主との再会

2019年12月21日

韓国 李兰

全能神は言われます。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。……神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。この全能神の御言葉に、私は自分の信仰を振り返りました。私は宗教的観念と聖書の言葉に固執するあまり終わりの日の神の救済への扉を閉ざすところでした。神の驚くべき方法により私は、神の声を聞き、主の再来を迎えるという幸運を得たのです。

2年前のある朝、早朝に目が覚めた私は枕元の聖書を開き、主イエスによるパリサイ人の叱責を読みました。「それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。そして彼らに言われた、『「わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである」と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている』」(マタイによる福音書21:12-13)。当時の私は、少し気持ちが沈んでいました。そのときの教会の状態が、律法の時代末期の聖殿そのものだと感じていたからです。教会の牧師や長老たちは、「信徒は互いを愛せよ」と言いながら自分たちは嫉妬によるもめ事や、奉納物をめぐる口論に忙しく信徒のために祈る見返りにわいろを受け取る人さえいて受け取る金額によって祈りの時間を変えることもありました。教会のメンバーのほとんどは消極的で頼りなく、集会に来る人の数も日ごとに減り、牧師や長老は、心を込めた説教をすることも主の羊たちを牧養する方法を追求することもないのに信徒の結婚式の司祭役は喜んで務めるのです。神を崇める場所であるはずの教会がまるで結婚式場と化していてこう思わずにはいられませんでした。「牧師も長老も主の道から離れてしまった。教会は完全に世俗的な雰囲気。聖殿が寂れ、盗人たちの巣窟となった律法の時代の末期のようだわ。主はこのような教会に再来されるだろうか」。

そう考えていた時、電話のアラームが鳴りました。そしてアラームを止めた時に、YouTubeのおすすめ動画の通知に気づいたのです。それは全能神教会からのものでした。とても不思議でした。それまで、その教会のチャンネル登録をしたことはありません。なぜ通知が来たのだろう。そこで思い出したのは、そのひと月ほど前に、友人に連れられてその教会に話を聞きにいったのですが、その内容がとても新鮮で、ためになりよい収穫があったことでした。もう少し調べてみたかったのですが、全能神教会は、主イエスはすでに再来していて、終わりの日の裁きの働きを行い、多くの真理を表していると証言しています。「言葉は肉において現れる」という本は、全能神が表した御言葉であふれていました。集会では、全員で全能神の御言葉を読んで交わるという話です。私には全く理解できませんでした。牧師や長老は常に神の御言葉と働きはすべて聖書にあり聖書の外には存在しないと説いていたからです。主が新たな御言葉を発しているなんてどうして言えるのか。信徒たちは何世代にもわたり、聖書を信仰のよりどころとしてきました。主を信じることは聖書を信じること。主への信仰にそれ以外はありえません。その後、友人からその教会に行こうと誘われるたびに断っていました。だから全能神教会のリンクが表示されているのを見てもタップしませんでした。

でも驚くことに、それから数日間その教会のチャンネルの映画や讃美歌がおすすめ動画として通知されてくるのです。私は思いました。「チャンネル登録していないのにこんなに通知がくるなんてこれは主のお導きなの? 全能神教会のチャンネルを見ることが、主の御心なの?」そこで私は主に祈りました。「主よ! どうしてこのような動画の通知が何度も送られてくるのですか。彼らはあなたはすでに再来したと説いている。本当ですか。動画を観てみるべきでしょうか。主よ、お導きください」祈りをささげた後、主イエスの御言葉が頭に浮かびました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである(マタイによる福音書5:3)。主の再来は大ごとです。ですから、それを聞いたとき謙虚に探究し、調べ、慎重に考えなければと思いました。全能神が本当に主イエスの再来なのか。それを探究したり調べたりしないまま、仮にそれが本当だった場合私は主の再来を迎える機会を逃していることになるのでは? そう考えた私は、教会の動画を観てみることにしました。ウェブサイトを見てみるととても内容が豊富でした。映画、讃美歌、合唱、そして経験や証言についての記事が多くありました。「私の愛する方よ、どうか待っていてください」という讃美歌の動画がありその歌詞に大きな感銘を受け、これまでずっとさびれた教会にいたことそして聖霊の働きを行う教会を探していたことを思いました。サイトを見れば見るほど、得られるものがあると感じた私はこの教会を理解し、もっと深く知りたいと思いウェブサイトでもっと多くの映画を見つけました。

