本分を通じて服従を学ぶ

2022年12月15日

2012年、台湾で勤務中、終わりの日の全能神の働きを受け入れた。その後、それを受け入れたフィリピン人は自分が初めてだと知った。わたしは興奮し、祝福されていると思った。2014年の帰国後、フィリピンで全能神の国福音を説き始めると、すぐに多くのフィリピン人が終わりの日の神の働きを受け入れた。わたしは喜び、福音を説けることに誇りを覚えた。福音を説いて神を証しするのは特別な本分。誰でもできるわけではない。この本分を尽くすには、真理の理解が必要だから。いつも、兄弟姉妹はわたしに会うたび、神の働きを受け入れた最初のフィリピン人ということで羨み、福音を説いて神を証しできるわたしは幸運だと憧れた。彼らの羨望と憧れを見て、わたしは一種の優越感を感じ、福音伝道という重要な本分にふさわしいと思った。

ある日、教会の総務を担当している兄弟が、免許を更新するためしばらく運転できないと聞いた。わたしが運転できることを知った指導者は、しばらく代わりをしてほしいと頼んだ。その瞬間、腹が立ってこう思った。「どうして突然運転を? 運転手なんて、兄弟姉妹にどう思われる?」思うに、福音の伝道と神の証しは大事な本分で、神の出現を切望する多くの人を御前に導けるが、運転はただの作業で、神の証しをまったくできず、仰ぎ見られることもない、誰でもできる単純作業。だが福音の伝道と神の証しは誰でもできるわけじゃない。その立場に置かれることに、わたしは失望した。どうしてそうなるのか理解できず、指導者の言いなりになることを恐れた。否定的な考えが数多く浮かび、どうしても従えず、本分が変わったことを兄弟姉妹に知られたくないとさえ思った。次の日、兄弟姉妹が挨拶してこう言った。「運転業務に移ったそうですね」と。それを聞いて面子を失い、すっかり落ち込んだ。こんな仕事は嫌だ。福音を説いていれば、評判が上がるはずなのに。兄弟姉妹に見下されるのが嫌だった。恨みと不満が湧いて、否定的な思いで一杯だったが、表向きは平静を装った。弱さを見られて侮られるのが嫌で、こう答えた。「神に感謝。この采配は神からのものだ」。そう言って気づいた。「神は万物を統べる」という言葉を知っていても、神が環境を整えると、わたしは神の統治に従わない。言葉と心が違う。表向きは従順だが、神が整えた環境を受け入れず、従おうともしない。こう思わざるを得なかった。「どうして突然こんなことに? 指導者は間違って運転業務を采配したのか? 僕に合った仕事じゃない。自分は福音を説くべきなのに、なぜ運転手?」ひどく否定的になり、福音伝道に不適だから、運転手にしたと考えた。両手さえあれば運転できるし、いのちの入りも真理の原則も必要ない、ただの肉体労働だから、わたしはただ運転し、言われたとおりに買い物をした。しばらくすると、いのちの入りが得られず嫌になり、ますます耐えがたく感じた。

ある日、以前一緒に福音を説いていた兄弟に、電話でこう訊かれた。「兄弟、最近どうだい? 新しい本分に慣れたか? 行きたい場所があるんだが、そこまで運転してくれないか?」それを聞いて悲しく、恥ずかしくなって思った。「こいつにとって僕は、地位のないただの運転手。見下しているに違いない」つらく消極的になり、本分へのやる気を失った。御言葉を読んだり集会に出るのも嫌になり、兄弟姉妹にどう思われてるだろうとよく考えた。そのころは、本分を尽くして不従順さを見せていなくても、心はかき乱れ、この本分を受け入れられずにいた。頭では、何があろうと被造物の本分を尽くすべきだとわかっていたが、消極的な受け身の状態から抜け出せなかった。徐々に状態が悪化し、本分を世俗の仕事のように捉え、ただ一日が終わるのを待つようになった。心は闇と苦痛に満ち、集会でも聖霊の啓きがなく、いつもうつろだった。わたしは神に祈った。「神よ、状態が間違ってるのはわかってます。兄弟姉妹にどう思われているかで頭がいっぱいです。服従してこの本分を受け入れられるよう、どうかお導きを」。

