私は豊かな宴会を楽しんだ

2017年12月21日

浙江省 欣慰

6月25日と26日は忘れられない2日間でした。私達の新浙江省地域は赤い大きな竜に捕らえられたほとんどの地域リーダーと労働者と共に非常に大きな出来事を経験しました。私達の数人だけが無傷で逃れました。そして私達の心は感謝で満ち、フォローする為の働きに上手く協力することを神に密かに誓いました。その後、私達は余波を扱う多忙な働きを始めました。そして、ほぼ1か月後に采配は終わりに近づいていました。その月はとても暑く、私達は肉体的に苦しみましたが、赤い大きな竜の丁度目の前で私達の働きをスムーズに進行できたので心は満たされていました。働きが完成した時、こんなに上手く働きを整えられて私はなんと賢いのだろうと考えて無意識に自己満足の状態になっていました。私はなんと有能な働き人だったのだろう!そして神が私に刑罰と裁きを持って訪れたのはこの時でした。

ある晩、私達姉妹の何人かで話をしていました。ある姉妹が私に××と××に手紙を書くよう提案し、いくつかの仕事を割り当て、「急いではいけません。今こそ隠れて霊的なデボーションを行う時です。霊的デボーションに集中し、命に入りなさい。」と最後に1文付け加えました。これらの言葉を聞くとすぐに私の心はそれらを拒否しました。手紙を書かなくてはいけない。働かなくてはいけない。どこに霊的デボーションの時間があるのだろうか?あなたは入来者で、私は地元の者です。私はあなたが外に出て働かなくていいように守っているのに、あなたは私を批判するのですか。もし私があなたのように一日中家で座って霊的なデボーションを行ったら誰が行って働きをするのだろうか?仕事が割り当てられたら作業量を考慮する必要があります;そして私を手入れする前に状況が考慮される必要があります。…翌朝皆で食べたり飲んだり神の御言葉を分かち合っていましたが、私は気が漫ろで食べたり飲むことを楽しんでいませんでした。私が黙っている間、姉妹達はみな御言葉の理解の話をしていました。そしてある姉妹が私に「なぜあなたは話さないのですか」と尋ねました。私は「理解がありません」と不機嫌に答えました。その姉妹が続けました。「あなたは良い状態ではないようです。」私は考えずに答えました。「私は問題に気づいていません。」しかし実際は私の思いが爆発し始めていました。結局私はもはや抑えられずに私を悩ませていることを彼女に伝えました。その姉妹は話を聞いてすぐに彼女が不躾だったことと彼女が願ったように仕事を私に割り当てるべきではなかったことを認めました。しかし、これは私の反感を脇に置いておくには十分ではありませんでした。-反対にこの期間中の私の働きはずっと真理を実践していて、彼女は私が良い状態ではないと言うべきではなかったと思いました。私達の横にいる地域リーダーはどう思っただろうか?そしてその姉妹は続けました。「私は、もしあなたが自分の命に入る時間なしにただ働いているのなら、あなたが堕落してしまうのではないかと心配です。」彼女が話せば話すほど私はますます反対し、こう考えました:あなたは私を堕落者と呼ぶのですか…私はとても良い状態だと思います。私は堕落者になりません!私は単に彼女の交流に同意しませんでした。朝食後にイライラしながらこう考えて仕事に出掛けました。私はリーダーであることを辞めて、いくらかの決まった仕事をして、それで終わりにしよう。もし彼女が、私が堕落していて命に入ってないと言うなら、ともかくどうやって他の人々を導くことが出来るだろうか?私が考えれば考えるほど私の霊は沈みました。これらの仕事が完了したら辞職しよう。と考えてから、私はまるで病気かのように身体中が弱くなった感じがしました。私の状態が悪かったことに気づきました。家に帰っている途中に私は神の御前に出て祈りました。「全能神よ、私は傲慢で強情すぎました。私は真理を愛していませんでした。私はあなたの刑罰と裁き、あなたの手入れと刈り込みを受け入れられていませんでした。あなたが私を助け私の心と霊を守って下さいますように。そしてあなたの働きに自分を捧げ、心から自分を探り自分自身の本当の理解を得られますように。」後に私は次の言葉を知りました。「あなた自身を知るとは:ある領域でうまくいったと思うほど、ある領域で正しいことをしたと思うほど、ある領域で神の意図を満たせると思うほど、そしてある領域で自慢する価値があると思うほど—あなたがこのような領域で自らをさらに知る価値があり、どのような不純物があり、何が神の意図を満たせないのか知るべく、さらに深く掘り下げる価値があります。パウロについてのこのことは、今日信者であるわたしたち各々に警告を与え、それは、特にうまく行ったと感じるとき、あるいは何らかの面で特に能力があると信じるとき、あるいは、わたしたちが変わる必要がない、あるいはある側面で扱われることを受け入れる必要がないと感じるときには、その特別な点において、自らのことをもっと知ろうとするべきです。これは、その領域には神に逆らうものが含まれているかを知ろうとして、あなたは絶対に、すでに良いと思っている領域を掘り下げたり、注意を払ったり、詳細に吟味したりしないだろうからです。」(『キリストの言葉の記録』より)御言葉はまるで明るい鏡で見ているかのように私の心を映しました。神はどこで私達が上手くいっていると思うか、どこで私達が正しく行っていると思うかを理解することで自分自身を理解することと、どこで私達が取り扱われる必要がないと思うかというこれらの面でより自分自身を理解することを要求されます。その時のことを考えると私は重荷を背負っていたことが分かります。私の働きは結果を表していて、私は沢山の主な仕事を上手く処理していました。私は真理を実践している。そしてこれらは全て肯定的で活発に命に入ることで、私の状態はとても良いと考えていましたーそれで私は神の御前に出ず自分を吟味しませんでした。今日私は御言葉の啓示のおかげで、当時私は自分の働きを上手く行っていたけれども、私の傲慢な本性が酷く出ていたことに気付きました。私は有能な働き手で、私の働きの結果は私の努力のゆえだと思っていました。私は完全に自己満足していました。実際に当時のことを振り返ると今は、私はただ指導者と聖霊の守りの下、出来ることをしていただけということが分かります。しかし働いている間、私は真理を求めませんでした。私は命に入っておらず、当分の間自分自身の理解も、神の理解もなく、又神の働きの経験は、真理の側面のはっきりした理解を何も私にもたらしませんでした。反対に私は誰の言うことも聞かなくなるというところまで傲慢になり、神の偉大な働きの中の私の小さな一部のゆえに神の栄光を盗んでいました。そのように私が見せたサタン的な性質は神を怒らせ、私を罪人と名づけるには十分でした!しかしその姉妹を通して、神は今日私に堕落を避けるため霊的なデボーションに集中することを思い出させてくださいました。しかし私はまだそれを受け入れませんでした。本当に私は善悪をわきまえておらず、自分自身に無知すぎました。同時に私は恐ろしい状態にいると感じました。もし神が私の状態を指摘するために彼女を起こし、すぐに私を神に立ち返らさせてくださっていなければ、私は堕落のなか生活し聖霊の働きを失っていたでしょう。そして、やがては神に対し重大な罪を犯していたでしょう。私は迷って終わっていただろうと恐ろしく思います。この時点で私は、これから先の道で私を守るため神の裁きと手入れがどれぼどひどく私に必要だったか分かりました。裁きと刑罰、手入れと取り扱いが迫り、私は面目を失い、これは困難だと感じましたが、これは神の救いでした。私は神からのこの種の働きをもっと進んで受け入れようと思っていました。

