仮面を外す
去年の六月、私は指導者になったばかりです。最初は、フランス語ができて新信者と直接話せるので、パートナーの姉妹から通訳を頼まれてたし、疑問や困難を相談されてました。新信者の教会ではどのグループに行ってもみんなわたしの交わりに耳を傾け、有益だと言ってくれた。パートナーの姉妹に比べ、自分には語学力があるし、新信者に比べても、真理の交わりができる。だからわたしはグループに不可欠。虚栄心が本当に満たされました。でもその後、いつもみんなにいい印象を残そうとしたんです。兄弟姉妹から質問されるたび、答えられなくても知ったかぶりをした。
ある日、業務の実施について交わりに行ったところ、ある兄弟から質問されました。でもその業務は初めてで、具体的な原則や要件を知らず、どう答えていいかわからなかった。そこでこう思ったの。「わからないと答えたら、見くびられるかしら? 自分より長く神を信じてるのに、こんな簡単なことも答えられないなんて、真理を知らないと思われるかしら? そんなの恥ずかしい。他のみんなにも指導者として認められなくなる。とにかく、わかってないことを知られないようにしなきゃ」。そう決心して冷静を装い、いくつか教義を並べたけど、わたしの答えに満足していない様子。騙しているのではと、罪の意識を多少感じたけど、面子を守るため本当のことは言いませんでした。別のとき、時間をやりくりして効率を上げるにはどうすればいいか訊かれました。本当に困ってるから助けてほしいと。だけどわたしも同じ問題を抱えてて、どうすればいいかわからなかった。時間のやりくりが下手で、足りないと思うことがよくある。でも、それを知られたら、こんなに長く神を信じてるのにと見下され、この人もわかってないと思われるかしら? そうなれば印象が台無しにならない? そこで時間管理の理論をいくつか話し、わたしもそうしてると思わせました。その後は何も言われなかったけど、わたしの話が役立ったかどうか確かめなかった。さらに細かく訊かれるのが怖くて、答えられなかったら、本当に恥をかく。そこで問題をうやむやにしました。状態がよくないと何度も思い、みんなと働きながら堕落した性質を示してたけど、集会で正直に話そうとはしなかった。御言葉の文字通りの理解を語り、空虚な教義を交わるだけで、この人は真理を理解し、信仰も背丈も優れてると思わせた。あるとき、わたしに潤された姉妹からメッセージが届きました。以前の集会が懐かしいというんです。普段みんなと接するとき、わたしは言葉と身振りでコミュニケーションできて、尊敬された。それがとても嬉しく、教会の重要人物になった気がして、このままみんなに尊敬されることさえ望んだ。だけど、尊敬に値する人を装っていることに、不安を感じることもあった。人を自分の前に連れ出し、崇めさせているのでは? でもそんな考えは時々頭に浮かぶだけで、さほど気にしませんでした。
十月初めのある朝、パートナーの姉妹とグループリーダー、そしてわたしの三人で話し合ってたとき、その姉妹がグループリーダーに、わたしたちが本分で直面してる問題や不足を話しました。するとグループリーダーがわたしにこう言うんです。「あなたたち中国人、とくにあなたのことを尊敬してるの。あなたの言うことが神の御言葉より大事だと思うこともよくあるし、あなたの言葉だけ聞けばいい」。それを聞いてどきっとし、顔が真っ赤になりました。リーダーは続けます。「人を崇めてはいけないけど、あなたと知り合って一年、堕落や困難や弱さを抱えているのを見たことがない。本当に完璧で、堕落なんて一切ない。尊敬せずにはいられないわ」。その言葉に驚き、怖くなった。それから数分黙り込み、リーダーの話をパートナーに通訳しても、最後までずっとつっかえた。するとパートナーが自分の状態をリーダーに話したけど、わたしは何と言っていいかわからず、通訳を手伝うだけでした。集会はぎこちないまま終わりました。
