本分では次善の策を考えない

2022年12月9日

4年以上、教会で動画の音楽担当をしてたの。教会の働きの必要に応じて、たびたび本分が変わる兄弟姉妹もいれば、能力不足で別の本分を割り当てられる人もいた。だからわたしは落ち着かなくて、こう思ったの。「いつか異動になれば、どんな本分を任されるかわからない。得意な仕事じゃなかったり、成果を上げられなければ、また異動。わたしに適した本分がないと、追放されて救いを失わない?」そう考えると、異動になるのは本当に嫌だったけど、当時は幸いにも、わたしの本分は安定してた。その後、チームの作業量が段々減り、別の本分に移される人がでてきて心配になった。「わたしに専門知識はないから、たぶん異動だわ。他に特別なスキルもないし、音楽の仕事がなければ自分に何ができる? 何の本分を尽くさなければ、追放されたも同然じゃない?」そんな風にしばらく、不安と恐怖の中で生きてたの。周りの人が異動になるたび、自分の前途が不安になった。

去年の7月、空いた時間に手伝ってほしい仕事があると、指導者に言われたの。その仕事を紹介したあと、指導者はさりげなくこう言った。「この仕事は続くから、腰を据えて頑張ってほしい」って。それを聞いて心が明るくなった。この仕事は音楽の仕事より安定してるし、長続きしそう。チームのメンバーは同じ数人。中には6、7年この仕事を続け、異動したことがない人もいた。いい仕事に思えたの! 練習してできるだけ早くマスターしなきゃと思った。それにいつか異動になっても、まだ次善の策がある。しっかり練習して大きなミスを犯さなければ、いつまでもこの仕事を続けられるし、本分がないせいで追放されるのを心配しなくていい。そう考えて心底安心したし、とても嬉しくなった。こんなチャンスを得られたのは、神の恵みだって思ったわ。それ以降、わたしはこの副業に力を入れた。すぐにマスターしたいと思って、わからないことがあるたび兄弟姉妹に訊いたわ。

でもたった半月後、音楽の仕事が突然忙しくなって、副業を頑張る時間も元気もなくなったの。それでもそっちのほうに集中したかった。割り当てられた作業が終わらなければ、きっと次善の策がなくなるから。そこで音楽の仕事をできるだけ引き延ばした。数日遅れても影響はないはず、って。でも急いだせいでたびたびうろたえ、副業でも集中力を欠いたり、同じミスを繰り返したりした。副業にすべての時間を費やし、本業を遅らせてるのを見たチームリーダーは、両方の仕事をできるかどうか考えてって言った。それは無理だし、音楽の仕事が遅れてるのはわかってたけど、認めたくなかった。忙しすぎるって言えば、きっと副業から外され、長続きする安定した仕事を失ってしまう。そんなの嫌だから、チームリーダーに言い訳をして、両方の仕事で急ぎの作業が同時に生じたけど、こんな状況はたまにしか起きないって言ったの。それに、自分はまだ副業に慣れてないけど、慣れればきっとよくなるし、少しだけ時間が必要だって付け加えた。さらに、わたしはかつてなく忙しいけど、それで本分の時間を埋められるって言ったわ。チームリーダーはそれ以上何も言わなかった。

でも数日後、またわたしに言ったの。仕事の件をもっとよく考え、神の御旨通りに実践しなさいって。あと、副業を本当に続けたいのはわかるから、間違った見方や意図がないかどうか反省しなさいって言った。わたしはそれを聞いて、副業を続けたいと認めたけど、それに応じて仕事の優先順位を決めてると思った。急ぎの仕事に時間をより多く割いているし、それが正しいって思えたの。やがて気づいた。チームリーダの注意の裏には神の御旨があり、ちゃんと自己反省する必要があるって。そこで神の前に出て祈った。「神よ、チームリーダーの注意の中にあなたの御旨があるのはわかっています。ただ、どこから反省すればいいかわかりません。悲しさを感じるので、どうかわたしを啓き、導いてください」。祈りのあと、こう思った。本分への態度を反省するようチームリーダーが注意したのはなぜかって。本分で間違った意図を抱いてるってこと? 副業を始める前は、音楽の仕事を大事にしてたことに気づいた。それが唯一の道だと思い、失うことを恐れてた。でも副業を始め、本業より安定して長続きするとわかると、全力でそちらにしがみつこうとした。安定して長続きする本分があって異動にならなければ、救いは保障されている、って。そのときやっと気づいたの。わたしは自分の意図に汚されたまま本分を尽くしてる、と。異動になった兄弟姉妹の大半は、それをちゃんとこなしてる。わたしの考えが複雑なのはなぜ? 不安や恐怖をこんなに抱えてるのはどうして? そこで神に祈って探求を続け、関連する御言葉を探して読んだわ。

