ついにわかった聖書と神の関係
全能神は言われます。「長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じているなら聖書を読まなければならず、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そうするならば、神を裏切っていることになる。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる。……聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は、神が聖書の外で働けることをどうしても信じられず、聖書の外で神を見つけられることも信じられずにいる。まして、神が最後の働きのさなかに聖書を離れ、新しく始められるなどとは到底信じられない。それは人々にとって考えられないことであり、彼らには信じられないし、想像することもできない。聖書は人々が神の新たな働きを受け入れる上で大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めるのを困難にしてしまった」(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。私にとって聖書は、信仰の中で主を知る手段でした。牧師も常に聖書が信仰の基礎だと言っていたわ。聖書への信仰が主への信仰だと考え、その言葉を主の上に置くこともあった。使い古された聖書の言葉で自分を固め、主の御言葉を実践することなんか考えなかった。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、その御言葉が示すことを知って初めて、聖書と神の関係を理解して、信仰の誤りを正すことができたの。
かつて私は聖書を読み、礼拝にもできる限り参加し、時間があればネットで説教を探して、主をよりよく理解しようとした。ある時、YouTubeで素晴らしい教会映画を見つけたの。『私の家はどこに』という心に響く感動的な映画だった。その映画の中で読まれた言葉は特に温かく、威厳に満ちてた。一体誰の言葉だろうって好奇心が湧いたわ。それが全能神教会だった。映画を作ったこの教会のことをネットで調べると、悪い評判がいくつか見つかって、それが本当かどうか判断がつかなかったの。しばらく考えた後、他人の言葉をうのみにしないって決めた。「百聞は一見に如かず」っていうでしょう。この教会がいい教会かどうかは、自分の目で確かめるべき。別の映画をダウンロードしたけど、『覚醒』と『待ち焦がれて』を観て本当に感動したの。映画で読まれた言葉はとても立派で力強く、説教もまさに実践的だった。教会の荒廃や、真に救われることの意味を学べたわ。その映画では、主イエスはすでに戻られ、終わりの日の裁きをなさっているというの。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙 4:17)という聖書の預言通りに。心が躍ったわ。映画の中の御言葉は、再臨した主が発せられたもの。力強く、感動的なのは当然だった! 教会にメッセージを送って兄弟姉妹に連絡すると、みんな親切で、誠実で、その交わりはためになるし、彼らと話をするのが楽しくて、集会に出るようになったの。
ある晩、全能神教会のチャンネルからもっと映画をダウンロードしようとしてタイトルを眺めてると、『聖書から出てくる』という作品があった。どういう意味だろうって首をひねったわ。なぜ聖書から出なければならないの? 聖書がないと、神を信じることも知ることもできないはずよ。牧師はいつも言ってた。聖書は信仰の基礎で、聖書から離れるのは異端だと。聖書から出ていくなんて、神への裏切りじゃないの? その後数日間、道を踏み外すのが怖くて、全能神教会の映画や讃美歌を観るのをやめたわ。でも考えずにはいられなかった。「全能神が主の再来なのに、それを拒んでしまったら、主を迎える機会を逃してしまう」混乱した私は神に祈り、断食を始めた。全能神が本当に主の再来なのか教えてくださいと祈ったわ。断食して最初の晩は、神の啓示を得られなくて、聖書をみてみようって思った。ヨハネの黙示録の1章8節を読んだの。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」そして11章16、17節も。「そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、『今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します』」突然、これは神のお導きだと感じたの。ヨハネの黙示録には、終わりの日、神が「全能者」と呼ばれるってあるけど、それは全能神のことでは? それに気づいて、全能神教会をもっと調べたくなった。『聖書から出てくる』も全部観たわ。それが一体何の意味か知りたかったから。
映画の中で全能神教会の伝道者はこう話してた。「多くの宗教関係者が、神が聖書から離れて救いをなさることはなく、聖書にないものは異端だと言っています。では聖書と神の働きの、いったいどちらが先ですか。初めに、ヤーウェ神がすべてを創り、世界を洪水で滅ぼし、ソダムとゴモラを焼き払いました。神がこれらの働きをなさった時、旧約聖書は存在していましたか?」私は思ったわ。「そんなの当たり前。神が世界を創り、それを洪水で滅ぼし、ソドムとゴモラを焼き払った時、聖書はなかったわ」と。話はさらに続いたの。「神がこの働きをなさった時、聖書はなかった。まず神の働きがあり、それが終わると聖書に記録されます。主イエスが恵みの時代に働きをなさった時も新約聖書はなかった。働きの後でイエスの使徒が書いたものだから。聖書は明らかに、神の働きの歴史的な記録に過ぎない。神の働きは聖書によらず、聖書に縛られません。神はご自身の計画と人類の必要を基に働きをなさるのです」「だから、神の働きと聖書を同じものと考えたり、聖書で神の働きを規定したりすることはできません。聖書にないことは異端だなんて言えないのです。神には、聖書の枠を超えてご自身の働きをなさる権利があるのですよ」