刑罰と裁きを経験した後私の状態は変わりました。私の行動やふるまいはより控えめになりました。そして人間の考えとは違った神の働きを少し理解することが出来ました。しかしすぐに別の神の啓示のおかげで、私は再び私の理解が浅すぎたことが分かりました。8月の始めに私はその地域での働きに昇進されました。その時私は霊的に高められていて密かに神に誓いました。神よ、あなたの昇進と私にこのような大きな委託をくださりありがとうございます。あなたの信頼を失いたくありません。私の力で出来る全てのことをしたいです。私を導き先導してくださいますように。そうして私は忙しい働きの予定に懸命に取り掛かりました。毎日私は、それぞれのための指導を提供し、返信しないといけないメッセージの山に直面していました。私はしばしば夜明けまで書いていましたが、そうすることは幸せでした。時々私は分からなかったり明確でない状況に出くわすと神に祈り、神の指導と導きを見ました。すると働きはスムーズにはかどりました。そして無意識に、私はかなり良く、有能な働き手だと考え再び傲慢になりました。ある日、私はいくつか困難にぶつかりました。私は地域の本をどのように割り当てたらよいか分からず、働きはまとまりがありませんでした。手紙は送信されますが返信は遅く、物事が遅れていました。そこで私は祈ってどのように頭をはっきりさせるかよく考えました。それから頭がはっきりしたのを感じました:その事が起こった以前の手法を見つけ、空いている職を全て埋め、何人か新しい地域リーダーを任命しよう。そうすれば働きがスムーズに進行するだろう。それで私はリーダーにこの提案をし、実行出来るかどうか尋ねるため手紙を書きました。手紙を書いている間、リーダーはきっと私が重荷を取りのけて良い働き手であると思うに違いないと考えました。私は彼らの称賛を期待して返信を待ちました。数日後私は喜んで返信を受け取りましたが、開けて読んでみると叩かれたかのように感じました。そのリーダーは私を誉めなかったばかりか、返事は「あなたがこれをすることは節操がありません。あなたは目立ちたいのです。もしこのようなことを続ければ、あなたは神の働きを妨げるでしょう!もしそれぞれの地区が働きを処理できるのであれば、させ、出来ないのであればただ脇に置いておきなさい。あなたはすぐに霊的なデボーションを行って記事を書きなさい…」その時私は善悪で頭がいっぱいだったので不当な扱いを受けたと感じました。「下の者達の問題を解決しないとはどのようなリーダーなのだろうか?私達の地域に出来事が起こっていて、全ての働きが混乱の状態にあるのに:私達にはいくらかの秩序が必要ではないのだろうか?各地区がそれらの働きを扱ったらこれら全ての手紙はどうなるのだろうか?消去され排出された資料とビデオは確認されないのだろうか?兄弟姉妹は地域の本の分配の仕方を知らないし、私達は危機に直面していて、彼らは物事を促進するようメッセージを書いているのにーこれも無視されることなのだろうか?私は目立ちたいのではなく、作業の流れを広げたかっただけなのに。…」私は完全に自分を吟味し損ない、とても腹を立てホストシスターに文句を言いました。そして、私は辞めよう。もし辞めなければ私は妨げになるのだから。私はとても一生懸命働いているがまだ妨げなのだから、何の意味があるだろうか?とさえ考えました。

