サタンの支配を振り払い自由になる
神様を信じる前の私は、何をしようと誰にも遅れをとりたくありませんでした。他人よりも勝ち誇れるのならどんな苦難でも受け入れました。神様を受け入れた後も私の態度は変わりませんでした、なぜなら私は「苦労なくしては利益はない」という言葉を強く信じ、それが私の動機の証明に思えたからです。神様が私に真実を明らかにして下さった時、私はやっと自分がサタンの支配下で生きていた事に気づかされました。
少し前のこと、教会で私と共に奉仕していた姉妹が指導者のポジションにつく事になりました。その事を聞いて私は落ち込みました。私達は編集者として再任されるまでは二人とも指導者として奉仕していました。そして今その姉妹は再び指導者として無限に成長の可能性がある中で神様に仕えるのに、私は机にむかって孤独に仕事をこなすのです。こんな事をしていて私の将来はどうなるのだろうか?その一方で、「成功へは百万の道がある」という古いことわざを思い出しました。自分のやるべき事を正しくやり遂げる事によって、私自身も成功できるのです。私に必要な事は真理を求めるために、二倍の努力をするという事なのです。もしも私が説教を真理がより上手く伝わるように編集すれば、いつか指導者達は私が真理を理解している事に気付いてくれるかもしれない。そうすれば私は昇進し、未来も同じように明るくなるかもしれない。それに気付いた私は曇り空が晴れたかのように決意を新たにしました。私は仕事に没頭し、その合間には一時も気が緩まないよう、神の御言葉をひたすら読みました。
ある日、『いのちに入ることに関する交わりと説教』の中にこのような一節を読みました。「神と真理を追い求める事を制限する全てのものはサタンの束縛の一つである。サタンの鎖の一つにでも縛られているのであれば、あなたの人生はすでに彼の支配下にある。」この言葉を聞いた後、自分自身に「私はサタンのどのような支配下で生きているのだろうか?どの毒が私が真理を追い求める事を邪魔しているのだろうか?」と聞かざるを得ませんでした。これらの問いかけをじっくり考えているうちに、自分の今の状況を思い出しました。姉妹が新たな役職についた後、私は消極的にはなりませんでした。私は更に忠実に神様の言葉を読み、神様に祈り、やるべき事を積極的に果たしました。表面上は今まで以上に懸命に真理を求めているようにも見えたが、深く分析すると、私が他人よりも遅れをとる事を受け入れることができたのは、いつかまた前に行けるという願望を抱いたからなのです。ベストの中のベストになりたいという大望が私が消極的にならなかった理由であり、より積極的に真理を求めることができたのですが、私のそのいわゆる真理を追い求めることはただの幻想であり、不純な追求だったのです。自己中心的な結果を達成するため、一瞬の追求をしようとしていたのです。私の神様と過ごした年月を思い起こしてみると、私の全ての犠牲は、「苦労なくしては利益はない」というサタンの毒によって払われたのだという事に気付きました。それによって私は見えない束縛に縛られ、卓越のために努力するようになったのです。すでにポジションがあったのにも関わらず、より高いポジションを求めていた。自分のポジションをなくしたり、前進出来なくなったら消極的にならなかった。真理を求めるために私は犠牲を払う意思があるようにも見えた。しかしながら、それは私が真理を理解し、そのために犠牲を払う意思があったからではなかったのです。単に成功するための犠牲と見せかけていただけだったのです。そこでやっと私の「苦労なくしては利益はない」というスタンスが自分の血管に流れているサタンの毒だったことを理解したのです。私は騙されていたのです。その毒が私の全ての人間らしさを奪ったのです。客観性がなく、私は傲慢で野望的だったのです。このすべてが私自身に起きた事なのです。私の野望は私の向上心の証だと思っていました。私の誰にも遅れをとりたくないという傲慢な考えは自分のモチベーションの表れだと思っていました。サタンの誤った考えを真実だと思い込み、悪い事ではなく名誉な事に見えたのです。このようにサタンに騙されて、善悪の違いがわからなくなるほど私は愚かだったのです。自分がどれだけ哀れだったのか、やっと気付いたのです。そして、どれだけサタンが狡猾で卑劣なのかも学びました。サタンはもっともらしい誤った考えを使い私達を騙して堕落させるのです。私達を迷わせ、彼の人を惑わす計画に私達は忠誠を誓うのです。これらの事は全て私達が知らぬ間に起きるのです。私達は真理を追い求めそのために犠牲を払っていると思っていても、実際は自己欺瞞の中で生きているのです。サタンの毒は本当に強力なのです!神様の啓示が無ければ、自分がサタンによって堕落させられたという真実や、彼の人を惑わす計画にも気付く事ができなかったはずです。神様の啓示が無ければ、私はそのままサタンの支配下で生き続け、そのうち私の全てがサタンに飲み込まれてしまったであろう。
その時、私は神様の言葉を思い出しました。「神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。」(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)神様の言葉がどう振る舞うべきかを示してくださったのです。神様の創造物の一部として、私は無条件に神様を愛して喜んでいただき、心からやるべき事を果たすべきなのです。神様の創造物である者はこのような自覚を持つべきなのです。それを追い求める事は神様の意志に従っているのです。この日から私は真理を求めるためにベストを尽くします。その真理を頼りにサタンの欺きを見破り、支配を振り払うのです。もう私は肉体的な事は追い求めません。その代わりに苦労して誰に知られる事なくても、神様に喜んでいただくために自分のやるべき事を果たします。たとえ最後に何も残らなかったとしても、少しも後悔せずに私はやり続けます、なぜなら私は神様の小さな創造物だからです。創造主を喜ばせる事こそ私の人生の本当の目的なのです。
合肥市安徽省 黙黙
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