本分が取引になった過程

2023年10月6日

2017年4月、血圧が高くなって、いったん本分をやめて静養するよう指導者に言われた。そんなの嫌と思ったわ。「神の働きが終わろうとしてる。今は本分を尽くして善行を重ねる大事なとき。本分がなければ、よき終着点と結末を得られない。長年の苦労と払った代価が無駄になるの?本分に専念するため、医院を閉じた。夫に邪魔されても、神を信じた。それで離婚、家族はいない。共産党は私を追い、いつも両親に居場所を尋ねてる。家に帰れないし、どこに行けばいいの?」その後、ある姉妹が迎え入れてくれた。そして御旨について交わり、従うべきだと言ったけど、本分に忙しい彼女を見て、羨ましかった。私は病気で本分を尽くせない。神は病を使って、私を暴いて淘汰しているの?そう考えて力が脱け、つらさと絶望を感じたし、神への誤解と不満が膨らんだ。すべてを捨て、文句も言わず苦しんできたのに、暴かれ淘汰されるなんて。それ以来、御言葉が頭に入らず、祈っても言うべき言葉がなかった。食べられず、眠れもしない。まさに闇の中。するとその姉妹は、こう言って取り扱った。「あなたはちゃんと御言葉を読んでない。人が変わったわ。真理を求めてないじゃない」。それを聞いてつらくなり、神に祈って探求した。「神よ、これをどう経験すべきか、将来の道は何かがわかりません。今の私は闇の中。つらいです。御旨がわかるよう、啓きと導きを」。

