救いに地位は必要なのか
何年もの間、私は家を離れ、複数の教会を担当する指導者として働いていました。先天性の心臓病を抱えてはいたものの、特に大きな健康問題はありませんでした。でも年齢を重ねるにつれて、精神的にも肉体的にも前のようにいかなくなり、少し夜更かしをすると、次の日に響いてしまって、体に力が入らず、心臓の調子も悪くなります。去年の8月、私の状態を心配した指導者から、指導者というストレスの多い役割は体によくないので、家に戻って体を養生し、私ができる本分を担当するよう言われました。それを聞いた時、心が大きく動揺して、こう思いました。今は本分で善行を重ねるのに重要な時なのに、今異動させられて、指導者じゃなくただの信者になってしまったら、実践の機会が減って、真理の学びもいのちの入りも遅くなってしまう。そしたら救いを得られる可能性が低くなるわ。指導者であれば、いつも兄弟姉妹の問題を解決するので、もっと早く真理に入り、真理を学び、救われる確率も高くなるのに。もしかして、神はこの状況を使って私を暴き、淘汰しようとしているの?考えるほど辛くなり、涙をこらえることができませんでした。その後、私の気持ちを知った姉妹が交わってくれました。交わりでは、これには神の善意がある。神の旨を理解できない時はまず神に従い、祈り求め、誤解したり不満を言うべきではないと言われました。彼女の交わりを聞いて目が覚めたんです。これは意味なく起こったことじゃない。私が追い求め、入るべき真理があるはず。神に従わなければと。でも口ではそう言っても、辛い気持ちは消えません。夜中に目が覚めてそのことが頭に浮かぶと、眠れなくなって、寝返りを打ちながら考えました。「ずっと信仰してきたのに、神の働きが重大な局面を迎えた今、指導者になるチャンスを失って、普通の信者になってしまった。それでも救われ、完全にしてもらえるのかしら」と。指導者の地位に留まり、働きを続けたかったけど、もし体調が悪化すれば、教会の働きを遅らせることになる。自分のことばかりで教会の働きを考えない、そんな自分勝手な人間にはなれなかった。
デボーションの中で本分での変化に対する反キリストの態度についての御言葉を読んで、自分を少し認識したんです。神の御言葉にこうあります。「通常の状況において、人は本分の変更を受け入れ、それに従うべきです。また、自分を反省し、問題の本質を認識して、自分の欠点に気づくべきです。これは非常に有益で、ごく簡単に成し遂げられることです。さほど難しいことではありません。本分の変更は乗り越えられない障害ではなく、誰でもよく考えて明確に理解し、正しく扱えるほど単純です。自身の本分に対して調整が行なわれたとき、人は少なくとも従い、自分を反省することから利益を得て、自分の本分遂行が基準に達しているかどうかを正確に判断すべきです。しかし、反キリストにとってはそうではありません。何が起きようとも、彼らは普通の人とは違います。その違いはどこにありますか。彼らは従わず、積極的に協力せず、ほんの少しも真理を探し求めようとしません。むしろそのことに反感を抱き、抵抗し、それについて分析、熟考し、頭脳を振り絞って推測します。『わたしはなぜ、この本分をさせてもらえないのか。重要でない本分に転任になるのはなぜなのか。これはわたしを暴いて追放するための手段なのか』。彼らはこれまでに起きたことを頭の中で考え続け、いつまでも分析して反芻します。何も起きていないときは、彼らは順調そのものですが、何かが起きると、あたかも奔流のようにそれが心の中で渦を巻き、頭は疑問で一杯になります。表向きは、問題をじっくり考えるという点で他の人より優れているように見えますが、実際には、反キリストは普通の人より邪悪なだけです。この邪悪さはどのように表われますか。彼らの考えは極端で、複雑で、秘密めいています。普通の人、良心と理知がある人には思いもよらないようなことが、反キリストにとっては当たり前なのです。本分に簡単な調整が行なわれたときは、従順の態度でもってそれに応え、神の家に言われたとおりにし、自分にできることを行ない、また何をするのであっても、心と力を残らず捧げてできるだけしっかりそれを行なうべきです。神がなしたことに間違いはありません。こうした単純な真理は、良心と理知が少しある人なら実践することができますが、これは反キリストの能力を超えます。本分の調整になると、反キリストはすぐに理屈や詭弁を並べ、抵抗を示し、心の奥底では調整を受け入れるのを拒みます。