反キリストの性質を暴く一節が、わたしの状態にあてはまったの。神は言われます。「本分に簡単な調整が行なわれたときは、従順の態度でもってそれに応え、神の家に言われたとおりにし、自分にできることを行ない、また何をするのであっても、心と力を残らず捧げてできるだけしっかりそれを行なうべきです。神がなしたことに間違いはありません。こうした単純な真理は、良心と理知が少しある人なら実践することができますが、これは反キリストの能力を超えます。……反キリストは決して神の家の采配に従わず、自分の本分や名声、地位や祝福を受ける望みと将来の終着点に常に密接に結びつけています。それはあたかも、ひとたび地位と名声を失えば、祝福と報いを得る希望もなくなるかのようで、これは彼らにとって生命を失ったも同然なのです。それゆえ、祝福の夢を壊されまいと、彼らは神の家の指導者や働き手を警戒します。これが祝福される唯一の望みだと考えているので、地位と名声にしがみつきます。反キリストは祝福されることを、天そのもの、いのちよりも偉大なもの、真理の追求、性質の変化、人の救いよりも重要なこと、そして立派に本分を尽くし、基準に達した被造物であることよりも大事なことと見ています。基準に達した被造物であり、立派に本分を尽くして救われることはどれも口にする価値すらない、取るに足らないことだと考え、ただ祝福を得ることが生涯で決して忘れることができない唯一のことなのです。何かに遭遇するたびに、その大小に関わらず、彼らはそれを神に祝福されることと結びつけ、信じられないほど警戒し、注意深くなり、常に自分の逃げ道を確保します(『反キリストを暴く』「第12条 彼らは地位も自分が祝福を得る望みもないと、引き下がろうとする」〔『言葉』第3巻〕)。神は本分の異動に対する反キリストの態度を暴いてるけど、それはまったくわたしに当てはまる。わたしは副業を続けようと知恵を振り絞った。長続きする安定した本分で教会に留まり、追放を避けたかったから。何をするにも祝福を得るためで、それが真の目的だったの。実際、人が教会でどんな本分に移されても、働きの必要が基にあるし、完全に正常なこと。でも反キリストには悪しき性質があるから、これを歪んだ形で考える。教会の人は誰も信頼できず、自分を気遣ってくれないと思い込む。あちこち異動させられる中、油断すれば追放され、終着点を失うから、慎重に計画を立てて準備し、用心し、次善の策を持たなければと考える。それで初めて前途と終着点が保障される。反キリストにとっては、本分や救いよりも祝福のほうが大事なの。わたしの見方も反キリストと同じじゃない? 本分から移されるのを絶えず警戒してた。ある日異動になったらどうしよう? 得意でない働きで成果が上がらず、また異動になったらどうしよう? 尽くすべき本分がなくなれば、追放にならない? そう考えて不安になった。反キリストのように複雑で邪悪な考えがあるから、行き詰まることを恐れたの。だから長続きしそうな仕事にしがみつき、手放そうとしなかった。「鉄の茶碗」を追い求める未信者と同じだわ。神の働きが終わるまで、永遠に本分を守れば、自分は救われ、天国に入れると夢想したの。その目標のために、副業を懸命にこなし、すぐにマスターして次善の策を守ろうとした。2つの仕事をこなせなくても、決してそれを認めない。チームリーダーに訊かれたときも、やはり嘘をついて、本業を遅らせてでも副業を守ろうとして、結局働きに影響が及んだ。そのとき初めて、前途と終着点のために本分を尽くしていることがわかったの。本分と引き換えに終着点を得ようとしてた。何をしても、それは祝福を得るため。神と取引し、騙そうとしてたんじゃない? 過去、わたしはいつも神に祈り、本分を尽くして神の愛に報い、人間らしく生きますと言ってた。でも事実に暴かれ、それが嘘、欺瞞だってわかったの!