それから数日、ひたすら祈って探求したわ。するとある朝、御言葉の一句が突然頭に浮かんだの。「あなたは祝福を得られる者の顔をしているのか(『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」〔『言葉』第1巻〕)。すぐにコンピューターでこの節を探した。全能神は言われます。「数千年にわたる堕落の後、人は麻痺し、物分かりが悪い。神に反対する悪魔になり、人による神への反抗は歴史書に記録されるほどになり、本人でさえその反抗的な振る舞いを完全に説明することができなくなっている。人はサタンにより深く堕落させられ、惑わされてしまったので、どちらに向いたらよいかわからなくなっているからである。今日でさえ、人はいまだ神を裏切っている。神を見ると裏切り、神が見えないときもやはり神を裏切る。神の呪いや怒りを目の当たりにしても、それでも神を裏切る者さえいる。そこでわたしは、人の理知はその本来の機能を失い、人の良心も本来の機能を失ったと言う。わたしが目にする人は、人間の装いをした獣、毒蛇であり、わたしの目の前でどんなに哀れっぽく見せようとしても、わたしはそのような人を決して憐れまない。人は白と黒の違い、真理と真理でないものの違いを把握していないからである。人の理知は大いに麻痺しているにもかかわらず、依然として祝福を得ようと願い、人間性はひどく下劣であるにもかかわらず、それでも王として統治したいと願う。そのような理知の持ち主がいったい誰の王になれるというのか。そのような人間性の者がどうして玉座に座ることができようか。人は実に恥を知らない。身の程知らずな卑劣漢である。祝福を得たいと願うあなたがたに対し、わたしはまず鏡を見つけて、そこに映る自分自身の醜い姿を見るよう勧める。あなたは王になるために必要なものを持っているのか。あなたは祝福を得られる者の顔をしているのか。性質にわずかな変化もなく、真理を一切実践していないのに、あなたはそれでも素晴らしい明日を願っている。自分自身を欺いているのだ(『神の出現と働き』「性質が変わらないままなのは、神に敵対していることである」〔『言葉』第1巻〕)。「人は祝福され、報われ、冠を得るために神を信じています。これは誰の心にもあることではないですか。……祝福を受けるというこの動機がなければ、どのように感じるでしょうか。どんな態度で本分を尽くすでしょうか。人の心に潜む、祝福を受けるこの動機がなくなったら、何が起きるでしょうか。おそらく多くの人は消極的になり、本分へのやる気を失う人もいるでしょう。魂が消え去ったかのように、神への信仰に興味を失うでしょう。心がもぎ取られたかのように見えるでしょう。祝福への動機こそ人の心の奥底に潜むものであると、わたしが言うのはこのためです。おそらく、人は本分を尽くしたり教会生活を送ったりしながら、自分は家族を捨て、神のために喜んで自分を費やすことができるとか、今の自分は祝福を受ける動機を認識しており、その動機を脇にのけ、それに支配されることも縛られることももはやないと感じているでしょう。そして、祝福を受ける動機はもう自分にはないが、神はそうは思っていないと考えているのです。人は物事を表面的にしか見ません。試練がなければ自分に満足しています。教会を離れたり神の名を否定したりせず、ひたすら神のために費やす限り、自分は変わったと信じているのです。本分の遂行において、個人的な熱情や束の間の衝動に突き動かされることはもはやないと思っています。むしろ、自分は真理を追い求めることができるとか、本分を尽くしながら真理を求めて実践し続けることができるので、堕落した性質は清められ、本当の変化を多少遂げたと信じています。しかし、終着点と結末に直接関係することが起きると、その人の振る舞いで真相が残らず完全にさらけ出されます(『終わりの日のキリスト講話集』「いのちの成長を表す六つの指標」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉の裁きに、隠れる場所がなかった。それまで、信仰が祝福のためでは駄目だとわかっていても、真に自己認識してなかった。この状況で、祝福を求める私の動機が暴かれたの。長年すべてを捨て、医院を閉じて教会で本分を尽くし、何があっても苦しみに耐えた。信仰でこうした犠牲を払えば、神の承認と祝福、よき終着点を得られると思い、本分へのやる気が出た。でも病気のせいで本分を尽くせない今、よき終着点を失い、祝福の夢も消えたと思って、動けないほど落ち込んでる。すべてを捨てたことを後悔しただけじゃなく、神を責めて理屈を言い、逆らった。払った犠牲を、祝福を求めて神と取引する元手にしたの。苦しんで貢献したんだから、神は良き終着点と結末を授ける義務がある、って。得られないと、私は文句を言って神を責めた。消極的になった裏には祝福への動機があったのだ。それで御言葉を思い出した。「あなたがたが神を信じる目的は、自分の目標を達成するために神を使うことである。これは神の性質に背いたことを表すさらなる事実ではないか(『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を通じて神の性質が光ってる。私はこうした信仰観で神と取引し、神を騙し、利用して、望む祝福を得ようとした。これは神の性質に背くこと。パウロの貢献と犠牲はすべて、神に義の冠を要求するためで、神の性質に背き、懲罰された。私も犠牲を払ったあと、報い、冠、承認、祝福を要求した。望みのものが得られないと、神を誤解して責め、裏切ることさえ考えた。理知と良心はどこにあるの?祝福を求める私のようなサタンの同類は、本当に恥知らず!病気になっていなければ、信仰での間違った追求が見えず、ひたすら間違った道を歩み、最後はパウロのようになったはず。そう考えて怖くなり、神のこの采配は、私への愛と救いなんだとわかった。御旨がわかると後悔と自責の念で一杯になって、泣きながら祈った。「神よ!あなたの救いに感謝します。こうして暴かれてなければ、わけもわからずあなたに逆らい、地獄に落ちてたはずです。神よ、あなたに悔い改め、祝福の追求をやめたいです。ただ真理を追い求め、堕落した性質を捨て、人間らしく生きていきます」。

祈ったあと、さらに御言葉を読んだ。「ここで、ペテロがどのようにしてわたしを知り、最後の結末がどのようなものだったかをあなたがたに説明することに、わたしは重点を置く。……わたしはペテロを無数の試練に晒し、当然ながら、それらの試練のせいで彼は死にかけたのだが、そうした何百もの試練の中、彼は一度たりともわたしへの信仰を失ったり、わたしに失望したりしなかった。わたしがもう彼を捨て去ったと言った時でさえ、ペテロはくじけず、実際的なやり方で、過去の実践の原則に沿ってわたしを愛し続けた。わたしは彼に、たとえおまえがわたしを愛しても、おまえをほめず、最後はサタンの手中に投げ込む、と言った。しかし、そうした試練、つまり肉への試練ではなく、言葉の試練のさなか、ペテロはそれでもわたしに祈り、こう言った。『おお、神よ。天地と万物の中にあって、人間や生き物、あるいはその他のもので、全能者たるあなたの手の中にないものが何かあるでしょうか。あなたがわたしに憐れみを示してくださるとき、その憐れみにわたしの心は大いに喜びます。あなたがわたしを裁かれるとき、わたしはそれにふさわしい者ではありませんが、その御業の計り知れなさをさらに深く感じます。なぜなら、あなたは権威と知恵とに満ちておられるからです。わたしの肉は困難に苦しんでも、わたしの霊は慰められます。どうしてあなたの知恵と御業をたたえずにおられましょう。たとえあなたを知った後に死ぬとしても、喜びと幸せのうちに死なないことがあり得ましょうか。……』(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。「わたしの前で忠実であったため、また、わたしの与えた祝福のゆえに、ペテロは数千年もの間、人間にとっての手本と模範であり続けた。これこそが、あなたがたが見習うべきことではないのか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉で、ペテロが運命や終着点に縛られなかったことがわかった。彼の愛にもかかわらず、神に認められなくて、最後はサタンに引き渡されても、ペテロは神への愛を追い求め、死ぬまで服従した。神に対するペテロの愛に、取引や汚れは一切ない。真実の愛と服従なの。神の御言葉に実践の道を見つけ、ペテロのように神を愛し、性質の変化を求める道を歩もうと決意したわ。神にどう扱われようと、結末と終着点がどうだろうと、神の支配と采配に従い、神のために自分を費やそう。前のように教会で本分を尽くせないけど、何年間か御言葉の糧を享受し、経験を積んだんだから、学んだことを書き出し、神に証ししよう。これも被造物の本分。神の御前でたびたび心を静め、御言葉を熟考して経験の証しを書き始めた。ずっと神に近づいたように感じ、将来や前途のことで悩まなくなって、解放感を覚えたわ。しばらく静養すると血圧が正常になって、教会での本分を再開した。

