死の試練の中で

2021年1月30日

全能神は言われます。「神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである(『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉には本当に感動し、20年以上前、死の試練の中で体験した忘れられない出来事について考えさせられる。神の裁きと刑罰は、人間に対する愛であり、救いである、ということに実に理解するようになった。神の御言葉は、どんなに厳しく、当惑するものであっても、それは、私たちを清め、変えるためでしかない。

1992年2月のこと。効力者の試練の後、神は私たちを、神の国の時代の民として引き上げ、要求を提示した。神の御言葉を読むこと、それらを実行に移すことに専念し、神を知ろうとすること、試練を通して神の証しをすること、神の国の民の基準にできるだけ早く到達すること。当時、神は、たびたび、「わたしの家の民」や「わたしの国の民」という言葉を使われた。これらの御言葉を聞くと、いつも、神は私たちを家族として見ておられるということを感じさせてくれる。そんな温かみと励ましの感覚をもらい、私は、神の民の仲間入りをすべく、その基準を追求し始めた。神の御言葉を読んで祈り、その御言葉から神の御旨を熟考した。できる限りの本分を尽くし、生涯、神に従うことを決心した。22歳だった。同い年の男たちは、ほとんど皆、すでに妻子がいた。信仰していない私の家族は、私に妻を見つけようとしたが、全て断った。

私は、『神の国の讃歌』を歌うのがとても好きだった。特にこの歌が。「神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つ神は焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまや神の国である(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。神の国が、地上にはっきり現れ、神のなせる働きが完了し、大災害が起こり、神に反対する者たちがみな滅びる様子が思い浮かんだ。反対に、神に従う私たちは、生き延び、神の国へ導かれ、永遠に続く祝福を享受することができる。このように考えるのはとても素晴らしいことだった。当時、私は全能神の御名を受け入れ、引き上げられて神の国の民の仲間入りをすることは、この人生で、神の国に入ることが確定されたことを意味し、誰もそれを奪えないと考えていた。私は非常に胸を高鳴らせていた。私たちの霊がよみがえり、喜びで満ちていた。私たちは神のために、たゆむことなく自分の全てを捧げた。

しかし、神は義であり、聖なる存在だ。神は、私たちの心を見抜く。神は、私たちが心に抱く、観念、想像、途方もない欲求をご存知だ。私たちが、まもなく神の国に入り、その恩恵にふけることができるだろうという希望に満たされた頃、4月後半に神は、私たちを死の試練へと導く新たな御言葉を発せられた。

ある日、教会の指導者が集会を開き、神の御言葉を読んだ。「人が夢見る間、わたしは世界の国々を旅して、人の中にわたしの手にある『死の臭い』を振りかける。人々はすぐに生命力を失い、人生の次の段階に入る。人間の中に生けし者を見ることはできなくなり、屍があちこちに散らばって、生命力に満たされたものは直ちに跡形もなく消え去り、屍の息の詰まるような臭いが地に充満する。……今日、ここではすべての人の屍が無秩序に横たわる。わたしは人知れずわたしの手の内にある疫病を放つ。人の体は腐り、肉は頭からつま先まで跡形もなく朽ち落ち、わたしは人から遠く離れたところへ行く。わたしが再び人と集うことは決してなく、人の内に来ることも決してない。わたしの経営全ての最後の段階が終わりを迎え、わたしが再び人間を創造することはなく、人を再び心に留めることもないからである。わたしの口から出た言葉を読んだ後、人はすべて、死にたくないがゆえに希望を失う。しかし、『生き返る』ために『死』なない人があろうか。わたしには人を生き返らせる不思議な力はないとわたしが人に言うとき、彼らは苦痛の中で泣き叫ぶ。実に、わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない。これについては、人に詫びを言おう。それゆえに、わたしは人に『わたしはあなたに対して支払えない負債を負う』と前もって伝えたが、人はわたしが単に礼儀正しいだけだと考えた。今日、その事実の到来において、わたしは今なおこう言う。わたしが話すとき、わたしは真実に背かない。人は観念の中で、わたしの話し方は多すぎると思い込んでいるため、いつも他の何かを望みながらわたしが彼らに与える言葉にしがみつく。これは、人の誤った動機ではなかろうか。人がわたしを心から愛してはいないとわたしがあえて『はっきりと』述べるのは、これらの状況ゆえである。わたしは良心に背を向けず、真実をゆがめることもない。わたしが人を理想の地に連れて行くことはないからだ。そしてついにわたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第四十章」〔『言葉』第1巻〕)。なかでもこの御言葉、「わたしは創造主ではあれども、人を死なせる力しか持たず、人を生き返らせる力はない」の部分に、私はとても困惑した。「なぜ神は、そのようなことをおっしゃるのだ?」と。「人間の生と死は、神の御手に委ねられている。なぜ神は、人間を生き返らせる『力』がないとおっしゃるのだ? 私たち信者は、やはり最後には本当に死ぬことになるのか? 私たちは、神の国の民なのに、なぜ死ぬのだ? そんなことはないはずだ! しかし、神が私たちをからかうはずはない。神は、はっきりとおっしゃられた。『わたしの業が終わる時、わたしは人を死の地へと導くであろう』。それは、私たちがやがて死に直面するのを意味しているのではないか? これは一体どういうことだ?」私は、神がなぜそのようなことをおっしゃるのか、理解ができなかった。私の周りにいた他の兄弟姉妹たちも、途方にくれている様子だった。それから、教会の指導者が交わりをした。「私たちの肉は、サタンによって深く堕落させられている。サタン的性質に満ちている。横柄、虚偽、利己主義、貪欲、さらに、常に嘘をつき、不正をする。神を信じ、神のために自分を費やすが、神の御言葉を実行に移せない。試練と苦難がやってきた時でさえ、私たちは神を裁き、とがめる。これは、私たちの肉がサタンのもので、神に抵抗していることを表している。神の性質は、義であり、聖であり、犯すことができない。サタンに属する人間を、どうして神の国に入れられるだろうか? 神のなせる働きが完了する時、大災害が起こる。信者であっても、真理を得ていなければ、いのちの性質が変わっていなければ、やはり死ぬのだ」。