彼らの心の中には、いったい何があるのですか。疑念と懐疑です。そして彼らは、ありとあらゆる手段を使って他者を探ります。自分の言動を用いて成り行きをうかがい、さらには恥知らずな手段を用いて人を脅し、誘惑し、本当のことを正直に言わせようとします。……本分での異動といった小さな事柄に関して、反キリストがここまで騒ぎ立て、騒動を引き起こし、あの手この手で事をここまで大きくするとは、誰にも想像できません。なぜ彼らは単純なことをこれほど複雑にするのですか。理由は一つしかありません。反キリストは決して神の家の采配に従わず、自分の本分や名声、地位や祝福を受ける望みと将来の終着点に常に密接に結びつけています。それはあたかも、ひとたび地位と名声を失えば、祝福と報いを得る希望もなくなるかのようで、これは彼らにとって生命を失ったも同然なのです。それゆえ、祝福の夢を壊されまいと、彼らは神の家の指導者や働き手を警戒します。これが祝福される唯一の望みだと考えているので、地位と名声にしがみつきます。反キリストは祝福されることを、天そのもの、いのちよりも偉大なもの、真理の追求、性質の変化、人の救いよりも重要なこと、そして立派に本分を尽くし、基準に達した被造物であることよりも大事なことと見ています。基準に達した被造物であり、立派に本分を尽くして救われることはどれも口にする価値すらない、取るに足らないことだと考え、ただ祝福を得ることが生涯で決して忘れることができない唯一のことなのです。何かに遭遇するたびに、その大小に関わらず、彼らはそれを神に祝福されることと結びつけ、信じられないほど警戒し、注意深くなり、常に自分の逃げ道を確保します。そのため、本分が調整されると、それが昇格であれば、反キリストは自分には祝福される望みがあると考えます。それがチームのリーダーから補佐へ、またはチームのリーダー補佐から普通のメンバーへの降格であったり、本分が一切なかったりすると大問題であり、自分が祝福を得る望みは薄いと考えます。これはどういう見方ですか。正しい見方ですか。絶対に違います。この見方は馬鹿げています」(『反キリストを暴く』第12条〔『言葉』第4巻〕)。「反キリストは心の中で、自分の地位の高低を祝福の大小といつも同一視します。神の家族においてであれ、他のどのような人の集まりにおいてであれ、彼らにとっては人の地位や階級は、最終的な結末と同じく、厳格に境界線が引かれています。今世において神の家でどれだけ高い地位にあり、どれほどの力をふるうかは、来世でその人が受ける祝福、報い、冠の大きさと同じであり、それらは直接結びついています。こうした見方は成り立ちますか。神はこのようなことを言ったことも、このようなことを約束したこともありません。けれど、反キリストの内面で生じるのはこのような考え方なのです。……反キリストのような人は精神上の問題が少々あると、あなたがたは言うのではないでしょうか。彼らは極度に邪悪ですか。神が何を言おうと、彼らは注意を払わず、受け入れることもありません」(『反キリストを暴く』第12条〔『言葉』第4巻〕)。
御言葉によれば、反キリストは祝福とほうびのためにだけに信仰し、さまざまな本分にランクをつけて、地位の高さと祝福の量を比例させて考えています。地位がなければ救いの可能性もほとんどなくなると思い、神を誤解し、恨み、抵抗さえします。自分の利益と祝福のことしか考えず、真理を求めたり、教訓を学ぶことはなく、神への畏敬の念や服従心を一切もたず、邪悪でゆがんだ本性をもっています。私の振る舞いは、まさに反キリストでした。地位と祝福を結び付けて考えていたので、通常の本分の変更を受け入れられなかった。さまざまな思いが交錯し、指導者になれず、地位もなければ、救いへの希望も小さくなると思った。でも実際は、神の家での個人の本分は、原則と個々の状況に基づいて決められます。私は持病を抱えていたので、やることが多く、ストレスの多い指導者の本分を担当して体を崩せば、本分に影響が出ます。私が戻り、無理のない本分を担当することは、自分にとっても、教会にとってもいいことです。でも私は誤解し、疑いを持ち、指導者に戻ってくるよう言われた時、最初に頭に浮かんだのは、指導者でなくなれば地位が下がり、救いや祝福を受ける希望がなくなるということ。祝福を受けられないと思うと、信仰における唯一の希望を奪われたような気がして、突然やる気を失いました。真理の原則ではなく、個人の利益に基づいて、物事を考えていたんです。自分の欲望が満たされないと、神がその状況を使って私を暴き、淘汰していると思った。神を、公平さと義をもたない、堕落した人間と同一視していたんです。まるで神が、地位や本分を基に私たちを推し量り、行く末を決めるとでもいうように。地位があれば救われるけど、地位が無ければ救われない。そんな考えは、神の義を否定し神を冒とくすることでは?何年も信仰していたのに、私は神を理解せず、神に従っていませんでした。こんな風に暴かれていなければ、自分が間違ったものを求めていたことに気づけなかった。