翌日私は神の御前に立ち、手入れや取り扱われることを拒むのは真理を愛することの失敗を示し、真理を愛さない人々は悪い本性を持っていると上の者がどのように言ったかを考えながら、私が表したことを検討しました。それで私は意識して「手入れと取り扱いを受け入れることの原則」を見ました。私は御言葉にこうあるのを知りました。「剪定と取り扱いを受けた後に受動的になる者も居るが、そうした者は、自分が弱すぎて本分を尽くすことが出来ないと感じ、忠誠と熱意を失う。それは何故であろうか。その一因として、自分の行動の本質に関する人間の認識不足のため、剪定や取り扱いを受け容れないことがある。また、人間が取り扱いや剪定を受けることの重要性を理解せず、それが自分の結末に対する決意のしるしであると信じていることも、その一因である。その結果、人間は、神に対する忠誠と熱意が自分に多少あれば、取り扱いや剪定を受けることはあり得ない、また取り扱いを受ける場合、それは神の義ではあり得ないと誤信する。こうした誤解により、多くの者が神に対する忠誠や熱意の無い状態となる。事実、それは人間が極めて虚偽的であり、苦難を受けたがらず、手軽な方法で祝福を受けることを望むからである。こうした者は、神の義を認識していない。神が義なる御業を何も行われたことが無く、今後も義なる御業を一切行われないのではなく、人間が神の御業が義であることを考えないのである。人間の目から見ると、神の御業が人間の意志と一致しなかったり、それが人間の期待に満たない場合、それは神が義ではないことを意味する。人間は、自分の行動が不適であったり真理と一致しない時、それを認識することは一切無い。そうした者は自分が神に反抗していることに気付かない。」(『キリストの言葉の記録』の「人間の結末が自らの実績により決まるということの意味」より)御言葉は私の内なる現実を暴きました。私は自分が行ったことの本性を理解していなかったので手入れと取り扱いを受け入れませんでした。