こんな御言葉も読んだわ。「創造主の前に来たならば、被造物は自分の本分を尽くさなければなりません。それが正しい行為であり、その人の肩にかかっている責任です。被造物がその本分を尽くすという前提で、創造主は人類のあいだでさらに偉大な働きを行なってきました。人類に対するさらなる段階の働きを行なってきたのです。では、それは何の働きですか。創造主は人類に真理を授け、人が本分を尽くしながら創造主から真理を得て、それによって自分の堕落した性質を捨て去り、清められるようにしています。そうして、人は神の旨を満たし、いのちの正しい道に踏み出し、最終的には神を畏れて悪を避け、完全な救いを得て、もはやサタンに苦しめられないようになるのです。これが、人類が本分を尽くすことで、神が最終的に人類に達成させようとする成果です。したがって、人が本分を尽くすあいだ、神は単に人に一つのことが明確に見えるようにしたり、真理が少し理解できるようにしたりしているだけではありません。また、被造物として本分を尽くすことで受け取る恵みや祝福をただ人に享受させているのでもありません。むしろ、神は人が清められ、救われ、最後は創造主の顔が放つ光の中で生きていけるようにしているのです。この『創造主の顔が放つ光』には、さらなる広がりをもつ意味と内容が豊富にあります。これについては今日は立ち入りません。もちろん、神はこうした人に約束と祝福を与え、彼らについて様々なことを述べますが、これはもっと先の事柄です。今現在について言えば、神の前に来て被造物として本分を尽くす人はすべて、神から何を受け取りますか。人類のあいだで最も価値ある美しいものです。人類の中では、単なる偶然で創造主の手からそうした祝福を受け取れる被造物は一人としていません。かくも美しく、かくも偉大なものは、反キリストの同類が歪めて、取引に変形させてしまいました。その取引において彼らは、創造主の手から冠と報いをせびります。このような取引が、最も美しく正しいものを最も醜く邪悪なものに変えてしまうのです。これが反キリストの行なうことではありませんか。これから判断すれば、反キリストは邪悪ですか。彼らはおそろしく邪悪です。これは単に彼らの邪悪さの一面が現われたに過ぎません(『反キリストを暴く』「第9条 彼らは自分を際立たせ、自分の利益と野心を満たすためだけに本分を尽くし、神の家の利益を決して考慮せず、個人の栄光と引き換えにそうした利益さえも売り払う(7)」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉に心を打たれ、神に借りがあると感じた。被造物として本分を尽くせることが、人類の中で最も美しく、有意義かつ正しいことで、あらゆる被造物がこの祝福を得られるわけではないと、神は言われてる。その通りだって気づいた。世のすべての人の中から、わたしが終わりの日に生まれることを神は命じ、幸運にも終わりの日の神の働きに付き従い、本分を尽くして神の働きを経験する機会に恵まれた。誰もがこの祝福を受け取れるわけじゃない。これは神の特別な恵みと愛なの。何であれ、教会で本分を尽くすのは、俗世で行なうどんなことより価値と意義があるのよ。だから感謝し、大事にしなきゃ。それに、神は私心を捨てて人に真理を施し、本分を尽くす過程で真理を得て理解し、徐々にいのちが成長できるようにしてきた。この過程を通じ、神は人から何も要求しない。神が望むのは、人が誠実かつ従順な心で本分を尽くし、最後に真理を得て、堕落した性質から逃れ、神に救われることだけ。でもわたしは? 被造物として本分を尽くすという美しい事実を取引にねじ曲げ、本分と祝福を取り替えようとした。本当に狡猾でずる賢く、神に嫌悪される。