その後、神の御言葉をいくつか読んで、自分の誤った考えに気づくことができました。神の御言葉にこうあります。「多くの人が、救われることの意味をはっきり知りません。神を信じてきた年数が長ければ長いほど、救われる可能性が高くなると思っている人もいます。また、理解している霊的教義が多ければ多いほど、救われる可能性が高くなるとか、指導者と働き手はきっと救われるはずだと考えている人もいます。これらはすべて人間の観念と想像です。ここで鍵となるのは、救いが何を意味するのかを人は理解しなければならないということです。救われるとは、サタンの支配から、罪から自由になり、真に神のほうを向いて神に従うことをおもに意味します。罪とサタンの支配から自由になるには、何を自分のものにしていなければなりませんか。真理です。真理を得たいと望むなら、神の言葉を多く身につけ、それらを経験して実践することができなければならず、その結果、真理を理解し、真理の現実に入るほどでなければなりません。そうして初めて救われることができるのです。人が救われるかどうかは、どれだけ長く神を信じてきたか、どれほどの知識を持っているか、どれだけ苦しんできたか、あるいは賜物や長所を有しているかどうかとは関係ありません。救いと直接関連する唯一のことは、人が真理を得ることができるかどうかだけです。では現在、あなたはどれだけの真理を真に理解していますか。神の言葉のうち、どれくらいがあなたのいのちになっていますか。神のすべての要求のうち、どれにあなたは入っていますか。神を信じてきた期間に、あなたは神の言葉の現実にどのくらい入っていますか。わからなければ、あるいは神の言葉の現実に全然入れていないなら、率直に言って、あなたに救いの望みはありません。救われることは到底ないのです。高度な知識があろうと、長きにわたって神を信じていようと、外見が優れていようと、立派に話せようと、数年にわたって指導者や働き手であろうと、関係ありません。真理を追い求めなければ、神の言葉を正しく実践することも経験することもなく、実際の経験と証しが欠けているなら、あなたが救われる望みはありません」(『終わりの日のキリスト講話集』「神の言葉を大事にすることが、神への信仰の基礎である」〔『言葉』第3巻〕)。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者はみな神の義ゆえに、その数々の邪悪な行為への報いとして懲罰されるのである」(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を読んで心から感動しました。指導者であることや地位をもつことは、救いと無関係だと分かったんです。救いとはサタンの堕落した性質から逃れ、神に従うようになること。真理を実践し、自分の堕落を清め、神に従い、御言葉に沿って生きる人だけが、本当の意味で救われます。本分が何であれ、取り扱いを受けた時に真理を受け入れ、自分を反省し、御言葉を通して自分の堕落や過ちを知り、悔い改め、変化すれば、その追求を通して、真理と救いを得られるのです。どれほど地位が高くても、どれほど苦しんでも、真理を求めなければ、いずれ淘汰されます。パウロだって、高い地位と名声を得て、多くを達成しましたが、真理を求めることも、性質を変えることもなく、自分のことも神のことも、全く認識していませんでした。その努力はすべて、祝福やほうびを得るためで、自分が主のためにどれほど苦しんだかについて常に自らの証をし、自分が最も偉大な使徒に劣らないと自慢した。そして厚かましくも「義の冠は私のために掲げられている」と言ったんです。自分が生きるキリストだ、などという誤謬を口にすることで、神の性質を犯し、神の懲罰を受けたのです。