この経験のあと、自分の信仰観が多少わかり、もう祝福への欲に邪魔されないと思った。でもしばらくすると、それがまた現われだしたの。

教会指導者に選ばれたんだけど、集会で指導者から、各班長の実務能力を見てほしいと頼まれた。ずる賢い人や真理を受け入れない人がその立場にいては絶対にいけないと。私は、すぐ確かめなきゃ、人選を間違うと教会の働きや兄弟姉妹に害が及ぶと考えた。解任されるだけじゃなく、過ち、悪事になってしまう。一月後、必要な配置換えが終わり、ほっとした。でも思いがけず、その一人がずる賢いと、指導者がすぐ突き止めたの。しまった!と思った。本分をきちんと尽くさなかっただけじゃなく、教会の働きを乱した。その直後、別の一人が傲慢だと、兄弟姉妹が報告した。合理的な意見を拒むだけじゃなく、叱って押さえつける。解任してほしいと。問題が次々現われるのを見て、脱力した。つらくなって、自分は真理の理解が浅い、真理現実がないと思った。これ以上何かあって教会の働きに影響が出たら、とんでもない悪事になる。よき結末と終着点を失ってしまわない?別の本分にすぐ移らなきゃと思った。ある朝、めまいを感じ、血圧もいつもより高かった。健康問題がぶり返したから、別の本分に切り替えてほしいと思って、指導者にそのことを話したの。その時は責任感もなく、パートナーの姉妹にそっとこう言った。「必要なら下りるし、できる本分は何でもやる」すると取り扱いを受けた。消極性を見せてる、反省しなさい、って。受け入れたくなかった。従い、できる本分は何でもするのよ。どうして消極的なの?でも、神が彼女にそう言わせてると考え、自分の実情がわかるよう、神の導きを求めて祈った。

あとで、この御言葉を読んだ。「彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神がいる者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神がいない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見方を変え、神のもとを離れさえする。これが、最後に揺るぎなく立てず、神の祝福を求めるだけで、神のために自分を費やし、神に自分自身を捧げる意欲が一切ない者である。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎えるときに全員追放され、同情にも値しない。人間性が欠如している者たちは、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏なとき、あるいは得られる利益があるとき、彼らは神に対して完全に従順であるが、ひとたび自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らはただちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らはにこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の理由もなく、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行なうこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではないか(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。裁きの御言葉に恥ずかしくなった。私はまさに暴かれてるような人じゃない?本分で祝福を得られそうだと、熱心に努力するけど、そうでなければ別の一面を見せ、その本分が嫌になる。自分の前途と終着点しか考えてない。ミスをしたとき、失敗を基に反省し、真理を求め、欠点を補って努力する代わりに、責任を負って前途を危険に晒すことを恐れた。責任の軽い本分に移ろうと、高血圧を言い訳にした。理知があるように見えるけど、その裏には卑劣な動機があった。本当にずる賢い!