その後は全身から力が脱けました。姉妹の言葉がこだまします。わたしの堕落を見たことがない、完璧なあなたを尊敬してる、神の御言葉よりわたしの言葉のほうが大事。最初は自己認識がないまま、自分は誤解されてるし本当に怖い、彼女の言うことは馬鹿げてると思いました。自分の言葉を神の御言葉のように扱うよう頼んだ覚えはないし、そう言うってことは、問題の本質が本当に深刻だってこと? 彼女を自分の前に連れ出し、反キリストになってしまったの? その日の午後は何も考えられず、そのことが頭の中を駆け巡ります。そこで神の御前に出て祈りました。「神よ、今日あの姉妹に言われたことを考えるとつらく、怖いです。そんな風に思われているなんて、考えもしませんでした。神よ、どうしてこんなことになったかわかりません。自己認識していないわたしを導き、自己認識させてください。悔い改め、あなたに嫌われるようなことはやめます」。ある朝、御言葉を二節読みました。「状況がどうであろうと、どこで本分を尽くしていようと、反キリストは弱ることがなく、神への至高の愛を持ち、神への信仰で一杯で、消極的になることが決してないように見えつつ、真理について、また神について、心の奥底で抱く本当の態度や見方を、他の人から隠しています。実際のところ、彼らは心の奥底で、自分は全能だと本当に信じているのでしょうか。自分に弱さはないと本当に信じているのでしょうか。いいえ、信じていません。では、自分には弱さや反抗心、堕落した性質があると知りながら、他人の前でそのような言動をするのはなぜですか。彼らの狙いは明らかです。それは単に、他人のあいだにおける自分の地位を守ることです。他人の前であからさまに消極的になったり、弱気なことを公然と言ったり、反抗心を示したり、自己認識について話したりすると、自分の地位と評判が傷つけられてしまい、それは損失であると、彼らは信じています。そのため、自分は弱く消極的で、完璧ではなく、普通の人に過ぎないと言うくらいなら死んだほうがましだと考えるのです。彼らは、自分に堕落した性質があり、自分は普通の人、取るに足らないちっぽけな人だと認めると、人の心の中での地位を失ってしまうと思っています。それゆえ何があろうと、その地位を手放すことができず、代わりに全力でそれを守ろうとするのです」(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(10)」)。「他者に尊敬され、自分の欠陥や欠点を見られないよう、いつもうわべを装い、自分を取り繕い、偽っているなら、また自分の最も良いところや完璧な面だけをいつも人に見せようとしているなら、それはどういった性質ですか。それは傲慢、ごまかし、偽善であり、サタンの性質であって邪悪な事柄です。……そうしたことを認識していない人は、自分の欠陥や欠点や堕落した性質に決して触れず、自己を認識することについて話すことも絶対にありません。彼らはどのようなことを言いますか。『わたしは長年神を信じてきた。何かをするとき、わたしが何を考えているか、どれほど多くのことを考慮してきたかを、あなたがたは知らない!』。これは傲慢な性質ですか。傲慢な性質の主な特徴は何ですか。彼らが成し遂げようと望む目標は何ですか。(人に自分を尊敬させることです。)人に自分を尊敬させることの目的は、そうした人の中で地位を得ることです。誰かの心の中で地位を得ると、その人があなたの仲間になったとき、あなたに敬意を表わし、ひときわ丁寧な話し方をし、いつもあなたを尊敬し、万事においてあなたを優先させ、あなたにお世辞を言い、あなたを傷つけるようなことは決して言わず、何事もあなたに相談します。実際のところ、そうしたことはあなたにとって有益ですか。これがまさに、人が望んでいることです。……この人は完璧だと他の人たちに思われるよう、人を騙し、芝居を打ち、自分を取り繕い、うわべを装い、自分を飾り立てるとき、その目的は、地位の恵みを享受することです。それが信じられないのであれば、じっくり考えてみなさい。いつも人に自分を尊敬させようとしているのはなぜですか。あなたが熱心に追い求める地位は、あなたにいったい何をもたらしますか。それはあなたにとって良いものであり、あなたに利益と、享受できる物事をもたらします」(『終わりの日のキリスト講話集』の「人の行動を導くべき原則」)。反キリストの性質がひときわ傲慢で邪悪なのを、神は暴いています。彼らは自分の地位とイメージを守るべく、何があっても仮面を被り、堕落や弱さや消極性を見せようとせず、人の心を占めたいといつも望み、地位の利益を欲しがります。わたしの性質も、神が暴く反キリストと同じです。新信者の教会の指導者になって以来、地位とイメージを守ろうと事あるごとに自分を偽り、尊敬され崇められるのを喜んだ。わたしなら解決できるとみんなに質問されても、知ったかぶりをするばかり。空虚な教義を並べてごまかした。兄弟姉妹と働く際に堕落を見せることがあっても、みんなに見下されたらどうしよう、長年信仰してるのに自分も堕落してたらどうしようと思って、交わりで自分の本当の状態を話そうとせず、それを打ち明けたり、本当の思いを伝えたりすることも決してなかった。