信仰において地位を気にしたことはなく、神を知り神に従うことだけを求めた。御言葉を実践し、経験し、自分の堕落を知り、最終的に神のために十字架にかけられますが、死ぬまで神に従い、究極に神を愛したので、神に完全にされたのです。このことから、指導者であることや地位をもつことは救いの基準にはならず、地位があっても真理を求めず神に抵抗し、御言葉を生き抜くことの証をしない人は、いずれ淘汰されることがわかります。地位をもたなくとも、正しい道を歩み、真理を求めている人は、真理を得て、神に救われることができるのです。それに気づいて、気持ちが楽になりました。神の支配と采配に従い、変化を冷静に受け入れる準備ができたんです。
その後、ある動画を観て、神の旨をさらに深く理解できました。神の御言葉にこうあります。「登用されて育成を受けた人は、他の人よりはるかに優れているわけではありません。誰もが同じくらいの期間にわたって神の働きを経験しています。抜擢されず育成をされなかった人も、本分を尽くしながら真理を追い求めるべきです。真理を追い求める権利を人から奪うことは誰にもできません。真理の追求への熱心さや素質において他の人よりまさるため、登用されて育成を受ける人がいます。これは神の家の働きがそう求めるからです。では、人を登用して用いることについて、神の家にそうした原則があるのはなぜですか。人の素質や個性には差があり、それぞれ違う道を選ぶので、神への信仰における結果も異なります。真理を追い求める人は救われ、神の国の民となりますが、真理をまったく受け入れず、本分に献身的でない人は追放されます。神の家は、真理を追い求めているかどうか、本分に献身的であるかどうかにもとづいて人を育成して用います。神の家のさまざまな人に階級上の違いはありますか。今のところ、人の地位、立場、価値、肩書きに階級はありません。少なくとも、神が働きを行なって人を救い、導く期間中は、さまざまな人の等級、立場、価値、地位に差はありません。差があるのは、働きの分担と遂行する本分における役割だけです。当然ながら、この期間に例外的に登用されて育成を受け、特別な職務を行なう人がいる一方、素質や家庭環境における問題など、さまざまな理由でそうした機会を得られない人もいます。しかし、機会を得られなかった人を、神は救わないのですか。そうではありません。そうした人の価値と立場は、他の人より低いですか。違います。真理の前では誰もが平等であり、真理を追い求めて得る機会は誰にでもあり、神はすべての人を公正に、合理的に扱います」(『指導者と働き手の責務』〔『言葉』第5巻〕)。この御言葉でわかりました。神の家では、本分によって地位の高さが決まることはなく、それぞれが働きの求めに沿って異なる本分を担当しますが、真理の前にはその全員が平等なのです。どこで本分を尽くそうとも、地位があろうとなかろうとも、御言葉は私たち一人ひとりに糧を与え、地位の高さや低さで人を判断することはありません。神は人の需要に沿って、あらゆる状況や出来事、人を動かし、神の働きを経験させ、真理の現実に入れるようにします。誰一人として、真理を実践し、真理に入るチャンスを神に奪われることはありません。神は全員に対して公正で義なのです。真理を得ることや神に救われることは、本分によってではなく、その人が何を求めるかにより決まります。神が指導者だけに特別な恵みや啓きを与え、普通の信者を無視するということはありません。神は、人が求めるものや真理への態度を基に人に啓きや糧を与えます。それこそが神の義なのです。一人ひとりが異なる本分をもち、異なる出来事に遭遇しますが、彼らが見せる傲慢でずる賢く堕落した性質は同じです。真理を求め実践し、堕落から逃れる意志がある限り、真理を得て、神に救われることができるのです。一方、真理を追い求めず、問題が起こっても真理を求め実践しない人は、どのような本分を尽くし、どのような教育を受けたかに関わらず、真理を得ることも、神に救われることもできません。私は何年も指導者を務めて、多くの機会を与えられたのに、あまり多くの真理を得られていなかった。本分が変わると聞いて、落ち込み、神を誤解し、恨み言を言い、神に従う心も、真理の現実もまったくなかった。典型的な例だったのです。それでも、愚かな私は救いを得るためには地位が必要だと考えました。地位のことしか考えていなかったのです。