その後、この御言葉を読んだ。「真の服従とは何ですか。あなたの思い通りに神が何かを行ない、すべて満足で正当だと感じ、傑出することを許されるたび、あなたは、これは極めて栄誉あることだと感じて『神に感謝』と言い、神の指揮と采配に服従できます。しかし、自分が決して傑出できず、誰にも認めてもらえない平凡な場所を割り当てられるたび、あなたはもはや幸せを感じず、服従するのも難しくなります。……状況が好都合な時に服従するのはたいていの場合容易です。物事が思い通りに進まなかったり、肉体的に苦しんで自分の評判が落ちたり、虚栄心や自尊心を満足させられなかったり、感情を傷つけられたり、弱ったり、心理的に苦しんだりするような逆境においても服従することができるなら、あなたは霊的背丈において真に成長しています(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は、内心の堕落を暴いた。思えば終わりの日の神の働きを受け入れたとき、わたしは神にこう祈った。「神がどのような環境を整えようと、困難に遭ったり試練を経たりしても、受け入れ、従います。何があろうと神に付き従います」でも今、わたしは現実の環境に、服従できずにいる。神の統治と采配への服従は、口先だけだと突然気づいた。最初、福音伝道を教会から采配されたとき、この本分は重要で、兄弟姉妹に尊敬されると信じた。本分を気に入り、とても熱心に、懸命に努力した。ところが運転業務を采配されると、みんなの尊敬を一瞬で失ったと感じ、運転手など誰も気にかけないと、みじめになった。兄弟姉妹も以前のように尊敬しないだろう。だから心の中で、この本分を受け入れられず、指導者の采配が間違っているとさえ考えた。体面と地位を重く考えすぎ、自分の好みで本分を選んでいた。目立って尊敬される本分を望み、地味で目立たない本分を嫌がった。人に尊敬されない本分を采配されると、心が抵抗と不満で一杯になった。表向きは反対せずとも、内心ではどうしても服従できず、そのため聖霊の働きを失い、闇の中で生きた。神の御言葉でわかる。心から神に従い、真の背丈を得たければ、神の采配に服従しなければ。環境が好適な時だけでなく、そうでないときも服従せねばならない。面子を失い、兄弟姉妹に尊敬されなくても、受け入れ従わねば。