教義を並べて惑わすばかりで、本当に問題を解決できるかどうか、自分の交わりが役立つかどうかは考えなかった。自分の地位とみんなからの尊敬を守ろうとしただけ。卑劣で邪悪です。いつも自分を偽り、堕落や欠点を隠していると、やがてみんなに尊敬されるでしょう。新信者を潤していた一年を振り返ると、兄弟姉妹は神について何一つ知らず、しまいにわたしを見上げて尊敬し、わたしの言葉を神の御言葉より大事だと思い込んだ。それって、みんなを自分の前に連れ出したのでは? 本分を尽くすのでなく、悪事を犯してたの! いつも自分を偽り、尊敬されることを求めた。でも、あなたを尊敬してると面と向かって言われても、喜びやうれしさは一切感じなかった。逆に、自ら災害を招いたと不安を感じてパニックになった。いつも名声と地位を求め、自分を偽って尊敬を集め、地位の利益を享受しているわたしは、正しい道でなく神に反する道を歩んでる。やっとわかりました。姉妹があのように言ったのは神の警告で、わたしを守っておられたんです。さもなければ偽りを続け、地位のために働く危険を冒してた。
その後、この御言葉を読みました。「中には真理を追い求めない人がいます。そのようは人は指導者になる機会を得られると、様々な手段を通じ、努力して代価を支払う振りをすることで、地位を獲得しようとします。やがて、彼らは地位を手にし、人を騙して心を捉え、より多くの人が彼らを敬愛し、尊敬することになります。このような人が全権を獲得し、地位への欲望を完全に満たすと、その最終結果はどのようなものになりますか。どんなささやかな好意を示して他者に言うことを聞かせるか、自分の賜物と能力をどれほど誇示するか、あるいはどんな手段を使って人を騙し、自分への好印象を抱かせるか、どのような方法を用いて人の心を捉え、その中で場所を占めるかに関係なく、そうした人が失ったものは何ですか。指導者の本分を尽くしながら真理を得る機会を失ったのです。同時に、自身の様々な振る舞い方ゆえに、彼らは悪行を重ね、それが最後の結末をもたらします。今それに目を向けると、ささやかな好意を用いたり、自分を誇示したり、他者を幻惑したりすることは、そうした手段を実行して得られる利益や満足感が一見どれほど大きくても、辿るべき良い道だと言えますか。それは真理を追い求める道ですか。人に救いをもたらせる道ですか。明らかに違います。そうした手段や策略は、どれほど見えづらくても、または他者に感づかれることがないとしても、そしてどれほど素晴らしく思われたとしても、最終的にはすべて神によって断罪され、嫌悪されます。そうした振る舞いの裏には個人的な野心や、神と対立したがる態度と実質があるからです。神は心の奥底で、そうした人を本分を尽くしている者とは決して見なさず、それどころか悪人だと定義します。悪人を取り扱う際の神の結論は何ですか。『不法を働く者どもよ、行ってしまえ』です。『行ってしまえ』と言ったとき、神は人々をサタンのもとへ、サタンが住まう場所へと送り、もはや彼らを望みませんでした。彼らを望まないということは、彼らを救わないということです。神の羊の一人でなく、まして神に付き従う者たちの一人でなければ、あなたは救われる人の中に含まれません。このような人はそうした形で定義されます」(『反キリストを暴く』)。これを読んで心底怖くなりました。神の性質が背きを許さないことを実感できます。わたしはいつも仮面を被り、みんなを騙して人気を得ようとした。実際、心の中で神に取って代わり、神のように見られようとした。神と競うなんて、神にひどく背くこと。みんなと接したその一年を振り返ると、毎日仮面を被ってた。わたしがどんな人か誰もわからず、真理を理解し、背丈があって、堕落はないと思い込み、無闇にわたしを崇めた。人を騙して惑わす中で、悪事を犯して神に逆らったんです。パリサイ人のことを思い出します。神に仕えながら神を称えず、証しもせず、神殿でべらべらしゃべり、教義や聖書の知識を並べて自分を誇示した。わざわざ道ばたで祈り、聖句箱を広げて衣服の房を伸ばした。表向きは敬虔で善行を重ね、名望を集めて尊敬され、崇められていたけれど、神は悪人、蛇の同類として断罪し、七つの災いを課した。神の性質は義にして聖く、一切の背きを許さない。パリサイ人のように人気を求める偽善者を憎んで断罪する。そんな人を救うことは絶対にない。