、最後は鳴り響くような神の証しをして、完全にサタンに勝利した。すると神がヨブの前に現われ、さらなる祝福を与えたの。ここに神の義なる性質が示されてるわ。パウロのことも考えた。彼は数多く苦しみ、主の福音を広めようと遠くまで旅したけど、神に対する真の服従や畏れはなかった。懸命な働きと引き換えに、神の祝福を得ようとしただけ。ささやかな働きをしたあと、彼はこう言った。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」(テモテへの第2の手紙4:7-8)。パウロの犠牲には野心と欲望が満ちていて、あくまで取引だった。彼の性質はまったく変わらず、神に反する道を歩んでたの。最後は神に懲罰されたわ。人が一見どれだけ働いたか、神は気になさらない。真に神を愛し、服従するかどうか、いのちの性質が変わるかどうかを見るの。これは神の聖く義なる性質をよりよく表してる。わたしも、与えた分だけ報われる、犠牲に応じたものを得られると思ってた。これは人間の打算的な見方で、神の義とはまったく違う。わたしは多少の犠牲を払い、信者としていくらか善行を重ねたけど、追求に対する見方は間違ってるし、神への真の服従もなく、息子が病気になると、神を責めて抵抗した。わたしの性質は変わっておらず、神に逆らいサタンに属する者だったの。神の祝福にまったくふさわしくない。神の義なる性質を理解してなくて、本分で犠牲を払ったんだから、神は息子を見守られるはずと思ってた。これって、人間の打算的な見方を基に、神の働きを批判してるんじゃない? するとこの御言葉が浮かんだの。「どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、他の人とは絶対に関係ない。子供の悪行が親になすりつけられることはなく、子供の義を親が共にすることもできない。親の悪行が子供になすりつけられることはなく、親の義を子供と共有することもできない。誰もが自分の罪を担い、誰もが自分の祝福を享受する。他の人の代わりになることは誰にもできない。これが義である(『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」〔『言葉』第1巻〕)。信仰で物事を捨てたんだから、神は息子を治してくださると思い、そうならないと神は不義だと考えた。本当に馬鹿げてるとしか言いようがない! どれだけ代価を払おうと、それがわたしの本分。被造物としてすべきことなの。それは息子の病気と関係ないし、彼の運命や終着点とも無関係。それを元手に神と交渉したり、取引したりしてはいけないの。これがわかると気持ちがずいぶん自由になった。

ある日、御言葉の別の一節を読んだの。おかげでわたしの間違った見方の実質がわかった。全能神は言われます。「どれだけ多くのことが自分の身に起ころうとも、反キリストである類いの人は、神の言葉に真理を求めることでそれに取り組もうとはしませんし、ましてや神の言葉を通じて物事を見ようとはしません。これはひとえに、神の言葉の一字一句が真理であるとは信じていないからです。神の家がどのように真理を説こうと、反キリストはどうしても受け入れることができません。その結果、どのような状況に直面しようと、正しい心構えに欠けています。特に、神や真理にどのように向き合うかと言えば、反キリストは自分の観念を脇にやることを頑なに拒否します。彼らが信じている神は、しるしと奇跡を行なう神、超自然的な神です。しるしと奇跡を行なえるものであれば、菩薩であれ、仏陀であれ、媽祖であれ、それを神と呼びます。……反キリストの頭の中では、神とは祭壇の後ろに隠れていて人から崇められ、人が供えた食べ物を食べ、人が燃やすお香を吸い、人が困っているときに救いの手を差し伸べ、人が救いを求め必死に懇願すると、全能であることを示し、人が理解できる範囲内で即座に人を助け、人の必要を満たすべき存在なのです。反キリストにとっては、こうした神だけが真の神です。一方、神が今日行なうことはすべて反キリストに軽蔑されています。これはなぜですか。反キリストの本性と本質から判断すると、彼らは創造主が被造物に潤し、牧養、救いの働きを授けることを必要としておらず、万事において繁栄、成功し、この世で懲罰されず、死んだら天国へ行くことを必要としているのです。反キリストの視点や彼らが必要とするものは、真理に敵対する彼らの本質を立証しています(『反キリストを暴く』)。神の一言一句が心に刺さったわ。振り返ると、自分が信仰で払った犠牲に対し、神はきっと報いて祝福なさり、家族の安全とすこやかな生活を守ってくださると思ってた。だから息子が手術を受けたあと、あんなに元気になったのを見て、神の祝福だと思って、感謝と賛美で一杯になった。でも病状が悪化すると、奇跡を見せて治してほしいと神に望んだ。神がそうなさらないと、笑顔が怒りに変わり、わたしの犠牲を考えず、息子を守って治してくださらないことに腹を立てた。自分の犠牲を後悔すらしたわ。自分の得になるか損になるかで、態度が一変したの。神を信じていても、神を創造主として畏れず、服従しなかった。むしろわたしの要求をかなえ、祝福するものとして見てたのよ。仏陀や観音を崇める未信者と何が違う? そんなの真の信者じゃない! 神は二度受肉して地上に来られ、とてつもない屈辱や、人の断罪、抵抗、反抗、誤解に耐えてこられた。御言葉と真理をわたしたちに授け、わたしたちのいのちにするために。そうしてわたしたちは御言葉で生き、堕落から逃れ、最後に救われる。神は人類のためにそれほど大きな代価を払われた。わたしは信仰の年月で、神の恵みと祝福を数多く享受し、多くの真理に潤され、糧を得たけど、神への真心が一切なかった。神を傷つけ失望させたの! 神への借りをますます感じ、御前でひざまずいた。後悔と罪悪感の涙がぼろぼろこぼれたわ。そして神に祈り、悔い改めたの。「神よ、わたしは信者になってからというもの、真理を追い求めていませんでした。息子が病気になってもあなたの証しに立てず、あなたを失望させました。神よ、わたしはあなたに借りがあり、悔い改めたいと思います。息子がよくなるかどうか、あなたの支配と采配に委ねる覚悟ができております。どうか信仰を授け、わたしといっしょにいてください」。そう祈ると心の重しが消えたような気がした。心がずっと軽くなって、息子の病気への不安も以前ほどではなくなったわ。