指導者になることはなくても、真理を求め続け、本分の重荷を背負い、問題が起これば真理を求め、知る限りの真理を実践する人もいます。彼らはやがて堕落を見せなくなり、神への服従心も強まります。御言葉を生き抜くことの真の証しであり、神の承認を得て、神を喜ばせます。そしてこの御言葉を思い出しました。「あなたが真に追求するならば、わたしは喜んであなたにいのちの道を残らず与え、あなたを水を得た魚のようにする。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれをすべて取り上げる。安楽に貪欲で、豚や犬のような者たちにわたしの口から言葉を与えるつもりはない」(『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」〔『言葉』第1巻〕)。主イエスもこう言っています。「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイによる福音書 25:29)。神は誰に対しても公平で義であり、真理は偏見をもちません。普通の信者も指導者も、真理を得るチャンスを同じように与えられます。大切なのは、真理を追い求める決意があるか、そして真理を実践できるかどうかです。これを理解して、大きな啓きを得られました。以前は、指導者でなければ真理を実践する機会をそれほど得られず、救いへの希望も小さくなると思った。神は私を淘汰しようとしている、もう救ってもらえないとさえ思った。それは私の神に対する観念、想像であり、神への冒涜でした。神の誠実な意図を全く分かっていなかった。よく考えてみると、これまでの長い信仰において、ずっと間違ったものを求めていたんです。祝福のために本分を尽くしていたのに、自分の追求はすばらしいと思い、自分の間違った想像にとらわれ、反省することも自分を認識することもなかった。本分の変化によって、信仰における誤った観念を暴かれました。そしてついに神の御前で自分を反省し、認識できたんです。自分の堕落と認識の問題について多少理解することができ、神の義を理解しました。神に救われる人、淘汰される人についても学ぶことができ、神への服従心をいくらか得られました。この状況は、神が私を守り、救ってくださったことに他なりません。
その後、御言葉の一節を読んで、進む道がわかったんです。神の御言葉にこうあります。「神の被造物である人間は、被造物の本分を尽くすこと、そして他の選択をせずに神を愛することを追い求めねばならない。神こそが人の愛にふさわしいからである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益を求めたり、自分が切望する物事を追求したりしてはならない。これが追求の最も正しい形である。あなたの求めるものが真理であり、実践するものが真理であり、あなたの得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しい。……あなたが完全にされるか淘汰されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するか失敗するかはその人が歩む道にかかっているのだ」(『神の出現と働き』「成功するかどうかはその人が歩む道にかかっている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉の中に、実践の道を見つけることができました。私は被創造物なので、神の采配が何であれ、その支配と取り決めに従う必要があり、祝福やほうびのためだけに信仰し、本分を尽くすべきではありません。救われるかどうか、祝福をうけられるかどうかに関わらず、生きている限り、真理を求め、神を知ろうとしなければなりません。たとえ最後に拒絶され、淘汰されても、それは神の義です。神の旨を理解した後は、どの本分を尽くすかへのこだわりがなくなり、冷静に教会の采配を受け入れることができるようになりました。
この本分の異動を通して、信仰における追求についての考えが間違っていたことがわかりました。また、救いを得られるかどうかは、その人の地位や、行った働きの量ではなく、真理を得られたか、心から神に従っているかどうかで決まることがわかりました。真理を得て、信仰におけるいのちの性質を変えられるかどうかが大きな鍵をにぎるのです。それからは、しっかりと本分を尽くして、神を満足させようと思えました。