ある日、福音の映画を観たのですがそれは主に神と聖書の関係についての映画でした。そこで決して忘れられない神の御言葉の一節に出会ったのです。「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる。……たいていの人は、なぜ神を信じなければならないのかも、どう神を信じるべきかもまったく理解しておらず、聖書の章句を解読しようと闇雲に手がかりを探すだけである。人々は聖霊の働きの方向を追求したことがない。これまでずっと、懸命に聖書を研究し、調べる以外のことをしておらず、聖書の外で聖霊のより新たな働きを見出した者はいなかった。誰一人、聖書から離れたことがなく、あえてそうしようともしなかったのである(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。この部分を観て思いました。「これはまさしく私の聖書に対する態度だわ。聖書は主の象徴であり、主を信じることは聖書を信じることに等しく2つは切り離せないと思っていた。でも理解できないのは聖書は主の証を立てるもので、私たちの信仰の根底を成していて、クリスチャンにとって2000年もの間、信仰の礎だったということ。それが主の御心に沿わないなんて、そんなことがあり得るの? 一体どういうことなの?」

答えを求めて、さらに映画を観ました。福音を伝道する登場人物が、次の神の御言葉を読みました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内でしか信じず、わたしと聖書を同一視している。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や業を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端な特別の注意を払う。また、さらに多くの人が、聖書で預言されていない限り、わたしは自分のしたいことを何もしてはいけないとさえ信じている。このような人は聖書の文章を重視し過ぎているのだ。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一言一句を評価したり、わたしを批判したりするほどだ、と言える。彼らが求めているのは、わたしと相容れる道ではなく、また、真理と相容れる道でもなく、聖書の語句と相容れる道なのだ。また、聖書に合致しないものは例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の忠実な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである(『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。この全能神の御言葉を読んだ後、彼らは交わりに入りました。そして、「信仰を持つ者はみな、主への信仰は聖書への信仰に等しく、聖書以外は主への信仰ではないと考えるがこれは間違いだ」と言うのです。そしてこうも言いました。「主イエスが伝道と働きを行っていた時その信徒たちはイエスの働きと言葉を受け入れるため聖書を離れたが彼らは主イエスの真の信徒ではなかったのか。ユダヤ教を信じるパリサイ人はみな聖書に固執したが真理を表し、贖いの働きを行った主イエスを磔にした。何が問題だったのか。聖書に固執することは、主を知ることになるのか。主の道に従い、主を畏れ、従うことを意味するのか。神は創造主でありすべての生命の源だが聖書は神の過去の働きと言葉の記録に過ぎない。それがどうして神と同等になりえるのか主を信じる者たちはやみくもに聖書を信じ崇拝し、神と同等に扱い聖書を、主とその働きの代わりとすることもある。それは主を貶め、冒とくしていることになるのではないか聖書に固執し、主の出現と働きを追求しない者は、真の意味で主を信じ、主に従っているといえるのか。主イエスはパリサイ人にこう言った。『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(ヨハネによる福音書5:39-40)。またこうも言った。『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない(ヨハネによる福音書14:6)。主イエスは、神と聖書の関係について非常に明確に述べている。聖書は単に神の証を立てるものであり、神を象徴するものでもなく神の救済の働きに代わるものでもないと。聖書のみを大切にしていても、永遠のいのちは得られない。キリストのみが、道であり、真理であり、いのちなのだ。いのちを得るためには主を求めなければ!」