その後の集会で、自分の状態を率直に打ち明けると、兄弟姉妹が御言葉を送ってくれた。おかげで不従順の根源が理解できた。全能神は言われます。「サタンが人間を確実に支配するために使用するものは何ですか。(名声と利得です。)サタンは名声と利得を用いて人間の思想を支配し、人間が名声と利得しか考えられないようにします。人間は名声と利得のために奮闘し、名声と利得のために苦労し、名声と利得のために恥辱に耐え、持てるすべての物事を犠牲にし、名声と利得のためにすべての判断と決断を下します。このようにして、サタンは目に見えない足かせを人間にかけ、人間にはそれを外す力も勇気もありません。したがって、無意識のうちに人間は足かせをかけられ、大変苦労しながら歩んでゆきます。この名声と利得のために、人類は神を避け、神を裏切り、ますます邪悪になります。このようにして世代を追うごとに人間はサタンの名声と利得の只中で破壊されてゆきます。サタンの行動を検討すると、サタンの邪悪な動機は、極悪非道ではありませんか。あなたがたはいまだに人は名声と利得なくしては生きてゆけないと考えているので、サタンの邪悪な動機を見抜くことができないかも知れません。名声と利得を捨て去ったら、将来が見えなくなり、目標を見失い、将来が暗く陰鬱になってしまうと人は考えています。しかし、ゆっくりとではありますが、名声と利得はサタンが人間を束縛するために用いる非常に重い足かせであると、やがてあなたがた皆が気づく日が来ます。その日が来れば、サタンの支配と、サタンがあなたを束縛するために使う足かせをあなたは徹底的に拒否します。サタンがあなたに吹き込んだあらゆる物事を捨て去りたいと望む時が来ると、あなたはきっぱりサタンと訣別し、サタンがあなたにもたらしたものすべてを心から嫌悪します。その時になって初めて、人は神への真の愛と思慕をもつのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 6」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉を熟考して気づいた。運転など地味な仕事で、威厳とイメージが傷つくと思い、それで従えなかった。これはサタンによる害だ。サタンは名声と富を使って人の心を操り、名利を巡って争わせ、一切を犠牲にさせる。わたしもいつの間にか、生活でサタンの哲学に従っていた。他者の敬意を勝ち取れと、子どものころ両親に教えられたことを思い出した。それで小さいときから、人の上に立って傑出すべきだと信じ込んだ。世間やメディアもこうした見方を広め、裕福で地位の高い有名人が、一般人よりいい生活を送っている。そのためみんなに尊敬されようと決意した。終わりの日の神の働きを受け入れても、こうした見方で生き、本分を尽くしても神の旨の探求や真理の追求に専念せず、福音伝道こそが他者の敬意を勝ち取れる唯一の方法だと思い込んだ。事務員など誰にも尊敬されないと思ったのだ。本分の良し悪しを考え、自分が目立てる本分なら何でもよかった。働きの需要を基に運転を采配されると、心の奥で従うことができず、自分に適したのは運転じゃなく福音伝道だと思った。イメージと地位ばかり気にかけ、神の旨を求めず、教会の働きの需要を考えなかった。本当に利己的で卑劣だ! 福音伝道を続けたいといっても、神の旨を想っているわけではない。ただ他者の尊敬を勝ち取る踏み台と見ていたのだ。本分を使って自分を誇示し、尊敬され、名声と富を得て、それがもたらす名誉を享受したいと考えた。指導者から運転業務を采配されると、尊敬される野心が打ち砕かれ、消極的になって引き下がり、歩分への活力さえ失った。こうしたサタンの思考や見方が心に根ざし、本性になっていたのだ。それに言動と本分への接し方を操られ、神に反抗した。名声と富を追い求めて、理知を残らず失った。世俗の地位があり、多くの人に支えられている兄弟姉妹もいる。しかし神を信じて本分を引き受けると、名声と地位を捨て、たとえ教会から些細な本分を采配されても、受け入れ、従える。それを考え、自分が恥ずかしくなった。神の信者ではない。心の中に神の場所などなく、神への基本的な従順さすらない。今ではわかる。名声と富を追い求める恥ずかしさと卑劣さを。こんな追求を続けたら、決して真理を理解できず、遅かれ速かれ淘汰される。