これを聞いて、目からうろこが落ちたわ。主イエスが働きをなさった時、新約聖書はなかった。それは偉大な働きが終わった後で人がまとめたもの。聖書は神による過去の働きの記録に過ぎない。どうしてそれまで気づかなかったのかしら。
さらに別の人が話をつづけたわ。「聖書にないものはすべて異端だと言うなら、神の過去の働きを不当に断罪しているのではないでしょうか。おいでになった主イエスは旧約聖書を基にせず、それをはるかに越える働きをされました。悔い改めについて教え、病を癒し、悪霊を祓い、安息日を守らず、七の七十倍まで赦す、といったことです。これらはどれも旧約聖書に書かれていないし、旧約の律法に矛盾するものさえあります。主イエスの働きは、神の働きではないということでしょうか? 当時の祭司長、長老、律法学者はみな、旧約に厳密に従っていないからといって、主イエスの働きと御言葉を異端だと断罪しました。彼らは全員神に抵抗したのです。人の誤った観念に従い、聖書になければ異端だとするなら、主イエスの働きをも断罪してるのでは?」
その後「聖書にないものはすべて異端」という問題に関する全能神の御言葉を読んだの。全能神は言われます。「聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていれば、あるいは恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはあなたを拒み、断罪していただろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたら、あなたはパリサイ人だったはずだ。今日もし、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを断罪し、あなたは今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約と新約を飲み食いするなら、あなたは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を導くためになされたのであり、わざと聖書に戦いを挑んだり、意図的に旧約を放棄したりするものではなかった。イエスはただ自分の職分を果たすため、また自分を切望して探し求める人々に新たな働きをもたらすために来たのであって、旧約を説明したり、その働きを支えたりするために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展し続けるようにするためのものではなかった。なぜならイエスの働きは、それが聖書に基づくものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、なすべき働きを行なうために来たのである。……結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ」(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。
映画の中で伝道者はこう言ってた。「聖書は神でなく、神による働きの最初の二段階の実録であり、律法と恵み両時代における神の働きの証しに過ぎない。人類を救う働きのすべてを表してはおらず、聖書にある御言葉の記録は極めて限られている。神のいのちの性質をわずかに示すだけで、すべてを表すことはできません。神は決して古くなく、常に新しい。各時代に新しい働きをなさり、新しい御言葉を発せられる。例えば、恵みの時代に来られた主イエスは、旧約聖書を超えて新しい働きをなさいました。神が働きをなさる時は、聖書に頼ったり、参考にしたりしません。信徒を導くために、聖書を読むこともありません。神の働きは常に前進しており、新たな時代、新たな働きを始める時、神は人を新たな道に導き、多くの真理を与え、完全な救いを得られるようにしてくださる」「神が古い働きを基に人を導くことはない。つまり聖書を基に働きをなさることはないのです。神は安息日の主であり、聖書の主だからです。聖書を超え、ご自身の計画と人類の必要に沿って新たな働きをなさる権利があるのです」「新たな時代の神の働きは昔の時代の働きと一線を画します。したがって、聖書にないものは異端だというのは完全な間違いです」
ここからわかったのは、旧約と新約は律法と恵み両時代における、神の働きと御言葉の記録だけど、そのすべてを示してはいないということ。聖書を離れたらそれは信仰じゃないと思ってたけど、神と聖書を同等に扱っていたのでは? 主イエスは旧約に導かれて働きをなさったんじゃない。聖書から外れるのは異端だと言ってしまうと、主イエスの働きを断罪することになるのでは? 私だって主イエスの働きの時代に生まれてたら、偽りの信仰に基づいてその働きに抵抗してたわ。神の働きと御言葉を聖書に限定してしまったら、旧約聖書に固執して主イエスを断罪したパリサイ人と、同じ間違いを犯すはず。