映画を観終わり、深く感動しました。映画で言っていたことは全部正しく、主イエスの御言葉に沿っていました。聖書は主の象徴ではないと気づきました。私たちにいのちを与えるのはイエスであり、聖書ではありません。聖書を信じることは、主を信じ従うことと同じではないのです。ですが、それまでずっと聖書は主の象徴だと思っていました。私は聖書を主よりも上に見ていたのでしょうか。考えるほど、全能神の御言葉には真理があるように思え、迷いを取り去ってくれるように感じました。主を迎える機会を逃さないよう、慎重に答えをさがし、調べなければと思いました。そして、友人とともに全能神教会を再び訪れたのです。教会では、兄弟姉妹が私たちを温かく迎え入れ、辛抱強く交わりをもってくれました。私は自分の迷いを説明しました。「牧師や長老たちはいつも集会の中で神の働きと御言葉のすべては聖書の中にあり聖書以外に、神の働きや御言葉を含むものはないと言います。しかしあなた方は、主イエスは全能神として再来していて終わりの日に新たな働きを行い、新たな御言葉を発していると証を立てています。どういうことなのですか」。

その返答として、周姉妹が全能神の御言葉をいくつか読んでくれました。「聖書を理解して解釈できることは、真の道を見つけるのと同じことだと多くの人が信じている。しかし、物事は本当にそれほど単純だろうか。聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか(『神の出現と働き』「聖書について〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできないとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。「当時、イエスは恵みの時代において、弟子たちに一連の説教しか与えず、実践の方法、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方といったことが主題だった。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、彼が説明したのは、弟子たちやイエスに付き従う人々はどのように実践すべきかだけだった。イエスは恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何一つしなかった。……各時代における神の働きには明確な境界線がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、各時代を代表する神の働きが前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるしについて、そしていかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を背負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどう入りを成し遂げるべきか、神の旨を満たすべくどのように追求すべきかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に探し求めるのは馬鹿げてはいないか。聖書を手に携えているだけで何が分かるのか。聖書の解説者であれ説教者であれ、今日の働きを予見し得る者などいただろうか(『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」〔『言葉』第1巻〕)。「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。……今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。……今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

全能神の御言葉を読んだ後、周姉妹はこう交わりを続けました。「聖書を知る人はみな旧約聖書と新約聖書は律法の時代と恵みの時代における2段階の神の働きをただ記録したものだと理解しています。聖書は神の働きの証です。神が働きの1段階を終えるたびに、それを経験した人たちが神の働きと御言葉を記録しました。そしてそれらの記録が聖書としてまとめられたのですしかし2つの時代の神の働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではなく聖書の中の主イエスの御言葉は、氷山の一角にすぎません。『ヨハネによる福音書』にも書かれています。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書21:25)。また律法の時代における預言者の預言の中に、聖書に記録されていないものがあるというのは周知の事実ですですから牧師や長老が、神の言葉がすべて聖書に記録され神の働きや御言葉が聖書以外に存在しないと言うのは事実に反していませんかそれは彼らの嘘や欺瞞ではないのでしょうか神は創造主であり、偉大で豊かな存在です。聖書という一冊の書物が、その働きと言葉を完全に網羅することなどできるでしょうか」周姉妹はそう話した後、『ヨハネの黙示録』を読んでくれました。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった(ヨハネの黙示録5:1)。「すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』(ヨハネの黙示録5:5)。そして交わりを続けました。「巻物は内側にも外側にも字が書かれていて、7つの封印で封じられている、終わりの日の再来した主だけが、巻物を開き、7つの封印を解ける。そう黙示録に記されています。これが、内側に書かれた字を読む唯一の方法なのです。黙示録でも何度も予言されています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録2:7)。聖書の預言は、再来した主はさらに多くの御言葉を発すると証明しています。再来した主の働きと御言葉を、事前に聖書に記録できますか。聖書の中の神の御言葉は、終わりの日に聖霊が教会に告げる言葉の代わりになりえますか。小羊によって開かれた巻物の代わりになりえますか。終わりの日の裁きの働きの代わりになりえますか」これを聞き思いました。「これまで何度も読んだ文章なのに、なぜ私はそういった疑問を抱かなかったのかしら」周姉妹はさらに続けました。「聖書は神の過去の働きの記録です。旧約聖書が生まれてから長い年月が経った頃主イエスが現れ、恵みの時代の贖いの働きを行いましたが主の働きと御言葉は自動的に聖書になったのでしょうか神の働きと御言葉は人が編成し、聖書にまとめなければなりませんでした全能神は終わりの日に現れ、人類を清め救うために全ての真理を表しました。これらの真理は自動的に聖書になったのでしょうか神の働きと御言葉がすべて聖書に記録されていて、それ以外には存在しないという主張は不正確で馬鹿げた見方で、人間の観念と想像が作り上げたものなのです」。