その後、この御言葉を読んだ。「誰もが進んで真理を追い求めようとしますが、真理の現実に入るのは簡単なことではありません。鍵となるのは、真理を求め、真理を実践することです。こうした事柄について日々熟考しなければなりません。どのような問題や困難に遭遇しようと、真理の実践を諦めてはいけません。真理をどのように求めるかを学び、自分を反省し、最後は真理を実践しなければなりません。これが何より重要です。何をしようと、自分の利益を守ろうとしてはいけません。自分の利益を最優先にするならば、真理を実践することはできません。……心の中でいまだに地位と名声に囚われ、いまだに自分を誇示して人から称賛されることで頭がいっぱいなら、あなたは真理を追い求める人ではなく、誤った道を歩んでいます。あなたが追い求めているのは真理でもいのちでもなく、自分の愛するもので、それは地位と名声です。そうであれば、することは一切真理に関係なく、すべて悪事、効力行為と見なされます。心の中で真理を愛し、絶えず真理のために努力し、性質の変化を追い求め、神への真の従順を達成でき、神を畏れて悪を避けられるなら、そして、何かするときは必ず自己を抑制し、神の吟味を受け入れることができるなら、あなたの状態はよくなり、神の前で生きる人になります。真理を愛する人は、そうでない人とは違う道を歩みます。真理を愛さない人は、サタンの哲学に従って生きることを常に重視し、よい振る舞いや敬虔さを外に向かって見せびらかすことだけで満足します。けれど心の中には相変わらず大それた野望や願望があり、依然として地位と名声を追い求め、祝福されて神の国に入ることを望んでいます。それでも、真理を追い求めず、自分の堕落した性質を捨て去ることができないので、彼らはサタンの権力下で生き続けます。どのようなことにおいても、真理を愛する人はみな真理を求め、自分を反省し、自己認識に努め、真理の実践に専念します。そして、心の中には神への従順と畏敬が常にあるのです。神についての観念や誤解が少しでも生じれば、すぐさま神に祈って真理を求め、それを解消します。また、このような人は立派に本分を尽くすことに専念するため、神の旨は満たされます。さらに、真理のために努力し、神を認識することを追い求め、心で神を畏れるようになり、あらゆる悪事を避けます。これが、常に神の前で生きる人です(『終わりの日のキリスト講話集』「善行は性質の変化を意味しない」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んでわかった。真理を得て堕落から脱するには、間違った目標の追求をやめなければ。本分で自己顕示できるか、みんなに尊敬されるかに関係なく、本分を受け入れ忠実に尽くさないと。これが本分への態度、被造物が持つべき理知だ。兄弟姉妹の尊敬を得るためだけに本分を尽くすなら、サタンに奉仕している。サタンは人に名声、富、地位を追求させ、神から離れて裏切らせるから。名声と富を追い求めるという目標や、堕落した性質を変えなければ、最後は淘汰されるだけだ。真理と性質の変化を追い求め、神の采配を受け入れ、名声と富の追求を考えず、神の要求に沿って行動し、自身の本分をきちんと尽くすことが、神の前で生きる唯一の道。こうした追求でなければ、堕落した性質は変えられない。それがわかって方針を得た。神への信仰と本分で真理を追求しなければとわかり、本分を受け入れる気になった。尊敬されるかどうかに関係なく、全力で本分を尽くさないと。