その後は自分の状態について頻繁に神に祈り、問題をもっとよく理解できるよう、啓きと導きを求めた。ある日のデボーションで、神の御言葉を読んだの。「神に対して、そして本分に対して、人には誠実な心がなければなりません。誠実な心があるのは、神を畏れる人です。誠実な心がある人は、神に対してどのような態度をとりますか。少なくとも、そうした人には神を畏れる心、万事において神に従う心があり、禍福にこだわらず、無条件で神に身を委ねます。これが誠実な心がある人です。神についていつも懐疑的で、絶えず神を詮索し、常に神と取引しようと試みる人には、誠実な心がありますか。(ありません。)このような人の心の中には何がありますか。ずる賢さと邪悪さです。彼らはいつも詮索しています。彼らが詮索しているのは何ですか。(人に対する神の態度です。)彼らは常に、人に対する神の態度を詮索しています。これはどういった問題ですか。また、彼らがそれを詮索するのはなぜですか。それは、彼らにとって生死にかかわるほど重要な利益が関わっているからです。彼らは心の中で、このように考えます。『神はわたしのためにこうした状況を作り、これがわたしの身に起きるようにした。なぜ神はそうしたのか。他の人には起きていない。なぜわたしの身に起きる必要があったのか。その後の結末はどうなるのか』。彼らはこのようなことを詮索します。つまり、自分の損得と禍福を詮索するのです。では、こうしたことを詮索しながら、真理を実践することができますか。神に従うことができますか。できません。また、彼らが頭の中であれこれ思いめぐらすことで、何が生まれますか。それはすべて自分自身のためであり、彼らは自分の利益しか考えていません。……いつも自分の利益について考えている人が詮索した最終的な結末は何ですか。彼らは神に逆らい、反対するだけです。自分は本分を尽くしていると言い張っても、軽率かつおざなりに、消極的な気分でそうします。心の中ではどうすればうまく利用できるか、不利な立場に立たないかをひたすら考えます。これが、彼らが本分を尽くす動機であり、その中で、神と取引しようと試みます。これはどういう性質ですか。これはずる賢さであり、邪悪な性質です。もはや普通の堕落した性質などではなく、邪悪の域に達しています。そして、心の中にこうした邪悪な性質があると、それは神に対する闘争です。この問題をはっきり理解しなければなりません。本分を尽くすとき、いつも神を詮索し、取引しようと試みるなら、本分を正しく尽くすことができますか。絶対にできません。このような人は霊をもって、誠実さとともに神を崇めず、誠実な心もなく、本分を尽くしながら周りを見張り、待ち、常に出し惜しみします。その結末は何ですか。神は彼らに働きかけず、彼らは困惑、混乱し、真理の原則を理解せず、自分の意志に沿って行動し、いつも失敗します。いつも失敗するのはなぜですか。彼らの心に明瞭さがすっかり欠けており、何かが自分に起きても自分を反省することも、真理を求めて解決することもなく、ひたすら自分が望むように、自分の好みに合わせて物事を行なうからです。その結果、本分を尽くすと必ず失敗するのです。教会の働きや、神の家の利益を考えることは決してなく、絶えず自分のために企み、自分の利益、自尊心、地位のために策を巡らせ、本分をしっかり尽くさないだけでなく、教会の働きを遅らせ、悪影響を及ぼします。これは道を踏み外し、本分を怠ることではありませんか。本分を尽くすときにいつも自分の利益や前途のために策を巡らせていて、教会の働きや神の家の利益を考慮しないなら、これは本分を尽くしているとは言えません。なぜなら、その人の行動の本質と性質が変わったからです。これはちょっとした問題です。それで小さな損失が生まれるだけなら、その人が救われる希望はまだあります。本分を尽くす機会がまだあり、淘汰されなくてもかまいません。けれど、大きな損失が生まれ、神の選民の怒りを招いたなら、その人は暴かれ淘汰され、もはや本分を尽くす機会はありません。まさにこのようにして解任され、淘汰された人がいます(『終わりの日のキリスト講話集』「真理の原則を探し求めることでのみ、本分を立派に尽くすことができる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んで、心を打たれた。それまでは、ただ本分で用心し、次善の策を求めるのは、狡猾さと腹黒さの表われとしか理解してなかった。でも御言葉のおかげで、これは狡猾さや腹黒さじゃ済まず、邪悪の域に達してるとわかった。相手が誰でも策を弄し、神を相手に計算してたから。表向きは本分を尽くしてたけど、誠実さは全然なかった。いつも観察と計算をして、自分に有利な本分を尽くしてた。音楽の働きをしてた頃を振り返ると、それを命綱のように考えてた。いつか解任され、ふさわしい本分がなければ、祝福を得る機会がなくなると恐れ、本分を失うことをいつも心配した。その後、副業を与えられると、こっちのほうが祝福を得るいい機会だと思い、全力でしがみついた。表向きはとても積極的で、わからないことは訊いてたけど、実際にはより早くマスターして、この本分に欠かせない地位に就こうとしてた。同時に、本業から移されるかどうか目を光らせてた。移されなければ両方の本分を尽くし、救われる保障がさらに増えるし、異動になっても追放される心配はない。まだ副業があるから。こんな本分への態度は、神の責任を受け取らず、純粋かつ誠実な心で、神の本分を受け入れているのでもない。むしろ腹黒さがあり、得られる利益と祝福の望みを調べ、計算してた。本当にずる賢い! 表面上はたくさん働き、一日中忙しくして、本分への責任感があるように見えたけど、実際には前途と終着点のために忙しくしてた。両方の仕事をこなせるかどうか考えるよう、チームリーダーに言われると、計画が台無しになるのを恐れ、言い訳をしてごまかした。「本分の時間をもっと埋めたいんです」って。人を騙す言葉だわ! 卑劣で恥知らずな意図を隠そうと、屁理屈でチームリーダーを騙したの。本当に邪悪な性質! 打算的な考えや腹黒い意図を振り返ると、本分を尽くしてなんかいなかった! 神を利用し、騙してたの。神への誠実さがまったくないわ! 利益を求める商人と同じ。狡猾で、利己的で、卑劣で、卑しく、利益にしか興味がない。あの手この手で自分の利益をできるだけ増やそうとした。本分で神の家の利益を考えず、自分の利益だけを考える人は、成果を上げられないと神は言われてる。わたしは副業で、もっと練習しようとしたけど、目的は次善の策を見つけること。そんな意図で物事をしてたとき、真理に沿ってどう行動すべきか、いい成果を上げるにはどうすればいいか、わたしはじっくり考えなかった。むしろ成果を急ぎ、よく見える仕事しかしなかった。仕事を終えようと焦り、そのせいで色んなことを見落とし、原則を把握せず、いつもミスばかりだった。本業では、いつも進捗を遅らせてたけど、不安も切迫感もなかった。それぞれの本分を滅茶苦茶にしちゃったの。これが続けば、教会の働きに害を及ぼし、本当に追放されるはず! これに気づいて怖くなったから、神に祈り、悔い改めて変化し、本分への態度を正しますと言った。

