ついに神の声を聞いた
若いころは色んな職に就いてたが、ベネズエラのスクレ州政府で給与管理者を務めたことがある。給与の問題と大勢の人の要求を毎日処理しなきゃならない。また立法会議の人材主任を務めたこともあって、時たま夜間学校で大人にコンピューターを教えていた。僕の仕事には共通点が一つあった。大勢の人と直に接することだ。仕事が一日の中心で、多忙だったが、生活はいつも穏やかだった。でも突然のコロナ禍で人と接触できなくなり、収入も食費の半分以下に減って、生活が危機に陥った。食べ物を買うため列に並び、ガソリンを買うのに3日かかる。そのころは主の御言葉に慰めを求めていた。隣人も同じく信者で、顔を合わせるたび、この災難はすべて聖書で預言されていた、人類の悪と堕落がすべての災難の根源だと話していた。今は終わりの日。その時主イエスが僕らを裁きに戻ると、聖書は預言している。だから神のそばに戻り、加護と救いを受けないと。僕は毎日神と祈り、知恵と導きを求めた。神を知ろうと思い、神を見つける必要があった。御言葉こそ慰めを見つけて罪を犯さず、神を喜ばせる人になる唯一の方法だからだ。そこで聖書を開き、啓いてほしいと神に願った。詩篇、箴言(しんげん)、主イエスの山上の説教を読んだが、それでも辿るべき道は見つからない。すっかり迷い、経済問題も深刻になるばかり。生活は危機に陥り、家族も養えない。娘が何か必要としても、助けてやれないんだ。悲しかったよ。この困難はすぐに去ると娘を慰めることしかできなかったが、僕自身が信じてなかった。心が悲しみに囚われ、どうすればいいかわからない。この国を去って移民になり、活路を見出そうかと思ったけど、コロナ禍のせいで必要な書類やパスポートが手に入らない。すべてが困難になるばかりだ。そのとき、妻から別居を切り出された。家族こそ頼みの綱だったのに。崩れ落ちそうになって、生きていても無意味だと感じた。うつ病になってしまい、本当につらかった。いつも泣いて、夜も眠れない。心が安らぐのは神に祈るときだけ。
ある日、ワッツアップにある姉妹からメッセージが届いた。クリスチャン教室で神の御言葉を訊かないかと誘った上で、学びませんかと訊くんだ。そうしたいと答えると、僕を学習グループに加えてくれた。全能神の御言葉を聞く機会を得て、僕の祈りに対する神の回答だと思った。全能神の権威ある御言葉に惹きつけられ、おかげで多くの疑念や観念を解決できたし、神はもう戻り、新しい働きをしてるとわかった。それは僕に大きな影響を与えた。驚き、喜び、好奇心の中、神の六千年にわたる経営計画、人類を救う三段階の働き、神が各時代で違う御名、ヤーウェ、イエス、全能神を名乗ること、そして神による各時代の働きの意義を学んだ。全能神の御言葉に惹きつけられ、僕はとても嬉しかった。真理をもっと学び、他の人に伝えたいと思った。だから近所の人たちに喜んで福音を広め、主イエスが戻ったと伝えた。終わりの日の神の福音を聞いた信者なら、大喜びして真理を求め、福音を受け入れると思ったが、そうはならなかった。こう訊かれたよ。「そんなことは聖書に載ってない。どこで知ったんだ?」と。僕は言った。「オンラインの学習グループで学んだ。学び始めたばかりだから知識は限られているが、全能神の御言葉に惹きつけられたんだ」。すると彼らは終わりの日には偽キリストが大勢現われるから用心しろと言って、聖句を何節か送った。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく」(マルコによる福音書 13:21-23)。そして、僕は偽の宗教を調べてる、技術が進んだ21世紀の世界にもし主イエスが戻ったら、大いなる奇跡を見せて世界全体を揺るがすはずだが、そんなことは起きてないと言うんだ。主イエスはまだ現われてないし、病人を癒やしも、死者を蘇らせもしていない、つまりまだ戻ってないんだ、と。それを聞いて心に疑念が広がった。主イエスを裏切っていたらどうしよう?騙されて、偽キリストに従ってるのではと不安だった。当時はまだ、主イエスは雲に乗って戻り、白い大きな玉座から、各人をその罪に応じて裁くと確信してたが、伝道師から、神は肉となり、言葉を発して人の罪を裁いていると聞いた。そのせいで、心の中で矛盾を感じ、ますます不安になった。夜の説教を楽しみにして、引き続き考察したいと思っていたが、隣人の言うことが心に引っかかり、警戒した。そして説教が始まり、僕はグループを去ることにした。