その後、御言葉を二節読んだ。「今日、あなたがたは神の家で本分を尽くしています。尽くす本分が大きなものか、小さなものか、肉体労働を伴うものか、頭脳を用いるものか、教会の外で行なわれるものか、中で行なわれるものかにかかわらず、それは決して偶然ではありません。どうしてそれがあなたの選択なのですか。それは神に導かれたのです。あなたが感動し、こうした使命感と責任感を持ち、この本分を尽くせるのは、ひとえに神の委託のおかげです。未信者の中には、魅力的で頭がよく有能な人が大勢います。しかし、神はこのような人を好みますか。いいえ、神は彼らを選びませんでした。神はあなたがただけ、この集団の人だけを好んでいます。神は経営の働きにおいて、あなたがたにあらゆる役目を引き受けさせ、あらゆる本分や責任を遂行させます。そして、最終的に神の経営計画が終わりを迎え、完了したとき、それは何という栄光、名誉となるでしょうか。ですから今日、人が本分を尽くすうちに多少の苦難に遭い、何かを諦めて自分自身を費やし、代償を払い、世間での地位や名声や富を失い、そうしたものをもはや持たないとき、それはあたかも神が人からそれらを奪い去ったように見えます。けれど、実際にはもっと貴重で価値あるものを得ています。神から何を得ましたか。本分を尽くすことで、人は真理といのちを得るのです。本分をしっかり尽くし、神から委託されたことを完了させ、自分の使命と神があなたに委託したことのために生涯を費やし、美しい証しをして価値ある人生を送って初めて、あなたは真の人間なのです。では、あなたは真の人間だとわたしが言うのはなぜですか。神があなたを選び、神の経営においてあなたが神の被造物としての本分を尽くすようにしたからです。あなたの人生に、これより偉大な価値や意義はありません(『終わりの日のキリスト講話集』「神への服従を実践することの原則」〔『言葉』第3巻〕)。「自分が行なうすべてのことにおいて、神の旨を満たすことに忠実でいたいと願うのであれば、単にひとつの本分を果たすだけではいけません。神が与えるどのような任務も受け入れなければなりません。それが自分の好みに合い、自分にとって興味があることかどうかにかかわらず、あるいは、それが自分にとって楽しくなかったり、これまでにしたことがなかったりすることであっても、または難しいことであっても、あなたはそれを受け入れて服従しなければなりません。それを受け入れるだけでなく、積極的に協力し、それについて学び、それを経験し、入りを成し遂げなければなりません。たとえ苦しみ、注目を浴びることがなく、屈辱を受け、疎外されても、忠誠を尽くす必要があります。それを個人的な仕事ではなく、尽くすべき本分と見なさなければなりません。人は自分の本分をどのように理解するべきですか。創造主、つまり神が人に行なうように与えること、と理解すべきです。人の本分はこのように生じます。神があなたに与える委託こそ本分であり、あなたが神の求め通りに本分を尽くすのは、天が命じ地が認めたことなのです。自分が神の委託を受け取っていて、それが神の愛であり、自分に向けられた神の祝福であることがわかれば、神を愛する心でもって本分を受け入れることができ、本分を尽くすとき神の旨に心を配ることができ、ありとあらゆる困難を乗り越えて神を満足させることができるようになります。神のために真に自分を費やす人であれば、神の委託を拒否することなどできず、どういった本分であろうと拒むことなどあり得ません。神がどのような本分を託そうと、それがどのような困難を伴おうと、拒否するのではなく、受け入れるべきです。これが実践の道であり、つまり神を満足させるために、万事において真理を実践し、自身の忠誠を果たすのです。ここでの重点はどこにありますか。それは『万事において』です。『万事』とは、必ずしもあなたが好きなことや得意なことではなく、ましてやあなたがよく知っていることでもありません。時には得意でないことがあり、時には学ばなければならず、また時には困難に直面し、そしてまた時には苦しまなくてはなりません。それでも、任務が何であれ、神から託されたものである限り、あなたはそれを神から受け入れ、その本分を受け取って立派に尽くし、自身の忠誠を果たして神の旨を満たさなければなりません。これが実践の道です。我が身に何が起きようとも、常に真理を求めなければなりません。そして、どのような実践が神の旨にかなうのかをひとたび確信したら、そのように実践すべきです。そのように行動することだけが真理を実践するということであり、そのとき初めて真理の現実に入ることができます(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んでわかった。偶然わたしに臨んだ本分はなく神の采配に由来する。わたしが運転に興味がなくても、それは教会の働きの需要を基に采配された。だから好みに従ってはだめだ。苦しんだり尊敬されなくなったりしても、断わる理由はない。神からの本分だから、理知をもって従わないと。これは神の称揚、そしてわたしの責任。どんなに嫌でも全身全霊で被造物として本分を尽くさなければ。こうした生き方は有意義で、無駄ではない。以前のわたしは名声と富に魅了され、神の主権がわからず、本分を正しく扱えずに、その良し悪しを見ていた。実際、神の家の本分に良し悪しはない。ただ違う役割を果たすだけ。福音を説くのも車を運転するのも、教会の働きに必要なこと。教会でどんな本分を尽くそうと、我々がいのちの入りを求めることを神は望む。尊敬され、名声と富を得るために本分を尽くすなら、被造物の本分を尽くしてはいない。自分のために企んでいる。たとえ他人に尊敬されても、神は決して認めない。運転などつまらなく思えたが、この環境はわたしに服従を教え、真理を理解させ、名声と富への願望を徐々に捨てさせた。これは神の救いなのだ。事実、運転業務の中で、教会の利益を考えるべきさまざまな人や物事に遭ったが、どれも真理の探求と、原則に沿った行動を必要とした。これは真理を実践して本分を尽くす好機なのではないか? それに気づいたわたしは神に祈った。「神よ、わたしの無知をお許しください。色々なことであなたを失望させてしまいました。今後は何事もあなたの采配に任せ、あなたの吟味を受け入れ、懸命にしっかり本分を尽くします」。祈ると解放感を覚え、正しく本分を尽くす自信を得た。