反省したの。いつも信仰で祝福を求める根源は何かって。この御言葉を読んだわ。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。これでわかった。私が自分のことばかり考えてたのは、サタンに深く堕落させられてたから。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「利成らずば早起きは無駄」こうしたサタンの生存法則が私の本性になって、利己的、卑劣、わがままにした。何をするにも個人の利益を考えてたの。長年にわたる信仰の道を振り返ると、本分を尽くす出発点は、祝福と報いを得て、最後は天国に入ることだった。長年の努力と苦しみは、被造物の本分を尽くすためでも、神に自分を費やすためでもなく、神を利用し、騙し、取引するため。神を愛して満足させるためじゃないの。これで信者と言える?不信者だわ。真理を使って問題を解決し、分別と洞察を得させるため、兄弟姉妹は私を指導者に選んだけど、私はその機会を大事にしなかった。真理を備えて入らず、ただ前途と運命を考えた。神に逆らう道にいたの。悔い改めて真理を求めないと、最後は滅ぼされる。

ある日のデボーションで、この御言葉を読んだわ。「神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人類のためであって、神自身の益のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもとから持つもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人類のために行うこと、人類のために犠牲にすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人類のためである(『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を考え、神の愛に感動した。至高で聖く、尊い神は、深く堕落した人類を救うため二度肉となり、屈辱と苦痛を受けた。主イエスは人類を贖うため磔刑になり、いのちという代価を払った。全能神は終わりの日に中国で肉となり、人を清めて救う真理を表わし、共産党や宗教界の迫害と冒瀆を受けた。人のあいだで働き、無償で御言葉を与え、サタンの権力から救うため、あらゆる苦しみに耐える。神はこんなに代価を払って人類を救い、自分の損得は考えない。見返りに何も求めず、報酬を要求しない。神の愛は無私で真実。神の本質は美しい!一方私は、神を信じ喜ばせたいと言っても、神への真心がなかった。神のために働く振りをしながら、祝福を求めて取引し、神を利用し、騙してた。本当に自分勝手でずる賢く、卑劣で恥知らず。サタンのように生きていた。私みたいな神に逆らうサタンの同類は、どれだけ犠牲を払っても、神に認めてもらえない。この御言葉も読んだ。「神の被造物である人間は、被造物の本分を尽くすこと、そして他の選択をせずに神を愛することを追い求めねばならない。神こそが人の愛にふさわしいからである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益を求めたり、自分が切望する物事を追求したりしてはならない。これが追求の最も正しい形である(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉でわかった。被造物は祝福を信仰すべきじゃない。神への愛を追い求め、正しく本分を尽くすことにしか、生きる意味はない。こう神に祈った。「神よ、悪しき道から離れてあなたに悔い改め、祝福を求めるのをやめます。最後の終着点が何であれ、しっかり本分を尽くしてあなたの愛に報います」。状態を正すと血圧が正常に戻ったわ。

その後、御言葉の朗読を二つ観たの。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天職であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である。人間が徐々に変えられるのは、自身の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自身の忠実さを実証する。ゆえに、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け取り、あなたの表現もますます現実のものになる(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。「人が救いを得ることができるかどうかは、どのような本分を尽くすかではなく、真理を理解して得ることができるかどうか、また最終的に、神に完全に服従し、神の采配に身を委ね、自分の将来や運命を考慮せず、基準を満たす被造物になれるかどうかにかかっています。神は義にして聖く、これが、神が全人類を測るために用いる基準です。この基準は不変であり、これを忘れてはなりません。この基準を心に刻み、他の道を見つけて非現実的な物事を追い求めることを考えてはいけません。救いを得たいと願うすべての人に対する神の要求と基準は、永遠に変わることがありません。誰であろうと常に同じなのです(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。おかげでわかった。本分は、最後に祝福されるか呪われるかと無関係。救われる上で大事なのは、真理を追求して手に入れ、性質を変えられるかどうか。何の本分をいつ尽くすかは神が決めることで、結末と終着点はなおさらそう。神の指揮を受け入れ、本分に忠実でないと。そして気づいた。私には真理現実がなく、欠点が多すぎ、だから本分で欠陥と短所が暴かれた。真理を求めてそうした原則を理解すれば、欠点を直していのちが成長できる。それがわかって、前途や運命を心配するのをやめ、本分を移りたいと思わなくなった。着実に働き、問題があれば真理を求めて解決し、徐々に原則を掴んで、本分の間違いも少なくなった。御言葉に従い、本分で祝福の追求をやめると、心が自由になった。神の導きで、成果もますます上がったわ。

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