ある日、別の御言葉を読んで、新たな理解がいくらか得られた。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である。人間が徐々に変えられるのは、自身の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自身の忠実さを実証する。ゆえに、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け取り、あなたの表現もますます現実のものになる(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は示してる。本分を尽くすことは、祝福とも呪いとも無関係。被造物であるわたしは本分を尽くし、神の愛に報いなければならないの。それが正しいこと。子どもを育てる親みたいなもので、子どもは親を敬う必要がある。相続とか条件なんかを考えてはいけない。人がすべき最も基本的なことなの。でもわたしは、本分で神に報いることなんか考えなかった。それどころか、神から授けられた本分を、神と取引する元手にしたの。自分が犠牲にした分、神から恵みと祝福を得ようとして、得られないと神を責めた。良心がまるでないし、本当に神を失望させたわ。息子が病気になるとあれこれ要求して、絶えず神を誤解して責めた。そう思うと自分が憎らしくなって、心の中で決意した。息子がよくなろうと悪くなろうと、二度と神を責めないって。その後、息子の病状は悪化するばかりで、日を追うごとに元気がなくなった。本当につらく、苦しかったけど、心はずっと自由だった。

そんなある日、この御言葉を読んだの。「神はあらゆる被造物の誕生、出現、寿命、終末だけでなく、それらの生涯における使命や全人類の中で演じる役割も完全に計画しています。これらのことは誰にも変えられません。これは創造主の権威なのです。あらゆる被造物の出現、それらがどれだけ生きるのか、生涯における使命は何か、などといった規律はすべて例外なく神によって定められており、それはちょうど神があらゆる天体の軌道を定めたのと同じです。つまり、天体がどの軌道に沿って何年間、どのように旋回するのか、どういった法則に従うのかは、すべてはるか昔に神が定めており、数千年、数万年を経ても変わっていません。それは神が定めたのであって、これが神の権威なのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理を求めることでのみ神の業を知ることができる」)。そうだわ。神は創造主で、人の寿命はその手中にある。どれほど生き、どれほど苦しみ、どれほど祝福されるかは、すべて神次第。善行をしたからといって誰かの寿命を延ばすことはないし、多数の悪事を犯したからってその人を早死にさせることもない。善人でも悪人でも、定められたときが来たら、神はその人の命をお取りになる。それは誰にも変えられない。息子がどれだけ生きるかは、神がすっと昔に定められた。神がなさることはどれも義だから、わたしはその支配と采配に従わなければ。それがわかって苦痛がいくらか軽くなり、息子の病状がどうなろうと、被造物の本分を尽くして神の愛に報いなきゃと気づいたの。

今年の3月、わたしは息子に永遠の別れを告げた。でも御言葉の導きのおかげで、息子の旅立ちに正しく向き合い、苦しみもずっと少なかった。息子が発病してからの2年間、ずいぶん苦しんだけど、おかげで、信仰で祝福を求めることの中にある、自分の卑劣な狙いと堕落がわかった。自分がどれほどサタンに堕落させられているか、この堕落を解決しなければ、今後も神を責めて逆らうはずだとわかったの。この経験で実感したわ。こうした苦難がわたしのいのちにどれだけ有益だったかって。神の御業が人の観念にそぐわないほど、求めるべき真理がそこにあり、わたしたちの救いのためになる。

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