兄弟姉妹を車に乗せて買い物に出かけたときのこと、教会に損失が出ないよう、みんなじっくり商品を選び、値段と質を比較していた。運転を始めてから抱いていた、本分への間違った態度を振り返った。日々采配されたことをするだけで、どうしっかり尽くすべきかを考えたことはない。こんな尽くし方では神を傷つけ、憎まれる。その後は本分でみんなに尊敬されるかどうかを気にすることもなくなり、教会の益を真剣に考え、慎重に熟慮して行動した。そう本分を尽くすと安らぎを感じ、退屈ではなくなった。自分の経験から多くを得た。わたしは神の善意を経験し、神がどう采配しようと、それがわたしの観念に合わなくても、すべてわたしのいのちに有益だとわかった。もう神に逆らわず、従順に神を満足させなければ。

その後すぐ、兄弟が免許を更新して運転業務に復帰し、指導者はわたしに総務を任せた。それを聞いてこう思った。「今度は自分の好みで本分に接するわけにはいかない。神の指揮と采配を受け入れ、従わなければ。これも実践の機会。別の本分で訓練して御言葉に入る機会なんだ」。以前の経験から、新しい本分で否定的な考えを抱いたり、本分を見下したり、尊敬されようとしたりすることはなくなり、地に足をつけて本分を尽くし、神の旨を満たそうとした。そしてこの御言葉を読んだ。「本分を尽くすすべての人にとって、真理の理解がどれほど深くても、あるいはどれだけ浅くても、真理の現実に入る最も簡単な実践の方法は、何事においても神の家の益を考え、利己的な欲求、個人的な意図、動機、自尊心、地位を捨てることです。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。本分を尽くしている人がこの程度のことさえできないのであれば、どうして本分を尽くしていると言えますか。それは本分を尽くしているのではありません。まずは神の家の益を考慮し、神の旨を思いやり、教会の働きを考え、それらの事柄を最優先にしなければなりません。その後で初めて、自分の地位の安定や、他人が自分をどう見るかを考えることができます。このような数段階に分け、妥協をすれば少し簡単になると感じませんか。しばらくそのように実践すれば、神を満足させるのが難しいことではないと感じるようになります。加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神の家の益、教会の働き、そして自分が尽くすべき本分を第一にすることができるようにならなければなりません。それをしばらく経験した後、それが行動を律するよい方法だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、卑劣で卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります(『終わりの日のキリスト講話集』「自分の心を神に捧げる中で、人は真理を得ることができる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉に心が明るくなった。本分を尽くすときは、神の吟味を受け入れて欲望を捨て、真心を捧げ、教会の利益を考え、すべきことを全力でする。これが被造物の本分を尽くし、正しく生き、人がすべきことをするということ。こう実践すると、着実さと安らぎを感じた。今は幸せに本分を尽くしており、多くのものを得た。事実による暴きと、御言葉の裁きがなければ、自分の堕落に気づけなかったはず。本分へのどんな態度と観点が神の旨にかなうかも理解した。またこれを経験して、本分は神が采配したもので、いのちの入りの必要に基づくとわかった。だから受け入れて従い、心と思いを込めて本分を尽くし、その中で真理を追い求め、真に神に従い、神に認められる人にならないと。

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