グループを去る理由をワッツアップで書き、偽キリストに騙されるのが不安だと説明した上で、隣人が送った聖句を添付した。でもメッセージを送ってグループを去ろうとすると、突然スマホの充電が切れた。驚いたよ。いつも集会前に充電してたのに、突然充電切れなんてどういうことだ?でも僕の決意はまだ固く、自分に言い聞かせた。キリストが戻ったなら、大いなる奇跡がないのはなぜだ?携帯をコンセントに挿し、電源が入ったらメッセージを送ることにした。バッテリーが5%になったタイミングで電源を入れると、グループに送られた聖書の聖句が目に入った。好奇心から読んでみたよ。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(ヨハネの黙示録 3:20)。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。兄弟姉妹がこう交わった。「神の御言葉から、再来した主は戸を叩き、御言葉で羊を呼ぶとわかる。主を迎えられるかどうかは、御声を聞けるかどうかにかかっている。主の御声を聞き、戸を開いて主を迎え、食を共にできるようにならないと。だから、主イエスが戻ったと誰かが証しするのを聞いたら、騙されるのを恐れて戸を閉ざしては駄目で、賢い乙女になり、主の御声を聞くことに集中するのが何より大事だ」。そして、ある姉妹がグループに送った全能神の御言葉を読んだ。「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である。これを覚えておきなさい。神は同じ働きを繰り返さない。イエスの段階の働きはすでに完了し、神は二度と再びその段階の働きをしない。……人間の観念では、神は常にしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、いつでもイエスのようでなければならない。しかし今回神はまったくそのようではない。もし終わりの日に神がいまだにしるしや奇跡を示し、まだ悪霊を追い払ったり病人を癒やしたりしていたら、神がイエスとまったく同じようにしたならば、神はイエスと同じ働きを繰り返していることになり、イエスの働きは無意味で無価値ということになる。だから、神は時代ごとにひとつの段階の働きをするのである。ひとたびその段階の働きが完了すれば、すぐさまそれを邪霊がまねをし、サタンが神のすぐ後ろをついてくるようになれば、神は方法を変更する。ひとたび神が一つの段階の働きを完了すると、邪霊がまねをする。このことをよく理解しなければならない」(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉とみんなの交わりに驚いた。知りたい答えがすべてあったからだ。その通りだと、内心思った。神はいつも新しく、決して古くなく、常に新しい働きをして、古い働きを繰り返さない。主イエスは律法の時代の働きを繰り返さなかった。再来した神が恵みの時代と同じ働きをなぜするだろう?今、全能神が来て新しい時代を始め、神の国の時代の新しい働きをしている。以前になされたことがない働きだ。全能神はこう警告している。「この時代に、しるしや不思議を起こし、悪霊を追い払い、病人を癒やし、多くの奇跡を行える人が現れて、またその人が自分は再来したイエスであると主張したなら、それはイエスのまねをしている邪霊による偽物である」。悪霊だけが神の過去の働きをまね、奇跡を示す神を装って人を惑わす。これにとても啓かれた。偽キリストの見分け方や、神の国の時代に神がしるしや奇跡を見せない理由がわかった。終わりの日、神は真理を表わし、人類を裁き、清め、救う働きをして、人を御国に導く。それがわかって、集会への参加を続けることにした。
その後、全能神の別の御言葉を読んだんだ。「イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知を備え、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、『これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない』とか、『これは人々を惑わすために来た偽キリストだ』と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど祝福されている人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自分をもてあそんではならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか」(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉でわかった。終わりの日の神の再来については、賢い乙女のようになって、キリストの出現を軽率に否定しては駄目だ。終わりの日に偽キリストが現われるからといって、神の新しい働きと御言葉を無闇に拒み、断罪してはいけない。御声に耳を澄ませ、謙虚に求める態度で神の働きを調べないと。それが神の御声を聞いて主を迎える唯一の方法なんだ。さもないと神の救いを失う。全能神も言われてる。「軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自分をもてあそんではならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか」。全能神の御言葉で認識できた。隣人から間違った見方を伝えられ、全能神の働きを調べるのをやめたとき、僕は軽率だったと。全能神教会の理解を深めようとせず、そこの兄弟姉妹から答えを求めようともしなかった。衝動的にグループを去り、真の道の考察をやめるだけだった。そのせいで、危うく終わりの日の神の救いを失うところだったが、そしてわかった。困惑や疑いがあっても衝動的になったり、軽率に判断してはならず、慎重になり、絶えず神に祈って真理を求める必要がある。神の御言葉を尊重し、謙虚に求め、神の導きを通じて御声を聞き分け、主の再来を迎えなければならないんだ。全能神の御言葉を日々飲み食いすることで、聖書の理解が深まり、これぞ終わりの日の神の出現と働きだと確信して、ためらうことなく全能神を受け入れた。
ある日、全能神の御言葉をさらに二節読んだ。「このようなことを考察するのは難しいことではないものの、わたしたち一人ひとりが、この一つの真理を知る必要がある。受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれるので、人に真理を与えられるキリストは神と呼ばれる。ここには何の誇張もない。なぜなら、そのキリストは神の実質を有し、神の性質を有し、その働きには知恵があり、これらはどれも人間の手の届かないものだからである。キリストを自称しながら神の働きを行なえない者は、詐欺師である。キリストは、単なる地上における神の顕現ではなく、人の間で働きを行ない、それを完成させるにあたって神が宿った特有の肉体でもある。この肉体は誰でも取って代われるものではなく、地上における神の働きを適切に引き受け、神の性質を表わし、神を十分に象徴し、人にいのちを与えられる肉体である。遅かれ早かれ、キリストになりすましている者たちはみな倒れる。彼らはキリストを自称しながら、キリストの実質を何ひとつ有していないからである。ゆえにわたしは、キリストの真偽は人が定められるものではなく、神自身が答えて決めるものだと言う。このようにして、あなたが真にいのちの道を求めるなら、神は地上に来ることで、人にいのちの道を授ける働きをしているということをまず認め、そして神が地上に来て人にいのちの道を与えるのは終わりの日であることを認めなくてはならない。それは過去のことではなく、今起きていることなのだ」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉でわかった。真のキリストと偽キリストは、外見では判断できず、本質を見なきゃならない。つまり神の働きができ、神の御言葉と性質を表わせるかどうかで判断すべきだ。神は肉となり、真理を表わし働きをしている。神が明かすのはどれも神が持つものと神そのもの。それが神の性質なんだ。そして神の働きこそが人を救える。これはすべて、人は備えていないし達成もできない。だから、キリストかどうかを判断するには、神の働きをして神の御言葉と性質を表わせるかどうかを見るのが一番正確。全能神の働きを調べ、御言葉を読んでいたころ、僕は全能神の御言葉を通じて明かされる人への愛だけじゃなく、神の義、怒り、威厳を見た。御言葉は剣の如く、人の内心の堕落を切り裂き、神に逆らうサタンの本性を暴く。御言葉を通じて自分の内面の堕落や、信仰で辿るべき道が直接見える。御言葉を実践すれば、堕落した性質を徐々に解消して正常な人間性を生きられる。全能神の御言葉は真理の奥義を多数明かし、人類を救う神の六千年にわたる経営計画をわからせてくれる。聖書にも宗教にも、こんなものは見られない。これらはすべて、神が終わりの日に人類のために明かす奥義で、人は聞いたことも見たこともない。神以外に、どんな人や偉人も真理を表わし人間を救うことはできない。受肉した神だけが真理を表わし、人を裁いて清める働きをし、道、真理、いのちをもたらせる。全能神の御言葉で確信した。全能神こそ終わりの日のキリスト、天地と万物を造った神、律法を発して地上の人間生活を導いた神、十字架にかけられ全人類を贖った神、さらに、終わりの日に戻って人を罪から救う神なんだ。間違いなく、神は終わりにして始まりであり、全能神こそ主イエスの再来だ。偽キリストは模倣者で、いずれ倒れる。真理を表わせず、神の新たな働きができず、人を導いて堕落を捨てさせ、救うことができないからだ。できるのは神の過去の働きをまね、人を惑わし堕落させることだけ。今、終わりの日のキリスト、全能神が真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをしていて、人の堕落を清めて変え、人類を罪から救ってる。全能神の働きと御言葉は、真の神の出現である完全な証拠だ。疑う余地はない。