私がしたことに何の間違いもないと思っていましたが、私の働きと本分果たすことは、働きの采配からかけ離れていました。しかし私は完全なデボーションを見せていると思っていました。「あなたたちは全般の問題を心配する必要はありません…誰もそれを解決する必要はありません。…特別に気を配る必要はありません。地方リーダーがそれを処理できます。」私の視野が、問題の大きさに関わらず下から送られてくる全ての質問が導きと答えを受け取らなくてはいけないことだった一方、上の者は私達が全般の問題に携わって欲しくありませんでした。問題が取り扱われた時だけ私は落ち着いて霊的なデボーションを行うことが出来ました。事実に直面した時、私は絶対的に無条件に上の采配に従っていなかったことが分かりました。そして聖霊の新しい働きの流れに付いていくのに苦労しました。私は手放すことの出来ない心配事があまりにも多く、理知が全くなくなるまで傲慢でした。神に逆らい裏切っている私の本性と、聖霊の新しい働きの流れと神の御心を理解するだろうと、神は御心に沿っていない私の内のことを取り扱うためにそのまとめ役を使われていました:霊的なデボーションと自己反省を第一にすべきで、私は働きだけに焦点を当てるべきではありません。しかし私の行動の本性が上の要求に逆らい、神に逆らって反抗していることを悟っていませんでした。頭が善悪でいっぱいで、聖霊の理解と神の働きの理解に失敗しました。それから又私はその男性の交流を思い出しました。「どの人、どのリーダー、どの働き人が私を刈り込み取り扱うかは関係ありません、完全に事実と合っているかも関係ありません。それが部分的に合っている限り私は受け入れ従います。私はそれを完全に受け入れます;説明を提示しないし、その何パーセントだけ受け入れて残りは受け入れないとは言いません。そうすることで神の働きへの献身を示します。御言葉と神の心にこのように従わなければ御言葉の現実に入ることはあなたにとって難しくなるでしょう。」(命に入ることについてIの交わりと説教の中で「御言葉を食べ飲みすることでの結果の得方」)そうです、例え取りまとめ役の言葉が完全に私の状況に合っていなくても、私は従い受け入れるべきです。私が本分を尽くすどの場合も上の采配と聖霊の働きにかなり逆らっていました。私はもっと素早く従い、受け入れ、変わるべきではなかっただろうか?後に私は意識的に上の要求を果たすために最善を尽くしました。そして私が霊的デボーションを熱心にすることと記事を書く実践が少し改善して落ち着いた時、私は神ご自身が働きを守られ、そして遅れることなく正常に進行していったのを見ました。

刑罰と裁き、手入れと取り扱い、これら2つの出来事は困難でしたが、自分自身の理解がより深まり速めに状態を変えられました。後に私は御言葉にこうあるのを知りました。「神の本質は良きものである。神はあらゆる美と善良さと、すべての愛の現れである。」(『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」〔『言葉』第1巻〕)「神が呪うのはあなたが神を愛するようになるためであり、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを刑罰するのはあなたが目を覚ますためであり、内なる欠点を知らせ、人が全く価値のないことを知らせるためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りは、すべて人を完全にするためのものである。今日神が為すあらゆる事、あなたがたの内に神が顕かにする義なる性質──それは人を完全にするためのものである。神の愛はそのようなものである。」(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)私は溜め息をつかずにはいられませんでした:そうです、神は全ての美と善の表れです。神の本質は美と善で、神の本質は愛です。だからそれが裁きであれ、刑罰であれ、私達の周りの人々や出来事、物事が私達を手入れし取り扱うために使われたとしても、神から来るものは全て良く美しいですーこれは困難で人の肉に攻撃するように感じるかもしれませんが、神がされることは私達の人生に益となることで、それは全て救いと愛です。しかし私は神と神の働きを理解していませんでしたし、神の良い意図も分かっていませんでした。裁きと刑罰、手入れと取り扱いに直面した時、私は神からこの事を受け入れることが出来ず、まるで人々が私を困らせているかのように、私の働きを辞めると脅すことで抵抗しました。神の2つの啓示を通して、長年御言葉を食べ飲んでいることや非常に多くの説教をきいていることに関わらず、裁きと刑罰、手入れと取り扱いに直面した時私の反抗する衝動は強く、それを完全に拒絶しました。神を信じているにも関わらず私の性質はこの時ずっと変わらず、サタンの神に抵抗し裏切る本性は深く根付いていて、私は神に反する勢力になったことを知ることが出来ました。突然私は裁きと刑罰、手入れと取り扱いが必要であったことを悟りました。神によるこの種類の働きなしには、私は自分自身の本当の顔を知れなかったでしょう。自分自身の本当の理解を持たず、ましてや私の内にある根深いサタンの本性を悟ることはなかったでしょう。今となってだけ、私はなぜ神が堕落した人間性は神の敵だと言われ、私達はサタンの子孫であるということが分かります…これは神の裁きと刑罰、手入れと取り扱いを通して示され、その過程から私が学んだことです。御言葉を熟考している時、私の心が照らされました。私を命の本当の道に導いて、神の働きを経験させ、真理の現実に入らせようと、神が私のためにいかに注意深く整えてくださったかが分かります。神は私を引き上げ優しく扱ってくださいます。私は又、神が人のためになさることは全て愛だと気付きました。神の裁きと刑罰、手入れと取り扱いは人間の最大の必要で1番の救いです。

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