映画の伝道者は、次の御言葉も読んだ。「わたしがあなたに教えているのは、聖書の本質とその内部事情だけである。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし、聖書に価値はないと言いふらすよう求めているわけでもない。聖書について正しい知識と見方をもつよう言っているだけなのだ。あまりに偏った見方をしてはならない。聖書は人間によって記された歴史書だが、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則、およびより近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て知った事柄であり、この時代の人々が真の道を求める上で参考になる。……これらの書はやはり時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠のものではない。神の働きは常に進展しており、単にパウロやペテロの時代で止まったり、イエスが十字架にかけられた恵みの時代にいつまでもとどまったりすることはできない。したがって、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者にのみ施せるのであって、神の国の時代の聖徒に施すことはできない。いかに優れていても、それらはやはり過去のものである」(『神の出現と働き』「聖書について〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。
これを聞いて、全能神は聖書を否定されてるわけじゃないとわかった。聖書は過去の働きの記録に過ぎず、神がなさった働きを理解し、当時神が、人に何を求めたか知るのに役立つ。でも神は新たな働きをなさっていて、聖書はすでに過去のもの。今必要なものはもたらせない。最初『聖書から出てくる』に抵抗を感じたのは、人の信仰は聖書が土台にあって、聖書こそ神の信じ方を知る唯一の手段だと思ってたから。聖書から離れるのは神から離れることだと思ってた。終わりの日の全能神の働きを学ぼうとせず、聖書が神を表し、信仰の要だと思いこんでた。私の心の中では、聖書が神に成り代わっていたの。私が信じてたのは、神じゃなく聖書だった。神と聖書は同等で、神の働きは聖書にしかない、それ以外はすべて異端だと思ってた。私は神を規定し、冒とくしてたのでは? 恐ろしくなって、この映画を見せてくださった神に心から感謝したわ。おかげでひどい末路をたどらずにすんだ。
映画の中の伝道者はさらに言ったの。「聖書は永遠のいのちを与えられない……」って。びっくりしたわ。聖書は永遠のいのちを与えられない? まさかと思って次の言葉を待った。「人の観念にそぐわなくても、揺るがしがたい事実です。はるか昔、主イエスはパリサイ人を咎める時にこう言われた。『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない』(ヨハネによる福音書 5:39-40)。主イエスは、聖書に永遠のいのちはないと言われた。聖書は単に神の証しをするものだからです。真理といのちを得たければ、聖書だけではまったく不十分。真理といのちはキリスト自身からしか得られません」「旧約聖書に固執したパリサイ人は、永遠のいのちを得られず、主イエスに抵抗し、断罪したことで懲罰を受けました。一方聖書に固執することなく、当時の神の働きと、御言葉をすべて受け入れた主イエスの信徒は、主イエスによって贖われたのです」「ですから、永遠のいのちを得る方法は、キリストと神の足跡に従うことだけ」「やみくもに聖書にこだわっていては、神の承認を得られず、パウロの言葉、『聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである』(ガラテヤ人への手紙 3:22)の通り、救いを失います。神は各時代に新たな働きをなさいます。ヤーウェ神は律法の時代に戒めを発し、イスラエルの民に、神を崇めて地上で生きる方法を教え、罪とは何か、そして自分の罪のために懲罰されることを知らしめた。恵みの時代には、主イエスが贖いの働きをなさり、自分を犠牲にされた。人はただ告白し、悔い改めれば罪を赦され、律法の呪いから逃れられた。しかし、主イエスの贖いは人の罪を赦すだけで、人の罪深い本性は根深く残っています。人はしばしば、ごう慢でずるく、邪悪で利己的なサタン的性質を表し、罪を犯し神に背かずにはいられません。だからこそ、主イエスは再臨を預言された。裁きをもたらし、人類を完全に清めて罪から救うために。終わりの日、全能神は主イエスの贖いを基に、神の家から始まる裁きをなさいます。人類を救って清めるすべての真理を表し、その経営計画を明かされます。人のサタン的性質と本性を裁いて暴き、神の聖く義なる性質がいかなる背きも許さないことを示します」「全能神が表した御言葉は、律法の時代にも恵みの時代にも話されていない」「これらの御言葉は、神が私たちに永遠のいのちの道をくださっているのです」「主イエスの預言は成就しました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネによる福音書 16:12-13)」。
その後読まれた全能神の御言葉を一緒に観てみましょう。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。そして全能神教会の伝道者たちはこんなことを語ったの。「信仰において聖書に固執し、終わりの日の神の御言葉を受け入れなければ、神の生きた水に潤されることはありません。神の裁きがなければ、罪を犯しては告白するという悪循環を断ち切れず、罪の束縛を断ち切らなければ、天国には誰一人入れません」「終わりの日の全能神の裁きを受け入れて初めて、御言葉から糧を得て、真理を知り、堕落から逃れ、清められるのです。そのとき天国に入れるでしょう」
とてもためになったし、心が震える映画だった。本当に実践的な交わりだったわ。永遠のいのちは聖書にない。聖書は単に神の証しであって、神を表すことも、救いの働きに代わることもできない。キリストだけが道、真理、そしていのち。人に真理といのちを与えられるのはキリストだけ。終わりの日のキリストである全能神は、真理を表わして人を救う。聖書にこだわってたなんて、本当に馬鹿だったわ! 私に神の御声を聞かせ、私の馬鹿げた考えを改めてくれた全能神に、深く感謝したわ。そしてついに、終わりの日の全能神の働きを受け入れたの。
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