指導者からのこの交わりを聞いていると、感情が溢れてきて、どう感じたら良いのかわからなかった。天が突然大きな音を立てて崩れ落ちたような衝撃を受けた。困惑と憤りが心に充満し、こう思った。「最後の世代であるなら、最も祝福されているのではないか? 神は私たちを神の国の時代の民として引き上げた。私たちは神の国の柱だ。どうして最後の最後に死ぬことができよう? 私は神に従うために、青春と結婚への希望を捨てた。神のために駆け回り、自分を費やし、多くの苦難を耐えた。中国共産党に逮捕され、迫害され、未信者たちからは嘲笑われ、中傷を受けた。どうして最後の最後に死ななければならないのだ? 私の苦しみは全て無駄だったのか?」それを考えると、非常に胸が痛くなった。身体に重みがずっしりとのしかかるのを感じ、息ができないほどだった。私の周りの人たちも皆同じように感じていることに気付いた。静かに泣いている人もいた。手で顔を覆って泣き叫んでる人もいた。集会の後、私の母はため息まじりに言った。「私は60歳を過ぎているし、死を受け入れている。でもあなたはまだ若い。あなたの人生は始まったばかり……」母がそんなふうに言うのを聞いて、私は余計動転し、涙を堪えられなかった。その夜はベッドで寝返りを繰り返し、一睡もできなかった。理解できなかった。私は神のために熱心に自分の全てを費やし、神に従うために全てを諦めてきた。それなのに、なぜ大災害で死ななければならないのだ? その事実を受け入れられず、私は神の御言葉に目を通し始めた。手がかりが見つかること、結果が変わることを願いながら。しかし、求めている答えは見つからなかった。唖然として、こう思った。「神は本当に私たちを咎め、死は確定したかのように見える。誰もそれを変えられない。天が定めたことなのだ」。

それからの数日間、気持ちがとても沈んでいた。言葉を発してもほとんど聞き取れないほどしか声が出ず、何もする気が起きなかった。私はいつも長時間、神の御言葉を書き写したものだった。手が痛くなっても、気にならなかった。兄弟姉妹に、神の新たな発言をできるだけ早く読んでもらいたいと思っていた。だが、そのような責任感は、もう消え失せてしまった。私の焼けつくような熱情は、突然冷めてしまった。神の御言葉を書き写していると、こう思った。「私はまだ若く、天国の祝福を享受していません。このまま死にたくはありません!」そう考えると、泣けてきた。当時の私の心は重く、胸をナイフで突き刺されたような痛みを感じていた。世界におもしろみがなくなった。大災害がすぐにでも来るかのように感じ、いつ死ぬのかわからなかった。世界が終わったように感じられた。