その後、祈りと探求を通じて気づいたの。自分は常に馬鹿げた見方をしてたって。つまり、長続きする安定した本分を神の家で尽くし、異動にならなければ、神の働きが終わるとき、わたしは救われて生き延びる。自分の見方が真理に符合するかどうか、神のお求め通りか考えなかった。そこで自分の状態に関係する御言葉を探して読んだの。神は言われます。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻))。「最終的に、人が救いを得ることができるかどうかは、どのような本分を尽くすかではなく、真理を理解して得ることができるかどうか、また最終的に、神に完全に服従し、神の采配に身を委ね、自分の将来や運命を考慮せず、基準を満たす被造物になれるかどうかにかかっています。神は義にして聖く、これが、神が全人類を測るために用いる基準です。この基準は不変であり、これを忘れてはなりません。この基準を心に刻み、他の道を見つけて非現実的な物事を追い求めることを考えてはいけません。救いを得たいと願うすべての人に対する神の要求と基準は、永遠に変わることがありません。誰であろうと常に同じなのです(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉はとても明快。人がどんな本分を尽くすか、それが長続きする安定したものかどうかは、祝福されるか呪われるかとは関係ない。被造物として、祝福されるか呪われるかに関係なく、自分の本分を尽くさないと。それが人生の価値であり、人の本分と義務なの。それに神は、長続きする安定した本分を尽くし、異動されなければ、よき終着点を得て救われるなんておっしゃってない。神はいつも言われてる。真理を追い求め、堕落した性質から脱し、真に従順することでのみ、人は救われると。神の要求と基準は一切変わっていないし、神は常にご自身の要求を繰り返す。わたしはそうした御言葉を知らないわけじゃなく、不信者と同じだったの。それらの御言葉を信じず、受け入れず、人を救う神の善意や義なる性質も理解してなかった。ただ自分の観念と想像に頼り、間違った見方にしがみつき、幼稚でくだらない目標をわざわざ追い求めてた。異動されず神の家で本分を尽くし続ける限り、神の働きが終わるときに生き延びると思ってたの。今考えると本当に馬鹿げてる! わたしは異動されずに本分を尽くすことばかり求め、本分で真理の追求に集中せず、反省せず、堕落した性質を解決しなかった。結果として、祝福を得る意図や悪しき性質がこんな明らかなのに、気づかなかった。真理を求めて解決することなんか言うまでもない。本分が長続きしたとしても、永遠にそれを尽くせるって保証できる? 周りには、長年本分を尽くして異動したことがない人もいた。でも真理を求めず、堕落した性質の解決に集中しないせいで、いつもぐずぐず本分を尽くしてた。そのせいで長年本分を尽くしても成果がなく、最後は淘汰された。長年の経験や賜物に頼って仕事する人もいたけど、ますます傲慢になって自分の考えで行動し、教会の働きをひどく乱して妨害し、暴かれ追放された。でも単純かつ誠実で、どんな本分を与えられても受け入れ、真理の追求と堕落した性質の解決に集中できる兄弟姉妹もいる。わからないことがあると、神に祈って真理を求め、みんなと探求し、交わることができる。本分の成果がますます上がり、いのちが徐々に成長し、神を真に信仰するの。同じことがわたしにも起きたのに、どうしてわからなかったの? それに、教会で人が異動するときは、必ず教会の働きの必要と、各人の技能が基になってる。神を真に信じていれば、教会はその人に適した本分を采配する。それは本分の変更に過ぎないし、神の働きを経験して真理を求める権利も、救いの機会も奪われない。まったく正しいことなの。わたしがいつも本分の異動を否定的なこと、悪いことと見ていたのはなぜ? それで気づいた。安定した長続きする本分があればよき終着点が保証され、暴かれ淘汰されることはないという考えは、馬鹿げた突飛な見方なの。それはわたしの観念と想像に過ぎず、危険なこと! それに気づいて心が明るくなり、とてもほっとしたわ。その後は本分を尽くすとき、精神状態がよくなった。どっちの本分のほうが大事かなんて考えなくなったの。むしろ両方とも神からの委託で、貴重なものだと感じ、両方全力でこなそうと思ったわ。副業を続けるかどうかは、神に任せ、神の采配に従うことにした。