当時のわたしの行ないは、どれもパリサイ人と同じでした。多数の集会に出て、本分を尽くしながら業務をいくつか成し遂げても、その動機は神に満足いただくことでなく、自分の地位とイメージを守ること。真理を把握し、物事をよく理解してる振りばかりして、みんなに尊敬されるよう、自分の弱さや堕落には触れようともしなかった。その結果、みんなを自分の前に連れ出した。あのまま自分を偽り、パリサイ人の道を歩んでいれば、神に拒まれ淘汰されていたでしょう。神がそうした人を断罪して淘汰なさると知り、わたしは怖くなって自分を責め、後悔で一杯になりました。新信者を潤して支え、みんなを導いて真理を理解させ、真の道の基礎を築けるよう、神はわたしを高め、指導者の地位につけてくださった。でもわたしは正しく仕事せず、指導者の本分を尽くすことなく、地位に固執した。兄弟姉妹のいのちの入りを助けず、彼らを騙し傷つけてた。あまりに卑劣で、良心も理知もありません。考えれば考えるほど後悔し、神の御前にひざまずいて祈りました。「神よ、わたしは本分を尽くす中で真理を求めず、間違った道を歩んで名声と地位を追い求め、あなたに忌み嫌われました。神よ、こんなことはもう嫌です。悔い改めて変わりたいです。どうかご指導とお導きを」。
その後、御言葉の別の一節を読みました。「まずあなたは、真の被造物とは何かを理解しなければなりません。真の被造物とは超人などではなく、実直かつ謙虚に地上で生き、並外れたところがまったくない人のことです。並外れたところがないとはどういう意味ですか。それは、あなたがどれほど高く立てても、あるいはどれほど高く跳べても、あなたの実際の身長は変わらず、並外れた能力はないということです。常に他の人より優れ、他の人の上に位置づけられたいと願うなら、それはあなたの傲慢なサタン的性質から生まれたもので、あなたの妄想です。実際、あなたがそれを成し遂げることはできません。そうすることは不可能です。神はあなたにそのような才能や技能を与えておらず、そうした本質も与えませんでした。あなたの外見や家族、生まれた年代は違っていて、才能や資質もいくらか違っているかもしれませんが、自分は普通かつ平凡な人間の一人であり、他の人と何ら変わらないということを忘れてはいけません。しかし、これを憶えておきなさい。たとえどんなにあなたが違っていても、それはこれらのちょっとした面においてだけです。あなたの堕落した性質は他の人と同じであり、本分を尽くす上で固守すべき原則、目標、そして方向性も、他の人とまったく同じなのです。人は強さと才能において異なっているにすぎません」(『終わりの日のキリスト講話集』の「人の行動を導くべき原則」)。「人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。この御言葉から気づきました。わたしは普通の被造物に過ぎず、他のみんなと同じ。わたしが自分の立場を守り、真剣に本分を尽くしながら着実に振る舞うことを神は望まれ、素質と語学力を授けられた。わたしは神に感謝し、それを使って本分を尽くすべきなのに、人の上に立つ元手として使った。サタンの性質に満ちた堕落した人間なのは明らかなのに、あの手この手で自分の堕落と欠点を隠そうとし、みんなに尊敬され、崇められようと、完璧な人の振りをした。偽善的で恥ずかしいことを追い求めていたんです。それは人に嫌われ、神に憎まれること。わたしはいつも自分を偽り、堕落を隠してたけど、他の人がわからなくても、そうした堕落が自分の一部になってた。他人だけでなく自分も騙してたんじゃない? 心を打ち明け真理を求めなければ、そうした堕落した性質は解消できない。わたしは自分のいのちを苦しめただけでなく、みんなを騙して惑わせた。天に唾する行為だわ。偽りと欺瞞はいい道なんかじゃない。