神の御言葉を読むと、いくらか自己認識を得られた。それからゆっくり、時間が経つにつれて自由を感じられた。こんな神の御言葉を読んだ。「今日、神の国の門へと進む時になると、人々は皆、力強く前進を開始する。――しかし、人々が門の前に着くと、わたしは門を閉める。わたしは人々を締め出して、入門証を見せるよう人々に要求するのだ。このような奇妙な行動は人々の予想外であり、皆仰天する。今までいつも大きく開いていた門が、なぜ今日突然ぴしゃりと固く閉ざされるのか。人々は足踏みをしながら歩き回る。彼らは想像する。ごまかして門の中に入れるのではないかと。しかし、彼らがわたしに偽の入門証を手渡すと、わたしはその入門証を炎の中に放り込むのだ。そして、人々は自分たちの『必死の努力』が炎の中にあるのを見て、希望を失う。人々は神の国の美しい景色を見ても、中に入れないので、顔を覆って泣くのだ。それでも、わたしは哀れな状態の彼らを中に入れない。誰が好き勝手にわたしの計画を台無しにできようか。未来の祝福は人々の熱意と引き換えに与えられるのか。人間の存在の意味は、人間の好きなようにわたしの国に入ることにあるのか。……わたしが人間を信じなくなってから、かなりの時が経つ。わたしが人々に希望を見いだせなくなってから、かなりの時が経つ。というのは、人々に大志がないからだ。神を愛する心を人々がわたしにくれたことが一度もないからだ。その代り、人々はいつもわたしに自分の意欲を伝えてきた。わたしは人間に多くを語ってきたが、未だに人々はわたしの助言を無視している。だから将来わたしの心を誤解しないように、わたしは人々にわたしの見解を伝えよう。今後人々の生死は、人々の問題である。わたしにはどうすることもできない。人々は自分で生き残りの道を見つけてほしい。わたしはこれに関して無力である(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第四十六章」〔『言葉』第1巻〕)。「人々が自らの命を犠牲にする覚悟がある時、全てがささいなものとなり、彼らをしのぐ者はいなくなる。命よりも大切なものがあろうか。だから、サタンは人の中でこれ以上何も行なえず、人に対して何もできなくなる。『肉体』の定義では、サタンによって堕落させられているものとあるが、人々が自分自身を真になげうち、サタンに振り回されることがないなら、誰も彼らを打ち負かすことはできない。そのとき、肉体は別の機能を果たし、正式に神の霊の導きを受け始める。これは必要な過程であり、段階的に進まなくてはならない。そうでなければ、神が人間の頑なな肉に対して働く術はない。神の知恵はそのようなものである(『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第四十六章」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉をじっくりと考えて、私はとても困惑した。ネガティブに考え、苦しみを感じていたのは、死を恐れ、祝福を過剰に求めていたからではないか? 最初の頃は、祝福を受け、天国に入るために、神を信じていた。効力者の試練を経験したけれど、そして、祝福への欲を少し捨てられ、神へ奉仕をすることを決心したけれど、不実で邪悪なサタンの本性が深く根ざしてた。神が私たちを神の民にすると、私の胸はまた期待に高鳴った。今回は、確かに天国に入れるだろうと思った。神の御名を受け入れること、神に引き上げられること、神の国の民の1人となること、全てを諦めて自分を費やすことによって、もちろん天国に入れるだろうと思った。確実に。神のなせる働きが私の観念を打ち砕き、私の期待と終着点を奪った時、私は弱って否定的になり、神に文句を言った。神のために払った犠牲さえ後悔した。全ての努力によって、見返りとして、天国の祝福を受けられると思っていた。私は、神と取引をしていたのではないか? 神をだまし、神を利用していたのではないか? 私があらわにしたのは、全ての試練への反抗と不平以外の何ものでもない。神に従いたかったが、できなかった。よく理解していたはずの真理を実践できなかった。私は本性では神に抵抗していた、サタンと同じだったのだ、と悟った。サタン的性質で満ちた私のようなものは、死んで滅びるべきだ。神の国に入るには、全く相応しくなかった。これは、神の義の性質によって定められていた。神に従い、神の義の性質を知る機会を得たことは、私の人生は無駄ではなかったということを意味していた。それから私は神に祈った。「これ以上、自分の肉のために生きたくはありません。神の支配と采配に服従したいと思います。私の最期がどうなろうと、たとえ死のうと、私は神の義を賛美します」自分の最期と終着点を考えるのをやめた時、神の采配に、自分の命をかけてでも従うことを望んだ時、素晴らしい解放の感覚を味わった。

しかしその時は、私たちが自分の結末を顧みずに服従し、神に従うことができても、追うべき目標を持っていなかった。しかし、1992年5月に、神はさらに御言葉を表された。生きているうちに神を愛し、意味のある人生を生きることを求めるようにとおっしゃられた。神は私たちを神を愛する時代に導かれ、死の試練は終わった。神の御言葉を読むこと、集会と交わりを通してわかった。人間の運命は神の御手に委ねられていて、誰も死を逃れられないけれど、神の御旨は、私たちが死に否定的に立ち向かうことではない。神は、私たちが生きている間に神を愛するようになること、真理を実践できるようになり、堕落した性質を捨て去り、完全に救われることをお望みなのだ。その時にこそ私たちは神の国に入れるようになるのだ。やっと理解ができた。死の試練に導くことで、神は私たちを死に導いているのではなく、神の義の性質をあらわにされている。神がこれを行うのは、神が救うのは誰か、滅ぼすのは誰か、神の国に入るのにふさわしいのは誰かを、私たちに知らしめるためだ。私はまた、自分がどれだけサタンによって堕落させられているかを知り、自分の観念、想像、祝福への欲を捨て去ることができた。神の支配と采配に服従できるようになり、真理を本当の意味で実践し始めた。これは神の、私に対する救いだ! 神は、私たちを憎んでいるとか苦しめたいという理由で、裁いたり、罰したりはしない。かわりに、私たちが真理を求め救われるための正しい道へ導いてくれるのだということがさらによくわかった。神が私たちに行う全てのことは、事実の出現によるものではない。神は、私たちを裁き、罰し、試し、精錬する御言葉をあらわすことで結果を得ておられる。神のなせる働きはとても思慮深く、神の人間に対する愛と救いは本物である!

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