周姉妹の交わりには、とても学ぶものがあり、そのすべてが事実と合致すると思いました。聖書は律法の時代と恵みの時代という神の働きの2段階を記録したものにすぎず神の働きの証ではあるけれど主そのものや、終わりの日の主の働きや御言葉に代わるものではない。主イエスの働きと御言葉さえ、そのすべてが聖書に記録されていないのに終わりの日の神の働きと御言葉が時をまたいで聖書に記録されているなんてありえません。私は牧師や長老の言葉に従い神の働きや御言葉を聖書の中のものだけに限定し、聖書以外に、神が発したものはないと思っていました。目を開けながら寝言を言っていたようなものです。主を限定し、冒とくしていたのです。深い後悔の念に襲われ、もっと早く全能神の御言葉を読めばよかったと思いました。牧師や長老にやみくもに従い、観念や想像で神の働きを限定すべきではありませんでした。このような考えは大変有害です。

周姉妹はさらに、別の論点について話しました。なぜ、終わりの日の神の働きと御言葉を受け入れず聖書だけに固執した場合神の国に行けず、永遠のいのちを得ることができないのかという点です。「聖書は、神の働きの2段階を記録したものに過ぎず、終わりの日に人類を裁き清める神の働きに代わるものではありません律法の時代において神の主な働きは、律法と戒めを公布し、地上に生きる人々を導くことでした。恵みの時代、主イエスは贖いの働きを行いました。磔にされることでサタンの領域から人類を救いだし私たちの罪を贖い、神に祈る資格を与えてくれました。私たちが神の恵みを享受できるように。しかしそれでも私たちの罪深い本性と罪の根源は解決されなかったため私たちはいまだに嘘をつき、罪を犯し、神に逆らい抵抗しているのです神の国に入る資格はありません。だからこそ主イエスは自らの再来を預言しました。人を裁き完全に救済するため、終わりの日に真理を表すと預言したのです『ヨハネによる福音書』にこうあります。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書16:12-13)。またこうもあります。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書12:48)。終わりに日に現れ、真理を表し、裁きの働きを行う全能神は、主イエスの預言を完全に体現しています。全能伸が表した何百万もの御言葉はすべてを網羅しています。聖書の奥義を明らかにし、神の国の未来について預言し、人類の終着点について論じ、人類が神に背く根源を分析しています。神はまた、人間が完全な救済を得るために必要な真理を非常に明確に示していますそれは、人を救うための神の働きの3段階や、終わりの日の裁きの働きの奥義と神の受肉の奥義の内幕を含むものです。神は、サタンがどのように人類を堕落させ、神の働きがどのように人を救うのか、サタンによる人類の堕落の本質と真相や、神への真の信仰、服従、愛とは何かそして有意義な人生を生き抜く方法を明らかにしています。全能神が表した真理は、終わりに日に神が与える永遠のいのちにつながる道なのです聖書に固執し、終わりに日に神の裁きと清めを受け入れなければ真理を得られず、罪からも解放されず、完全に救われず、神の国にも入れません」。

全能神教会の兄弟姉妹のこの交わりのおかげで終わりの日の全能神の裁きの働きが、聖書の預言を完全に満たしていることがわかりました。全能神の御言葉は真理であり、神の声なのです。そして終わりに日に神がくださる永遠のいのちへの道なのです。神の働きや御言葉が聖書だけに限られると思ったのは牧師や長老の話を聞き、宗教的観念にしがみついていたからでした。私は終わりの日の神の働きを受け入れず、追求せず神の現在の御言葉による糧を得られず、闇におちていました。全能神教会の動画をYouTubeですすめて私に神の声を聞く幸運を与えて下さった神の慈悲と救済がなければ私はまだ牧師や長老に従い、終わりに日の神の働きを求めることも調べることもなかったでしょう。その場合、聖書を何百年読もうとも、主の再来を迎えることはできなかったでしょう。終わりの日に神の救済を得られるのはすべて神のお導きのおかげです。これは、神の驚くべき救済なのです。

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