ある日の集会で御言葉を二節読んで、実践の道が見つかったの。「『経験を共有して伝える』とは、心の中のあらゆる考え、自分の有様、神の言葉に関する経験と認識、自分の中の堕落した性質を声に出し、その後、他の人たちに対して、それらを識別し、肯定的な部分を受け入れ、否定的なことを認識させることを意味します。共有するとはひとえにそうした意味であり、それだけが真に伝えることなのです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「正直であることの最も基本的な実践」)。「地位の支配から自由になるには、まず自分の意図、思考、そして心から、それを一掃する必要があります。どうすればそれを成し遂げられますか。以前、自分に地位がないとき、あなたは自分にとって魅力ない人たちを無視していたことでしょう。地位を得た今、そのような人を見たら、時間を割いてその人と交わりをするべきです――あなたは正反対にならなければならないのです。人に心を開き、自分の問題や弱点、自分がいかに神に逆らったか、また、そこからどのように抜けだし、神の旨を満たせるようになったかを交わることに、もっと時間を費やしなさい。……ひとたび地位を得たら、権威のある語り方をして、自信を持って話す必要があると、あなたは考えています。これは間違った考え方だと気づいたら、それを捨てるべきです。その道を歩んではなりません。このような考え方をしているなら、その状態から抜け出し、そこに囚われないようにしなければなりません。ひとたびそこに囚われてしまい、そうした考えや見方が自身の中で形をなすと、あなたは自分を偽り、うわべを装うようになり、また信じられないほど完璧にそうするので、誰もあなたのことを見抜けず、あなたの心や思いがわからなくなります。あなたはあたかも仮面を被っているかのように、他の人と話をしているでしょう。すると相手は、あなたの心を見られません。自分の心を他の人に見てもらい、その人に心を開き、近づくことを学びなさい――あなたはひたすら逆の取り組み方をしています。それが原則ではないのですか。それが実践への道ではないのですか。まずは自分の考えと意識の中から始めなさい。自分がうわべを装っていると感じた瞬間、次のように祈るのです。『ああ、神よ! わたしは再びうわべを装い、またしても企みと欺瞞に手を染めようとしています。わたしは悪魔です! あなたを強く嫌悪させています! 今、わたしは自分を嫌悪しています。どうかわたしを懲らしめ、お叱りになり、懲罰してください』。あなたは祈り、自分の態度を明るみに出さねばなりません。これには、あなたの実践の仕方が関わってきます」(『終わりの日のキリスト講話集』の「堕落した性質を解決するには、具体的な実践の道がなければならない」)。御言葉のおかげでさらに啓かれた。名声と地位から自由になるのは、真理を実践して誠実な人になること。心を開き、堕落と欠点をみんなに打ち明け、本当の自分を見てもらう。質問されたらきちんと答え、わからなければ正直にそう言って、みんな一緒に真理を求める。このような実践を増やせば、名声と地位からだんだん自由になれる。そのとき思ったの。みんなに心を開き、自分を偽っていたことを話さなきゃって。でも、そんな風に打ち明けたらどうなるだろうと葛藤した。「本当の性質をみんなに話したら、どう思われるだろう? 見下されるかしら?」ますます不安になったけど、また自分を偽ろうとしてることに気づいたので、心の中で神に祈りました。そして、みんなの目ばかり気にして、神のお求めを考慮しなかったことが頭に浮かび、面子と地位を守るのはやめようと決心しました。真理を実践して誠実な人になり、心を開いて自分の堕落を晒し、自分が堕落した人で、尊敬される価値などないことを知ってもらう。そう考えるとずっと楽になり、評判と地位を守るため、自分の堕落と欠点を隠していたことを交わり、またみんながわたしの失敗から学べるよう、地位を求めることの危険性を伝えました。交わりのあとはとても開放的な気分になり、みんなも役に立ったと言ってくれました。また真理を実践して誠実な人になる喜びも感じたんです。今は兄弟姉妹と一緒のとき、心を開いて交わり、様々な状況で自分の堕落が暴かれたこと、それにどう気づいて真理を求めたかを話しています。実践の道がわからなければ正直にそう言って、みんなにどう思われるかは考えない。兄弟姉妹と本分を尽くすときは、自分の困惑や困難を意識的に打ち明ける。わからないことやできないことがあっても隠さず、みんなの意見を集めて参加してもらう。お互い学べるように。するとみんな、徐々に本分で重荷を背負えるようになり、自分が示した堕落を反省して、御言葉を読んで自己認識するようになった。これを見て、わたしは心の中で何度も神に感謝しました。被造物として最も大事なのは、着実な人になって全力で本分を尽くし、神にも人にも正直になることだと、この経験から実感しました。このように生きることでのみ、他の人に益をもたらし、啓発できる。
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