11月の終わりごろ、別の人が見つかったから副業をする必要はないと、監督者に言われた。それを聞いて、言いがたい感情を覚えて悲しくなり、手放したくないと思ったの。状態が間違ってることに気づいたから、すぐ神に祈り、御言葉を思い浮かべた。「神に対して、そして本分に対して、人には誠実な心がなければなりません。誠実な心があるのは、神を畏れる人です。誠実な心がある人は、神に対してどのような態度をとりますか。少なくとも、そうした人には神を畏れる心、万事において神に従う心があり、禍福にこだわらず、無条件で神に身を委ねます。これが誠実な心がある人です(『終わりの日のキリスト講話集』「真理の原則を探し求めることでのみ、本分を立派に尽くすことができる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を繰り返し考えるうちにわかった。神は誠実な人を好まれ、わたしが誠実な心で本分に接し、単に従い、結果を心配せず、自分のために企まず、神の采配に従うことを望まれてる。策を弄して企むことで自分の地位を守った人なんか、神の家には一人もいない。逆に、純粋かつ誠実で、着実に物事を行ない、真理を追い求める人だけが揺るぎなく立てる。その瞬間、この状況はわたしの試験だと気づいたの。もう本分を選り好みすることはできない。心から神の采配に従い、今の本分を大事にしないと。この本分がいつまで続こうと、今後どんな本分を教会から采配されても、純粋かつ誠実な心で受け入れ、従い、全力で尽くす必要があるの。この環境を経て、本分への間違った態度と、祝福を得る根深い意図が暴かれた。事実の暴きがなければ、わたしは信仰の汚れに気づけず、本分へのどんな態度が神の旨に沿ってるかわからなかったはず。これは貴重な宝物。それに、今回突然本分が変わったおかげで、事実を見られた。神はすべてを支配し、人が尽くす本分は、神があらかじめ定められたものだという事実。人はそれを予測できず、変えることもできない。でも、わたしは不信者と同じく、神の支配を知らず、自分の努力で本分を守ろうとした。本当に愚かで無知だわ! 尽くしたい本分を守るなんて、そんなことがどうしてできるの? 神の采配に従うことでのみ、穏やかで自由な人生を送れるのよ。しばらくすると、教会が別の副業を采配してくれたけど、その本分がどれだけ続くか、わたしはもう考えなかった。むしろ、自分の本分をしっかり尽くし、本分で真理を求めて実践し、堕落した性質を解決して、真に人間らしく生き、神への従順と忠誠を成し遂げようと思ったの。

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