以前は観念にしがみつき、神は終わりの日、空の白い大きな玉座から人の罪を裁くと思ってた。だが集会と御言葉を通じて、この観念は正された。神が終わりの日に裁きの働きで人を清める方法がわかったからだ。主イエスも言われてる。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書 16:12-13)。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」(ヨハネによる福音書 17:17)。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」(ヨハネによる福音書 12:47-48)。ある日、この全能神の御言葉を読んだ。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう」(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。これでわかった。神は肉となり、人類を変えて救う真理を表わすことで、終わりの日の裁きの働きをしている。全能神はすでに語り、傲慢、狡猾、邪悪といった人のサタン的本性を明かしている。また人の利己心と貪欲を暴き、御言葉の裁きを通じて自分の堕落の真相を見、自分を憎んで神に悔い改め、神を畏れて従えるようにしている。人のサタン的本性は、全能神による終わりの日の裁きの働きでしか解決できない。人には無理なんだ。その時気づいた。神が空の白い大きな玉座から一人ひとりを裁くなら、サタンに堕落させられた人類は誰も救いの機会が得られない。人類全員がサタンの堕落に包まれているせいだ。主イエスの磔刑(たっけい)の救いで、僕らは贖われ、罪を赦されたけど、やはり罪人だ。罪を犯しては告白する繰り返しで、裁きを経験しないと堕落を清められず、最後は神に断罪され、淘汰される。御言葉に直接裁かれ、暴かれて初めて、真に自己認識して堕落を清められる。全能神が言うとおりだ。「今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる」。
ある日の集会で読んだ全能神の言葉に、心を動かされた。「真理を理解しない者はいつも他人に従う。もし人が、これは聖霊の働きだと言えば、あなたもまた、これは聖霊の働きだと言う。もし人が、これは悪霊の仕業だと言えば、あなたもまた疑惑を持つか、あるいは、これは悪霊の仕業だと言う。あなたはいつも他人の言葉をそのまま繰り返すだけで、自分では何も識別できないし、自分の頭で考えることもできない。それは、自分で物事を区別できない、立脚点を持たない者である。このような人は価値のない惨めな人間だ。あなたはいつも他人の言葉を繰り返す。今日、これは聖霊の働きだと言われていても、いつの日か、これは聖霊の働きでないと誰かが言い、実際人間の仕業に過ぎないという可能性がある。しかし、あなたはそれを判別できず、他人がそう言っているのを目にすると、同じことを口にする。実際は聖霊の働きなのに、それは人間の働きだと言う。あなたは、聖霊の働きを冒瀆する者の一人になったのではないか。これは、物事を識別できずに神に敵対してしまったのではないか」(『神の出現と働き』「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は僕らに警告してる。真の道を調べるとき人の指導を無闇に聞き、人の観念と想像で神の働きを評価するなと。それだと主の道から離れ、最後は神に拒まれ、淘汰され、救いの機会を失う。この悲しい現実は誰にでも起こり得ることだ。自分の愚かさと性急さが恥ずかしくなった。神の御声を聞き、そこに権威と地位があると感じたあとも、隣人に影響され、彼らの言うことに惑わされたんだ。愚かさのせいで全能神教会を去り、主イエスを迎えられず、救いの機会を駄目にするところだった!盲目と無知はこれほど恐ろしい結果をもたらすんだ!わかったよ。いかなるときも賢い乙女でいないと。神の御声を聞いて疑っては駄目だ。心から祈り、神の啓きと導きを求め、人の話を盲信してはいけない。人はみな被造物で、真理がないからだ。主イエスの御言葉を聞いて付き従ったペテロのように、いつでも神の御言葉に従わないと。以前の愚かさと無知を振り返り、全能神に祈って過ちの赦しを求め、全能神と、御言葉による裁きと救いを受け入れようと思った。
それ以来、全能神の御言葉を毎日読んでいる。弱ったときは躓いて倒れないよう、神に信仰と力を求める。神の導きと助けがあって、今はうつ病を乗り越え、積極的な人になった。新しい仕事も見つけたよ。これはすべて神の不思議な采配のおかげだと感じる。生活も徐々に良くなっていき、何より、全能神の御言葉を日々飲み食いして、みんなと集まり交わってる。今では福音を伝えて御言葉の証しをするようになり、真の道を渇望する真の信者が神の御声を聞き、終わりの日の救いを受け入れられるようにしているよ。